※注意‥‥シリーズ前作「紫の空」の続編に当たります。あれを
書いた時はまだ原作進行中だったため、後々発生した矛盾とか
設定のずれを、後日本作で辻褄合わせしたという経過があります。
なので、本作は出来れば「紫の空」読了後にお読み下さいませ。
書いた時はまだ原作進行中だったため、後々発生した矛盾とか
設定のずれを、後日本作で辻褄合わせしたという経過があります。
なので、本作は出来れば「紫の空」読了後にお読み下さいませ。
◇ バラ色の日々 ◇
齢を重ねた大樹の根に似た無数の巨大な血管と、人知を越えた構造を備えた、得体の知れぬいくつかの臓腑。それらの奥にある赤黒い壁は、消化器官を思わせる襞を持ち、低く、ゆっくりした鼓動に合わせて、さざ波のように震えている。
異形の闇。
そこは建造物の内部でありながら、生きた魔獣の体内でもあった。
船が地を渡る轟音も風も、その深みには届かない。
くぐもった遠い拍動だけが僅かに響くのみの静謐は、ただ一人の男を護るため、次代の女王たる孫娘と、老いた前魔王によって作り出されたものである。
羊水にも似た魔力に浸され、弱った魂を肉体につなぐ呪を刺青のように総身に刻まれ、全ての喧噪から遠ざけられ――
そうして護られた闇の底で、深き眠りについて以来、彼が呼び掛けに応えたことも、濃厚な死の陰に覆われた瞼が開かれたこともついぞない。
竜の臓腑を褥代わりに、枝分かれした太い血管に下肢と開いた両腕とを埋め、目を閉じているその姿は、磔刑の聖者とも
だが、その男は確かに生きていた。
臓腑と融合させた四肢を通じて、強大な魔力と生命力を有する竜の血を絶えず注ぎ込み、強制的に循環させることによって辛うじて命脈を保っているという、危うい均衡の上ではあったが――それでも、彼は生きていた。
それを確認するかのように、中空の闇に佇んで、眠る男を見つめる者がいる。
『――シバ』
少年めいた白い面差しにかすかな憂いの色を浮かべ、声もなく、彼は呼び掛ける。
『シバ‥‥』
きつく凍てついた眸の奥に、愛憎とも諦観とも切望ともつかぬあらゆる激情を押し隠して、眠り続ける男の名を――虚無に沈み込み、飲まれそうな思惟を、消えぬようにと揺りさぶりながらも、決して眠りを覚まさぬように。
触れること叶わぬ距離にあってさえ、彼にはシバの力無い鼓動が手に取るように聞こえている。
竜の臓腑に抱かれながらも、
ほんの少しだけ手を伸ばせば、血の気を失った青白い肌に触れ、それを確かめることが出来ただろう。そうしてその身を
だが彼は決してシバには触れない。
触れたら消えてしまうとでも言うかのように――あるいは、醒めたその目に自身が映ることを恐れ、避けてでもいるかのように。
にも関わらず、彼はただ、眠るシバの姿を見守り、その名と、魂とを呼び続ける。
竜の心臓に助けられて動く、かすかな鼓動を確かめながら、声もなく――ただひたすらにその生だけを願って。
おぼろげな意識を繋ぎ止め、虚無から呼び覚ますものがある。
日ごと夜ごとに去来する夢と、それらをもたらす記憶の断片は、苦味を含んだ薬酒にも似て、薄らぐ意識を揺り動かす。
『――シバ』
忘れかけたような名を呼ぶのは、記憶の中の友か、王か。
緩慢に脳裏に浮上する
最初の友にして唯一の主。穏和な気性とは裏腹に、最も神に近き堕天使の血を受けて、神とすら渡り合った至上の魔王――サタン。
だが、
『シバ‥‥』
不安と苛立ちを帯びた声と、燃えながら凍っていくような、奇妙な矛盾をはらんだ眼差しは、彼のものではあり得ない。
幼少のシバが拾われた時、同じ年頃に見えた彼は、自身の座すことになる玉座の意味と、受け継いだ名の負う重責とを、既に十分に知り抜いていた。比類無き力を持つ魔王サタンは、見た目こそ年若い少年だったが、はるかに長い時を生きていたのだ。
それがため、彼は常に王たらんとして有り、、近侍とはいえ臣下たるシバに感情的に振る舞ったり、不安を見せたことは一度も無かった。
では、これは誰なのだ?
