<冬紀−1>
自分だから、逃げられた。
走ってて、そう思ってばかりいる。
ずっと走ってるのに、ずっと同じ板張りの壁が続く廊下で。
『……めなければなりません』
『……こめたもう一人のほうはどうした?』
『……はいま、イシュンが確かめているはずですが』
『……は、こちらも急がなければなるまいな……』
寝相が悪い自分があまりの熱さに目が覚めた時、目の前の燃える焚き木の色と一緒に気づいた、外から聞こえる女の声。意味は全然分からなかったけれど、とにかく『逃げなきゃ』って思った。
出口がまるでないその部屋。聞こえてきた話の内容からすれば、急いでいることは間違いない。それが、自分に関することだったら。それが、瞬に関することだったら。
とにかく、息を殺して俺は壁際に張り付いた。「誰かが入ってきたら、そこから逃げる」単純だけど、それしか思いつかなかった。
瞬がどこにいるのか。そればっかりが心配で。
瞬は、同じような場所でやっぱり閉じ込められているんだろうか?
瞬は、俺みたいに気づいたのだろうか?
瞬は、俺がいなくて不安になってないだろうか?
瞬は、
瞬は。
身を隠すために息を潜めていたはずなのに、呼吸と鼓動はバカバカしいくらい激しくなっていく。自分の身がどこにあるのかも分からないのに、瞬のことを心配してる暇はない。
はずなんだ、本当は。
「……入りますよ」
その声が、俺を我に返らせた。自分が張り付いている場所のすぐそばで聞こえた、女の声。
「……っ」
すぐ横の、まったく継ぎ目がなかったように思えた板の壁が、すっと開く。そこから現れたのは、頭をつるっつるに剃った、女だった。
「おや……?」
俺がいるほうじゃないほうを眺め、そのつるつる頭の女は俺を探していた。やはり、俺を探していた。
逃げなきゃ、と思った。
「……っ!」
女がこちらを向いて驚いた顔をした瞬間、俺は女を突き飛ばした。
「きゃ……っ!」
心が痛まないわけがなかった。ケンカなんかで男を突き飛ばすのとは違う、柔らかく弱い感触。でも、それどころじゃない。早く、瞬を探すことが最優先だった。
板の壁に開いた出口から、俺は脱出した。しかし廊下であるはずのその場所も、ただずっと同じように両側を木の壁が続いていた。
でも、走った。気味悪さを感じるからこそ、思い切り走り始めたんだ。
瞬は、絶対女の人を突き飛ばしたり出来ない。
もし突き飛ばしたとしても、そのまま気にせず走り出したり出来るはずがない。
だったら、瞬は。
今起こったことと同じように、閉じ込められている部屋の女が入ってきたら、
瞬は、
瞬は。
また同じ事を考え始めていた。何度目か分からない、瞬のこと。走ることに自信のある俺でも、荒い息が隠せなくなって来てた。直線を走り、曲がり角を曲がった。でも、まだどこにもたどり着けていない。
このまま、走り続けなきゃならないのだろうか。そしていつか疲れて止まった俺を、あの尼が捕まえるのだろうか。
どこにもいけない、怖さ。
また、曲がり角が現れる。はあはあ言いながら、そこを曲がる。しばらく走って、また先に曲がり角が見えてきた。全然さっきと変わらない、曲がり角。
もう、だめだ。走れない。足は急激に速度が落ち、もつれ始めた。あ、こける。そう思った。目の前に、壁が近づく。ぶつかったら、痛いかな……?
