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中の人日記・永遠のテーマ編2

(前の日記の続き)

 で、続きでありながら、話は微妙に変わるのだが。
 どうも自分が好きなものは、みんな根幹が同じらしい、ということをよく考える。
 それは「最初に好きなものがそうだったから、それがスタンダードになってしまっている」のか、あるいは「最初からそういうものが一貫して好みだった」のかは不明だけど、ともかくパターンがほぼ一緒なんだよなあ。
 これは以前知り合いだった人にも言われてたんだけど、榊の永遠モチーフは「欲しいものだけが決して手に入らない絶望」ということらしい。
 前の項で書いた「受の人の永遠片思い」というのも考えてみればそれだし。

 それと並行してもうひとつ、呪いのように抱えているパターンが、「どこまでが自分で、どこまで行ったら自分でなくなるのか」というやつでして。
(この辺の延長線上に「双子萌え」があるような気がする。ナルシシズムではなく、レゾンデートルとアイデンティティの絡みとして)

 愛するマイナー作家・古橋秀之が、後書きで上手いこと言ってた一言に「『今日の私』と『昨日の私のバックアップ』との関係は』というのがあって、おお!と膝を打った数年前。
 それで思い返せば、双子ネタであるデビデビにはまる以前から、榊は「双子」とか「クローン」とか「パラレルワールド・異世界の自分と、こっちの世界の自分」とか、そんな話を延々と書いてたんだよなあ。子供の頃最初に書いた小説が既にそういうネタだったし。
(その延長で、劇場版電王の「複数の時系列から良太郎を連れてきて全フォーム揃い踏み」とか、TV版で大人の桜井さんと過去の桜井侑斗19才が同時存在してる辺りとかがすごく好き)

 その上、榊が長年好きなハーロックというキャラは、松本零士ワールドには一体何十人いるんだよってくらい多重に存在するキャラだし。一応全部がご先祖と子孫ってことになってはいるけど、その設定って割と後付けなんだよな。スターシステムを松本ワールドの歴史設定に組み込んじゃった感じというか。
 で、古橋以前にハマって大好きなムアコックの「エターナルチャンピオン」シリーズの主人公達は、やっぱり全部同じキャラなんだよね。名前も種族も話ごとの世界設定も性格も、全部違う人達なんだけど、法と混沌、世界のバランスを取るために戦う運命を負った人、という意味において、全員が同じ存在である、という設定だから。
(そしてほとんどのキャラは、相手が別世界の自分と知っていても、「今の、この自分が自分」という認識が揺らぐことはないが、「永遠のチャンピオン」のエレコーゼだけが、全次元に存在する全ての自分の記憶を持っていて、誰でもなく、また誰でもあるという自己の矛盾に苦しむことになる)

 そういう「自分と別の自分」モチーフも、この後さらに2パターンに分かれる。
 例えば「別世界の自分」や「クローン」は、遺伝情報や精神が同じ人でも、身体が別である以上別個の存在である、と言えなくもない。
 しかし、身体はひとつでも中身が違った場合、それは本当に「同じ人」たり得るのか。どこからどうやって別人として区別するのか。同じ人のクローンに別人の記憶と人格を刷り込んだ場合は?
 この辺は色々書いてるデビ話にも関わってくるんだけど、世界Aのシバには完膚無きまでに拒絶された影様が、世界Bのシバにはベタ惚れされるってどういう現象なんだと。
 色々と状況や性格は違うけど、同じシバはシバなんだよね。一体何が、世界Aでの泥沼と、世界Bでの熱愛を左右するのか。影様本人はAB世界共通して一人であり、中身も身体も全く変わっていないというのに。
 元世界における「シバは何故自分(影)では駄目なのか。正様でなければならないのか」という影様の疑問は、デビ初めて十年近いけど、未だに結論が出ない恐ろしい命題ですよ。まだ書いてない話のネタバレになるので子細は書けないけど。
(ネタバレ上等でそこら辺の設定知りたいよ!って方は、メール下さればこっそりお教えいたしますですよ)