同じ夢を前も見た。唐突にそう思い出す。
もう一人の友に全てを託して魔界の門を破壊した後、死の床で見たおぼろげな夢。
牢でも処刑の場でもない、思い出せないどこかの部屋で生死の境をさまよった。
砲撃に貫かれた胸の傷を繕われ、血の味の舌に薬を含まされ、膿んだ傷口の熱を冷まされ、失血の冷えを暖められ――
そうやって傍らに寄り添いながら、不安げに己を見つめていた、魔王と同じ顔の、これは誰だ?‥‥
‥‥夢だと、目覚めるまでは思っていた。
「――まだ、眠っているのかい? シバ」
不意にはっきりと聞こえた声に、冷たい心臓がトクン、と跳ねた。
自失していたと気付くと同時に、曖昧な夢はその記憶もろとも引き潮のように消え去った。
咄嗟に現状を掴みかね、巡らせた視線に飛び込んだのは、繭の内側に似た弧を描く部屋。淡く光るような紫の天蓋。その色を映して紫に染まる、巨大な純白の寝台と寝具。
その上に豪奢な着衣のままで片肘ついて横たわり、皮肉な視線を向けているのは――サタン。
華奢な体躯と少年の貌に世界を滅ぼす憎悪を隠した、魔界を統べる混沌の王。
「‥‥全く」
氷の無表情の陰をよぎった失望の片鱗を読みとってか、芝居じみた大仰な嘆息を漏らす。
「君にやる気がないのはいつものことだが、呼んだそばからそれはないだろう?」
どこか拗ねた風にサタンは笑い、優雅な仕草で寝台を降りた。少し背伸びをするようにして、シバの首根に腕を絡める。
「‥‥こんな境遇で、この期に及んで、未だ正気を保っているなんて――流石だよ、シバ」
薄い耳朶に柔らかく触れてくる、陶酔と感嘆の甘い吐息。
「そんな君が大好きだよ、本当に。‥‥君は信じてはくれないだろうけどね」
夢見るような睦言はしかし、虚無と諦観を含んで遠い。
「その証に、と言う訳でもないが、首尾よく天界を支配下に置いたら、あの美しい天空を全て、君に進呈するつもりだよ。‥‥君のためだけの、新しい住処だ。そこで君と二人きりで過ごすのも、悪くない――」
「‥‥‥‥‥‥」
「僕の楽園で、君の煉獄。‥‥ふふ、どうだい。さぞかし迷惑な話だろう?」
昏い自嘲を含んだ笑みは、シバに向けられたものなのか、それとも。
何にしろ、シバは答えない。取り合わない。
昼夜の区別もない
「復活の儀式に入ったら、しばらく会いには来られなくなるけど、それも君には願ったり叶ったりというところだろう?‥‥まあ、せいぜい羽を伸ばすといいさ。そう長い間のことでもないしね――」
「‥‥‥‥‥‥」
まだ何事かを言っているサタンを、シバは無造作に引き剥がし、広い寝台に放り込んだ。
責め苦でしかない時間の中では、無言の拒絶を貫くだけが赦されたなけなしの抵抗だ。果てしなく続くような繰り言に、これ以上耳を貸す義理もない。
――が。
サタンの細い身体を包む飾り程度の防具を外し、残る衣服を剥ぎ取ろうとして、ふと、シバは手を止めた。
唐突によぎった既視感と――違和感。
「‥‥シバ?」
されるがままに身を投げ出し、それでもどこか期待を滲ませて見返していたサタンの表情が、翳る。
くつろげた衣服に手をかけながら、組み敷いたサタンを見下ろして、シバは怪訝に目を眇めた。
ありとあらゆる手段を講じて冷えた身体を強制的に煽られ、言うなりにサタンを抱かされる夜を、飽き果てるほど繰り返した。
だが――宿敵でしかないはずの己とサタンは、 大体にして一体いつ、何があって、こんな関係になったのだったか?
――思い出せない。
「シバ‥‥!!」
なにゆえか、サタンが切羽詰まったような声を上げたが、シバは聞いてはいなかった。
抜け落ちた記憶と不自然な忘却。
その空隙を埋めるものを求めて、渦巻くように湧き上がった疑念は、封印された意識の深層に急速に没入していった――はずだった。
「――また、考えごとかい?」
唐突な囁きが耳朶を打ち、ビク、とシバの目が見開かれた。
背伸びするようにして抱きついたサタンが、疑問符めいた薄笑いを浮かべて、寝台の前に立つ己を見上げている。
‥‥シバは茫然と周囲を見回した。
弧を描く繭に似た紫の部屋。その色を受けて紫に染まる、広い寝台と、純白の寝具――
「全く‥‥君にやる気がないのはいつものことだが、こんな状況でそれはないだろう?」
どこか拗ねたようにサタンが言う。‥‥だが、ほとんど同じようなサタンの台詞を、つい先刻も聞かなかったか?
シバの肩口に顔を
「あの下級悪魔のことを考えていないと役に立たないというのなら、そのくらいのことは赦してあげるよ。‥‥なんて、いつもなら言うところだけど――」
‥‥聞き覚えのあるサタンの言葉が、遠く続いている繰り言に重なる。
夢とも現とも判じ難い、どこか曖昧な切れ切れの記憶。天界の話と、煉獄の話、復活の儀式に入るということ。そのままサタンを寝台に放り込み――
「‥‥‥‥!」
曇天の記憶に閃光が走った。
ハッとしたサタンが目を上げるより早く、シバはその身を突き離した。
よろけて寝台に倒れ込むサタンの見開いた目と視線が合う。だが、それ以上の反応より先に、シバはその細い咽喉に手をかけた。
「! シバ‥‥」
ためらいもなく締め上げると、咄嗟にその名を叫んだ声が息詰まる苦鳴になり変わる。
以前にも同じことがあった。唐突に記憶が蘇る。
人の子に宿ったソードの姿を寸分違わず写したサタンに、あの時もこうして手をかけて――だがそれは、本当に現実の出来事だったのか。何度も繰り返し、つぎはぎされた、偽りの記憶のひとつではないのか?
