公民館での出来事 後編
私は「野崎が母を一対一で怒るために鍵をかけた」と解釈して、ますます不安になって、気配を隠しながらも中の様子が見られるところを探そうとしました。
そばにある消防団結成記念碑みたいなのの横を抜け、公民館の裏に回り、まずひとつの窓を見つけてそっと覗いてみましたが、
そこは台所でパッと見少し汚れた床しか見えませんでした。だからまた他の窓を探そうと歩き出したらちょうど自分のすぐ横の壁が「ドンッ」と鳴りました。
私はびっくりしましたが、すぐに「ここに母がいる」と思い直し、さっきの窓に戻りました。そして今度は頭を低くして逆方向、音の鳴ったほうを覗き込みました。
足が見えました。靴下を履いた足で、それは薄いピンクの母の靴下でした。足先が壁のほうを向いていて、たまにバタバタしています。
その奥には、灰色の靴下がガツガツと迫っています。野崎の足だとすぐ分かりました。
「あ!母が殴られてる!」
私はそうと思いました。その4本の足の向こうに、覗いてる窓と同じくらいの大きさの窓が見えたので私は慌ててそっちに向かいました。
その窓は公民館の角を曲がったらすぐ見つかりました。ちょうど玄関から反対の裏側です。パッと見そこはあの宴会をしていた部屋のようでした。
また私はゆっくりと覗き、母がもし殴られていたならすぐに大声を出して人を呼ぼうと考えていました。
ところが、窓越し数メートル先から見えた光景は、私にはよく分からない状況でした。母は小さな台所に面したふすまに体を押し付けられていました。
そのすぐ後ろに野崎がいます。野崎が母のすぐ後ろでなんだかごそごそと母のほうに向かって手を出していました。
最初に想像したのが、少し前に流行っていたランバダでした。普通にそういうふうに見えました。
あんなに怒っていたのにダンス?見える母と野崎の表情は真剣で、ますますわけが分からなくなりました。すると次の瞬間、母が野崎を突き飛ばしました。
そのまま振り払って出口のほうへ走ろうとします。ところが、すぐに野崎が追いついて母の足を掴みました。母は頭をこっちに向けて倒れました。
「……でけんくせに逃げるんか!」
野崎の声が外にまで聞こえます。母も何か言いかえしましたが、小さくて聞き取れません。
「さっき1回するっち言わんかったか、こんウソつき女が!」
さらにはっきりと聞こえる野崎の声。私は人を呼ぶどころか、今度は怖くなってそこから動けなくなりました。
「こーれーはどげーすんのか、ウソつき女!」
声と同時にドンドン、と大きな音。あとで考えるとあれは足の先であのカラオケの機械を蹴っていたのだと思います。また、母の声がしました。
さっきと同じくらい小さく、やっぱり内容は聞き取れませんでした。
「……そーじゃ、最初からそうしちょけば暴れんですむやろが」
野崎の声が少し落ち着いた感じになって、すぐに立ち上がる気配がしました。母がその気配に向かって何度も小さく話しかけていましたが、
まるで聞き取れないままでした。
「何べんも言わんでんわかっちょん」
野崎はそう返事していました。
しばらくして母も、ゆっくり体を起こしました。ちょうど角度的に、窓から二人の姿が見えなくなりました。
部屋の隅、カラオケの機械があるくらいの場所に2人がいる感じです。不安になる私を、さらに混乱させることが起こりました。
窓越しのすぐ前。そこに、ベルトのついたズボンがぽいっ、と投げ捨てられたのです。野崎が脱いだのは間違いありませんでした。
そのあと数分間、私は何も見えない窓を静かに覗き続けました。野崎が怒る声とか、母が謝る声などは全然聞こえず、ただ目の前に脱がれたズボンが転がっているだけ。
長かった感じもするし、すぐだったような気がします。
それは突然でした。
「……じゃあねえんか?」
野崎の声です。母に何かを聞いたようでした。母の声は、何か小さく言ってるのは間違いないのですが、やはり聞こえませんでした。
「聞こえん。もいっぺん大けな声で言うちみい」
今度は野崎のまたちょっと怒った声が聞こえました。
「そんなことは、ありません」
すぐに母が返事しました。
「ほんとかえ?信じられんのお」
今度はなんだか笑った感じで言いました。
「ほんとです……」
母は、窓の外の私にほんの少し聞こえるくらいの小さな声で言いました。
「まあいいわ。疲れたけん座るで」
野崎の声です。また、2人の声がしばらく聞こえなくなりました。またさっきと同じくらいの時間が進んだと思います。音も声も聞こえません。
それは突然でした。
「あー」
間の抜けた野崎の声。
「よい、出るでー」
そういってすぐにまた野崎の声。
「あー、あー」
うめくような声を出し続けました。
「あー」
ちょっとして、少し質の違う声が響きました。
「……はあ、はあ、はあっ」
その10秒後ぐらいかに、母が息を連続して吐きました。
会話が始まりました。
「よう言ったとおりしてくれたのぉ」
「……はあ」
「どげえか、うまかったかえ」
「知りません……」
まるで意味が分かりませんでした。母が言うとおりにしたという野崎の喜びだけがわかりました。
「ティッシュあったかの……まぁトイレットペーパーでいいわ。ズボンと一緒に持っち来てくれ」
野崎の声に続いて誰かが立ち上がる音が聞こえたので、すぐに私は窓から離れました。
1mくらい斜めに離れて見えたのは、母のあのピンクの靴下の足が、野崎のズボンを拾っている光景でした。
母が殴られてる、という感じはもうなくなっていました。しかし覗いたり聞いたりしても、何をして母が許されたのが私にはまださっぱりわからなかったのです。
私は奇妙な気持ちだけを残しながらその窓から離れ、そのまま玄関のほうに回りました。陰に隠れて
二人の出てくるのを待ちました。
母が公民館から出てきたのは、それから5分後。
「美佐江さん、またな。わかっちょんやろうな?」
入り口の所で野崎が言って、母は声を出さずただ小さく頭を下げていました。私は母が
心配するだろうと、すぐに走り出し裏道から慌てて自分の家に戻りました。
「ごめんねー、遅くなった」
「心配せんでいいよ。謝ったら許してくれた」
「なんでそんなに汗かいてるの?ああ、隣の子と遊んでたんだね」
母は、いつもと変わらない様子でした。だから私も母の言葉を信じて、謝ったら許してくれたんだろうと納得したのです。
ところが。