なのに、ぶつからなかった。ぶつかったけど、痛くなかった。壁が、開いたからだ。
ゴロゴロと転がり込んだ先は、さっき俺が逃げ出した部屋とそっくり同じだった。四方板張りで、真ん中に火が燃える囲炉裏がある。違うのは、その火の中でしゅんしゅんとお湯が沸いている鉄瓶があることだけ。
「おや」
「!」
部屋には、人がいた。俺のほうを振り返って、ニコニコ笑ってるおじさんが。
「……これは珍しい。このお寺で同性に会えるとは。やはりあなたも『トギツム』の関係者の方で?」
「は……はい、手伝いというか、その」
話を合わせる。こういう時に、いつもおやじとおふくろのけんか仲裁してるのが役に立つなんて。
「そうですか……私も『トギツム』があると聞いて、慌てて東京より駆けつけたのですよ。それも今回は、ちょうど百年ぶりの大事な儀式だということで」
「そ、そうです。大事な、百年ぶりの奴です!」
少しトチったかもしれない。でもおじさんは。
「ええ。私は何度もこちらの住職さまに会っていますが、あれほど若くお美しいのに交代されなければならないというのが不思議ですね。『ジズイ』には『ジズイ』の、力を使う上での難しい部分があるのでしょうね」
「そう、でしょうね」
「あなたも、よくお手伝いなさって下さい。『ジズイ』の方々がいるからこそ、この国は成り立っているのですから。なんだかお急ぎのようですが、お暇ならここに出していただいたお茶があります。よかったら一緒に飲みませんか?」
落ち着いた色のスーツのおじさんは、俺に隣に座るように手で招いた。断れば、多分疑われる。俺は似合わない愛想笑いを浮かべながら囲炉裏端に座って、勧められるままに熱いお茶を注いでもらった。
「しかし……お知らせを伺った時、少し驚いたのも事実でした。確かに私も、御先祖さまより僅かながらの力を頂いている身で、ほんの少しは不穏な風を感じてはいたのですが、そこまで事が重大だったのですね」
「……はあ」
人がいたことへの驚きもだんだん治まって、隣に座ったことで俺はこのおじさんの様子が少しずつ分かってきた。白髪交じりのおじさんは、ずっとこっちを見ながらニコニコと話し続けている。さっぱり意味が分からない話を。
「今回は、準備がかなり大変だったそうじゃないですか。住職さまはもちろん、その他のご高位の『ジズイ』の方々も揃われたそうで。やはり、世の中の流れがこのように悪い時にこそ、『トギツム』は大きく行わなければならないようですね」
お茶をすすりながら、熱心に話し続けるおじさんを見ている。俺が一番聞きたい、瞬の居所の話は出てこない。
ふと、あることに気づいた。
あ、れ……?
「すごく昔の話からすれば、本来『トギツム』は私などが行わなければならないのでしょうが……民を統べることだけではなく、政治が関わり始めた時より、力はどんどん失われていったようですね。それこそ、国のかたちが変わり始めた『モノノベ・ソガ』の時代から」
一瞬、わけの分からない話の中に聞いた単語が混じったことに気づいたけど、それよりも俺は別のことが気になり始めていた。おじさんの、顔。
「だからその代わりに、ここのお寺の『ジズイ』の方々が現れ、我らの代わりに儀式を行うようになった……まあお寺、といっても実際は仏教だけでなく、古来よりの神道と渡来したばかりの原始仏教のよいところを融合させたもので、名目上お寺、といっているだけのようですが……あ、これは失礼。私などよりあなたのほうがこういうことは詳しかったでしょうね」
「あ、いや、僕はまだまだ入ったばかりなので……よく分からないんですけど」
あいまいな相槌を打ちながら、ますます気になってきた、あのこと。
そう。このおじさんを、どこかで見たことがあるはずなのだ。
「おや、そうなんですか。私もまあ、おじいさまや父の話から興味を持って、やがて付きの学者に習ったという感じで。必須科目のようなものですからね」
この笑顔。近所のどこそこ、という感じじゃなくて、なんていうか……そう、テレビとか雑誌で見たことがあるような。
「遡れば、それこそ『ヒミコ』の時代のお話ですよね。生まれながらの力を持ったシャーマンが天気を読んだり変えたり、原始神からの託言を民に伝えたり。そういう巫女の力を持った女性達が、我らの遠い祖先となって」
どこで見たことがあるのだろう……テレビや雑誌ってことは、俳優さんかタレントさんだろうか?
「やがて国のかたちも複雑になり、負うべき役目が多くなってきたのと同時に、激しい修業ののち力を得る、という原始仏教の考え方が入って来た……『ジズイ』の女性達は、シャーマンの血と修行によって得られる力を組み合わせて、この国を支えてきた……」
それも一度や二度じゃない……だとしたら、結構有名な俳優さん?