一体どこまでが現実なのか、それとも全てが幻なのか。あるいは自身の記憶か魂が、とうに正気を失っているのか。
それらを判じる術もまた、今のシバにはありはしないが、ひとつだけ解っていることがある。
これが現実であるならば、このくらいのことでサタンは死なない。
確たる現実の礎を求めて、シバは再び記憶を探った。
手の中で息を失っていくサタンの鼓動を数えると、両の手首に嵌められた腕輪が、共鳴するようにかすかに鳴った。
‥‥サタンの魂のかけらのことと悪魔の卵にまつわる秘密を、魔界の闘技場でソードに告げた。
箱船という結界に囚われ、時の感覚を失ったシバにはもはや推し量る術はないが、あれからどれほどの時が過ぎたのか。
シバが意識を取り戻した時、胸を貫いた砲撃の傷は跡形もなく繕われ、死の刻印も消え去っていた。
生きていたという喜びはなかった。あの場での死を覚悟していた身には、何故、という驚きの方が勝っていたし、救命がサタンの采配と知って、シバは一層困惑した。
神経質で癇性で、恐ろしいまでの執念を持つサタンは、決して裏切りを赦さない。少年めいた幼い顔に冷ややかな笑みを浮かべながら、情け容赦なく断罪するのが今までの常であったからだ。
長く見逃されていたとはいえ、シバとて処断の例外ではなかった。
宿命じみた偶然によって悪魔の卵をソードが得た時、サタンは自身の魂のかけらを未だ手にしてはいなかった。
見つからなかったと言うよりは、その時点ではサタンはまだ、魂のかけらも悪魔の卵も、本気で探そうとはしていなかったのだ。シバが叛意を失っておらず、従順でないことを知りながら、戯れに探索を命じるほどに。
しかし遊びはやがて終わる。胸に刻まれた死の刻印こそが、事態の収拾を命じたシバへの最後通牒だったはずだ。
なのに今さらそれを消してまで、生かしておく理由は何なのか。
サタンの真意は掴めぬまま、シバは囚われの箱船の一室で何度も自死を繰り返した。
自身の命を利用されぬよう、魔力の刃で首を落とし、脊髄ごと胴を両断し、心臓を潰し、脳幹を破壊し――
だが、シバが死ぬことは出来なかった。
肉体を何度滅ぼしても、サタンは神に近き力をもって、その度にシバを再生させた。
もとより魔族の生命力は強い。魂そのものを滅することは、自らの意志では不可能である。まして、結界である箱船の中で魂が散じる隙はなく、肉体のみを破壊しただけで死を得ることは叶わない。
シバがその生に疲れていくと同時に、サタンも果てしなく繰り返される再生の作業に飽いたのか、封印の腕輪をシバに科し――いや、違う。
暗黒魔闘術そのものは確かに、魔力を封じれば使えない。が、肉体の持つ直接的な腕力は、魔力と連動するものではない。
魔闘術を身につける以前にシバは体術を極めていたし、自身の肉体を破壊するのにそれで足りぬことはなかったはずだ。
だとしたら己は一体何故、死を選ぶことを諦めて、この境遇に甘んじたのだ?‥‥
「‥‥君の魂が、もう保たなかったからだよ」
「――‥‥!!」
何度目かに心臓が跳ねると共に、シバは思わず息を呑んだ。
手の中で縊られ、声もなく、今しも息絶えんとしていたはずのサタンが、憐憫にも似た
「僕を殺すことは出来ないよ。‥‥今は、ね」
サタンの首にかけたられた手が、我知らず震え、硬直した。その言葉にもまた、聞き覚えがある――
‥‥倦怠の重い溜息と共に、サタンはシバの手を容易く解いた。
が、わずかに顔を背けながらも、サタンは腕の中から逃れようとはしない。見つめる赤眼に錯綜した、隠し切れぬ動揺に気付きながらも、揶揄るでもなく押し黙ったきり、ただ痛ましげに目を伏せる。
「‥‥サタン」
我知らず、シバは呟いた。
「ふふ‥‥」
シバの目を見ようとはしないまま、泣き笑いを含んで、サタンが言った。
「初めてかな‥‥君から口をきいてくれたのは」
‥‥シバは絶句した。
いつもの尊大な物言いが、にわかに芝居がかって聞こえるほどに、その呟きは弱々しかった。
そして長い長い
「‥‥あまり何度も肉体から引き剥がされると、やがて魂にも限界が訪れる」
サタンはぽつりと口を開いた。
「その上、君は絶望していた。‥‥君自身も知っている通り、あれほどに命を傷つけるものはないんだ」
「‥‥‥‥‥‥」
「だから、忘れてもらうことにしたんだよ。‥‥君が自分を傷つけようなどと、二度と思ったりしないように」
