母と美佐江 1

 それからまた何日も経ちました。母はまたいつもの母に戻っているように見えました。しかしあの日風呂場での母の姿を覗いてしまった私には、
野崎との間に何もないということを信じることができなくなっており、実際それを感じさせることもいくつかありました。

 具体的には普通に家に帰っても、母が不在だったり、変な時間にシャワーを浴びていたり、何となく変な匂いがしていたりです。
停まっていることはありませんでしたが、自分の家のほうから野崎電気店の軽トラが走ってくるのも何度も経験しました。
そんな時野崎は運転席から私のほうを見てニヤニヤ笑っていたように思います。

 なにか胃の中がムカムカして、普段からモヤモヤとしている状況でした。学校で授業を受けている時や体育をやってるときや遊んでいる時などは
あまり気にならないのですが、ふと「今もしかして家で母と野崎がおめこしているのか」と考えるとすごく気分が悪くなるといった感じです。
ただしひとつだけ救いがあったといえば、母は私の前では
(もちろん父の前でも)まるで前と何も変わっていないように見えることでした。
野崎に関すること以外、私たち
3人家族は普通の幸せな家族でした。だから、ムカムカやモヤモヤを自分だけガマンすれば何とかなるのかな、
とも思い始めていました。かなりストレスが溜まるガマンでしたが。

 そんなある日でした。春休みの日だったと思います。父はもちろん仕事で、午前中の家には私と母しかいませんでした。
私は、あまり宿題のない春休みを満喫して、ただぼんやり
2階の部屋で寝てたような気がします。

 目を覚ましたのは、家の前に車が止まった音がしたからです。それは、残念なことに、野崎電気店の軽トラでした。

 私はそれを2階の窓を開けて見ていると、当たり前のように慣れた感じで車のドアを閉め、呼び鈴を鳴らしました。そしてそれだけではなく、

「よーい、美佐江!開けんかよい!」

 大きな声で玄関先で怒鳴り始めました。それはかなり大きな声で、隣近所にもじゅうぶん聞こえるような大きさでした。
軽トラの止めかた、大きな声。野崎は家に来ることをまるで周りに隠してない様子で、それが私には辛く思えました。
最初のあの日、公民館で近所の人が「野崎さんに目ぇつけられたらやばい」「美佐江さんはどげえなるんか」と言ってたことも思い出しました。

野崎は、近所でずっとずっと前からこんな態度で威張っているのだと、母はそんな野崎に目をつけられおめこさせられているのだと。

「ああっ」

 ピンポン音がずっと家に鳴る中、母が玄関に慌てた感じの足音で行くのが聞こえました。

「今日は、今日は……あの……」

「んあ?おとついからかあちゃんが玖珠に帰っておらんけんヒマやし、○○したんじゃ。上がるで」

 ガラガラと戸を開けた野崎は、母の言葉は何も聞かずにどかどかと家に上がりました。
○の部分は戸が開く音と同時に聞こえたのでよく聞こえませんでしたが、多分「溜まった」とかだと思います。

母が野崎を止めようとする様子が2階からも音で分かりました。母は、子供である私がいる時に野崎が来たことに、さすがに慌てているようです。

「静かに……ですから、あの……」

「あ。あーあーあー!」

 玄関の前で上げてた声より更に大きく、わざとらしいくらい大袈裟に野崎は言いました。

「なんか、子がおるんか!そういや自転車があったのお」

 しかし野崎は、私がいるのを知ってもまるで態度を変えないようでした。それどころか、ドタドタと荒い足音を立てて階段の下に来て、

「おい、しんのすけくん!お客さんが来たけん挨拶くらいせいや!」

 まるで脅すように、階段の横の壁をドンドンと叩きながら1階から私を呼ぶ野崎。
私は、ゆっくり部屋のドアを開け、ほんの少しだけ顔を出して礼をしました。聞きたくもない声に脅かされて、見たくもない野崎の顔を見たのです。
野崎はそんな僕をニヤニヤして見て「おう、元気か」とだけ言いました。私は多分小さく「はい」と答えたと思います。

 母はそんな野崎の隣で私を見たり、廊下の床に視線を落としたりしていました。体もなんだか震えているように見えました。
そこで気づいたのです。野崎は私を脅してたんじゃなく母を脅していたんだと。

「……んじゃ、まあ。な」

 野崎はそう言って、私の目の前で母の肩を掴みました。私は、野崎の手によってぐいっと居間のほうに向かされるのと、
その瞬間の私を見る母の顔を見ました。どうしようもない顔で私を見て、でも次の瞬間唇を固く閉じて居間のほうへと消えた母。
私は心臓が止まりそうでしたが、もちろん助ける事などできそうもありませんでした。

 ドアの前にへたり込み、真下の居間でほんの少しだけ聞こえる音や声を聞いていました。

 このままでは、母はまた多分おめこをさせられる。今飛び出して邪魔することよりも、まだいい方法があるのではないかと、
子供ながらに必死で考えてました。

「……ああ!?聞こえちょんやろうが。もういっぺん言っちゃろうか、え!?」

 思わず体がビクっとなってしまいそうな野崎の大声。

「そんな、野崎さん……っ」

「あんまり大声出されて困るのはあんたやろうが……だけん、脱げばいいやろが、な?」

「ああっ……」

 続けて叫んでいたので野崎も興奮しているのか、抑え気味の「脱げばいい」と言う声も私にはしっかり聞こえました。

 その後は静かになった、下の居間。ただ、静かになった分、母親が野崎の言うことを聞いたということが分かり、また私の気持ちは深く沈みました。

 母が、野崎の言うことを聞いて、私がいるのに、服を脱いでいるのだという事です。

 大声を出してしまいたくなるようなストレスの中で、私はなぜか息を落ち着かせて、自分の部屋の閉じたドアノブを、静かに静かに回し始めました。

 私も、多分だいぶおかしくなってしまっていたのです。

 野崎に命令されて服を脱いでいく母の姿を、どうしても見たくなってしまっていたのです。

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