 あと、去年の仮面ライダーであるカブトで、話の本筋そっちのけで矢車さんが気になったのは、実はそういう理由からでした。
 正直、前半の「矢車隊長」には、全く興味ありませんでした(^_^;)
 しかし皆が仰天したあの再登場は、案の定榊のアンテナにビリビリと引っかかったですよ。再登場後が変すぎて面白かったとか格好良かったとかとはまた別の点で。
 それで去年は「特撮でホモ厳禁」なマイルールをついに破って、カブトの矢車×影山の二次サイトを相当回ってみたんだけど、上記のアイデンティティ問題において、やはり傾向は二つあった。

1.影山は「やさぐれ兄貴」について行きつつも、「隊長」を「今はもういない前の恋人」(兄貴とは別人)みたいに思ってしまい困っている。
2.過去は矢車さんも影山も無理に無理を重ねて「いい上司と頑張る部下」でいたので、そういう社会性を全部捨てて地獄兄弟になった今の方が、お互い素でいられて気楽でいい。

 こんな感じで。
 勿論、あれだけ風貌や言動が変わってしまっても、矢車さんはちゃんと矢車さんなんだよね。「有能・天才」という看板に無理してついてくのをやめただけで、性格の根幹は実はそれほど変わってない。鬱々とした地獄ポエムを吐きながらも、拾った影山の面倒は一応ちゃんと見てたし、詰めが甘くて心弱いとこは全然前と一緒だったしで。
 でも、後半で「地獄兄弟」になってからこのカプに転んだ人は、前半の「上司と部下」時代のネタも遡って普通に書いてたが、前半時代からやってた人の中には、兄弟以降はついて行けず「後半はなかったことに‥‥」って人が割といた。多分そういう人にとっては、隊長とやさぐるま兄貴は、同じキャラであっても別人でしかないらしい。

 そんなこんなで、萌えを求めて行った先でまで、やっぱり「どこまでが自分(同じキャラ)なのか」問題に直面してしまい、これは一体何の呪いだ‥‥と愕然としていたのだった。
 そして今年は駆け込みで見て回った電王サイトでも、4タロスの憑依体は基本的に全部良太郎の顔・身体なもんだから、髪型と服・多少のデフォルメが違うだけの、同じ顔の人同士のカプがてんこもりあって、やっぱり同じ命題に直面(略)

 何なんだ。延々とこんなこと考えながらホモ書いてる(読んでる)奴いねえよ、多分‥‥

 いや待て。
 書いてて思い出したが、榊はバーチャファイターやってた頃はジャッキー×サラだった。ホモカプではなく男女ネタ・かつ兄妹ものだったが、これも元々は結構ブラコンだったサラが記憶を消されて組織の刺客となり、ジャッキーを兄と認識せず殺そうとしているという原作設定だった。
 ということはこれも、「妹としてのサラ」と「その記憶のない刺客のサラ」という、同一人物にして別のキャラ(人格)という問題に直面(略)
 そういえば基本的に世界観萌えで、ホモ同人には興味なかったゲームの「バロック」も、何度も死んではまたスタート地点に立っている主人公キャラがいたではないか。
 これは普通のRPGと違って、プレイヤーキャラの死は単なる失敗プレイではなく、死を繰り返すことそれ自体が物語に組み込まれているというすごいシステムであったのだが(作中でも「お前は何度死んだら気が済むんだ?」と言われたりする)、これもつまりは「多重に存在する自分」モチーフではないか。何たることぞ。
 そういえばさらに思い出したが、ちょい前にハマったデモンベイン(エロゲである意味が全くない、熱血ロボットアクションクトゥルーノベルゲー)にも、ナイアルラトホテップが永遠に繰り返すループ世界で、その全ての転生の記憶を持たされたまま、果てしなく存在させられ続けるマスターテリオンというお方がいたではないか。‥‥ハマるものはやっぱり全部このパターンなのか?!

 何なんだ一体。
 魔王様は「君は永遠にこの命題を考えていたまえ」と言いたいのか。
 ‥‥そうなんだろうなあ。
 ハァ。
 こんなことばっか考えてるから、うちの本は「例え面白いと思っても感想が書けない」小説になるんだよなあ‥‥
(↑前に言われた。ムカつきつつも納得した)


 そして電王は明日で最終回。
 またしばらく、日記が電王における時空改変&多重存在ネタで埋まる予感がひしひしとするぞ。
 何だかなあ。