淡々とした呟きに、さしたる感慨の色はない。にもかかわらずその平坦さはむしろ、大仰な悲嘆を通り越した後の、深い麻痺を思わせた。
「‥‥何があった」
‥‥沈黙。
「サタン‥‥!!」
「僕だって忘れてしまいたいよ‥‥!!」
サタンは両手で顔を覆い、叫んだ。肩を掴んで揺さぶったシバの語勢から身を守ろうとするかのように。
「だが――君の記憶を封じておくためには、僕がそれを忘れてしまう訳にはいかないんだ‥‥!」
今の今まで押し殺され、気配すら読めなかったサタンのオーラが、痛みを滲ませて激しく揺れた。
‥‥茫然と、シバはそのさまを見下ろした。
疲れ果てたようなサタンの姿には、うんざりするほど見せつけられてきた妄執も、憎悪も、尊大さもない。
今、目の前にいる少年は、本当に己が生涯を費やし敵として追いかけ続けてきた、破壊と混沌の魔王なのか。
あるいは――今までサタンが見せ続けてきた、幼く冷酷な魔王の顔こそが、全て偽りだったのか?‥‥
‥‥悪意と妄執に閉ざされた檻の中で、時に縋るようにして向けられた気配を、今までは何度も拒んで来た。
だが――
「ッ‥‥?!」
顔を覆っていたサタンの手を、シバはやおら引き剥がした。背けられた
一瞬の動揺を押し殺して、シバはサタンに口接けた。
くぐもった呻吟が咽喉の奥を震わせ、引き結んだサタンの唇が解ける。
もがく背を逃さぬよう抱き込みながら、シバはそのまま口接けを深めた。常のサタンの傲慢さからは思いもつかぬほど硬直し、怯えたかの如く縮こまった舌を、強引に絡め、蹂躙する。
「ッ‥‥ぅ‥‥!」
震え、反射的に逃れようとする背を引き寄せ、翼骨をまさぐると、切ないような呻吟と共に、ビク、とサタンが目を閉じた。
――瞬間。
無意識のうちにほんの僅か緩み、隙を作ったサタンの意識に、研ぎ澄まされたシバの意識が深く突き刺さり、侵入した。
「――‥‥!!」
記憶と魂を犯そうとする精神の触手を拒もうと、咄嗟にサタンが防御を張り巡らす。
が、一度たぐられた魂の糸口を触手もろとも断ち切ろうとした刹那、衣服をはだけて滑り込んだ手が無防備な肌に甘やかに触れた。
不意にもたらされた肉体の感覚は神経電流となっていちどきに押し寄せ、意識をかき乱し、集中を妨げる。
そうして障壁を容易くすり抜け、触手はさらに奥へ進むとサタンの記憶を探りあて、自我と魂を浸食した。それに付随して肉体をも支配し、これ以上の抵抗を封じるべく、貪るように口接けを深め、震える身体を容赦なく追いつめる。
「! ん‥‥ッ、ぅ‥――!!」
ただ一瞬の隙を糸口に魂と肉体の両方を侵され、それでもあがき、抵抗していたサタンは、しかしやがて力尽き、墜ちた。
少年めいた細い身体がシバの手の中でびくびくと震え、かすかな声を上げて脱力すると同時に、魂に触れた触手の先で、隠された記憶の封印が崩れた。
扉をこじ開けて入り込んだ触手が記憶の襞を柔らかく探り、その情報を読み取るたび、苦痛の余韻とも喜悦ともつかぬさざ波が魂の界面を走り、腕の中の身体が連動して震える。
今までは決して心を開かず、人形同然の肉体だけを明け渡されて抱かれていたサタンは、初めて触れたようなシバの意識とそれに犯された衝撃のあまり、もはや解放を止める余力さえない。
今だ繋がった意識を通じてそれらをつぶさに感じ取りながら、シバは封じられたサタンの記憶に深く没入していった。
‥‥死と再生を繰り返すうち、
死を赦されぬゆえではなく、強引に生をつなぐことこそが魂の力を摩滅させていき、双方がそれと気付かぬままに、やがてその歪みは暴発した。
何度目かの再生を果たした後、正体の知れぬ激痛と熱と相反する寒気が急激に襲い、サタンの目前で昏倒したシバはそのまま死の淵を漂った。
全ての感覚が増幅され、神経を直に引きむしられる凄まじい苦痛にのたうちながらも、朦朧とした意識のどこかで、これで死ねる、とシバは思った。そうでなくとも魂が壊れて正気を失ってしまいさえすれば、サタンの支配からは逃れられるだろうと。
時の経過も解らぬ中で切れ切れに意識が覚醒し、血の色の闇から浮上するごとに、シバはただそれだけを願うようになっていた。
だが、サタンは決して諦めなかった。
生死の境をさまよっていたシバの記憶にはなかったが、思いつく限りの方策を尽くしてサタンはシバの救命を図り――やがて万策尽き果てた時、最後の手段に踏み切った。