間違いなく、何度もテレビや本で見た顔なのだ。でもなぜか、名前が出てこない。ちゃんとコンスタントにテレビに出てるはずの、このおじさん。
「そのうちいくさや難しい政治も増え、ますます『ジズイ』の役目が重大になって来ると、元からいる巫女系の方たちのみで国を支えるのは難しくなり……『トギツム』が始まった」
一度お茶をすすって、多分芸能人だと思うおじさんは、ため息をついた。
「……本当は、心苦しいことなのですが。世界の流れの中で、ここまで急に日本というもののかたちが変わろうとは」
なんだか悲しそうな顔をして、おじさんは語ってる。
「前回の『トギツム』に同席したおじいさまのお話では、今の住職さまもかなりお悩みになられていたそうです。誓い合っていた女性もおられたそうですし……しかし、その頃の日本はまさに外とのつながりや争いが激しくなっていた時期。哀しく決断なされたそうです」
今度は、何もない板張りの天井をじっと眺めている。本当に、悲しそうだ。
「しかし……どんな儀式か知識では知っていてもなお、私にはまだ信じられません。力を持った男の子を『ジズイ』の方々の力によって、女性の肉体にするなど……」
……え?
「おじいさまも、実際に見るまではとても信じられなかったそうです。そして、目の前で今の住職さまが生まれ出でた時に、初めて『ジズイ』の力、『トギツム』の重要さを悟られたそうで……」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「……は?」
ちょっと待って、いやウソだ。そんなはずはない。でも、いや、でも。
「男が、女になる……?役目を果たす、ために……」
「……ええ。『トギツム』とは、そういう儀式だと。『ジズイ』の中でも特に力のある尼、巫女を生み出すため、力を秘めていると思われる純潔の男の子を捜して、高位に上げるための儀式……これはお手伝いをなさっているあなたのほうが詳しいかと思っていたのですが」
おじさんが、ずっと持っていた茶碗を置いた。まずい。
「……もしかして。いやいや、こちらに頂いたお知らせでは『二人の候補がいる、だがまだどちらか分からない』、と……ははあ、なるほど」
怖い顔をするわけでもなく、おじさんはずっとあの笑顔で俺のほうを見ている。それが、余計に怖かった。だから、俺はあえて。
「……冗談じゃない」
「……?」
「そんなわけの分からない儀式なんかに、俺たちが巻き込まれてたまるか!」
大きな声を出して、おじさんに向かって叫ぶ。
「この国がどんな風になろうと、俺たち二人には関係ない!瞬と一緒に、早く山を降りるからな!さあ、瞬はどこにいるんだ!」
怖さを紛らわすために、適当に聞いていたはずの話をなぞって早口でまくし立てる。自分も、瞬がいなくてどうしようもなく、不安だった。
「……困りましたね。私はもちろん名目上は主催者のようなものですが、実際の儀式は全て『ジズイ』の方々が取り仕切っておいでですから……ねえご住職さま?」
「はい」
「……っ!」
相変わらず表情を変えないおじさんばかりを見ていて、俺は背後の人物にまるで気がつかなかった。いや、実際物音ひとつしなかった。
その声は、まるで情感のこもっていない、女の人の。
「ちくしょう……っ!」
慌てて振り返った俺の顔の前にあったのは、瞳。つるっつるの頭よりも、「美人」としか表現できない恐ろしいまでの顔よりも、暗い光を持った大きな瞳が目に灼きつく。そして、次の瞬間。
「……んっ!」
その瞳が、ゼロ距離に近づいた。同時に、自分の唇が、誰かの唇に塞がれる。
「なに、すんだよ……っ!」
初めての感触に、どうしようもなく混乱する。だから、めいっぱいの力を使って相手を振り払った、はずだった。
「あ、れ……?」
でも、その腕力は相手に届かなかった。ガクンッ、と足から力が抜け、俺はひざまずいてしまった。くそ、なんでだっ!?
「……お怪我はありませんでしたか?」
「はい。私はこの子と普通にお話しをしていただけなので。おとなしい、いい子のようでしたよ」
立ち上がろうとしても、立ち上がれない。目に入ってるもの、それはさっき俺にキスした女の、はだしの足だけ。そんな俺の頭の上で、おじさんと女の会話が続く。
「そうでしょうね。先ほどから見ていたのですが、この少年も心は純粋なようです。ただ……今のような恐慌は、『ジズイ』ではあまり起こりえない反応ですね」
「なるほど……では、もう一人の子が、そうである可能性が高いと?」
「ええ。それを今、イシュンに調べてもらっているところです……力を持った子なら、そろそろ変化が現れていてもおかしくはないかも」
もう、一人の、子……?
