自宅の風呂 1
そしてしばらく何も起きませんでした。正月、夜遅く近所の神社に初詣に行こうと家を出た時に野崎の家族と偶然会い双方が
「あけましておめでとうございます」と挨拶した程度です。私は野崎にはしませんでしたが。
ですから、もしかしたら母と野崎の関係はあの1度だけで終わったのではないか?と思っていました。当時の私は、母と野崎がしていた「浮気」というものが
世間的にはいけないことだと認識していましたし、野崎のほうがもう止めてしまったのだと思っていたのです。
ですが、実際はそうではありませんでした。
それに気づいたのは些細なことがきっかけでした。3学期が始まってすぐ私は学校で体調を崩し、保健室の先生に促され早退することにしました。
風邪のような症状でした。
一応薬はもらったものの、ふらふらした感じで家までなんとかたどり着きました。ところが、運悪く玄関の扉のカギがかかっていたのです。
時間は午前11時ごろ。少し早いなと思いながらも、私は母が町か近所のスーパーに買い物に行ったのかと思い、
つらい状態のまま玄関先に座り込み母が帰るのを待とうとしました。しばらく体育座りでぼーっとし続け、ふと玄関の脇の居間の窓を見ると、
いつもは絶対に閉めることのないカーテンがしっかりと閉められていました。それを見て、私は胸騒ぎを覚えました。
少し残った頭痛も忘れ、私は母と野崎が初めていやらしいことをしたあの公民館の時と同じように、慎重に家のまわりを調べ始めました。
居間にはカーテン。少し先に角があり、その先にはもうひとつ居間に面した窓があります。やはりそこもカーテンが閉まっていました。
が、この窓は陽がよく当たるのでレースのカーテンを閉めていることがありました。なので逆に、ここから覗けばすぐに中の人間にばれてしまいます。
私は子供で、さらに体調が悪いのに、その時はその危険に気づき少し庭のほうから遠回りして窓を回避しました。
そして、逆側から窓のそばまで近づき中の音などをうかがいました。
前回はここで母と野崎はおめこしました。カーテンを閉めていても声などは聞こえるはずです。しばらく聞き耳を立ててみましたが、何も聞こえません。
正直判断はつきませんでしたが、ずっとここにいるわけには行かず、他の部屋に行くことにしました。
その先は直角に曲がっていて、小さな庭に面しています。そこらへんには窓はありません。ただ私は2階の自分の部屋を見上げてみました。
さすがにそこはカーテンは閉められていませんでした。次は、私たち家族3人が寝る寝室です。居間に比べて少し緊張したのを覚えています。
「もしかして自分のふとんで」という気持ちも少しあったからだと思います。
一つ目の、裏に面している窓は出窓になっていて、ここも普段からカーテンが閉まっています。出窓の下にもぐって聞き耳を立ててみましたが、
声や音は聞こえません。ここもあきらめて、また角を曲がりました。
こちらの面には窓が4つ。寝室のもうひとつの大きな窓、トイレの窓、風呂の窓、そして台所の窓です。まず寝室の窓を調べる予定で、
「でも大きな窓だし狭いので迂回できないな」と角を曲がる時思った私に、少し先からある音が聞こえてきました。それは、シャワーの音でした。
寝室の先、トイレのものすごく小さい窓の先。トイレの窓よりほんの少し大きい両開きの、60センチ×80センチくらいの風呂の窓。
そこから、シャワーの音が聞こえてきます。これで間違いなく、家の中に誰かがいることが分かりました。
普段父や母は「シャワーはもったいない」ということでほとんど使いませんでした。しかし、前回の母の終了直後のシャワーに続いて、
だれかが普段は使わないシャワーを使っています。それも窓を閉め切って。私は一度息を呑んで、ゆっくりと風呂の窓に近づきました。
そして聞こえたのです。シャワーのシャーという音に混じった声と、他のいくつかの音が。
その声は間違いなく男の声でした。大きくもなく、まるで小さくせき払いをするかのような声。それが連続して聞こえてきます。
「うん、うん、うん、うん、うんっ」
こういう感じです。そしてその小さな声に混じって、まずはキュッ、キュッという音が聞こえます。これは自分でも風呂に入ってる時にたまに聞く音でした。
洗い場から湯船に移動する時、湯船のふち(へり?)を手で持つとこういう音がしました。他のどこの部分を触ってもこういう音がしないので、
誰かが風呂のふちを触っているか持っているかしているということです。
もうひとつの音は、ぺちんぺちんという音でした。前回の時野崎が母の尻を平手打ちした時のような激しい音ではなく、
誰かが濡れた手で小さく拍手しているような音でした。
咳払いのような声。キュッキュッという音。ぺちんぺちんという音。ふつうにシャワーを浴びても出ない音。そんな声や音が少しずつズレながら、
でもやはり連続して続いていました。私はその時、母と野崎の最悪の状況を想像しました。「また2人は、おめこしてるのか」と。
そしてその瞬間、そんな私をうちのめす別の声が、ひとことだけ聞こえました。
「ああ、うそ……っ」
間違いなく、母の声でした。
その声に続いて、咳払いのような声を続けていた野崎が小さく笑ったように思えましたが、その声は小さくてはっきりしませんでした。
私は風呂の窓の真下にたどり着きました。母の声は聞こえず、やはり先ほどからの野崎の咳払いみたいな声とシャワーの音、ぺちんぺちんという音、
そしてキュッキュッという音が続いています。
窓の下で少し考えます。窓は閉まっていて、ガラス自体はすりガラス。母がいつか「まあ、ふつうのガラスでも誰も私の裸なんか覗かないだろうけど」と
一緒に風呂に入っていた私に笑って言っていたのが思い出されました。
公民館の時や前回の居間の時のように、母の姿を確認したいという欲求は沸きましたが、いかんせん母と野崎がどういう状態で風呂の中にいるのか分からないし、
こちらから覗いたらすぐバレる怖さもありました。
そしてふと、別の考えに行き当たりました。2人は今風呂にいる。ということは他の部屋などにはすぐ移動できないだろう、と。
私は物音を立てずに、再びカギの閉まっている玄関のほうへと向かいました。離れ際、一瞬だけ母のうめくような声が聞こえたように感じましたが、
私はふりかえりませんでした。
もちろん玄関は閉まっています。ですが(私は使った事がないのですが)、父が残業で遅くなった時などには、母が迎えに出なくても
父はカギを開けて入ってきます。父がカギを持ってることも考えられると思いますが、以前父と母が「じゃあ○○○にカギの置き場所変えとくね」という
会話をしていたことをかすかに覚えていたのです。この玄関のどこかに合カギがあるということだと理解して、私は静かにカギを探し始めました。