紫の部屋の広い寝台で、魂が分解されるような苦痛に声なき咆吼を上げ、のたうつシバを、豪奢な魔王の衣装を脱ぎ捨ててサタンは全力で抱き留めた。
少年じみた華奢な身体は、しかしその魔王の血のゆえに、思いもつかぬ力を秘めていた。
痙攣と共に跳ね上がる身体を腕力で抑えつけるのみならず、サタンは直接肌を合わせることによって、自らの
シバに意識があったとしたら、死してでも拒んだに違いない。だが、明確な自我を失したままの生命と力に
そうしてサタンは三日と二晩、外界と公務の全てを遮断して紫の寝間に閉じこもり、全ての力を注ぎ続け やがて、シバは目を覚ました。
乱れたシーツと羽布団の残骸(それは激痛に苦しんだシバ自身が、無意識のうちに引き裂いたものだった)、そこから溢れ出した夥しい羽毛。
それらの中に埋もれるようにして、茫然と横たわっている己と――サタン。
弾かれたように起き上がろうとしたが、どれほどの間病んでいたのか。平衡を失った視界が廻転し、シバは羽毛を舞い上げながらあえなく再び寝台に沈んだ。脈打つ頭痛と目眩をこらえ、今度は慎重に身を起こす。
ふわふわと漂う羽毛を透かしてゆっくりと周囲に巡らせた視線が、シバの傍らにそっと寄り添い、寝息を立てているサタンに止まった。
一糸纏わぬ姿のまま、散乱した真白い羽毛に埋もれ、力尽きた風情で横たわるサタンは、紫の天蓋のせいではなく、明らかに青ざめ、冷え切っていた。
どのような消耗が見舞ったものか、常には圧力さえ感じるほどの独特のオーラも弱々しく薄れ、陽炎のように揺らいでいる。
その横で、死ねると確かに思ったはずの己が今だ生きているのは、一体どういう訳なのか――
どうにも状況が掴めぬまま、シバはふと、骨の浮くサタンの華奢な背に触れた。
もとより同情も憐憫も無く、ただ、強大すぎる宿敵の見せた、あり得ぬ隙に戸惑っていた。
だが――
冷えた背に触れた指先から、予想だにしなかった力の波動がドクン、と脈打って流れ込んだ。
「――‥‥‥‥!!」
シバは反射的に手を引いた。
が、その時はもう、遅かった。
サタンが命を留めようとして注ぎ続けた天使の力。
瀕死のシバの救命だけを願い、持てる力の全てを解放したサタンは、その放散を制御せぬままに意識を失っていたのだった。
頭痛と目眩は既に無かったが、代わりに急激に肉体を支配した剥き出しの欲情と衝動に駆られ、シバはもがきながら寝台に倒れ込んだ。
「‥‥――シバ?!」
雪のように舞い上がった羽毛の中、異変を感じて跳ね起きたサタンが痙攣する肩に手をかけた。
が、ただそれだけの感触が、視界の色彩を塗り替えるほどの凄まじい
同時に触れたサタンの手からなにがしかの力が抜け出ていき、苦痛と紙一重の逆巻く衝動が束の間薄れたようだったが、それを認識する余裕はもはや無い。
「シバ――シバ!!‥‥」
振り払おうとして暴れるシバを、それでもサタンは懸命に抱きしめ、もがく背を寝台に縫い止めた。それにつれ、体内で逆巻く凶暴な嵐が、あたかもサタンに中和されたかの如く、ごく僅かずつだが収まっていく。
「シバ――」
未だ意志では御し切れぬものの、暴走する五感が少しだけ凪ぎ、シバはようやく己を呼び続けるサタンの存在を思い出した。音もなく降り積む羽毛の中、灼熱する身体と荒いままの呼気を、必死で押し止めながら目を向ける。
サタンは目に見えて安堵した様子で、ああ、と息をつき、抱擁を強め――不意に、反射的に身を引こうとしたシバの咽喉元に口接けた。
「ッ‥‥!」
束の間忘れていた衝動の波が再び魂をわななかせ、シバは思わず顔を背けた。
が、サタンはそれを意に介する風もなく、その唇を胸へと滑らせた。突き放そうとするシバの手を、外見からは想像もつかぬ魔王の恐るべき剛力で
「‥‥駄目だよ、シバ」
疲労の滲む掠れた声で、サタンは口接けの合間に告げた。
「完全に中和しないままで放っておくと、魂が壊れるか、気が狂う。‥‥だから――」
言いながら唇が乳首に触れ、シバはギリ、と歯を食い縛った。
収まりかけたと思った熱を再びだしぬけに煽られて、湧き上がる愉悦を押し殺すのに全ての神経が費やされ、反論も抵抗も立ち消える。
「後宮の女を用意しようにも時間がないし――そのままでは辛いだろう?‥‥」
ためらいがちに言ったサタンは、寝台に溢れてその身を包んでいた真白い羽毛をかき分けると、おずおずとシバの腹筋に触れた。
