<第1話>
「おい、義姉さん。開けろよ、俺のシャツ知らねえか」
乱暴にドアを叩く音と、心臓が痛くなるような強く太い声。莉都子がその喧騒から逃れる術はドアを開けることだけだったが、それは出来ない。なぜなら、莉都子は美しい裸体にわずかに下着を纏っただけの姿だったからだ。
「ちょっと待って晃司さん、今ドアを開けられないの」
「なんでだよ、今からすぐパチンコ屋に勝負しに行くんだ。開けろよ」
か細い返事も無視され、ドアを叩く音はさらに大きくなる。莉都子の恐怖は増すばかりだ。
「あの……晃司さんのこのシャツなら、まだ洗濯してないわ。だから、もう少し待って」
この家にふらりと現れた時から身につけている着古された麻のシャツを掴み、莉都子は必死にこの混乱を訴えかけた。
「ははあ、あんた兄貴と組んで俺をパチンコに行かせねえつもりだな。いろいろ理由つけやがって、俺がどこに行こうと勝手だろ。もしこれ以上俺の邪魔をするんだったら、このドア蹴破って中に入ってやるからな」
打音のトーンが明らかに変わった。それは男の言う通り、ドアを打つ場所が拳から足先に変えたからに違いない。
激しい衝撃に震える脱衣所のドア。これ以上莉都子の心は男の圧力に耐えることができなかった。慌てて先程まで自分の躰を拭いていたバスタオルを手に取って、鳥肌を浮かび上がらせた前部を隠す。そしてゆっくりと、ドアに近づく。
「待って晃司さん。今、開けるわ……」
莉都子の指が鍵を解除した瞬間、外の男は有無も言わさず脱衣所の中に侵入して来た。その勢いに押され、莉都子はドアにぶつかってしまう。
「あう……っ!」
勢い余って、莉都子は床に尻餅をついてしまった。ドアノブを掴んだまま、そのぶざまな女の様子を見つけた男は、無表情の顔をしばらくして冷笑に変えた。
「なにしてんだ、義姉さん」
「……っ」
必死に裸体を隠そうと、ピンクのバスタオルを握る手に力を込める。そして、もう片方の手に握り締めていた麻のシャツを、その侵入者に差し出した。
「おお、これだこれだ……なんだあんた、風呂に入ってたのか」
距離はわずか数十センチ。男は立ったまま、恐怖に怯える女の姿を見下ろしている。莉都子は、その男の顔を見ることすらできない。
「へっへ……それならそうと早く言ってくれりゃ俺も遠慮したのによ」
そんなセリフを吐きながら、男はまだそこから動かない。莉都子は、視線をわずかに上に向けた。瞬間、その男の目と合った。舐めるような、色に満ちた、視線。すぐに莉都子は瞳を逸らす。恐怖が、また倍増する。
「あんた……ほんとに、きれいだなぁ」
それは、正直な感嘆の声だった。しかし、その言葉を今この状況で聞き喜ぶ女がいるだろうか。
「早く……出てって……」
「なんだい、そう邪険に扱わなくてもいいじゃねえか。まあいいさ。不良義弟は退散しましょう」
男はそう言って、シャツを羽織りながら脱衣所を出て行った。取り残された莉都子は、まだ胸の鼓動を抑えることが出来ない。
あの男は見ていた。わたしの躰を、明らかに性の対象として。
実の兄の妻である、わたしを……
現れた時から、晃司という男は粗暴だった。夫が出勤し、莉都子ただ一人がいた自宅での昼下がり、チャイムが鳴り玄関先へ向かった莉都子の前に、見るからに怪しい風体の男が現れたのだ。汚らしい髪、細く鋭いが澱んでいる目、無精ひげ。ドアチェーンを固く閉ざし、押し売りか何かと思いすぐに追い返そうとした莉都子に、その男はこう言った。
「へえ……あんたが莉都子さん?」
突然名前を呼ばれ、いぶかしがっていると、
「あののんきものの兄貴が、あんたみたいなべっぴんさん捕まえたわけだ」
その言葉に、莉都子は男の正体を悟った。
莉都子と兄の結婚式にさえ現れなかった、行方知れずの義弟 晃司だと。
その夜、夫の里から電話があり、どうやらこの男はふらりと故郷に現れ、すでに亡くなっていた両親のことを初めて知ったようだ。長男である莉都子の夫が実家を処分していたため、帰る家さえなくなった晃司は、悪態をつきながら親類の家を転々とし、結局故郷から遠く離れた東京のこの家にたどり着いたらしい。