ちくしょう、瞬のことだ!瞬はやっぱり、こいつらに捕まって……!
なのになんでだ?なんでで全然力がはいらないんだっ!?
「みな、入ってきなさい。もう一方の調べが済み『トギツム』が終われば、この子を下に帰してあげなければいけません。さあ、元の部屋に運ぶのです」
その声を合図に、部屋に何人かの足音が響いた。くそ、考えることも、おっくうになってきた……。
でも、俺があきらめたら、しゅ、瞬は……そう、瞬は……!
「……っ」
視界の中にあった、女の足を、つかむ。力がこもらないはずなのに、おれの両手は、その女の足首をつかんだ。
「そんな……もう力は入らないはずなのに、なぜ?」
そういう女の声も、耳にいまいちきこえなくなってきてる。でも、はなすもんか。はなしたら、しゅんは、瞬は。
「おれが、いないと」
「……?」
「おれがいないと、しゅんは、なにもできない、から……」
くちも、うごいた。
「おれがまもって、やら、ないと……しゅんは、いっつも、なく、から……だから、おれは、おれが……」
はなす、もんか。
「おれが、しゅんを、まも、ら、なきゃ……」
はなす、もん、か。
「おれは、しゅんを」
はな、す、も……。
夢?
そっか、夢だな。これが今のはずないし。
ああ、思い出した。これ、瞬と出会ったころだ。幼稚園の服着てるもん。
『ごめんね、ふゆき。いつもたすけてもらって』
バカ、泣くなよ。助けたくて助けてんだ。気にすんな。
『ありがとう、ふゆき』
そうそう、早く涙拭けよ。いじめられるのがいやだったら、ずっと俺のそばにいればいいんだから、な?
『うん、そうする!ぼく、死ぬまでふゆきと一緒にいる!』
え?死ぬまで?死ぬまでかぁ……ま、いいか。死ぬまででもいいよ。
『うん、およめさんにはなれないけど、ぼくふゆきとずっと一緒にいるね!』
あはは。なんでそんなによろこんでんだよ。こっちもうれしくなっちゃうじゃないか。
あれ。
覚めちゃったよ。
いや、別の夢か。真っ暗で、何も見えない。
『これほどお互いの想いが強いとは』
ん?誰だ?女の声、だけど。
『ええ。こちらもそうですが、深刻なのは向こうの方かと。様子を見にいった者の話では、イシュンの中でもう消え始めてもいいはずのハシが、まだそのままであると。ホセンは開き始めてはいるそうなのですが』
『このままでは、トギツムに影響が出そうですね……ふうむ』
あれ?トギツムって何だっけ。聞いたこと、あるような。この女の声も。
『……果たしてあげては、どうですか?』
今度は男の声だ。
『住職さまも、そのような悔いがあったと聞いています。二人に同じような悲しみを味あわせてはかわいそうな気がしますよ』
『しかし前例が……いや、そこまでおっしゃるのでしたら、そうさせてあげてもいいかもしれません。果たされることで、心がさらに純粋になるかも』
『ぜひ、そうさせてあげてください』
『分かりました、スベラキ』
何の話だろう?まあ、夢の中の話だし。わけ分かんなくても当然か。
あ。また違う夢だ。なんか全面オレンジ一色。
違うか。火が燃えてるんだ。ぼやけててよく見えないけど。
ん?誰かいるか?誰かが、なんか上下に動いてる。
頭つるつる、髪がない。あ、胸もあるな。ってことは、女か?
『申し訳、ありません……っ、がんばってはいるのですが、ハシは消えてくれませんっ、あ、はあ……っ!』
しゃべった。誰に向かって、しゃべってるんだ?
『いいのですよ。少し計画を変えましょう。さあイシュン、それをやめて、こちらに』
あ、さっきの夢の女の声だ。
『は、い……っ』
ああ、裸なんだ。だから胸も見えるんだ。で、その裸つるつる女が、立ち上がって、こっちに。
あれ?
もう一人、いる。寝てる?
『……き』
?
『……ゆ、き』
あ。
瞬だ。
瞬が、寝てる。裸で。
『ふ、ゆき……』
俺を、呼んでるんだ。瞬が、俺を。
瞬が、俺を!
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