そのままゆっくりと手を滑らせ、我知らず硬く勃ち上がり、張り詰めていたものにそっと触れる。
「――‥‥!!」
吐き気と戦慄を伴った愉悦がドクリと脈打って背を這い上り、衝撃が脳幹を突き抜けた。半ば快感を越えたような刺激に、瞬間、息と心臓が止まる。
嫌悪と喜悦に引き裂かれながら、それでもシバはその手を引き剥がすべく、あがき、よろけながら起き上がろうとした。
が、包み込むサタンの薄い掌がぎこちなくゆるゆると蠢くと、捌け口を求めて収束する血が勢いを増して流れ込み、さらなる希求に沸騰する身体が抵抗の意志を打ち砕いた。
そうして半身を起こそうとしながら一瞬硬直した視界の中で、サタンが不意に身を屈めた。その意図に気付いて身を引くより早く、手にしていたものに唇が触れる。
「――‥‥‥‥!!」
声もなく、ぞくり、と全身が粟立った。
「ん‥‥ッ、ふ‥‥」
どこかぎこちなく慣れぬような仕草でおずおずと先端に舌を這わせ、張り詰めたものをそっと含むと、サタンの咽喉から息苦しいとも切ないともつかぬ吐息が洩れた。
体内で暴走する力によって何十倍にも増幅された知覚は、ただそれだけの他愛ない刺激すら、臓腑を内から抉られるに似た剥き出しの愉悦に変換する。
まして柔らかく舌先が這い、堪え切れぬ脈動を導くようにして濡れた唇が上下すると、解放だけを求める身体は最後の理性を容易く断ち切り、深く含まれたサタンの咽喉奥にぶちまけるように吐精した。
「! ッ‥‥」
だしぬけの圧力にサタンは噎せ、不慣れに咳き込んで口を離した。咄嗟に掌で覆いながらも、飛び散った体液が隙間からこぼれ、口元と指を白く汚す。
その姿が網膜に灼きついた瞬間――
およそ有り得ない状況に置かれ、恐慌をきたしかけていた頭の中で、プツリと音を立てて何かが切れた。
親友にして唯一の主。幼少の頃に拾われて以来、魂の全てを捧げると誓った、魔界を統べる白き魔王。
だが、今、目の前にいるものは、己の親友のサタンではない。己の唯一の主ではない。触れられぬ偉大な王ではない。
同じ顔をした、違うもの――その身に巣食う、彼の仇だ。
‥‥見開いた赤い双眸の中で、急速に瞳孔が収縮した。
未だ暴走する力に支配され、灼熱する身体とは裏腹に、頭の芯が凍りつき、麻痺する。
「?! シバ――」
急激に冷えて色を変えた気配に、未だ口元を拭っていたサタンがビクリと顔を上げ、シバを見た。
が、それより早く伸ばされた手が、サタンの咽喉元を縊るように掴んだ。
息詰まる呻吟を洩らしたサタンを頭から寝台に押しつけると、舞い上がった羽毛が視界をふさぐ。纏い付くそれらを乱暴を払いのけ、シバは俯せに投げ出されたサタンの細い腰を掴み、引き寄せた。
「シバ!!‥‥」
叫び、振り向こうとするその顔を、理由の解らぬ苛立ちのままに羽枕に押しつけて視界から消し去る。
そうしておいて引き込んだ下肢を、魔獣の枝肉を捌くが如く無造作に掴んで割り開き、何の備えもないままの体奥に長い指を突き入れた。
「ァ‥‥!!」
かすれ、引きつった悲鳴と共に、サタンはビクリと硬直した。異物が強引に臓腑を侵すにつれ、粘膜が固く収縮し、押し開げられた腿がガクガクと震える。
引き攣る肉の抵抗を押して、さらにその身をこじ開けようして叶わず、シバは片手を前に回して苦痛に萎えたものを探り当てた。
包み込み、緩やかに指先で辿ると、痩せた背中がわずかに震え、気を逸らした筋肉が少しだけ緩む。その隙にまた深く指を穿ち、さらに深奥を暴いていく。
容赦なく続くその繰り返しに上がる苦鳴を黙殺し、シバはやがて指を引き抜くと、開かせた下肢の間に割り込み、萎える様子もなく滾ったままだった灼熱の陽根を押し当てた。
「! あ」
怯えたようなサタンの声は、もはやシバの中で何の意味も持たない。反射的に逃げようとした腰を引き込み、未だ固い肉の抵抗を押し切って、シバは一気にサタンを貫いた。
「ッ‥ぅ‥――‥‥!!」
瞬間迸ったサタンの悲鳴は、押しつけた羽枕に吸われて消えた。
ギシギシと軋みを上げるかの如く狭く、きつく締め上げてくる感触に、煮えたぎる欲情が沸点を超える。
脈打つ衝動に突き動かされ、シバはほとんど引き裂かんばかりの荒々しさで律動を開始した。悲鳴と共に崩れそうになる腰をその度強引に引き戻し、反動でさらに奥深くを突く。