誰より驚いていたのは晃司の兄である莉都子の夫だった。実家の貧しさをバネに猛勉強し今や一流企業の課長職に就いた自分に対し、中学を過ぎた頃から家出を繰り返し、ついにはそのまま行方知れずとなっていた弟が、今になって突然自分の前に現れたのだ。
しかし、その夫にも心苦しいところがあった。弟の帰る場所である故郷の生家ををなくしてしまったのは誰あろう自分なのだ。自分と莉都子の前でしばらくの同居を懇願する実弟に、情けをかけてやるのも、当然のことだった。
しかし、もう2ヵ月半である。すぐに職を見つけここを出て行くという約束は反故し、いつも何かに気に食わない顔で昼間から遊興し、夫婦が食事をとろうとした頃に帰ってくる。それの繰り返しだ。
夫が強く意見しても、
「じゃあ俺の住むとこを、兄貴が用意してくれるんか?」
薄笑いを浮かべながら、平然と言う。夫は一番の弱みに付け込まれ、それ以上は強く言えないのだ。莉都子はそんな二人の様子を、胃痛を覚えながら眺めているしかなかった。
変な話だが、晃司が夫から与えられた金を持って外出している時だけが、莉都子の安らぐ時間だった。帰宅してからは、同じ屋根の下で生活する余りの不便を味わうしかない。夜の営みなど、とんでもない話だった。
一度、二人の気持ちが高まり、息を殺して躰を繋げようとした時があった。しかし、いざ愛し合おうという瞬間、少し離れたキッチンで壁を強く叩く音が聞こえ、やむを得ず行為を中断したことがあった。音の主はもちろん、晃司だった。
愛する夫と愛し合えないつらさ。まだ30になったばかりの莉都子には、心苦しいものだった。
やっと、気持ちも落ち着いた。脱衣所での恐慌から1時間ほど経た莉都子は家事をあらかた終え、リビングで一息ついている。
午後の日差しが、窓から差し込む。莉都子はソファに躰を横たえた。あの男は、食事時にしか帰ってこない。気苦労も含め、莉都子の疲労は思いのほか大きく、そのまま綺麗な瞳を閉じて眠りに落ちていった。
が、莉都子の予想は悪い方に外れた。眠りが深くなった頃、晃司は機嫌の悪そうな顔をして、家へと帰って来たのだ。小脇に小さな包みを抱えて。
「クソ……っ」
その包みをキッチンのテーブルに投げ出し冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、イスに乱暴に座る。
「あの店、インチキな設定しやがって!クソ、許せねえ!」
罵詈雑言を、誰に言うでもなく繰り返す。ビールはまたたく間に減っていく。
「ああっ、もうねえ!」
晃司は再び冷蔵庫を開けたが、そこにはもうビールはなかった。この家に住む莉都子と夫は酒を飲まない。だが、夫に頼まれて晃司のためにビールを買っておくのは莉都子の仕事だ。予備のビールはキッチンの戸棚の中にちゃんとあるのだが、晃司はその場所を知らない。
「おい義姉さん、いねえのかっ」
椅子から離れ、莉都子の場所を探ろうとした直後に、晃司は相手を見つけた。リビングのソファで、無警戒に寝息を立てている兄嫁を。
すぐに晃司は、目的を忘れてしまった。
長く美しい黒髪は、今は後ろで束ねられているが、うなじに残る後れ毛が出かける前に見た濡れた肌の色気を思い出させた。
初対面の時感動さえ覚えたその美貌は、晃司が今まで抱いてきたどんな女よりも清楚で、艶やかだった。
シックで落ち着いた服装に隠されてはいるが、この女の肉付きは男を狂わせるものであることは明らかだった。
白い肌と緩やかな曲線を湛えた生脚は、晃司以外のどんな男でも息を呑まずに入られないだろう。
妄想のスイッチが入る。
抱く。
縛る。
犯す。
犯す。
犯す。
脱衣所で見せた目と同じ、いやそれ以上に好色な目で晃司は美しき兄嫁の全身を見下ろしていた。ただでさえ獣のような目が、今は飢えて獲物を求める肉食獣のような眼になっている。
股間のモノは際限なくいきり立ち、突き入れられるべき場所を求めいなないている。無防備すぎる美女を目の前にし、晃司は爆発寸前だった。
『ジリリリリリ ジリリリリリ……』
突然、リビングの電話が鳴った。莉都子はその音で、目を覚ました。開いた目にまず映ったのは、無表情でそばに立つ義弟の姿。
「……っ!」
「チッ」
莉都子の驚愕の表情に、晃司は舌打ちをして去る。そのまま、またあの不機嫌な顔をしてキッチンのテーブルへと戻った。莉都子には、その舌打ちがなにを意味していたのか分からなかったが、今はとにかく電話に出ようとした。
「はい、もしもし」
それは、夫の故郷の親戚からの電話だった。その親戚は仕方なく晃司に兄の住所を教えた本人だったが、やはり心配なのか何度か電話をかけてきてくれる。
「……ええ。はい。そうですね、いまのところは……」
晃司本人に内容を悟られないよう、小声でしかも当り障りのない言葉で会話を続ける。
「はい……ええ、はい」
しゃべりながら、莉都子はキッチンの義弟の様子をうかがう。自分が持って帰った紙袋からなにか取り出し眺め始めている。どうやら、雑誌のようだ。
「はい、じゃあ……気をつけます。はい、はい、では……」
受話器を置く。何事もなかったように振舞わなければならない。逆上されては、たまらない。
「おい、義姉さんよ」
晃司が莉都子に声をかける。
「な、なに?」
「ビールだよ。どこにあるか知らねえけど、冷やしといてくれよ」
「ええ」
莉都子は冷静を装い、キッチンの戸棚奥に仕舞っているビールの箱から、缶ビールを5本抱えてキッチンへ戻ってきた。義弟はこちらも顧みずに、自分が買ってきた雑誌に熱中しているようだ。莉都子はとりあえず安心して、ビールを冷蔵庫に直し始める。
「ヘッヘッヘ……」
笑い声が背後から聞こえる。しかし莉都子は、マンガかなにかに笑っているのだと思い、気に止めない。
「……縄か」
その言葉には、莉都子も反応した。縄……?きき間違いかと思い、莉都子は冷蔵庫を閉め晃司のほうを向き直った。
「晃司さん、今なんて?」
「え?ああ……コレだよ、コレ」
「?」
晃司は自分が見ていた雑誌のページを、ヘラヘラと笑いを浮かべながら人差し指でゆっくり何度も指さしている。
「……っ!」
莉都子は目を見開き、絶句した。
そこには、一人の女性が映っていた。綺麗な躰をした、綺麗な女性。
しかし、その女性は裸だった。そしてその白い肌に、真っ赤な太縄を纏っていた。
「どうだい、この女すげえいい顔してるだろ?」
いい顔?この女性は畳に頭を押しつけられ、苦悶の表情を浮かべているようにしか見えない。口には、やはり紅い縄。複雑怪奇な結ばれ方をしたその縄は伏した上半身、それとは逆に高く差し上げられた下半身を経て、女性の背後にいるある人物に手綱のように握られていた。
「縛られたまま、男にブッ込まれてよがってるんだよ。こりゃこの女も悦ぶわけだな。ヘッヘ……」
「ひどい……っ」
嘲笑した晃司、そしてこの女性を辱めている男にも抗議の呟きを上げたが、なぜか視線は、このおぞましき緊縛凌辱図から離れなかった。
「おい」
「……」
「おい、義姉さんよ」
「え……?」
莉都子は顔を上げる。それは余りに無防備な表情だった。潤んだ瞳、紅潮した頬、濡れ開いた唇。晃司でさえ、思わず息を呑むような。
刹那、晃司の思考がまた回転をはじめた。兄嫁を茶化すなんて些細な喜びなど、これからはじめようとすることに比べれば、些細なことこの上ない。
「あんた」
「……?」
「こういうの、好きなんだ」
「そんな……っ」
言葉に、さらに莉都子の顔が紅潮する。
「ウソつけよ。えらく熱心に見てたじゃねえかよ」
「……っ」
「そうか。あんたはこんなふうにぶっとい縄で縛られてみてえんだな……」
「いやっ、違うわ!」
莉都子は義弟のそばから離れる。自分を覆おうとしている淫らな雰囲気を振り払おうとするように。
「へへっ、無理しちゃって」
下卑た囁き。それから逃れるように、莉都子はキッチンからリビングのソファへ向かい、そこに座った。
言いようのない悔しさ。莉都子は目を閉じて唇を噛む。義弟の嘲笑が、悲しきかな図星だったからだ。怒りを発してみたものの、赤い太縄が食い込んだ白い肌の美女に見蕩れていたのは、事実なのだ。
淫らな妄想と興奮は、冷静な判断力を莉都子の全身から奪い去ってしまっていた。晃司がキッチンの椅子を立ち、すぐ背後に迫っていることに、莉都子は気づかなかったのだ。
「これはどうだ?」
突然の声と共に、莉都子の目の前はなにかに遮られた。瞳の焦点が再び合った時、それが先ほど見せられた雑誌のようであった。
しかし今度は写真が違う。明るい陽の差し込む風呂場の脱衣所のような場所。そこにまた、縄に彩られた美しい女性がいた。