そうして何度か抽迭を繰り返した時、救いを求めて力無くあがいていたサタンの総身がびくりと攣り、声なき悲鳴が空間を震わせた。
同時に固く包み込む肉のどこかが裂ける弾力が伝わり、軋んでいた内壁がぬるりと滑った。生々しい血臭が鼻をつき、鮮血が腿を伝い落ちる。
魔族の
シバはそのまま血のぬめりを助けに再びサタンを突き上げた。弱々しく洩れる悲鳴には構わず、湧き上がる残虐な衝動に動かされて何度もその身を引き裂き、貪った。
‥‥体内で渦巻き、暴走する力を全て吐き出し尽くすまで、どれほどの時間サタンを貫き、犯し続けたのかは覚えていない。
後で顧みれば奇妙なことだった。いかにそれまでに消耗し、力を使い果たしていたとしても、同じく死から帰り来たばかりのシバひとり縊ることぐらい、サタンには造作もなかったはずだ。そうでなくともその意をもって一声呼ばわれば衛士が駆けつけ、即座にシバの首を刎ねただろう。
なのにサタンはそうはしなかった。何ゆえのことかは解らねど、サタンは獣じみたシバの衝動をあえて受け入れたとしか思えなかった。
だが、ようやくそこに思い至ったのは、灼けついた狂気の時が過ぎ、己がもたらした痛ましい惨状に愕然と目を見張った後だった。
引き裂かれた寝具の残骸とシーツ。そこから溢れて飛び散った羽毛。全てがまだらに赤黒く染まり、純白だった広い寝台に不吉な血の文様を描いていた。
その中に、夥しい量の血と精に汚れ、光のない目を見開いたままのサタンが虚ろに身を投げ出していた。
‥‥戦慄が、ぞくり、と総身を粟立たせた。
これは親友のサタンではない。
魂を捧げた王ではない。
彼の魂が失われた隙にその肉体を乗っ取った、双子の影にして簒奪者、倒すべき彼の仇敵だ。
だが――それでも、器である肉体そのものは、あくまで彼のものだった。
強大な力とそれに見合った永き命を持つサタンは、それがため成長も緩やかで遅い。どれほどに長い時を生き、精神が老成していても、身体は未だ幼さを残した少年の域を出ていない。
それでも長き治世のゆえに、義務的に
その上、彼は魔王である。魔界と全ての魔族を統べ、神とすら渡り合った王の中の王に触れる者などいるはずも無い。
その身体を、己が穢し、引き裂いた――
‥‥衝撃がもたらす空白の後、シバの記憶はそこで途切れた。
取り返しのつかぬ罪科の重さに耐えきれぬ魂が壊れたのか、死を近付ける絶望の記憶としてサタンの影が消し去ったのか、それは判然としなかった。
が――
友たるサタンの身に巣食うものが、魂の片割れたる影であったこと、堕天したルシフェル自身ではなく、その後裔であったことまでも、どうしてか忘れていたことに不意に気付く。
「――だって、覚えていたら、君は耐えられないだろう?‥‥」
記憶の触手に蹂躙され、組み敷かれたまま虚脱していた
‥‥ゆっくりと、シバは目を剥き、彼を見た。
あの後――
辛うじて死を免れたシバは、絶望の記憶を消されると同時に、全ての気力をも失っていた。生きること叶わず死をも赦されず、そうしてサタンの寝間の相手としてだけ、夜毎この部屋に呼び出され――
だが、記憶を取り戻した今ならば解る。
あれ以降も、サタンは何食わぬ顔でシバに触れながら、今だ力無いその魂を懸命に生へと引き留めていたのだった。
ことさら尊大に振る舞うことによって憎悪という名の気力を煽り立て、どれほどに手ひどく扱われようとも、命と力を惜しみなく、そして密かに注ぎ込み――だが、ひとつだけ、解らぬことがある。
己にとってそうであるように、サタンの影にとって、己は敵だ。元のサタンを取り戻すために影を倒そうとするシバは、邪魔な存在でしかない。
そのシバを、なにゆえに影はそうまでして救い、現し世に留めようとしていたのか?‥‥
『そんな君が大好きだよ――本当に』
「――‥‥!!」
もはや幻か
集中を欠いたその一瞬に精神の接続が断ち切られ、掌中にあったサタンの魂が元通り鉄壁の防御を固める。
だがそれでも、寝台の上で背を向けた影を、シバは愕然と見詰めていた。
折々に囁かれる睦言を、真実と思ったことは一度もなかった。全ては己を打ちのめすためだけの、真綿で首を絞めるが如き緩慢な辱めなのだろうと、シバはずっと思っていた。
だが――
もしかして、
お前は、
本当に――
「――衛士!!」
渦巻く混乱を抑え切れぬシバが口を開こうとするより早く、厳重な結界を越える意を乗せて、サタンが鋭く呼び声を上げた。