その明るい光の中、女性は歪んだ体勢を取らされていた。背後で括られた両手。無残に毟られたバスタオルからまろび出、さらに縄をかけられ醜く歪む乳房。痕がつくほどきつく結われた縄に拘束される美尻。空しく折りたたまれた両脚。
莉都子は、また息を呑む。四肢を縛られたその女が縋りついているのはただ一つ、目の前に立つ男の股間に嘶く、長大なペニス。女は唇で、そのペニスに縋っている。顔をしかめながら、必死に。
「ほら見ろ……えらく熱心に尺八してるだろ?これもまたいい顔だぜ」
すぐ後ろから聞こえる、囁き。莉都子は、動けない。今はただ目の前の女の痴態に、釘付け。
「なんで俺が、この本を買ってきたか分かるか……?」
「っ……?」
「この女がさあ、朝見たあんたの姿に、そっくりだったからだよ……」
その時莉都子は初めて、自分が恐ろしく危険な状態にいることに気づいた。刹那、全身が総毛立つ。
「ひっ……」
小さな悲鳴は、背後からの強い力にすぐ消えた。晃司は本を投げ捨て、兄嫁の躰にしっかりと抱きついたのだ。
「いやっ!」
「へっへっへ……」
「は、離して……っ!」
「嫌だね、離さねえよ」
首筋に、荒い息がかかる。男の腕の力は、さらに増す。
「こ、晃司さん……あなた、なにをしているか分かってるの!」
「ああ分かってるよ……あんたがいやらしい躰してて、それにマゾっ気があるってな……」
「……違うっ!」
抵抗にかまわず、晃司はさらに強引に兄嫁の躰をまさぐり始めた。首筋に顔全体を擦りつける。前に回した手の先で柔らかい腹肉を揉む。そして股間の固い物は、これ以上ないくらいにヒップの割れ目に強く押し付けられている。
「い、いやっ!」
莉都子が貞操の危機を悟り、本気になって暴れ始めた。
「おい、暴れてんじゃないよ……おい、おいっ!」
晃司もまた、せっかく捕らえた獲物を逃すまいと、さらに力を込めて女の躰を抱きしめる。奥底に溜まった黒い欲望は、今まさに兄の妻に向けて、いやただ目の前にいる艶やかな美女に向けて発散されようとしていた。
「やっ、やめてーっ!」
それは莉都子にも、晃司にも予想できないことだった。莉都子が必死にばたつかせた脚のかかとが、女の部分に襲いかかろうとしていた股間に不意に当たったのだ。
「おうっ……!」
莉都子をきつく抱いていた力は急に解け、晃司は低い唸り声を上げながらしゃがみこんだ。莉都子は恐怖から逃れるため、さらにその義弟の体を、両手で強く押しのけた。
「んおっ!」
力が抜けていた晃司の体は後ろへ飛ばされ、キッチンのテーブルに衝突した。仕立てのいい木製テーブルや椅子が激しく音を立て崩れた。
「……っ!」
倒れたテーブルの下で、晃司はピクリとも動かなくなった。怒号と抗いの声が交差していた空間は、恐ろしいまでに静かになってしまった。
「晃司、さん……?」
声をかけてみる。返事がない。自分の貞操の危機から、全く別の恐怖が莉都子を襲い始めていた。10秒、20秒……やはり、動きがない。
「嘘……そんな……」
脚先に、震えが始まった。思いもよらぬ事態に、口の中が乾いてくる。
おぼつかない足取りで、その崩れたテーブルに近づいていく。そこで莉都子は、さらに恐ろしい光景を見てしまった。わずかに見えた晃司の顔。目を閉じている顔のその額から、一筋の鮮血が頬へと流れていた。
「そ、そんな……」
莉都子は、慌てて駆け寄り義弟の体の上にのしかかっていたテーブルをどけた。実際、かなりの力を要して持ち上げたテーブルの重さに、莉都子の恐怖は倍加する。
「ねえ、返事して晃司さん!お願い……!」
激しく揺り動かして、義弟の意識を回復させようとする。
「……」
そして、莉都子は少しだけ安堵する。義弟の瞳が、ゆっくりと開き始めたのだ。
「よかった……晃司さん、しっかりして!」
兄嫁の必死の呼び掛けに、晃司の唇がかすかに動く。
「どうしたの?なに?」
「……肩、貸して」
「あ、ええ、いいわ」
体を起こしたいのか、義弟は力ない腕をゆっくりと兄嫁の肩にまわした。そして、さらに唇をゆっくりと動かす。
「今度は、なに?」
莉都子は耳元を、晃司の口に近づけた。それはあまりに、不用意に。
「……絶対、許さねえ」
肩に回された腕に、また力が込められた。