途端、辛抱強く控えていたらしいもの言わぬ衛士達がなだれ込み、一斉に仮面の
シバを見ぬまま、サタンが低く告げた。
「‥‥連れて行け」
「御意」
隊長らしい男が頷くと、他の数名がシバを取り囲み、拘束の呪を施した。あとはひとかけらの抵抗もかなわず、自らの意志の及ばぬ力で操られ、部屋を後にする。
その後ろ姿を肉眼ではなく気配のみを辿って見送った後、ふと、サタンは顔を上げた。
「ああ――待て」
しんがりの衛士が振り返り、控える。
「
「はっ、只今――」
「ああ‥‥答えなくていいよ。箱船をそこに向かわせてくれ」
「御意」
「周辺の偵察部隊も本隊も全て撤退させろ。外魔宮殿を見つけても一切手出し無用、決して攻撃を仕掛けるなと通達して、その進路の先へ向かえ」
「畏まりまして」
ひざまづいたまま一礼し、続く命令がないのを確かめて、最後の衛士は退出した。
静まりかえった紫の寝間で、溜息をつき、目を閉じる。
あの時――
シバが正気を取り戻した後、サタンも忘我の虚脱から覚めた。
陵辱の限りを尽くされた身体はしかし、尋常ならざる魔王の生命力で既に全てが治癒していた。
臓腑を引き裂かれた凄絶な痛みも、凄惨な痕跡とは裏腹に、記憶の中だけのものとなっていた。
奇妙な非現実感にとらわれながら、サタンはぼんやりと周囲を見回した。
寝台の端に、シバがいた。
嵐のような狂気は消え去り、背を向けてサタンを顧みぬまま、自身の罪に打ちひしがれ、ただ茫然とうつむいていた。
『シバ‥‥』
我知らず、サタンは呼び掛けた。
シバの背が、かすかに震え、反応した。
互いに傷付け合い、ひび割れた魂が、一瞬、確かにその傷痕を見詰め――
それでも、シバは振り向かなかった。
青ざめた
自身の犯した罪の重さを、サタンの姿を目にすることによって直視するのが恐ろしかったのか。あるいはひとたびそうしたが最後、シバの心は自らの呵責によって本当に壊れていたのかも知れない。
だが――
この時シバがただ一瞬でも、「サタンの身体」ではなく「影」の心のことを気遣う思いを持っていれば。
たとえほんのひとかけらでも、シバが優しさを見せていれば。
それだけで、サタンは十分だっただろう。
何度でもシバを赦しただろう。
双子の兄だけを『サタン』と呼び、己を無いものとして拒まれても、それでも‥‥!!
『‥‥ふふ‥‥』
我知らず、狂気の嗤いがこみ上げた。
血と精に汚れた身を起こし、サタンはシバの背にしなだれかかった。
凍り付いたようなその背が、震える。
艶然と、サタンは耳元で囁いた。
『‥‥良かったよ』
嘘だ。
本当は苦痛しかなかった。
だがそれは、彼を死の淵から救うため、己が好きこのんでしたことだ。
もとより見返りなど望んでいない。シバは決して己を見ない。
それは解っていた。解ってはいたのだ。
それでも――それでも‥‥
『悪くない。‥‥また、呼んであげるよ。今度は、このためだけに、ね――』
‥‥背を向けたまま、声もなく、シバが愕然と目を剥くのが解った。
何かがシバの中で壊れていった。それを感じながら、サタンは嗤った。愚かな己と、何も見ないシバを。
そうしてサタンは全てを忘れさせた。狂熱の記憶も、影である身の上も、ほんの一瞬傷痕を見つめ合い、それがためさらに傷付けあったことも。
封印の半分は解かれてしまったが、あの空白の先だけは、未だサタン一人の胸の内だ。
だがそれでいい。その方がいい。忘れたままで構わない。シバの魂を壊さないためには。
読まれてしまった分の記憶も、遠からず失われていくだろう。未だ完全には回復し切らぬシバの魂の状態では、精神の平衡を脅かしかねない記憶を抱えている余力はない。
覚えているようなら、忘れさせるまでだ。影にすら心があるなどと知ったら、その時こそ、シバの魂は耐えられず、砕けてしまうに違いないのだから――
伝令を取り次いだ衛士が現れ、目標地点への到着を告げる。
サタンは溜息ひとつつくと、再び魔王の顔に戻り、命令を下すべく立ち上がった。
魔界のどこか茫漠たる荒野で、シバは唐突に解放され、茫然と天を見上げていた。
紫の寝間から連れ出され、衛士に囲まれて歩む道筋が常とは違うと気がついた時、今度こそは処刑場行きかとシバは無意識に思っていた。
が、衛士は何度も回廊を下って中層の開口部に行き着くと、そこから小型の浮遊艇を下ろし、シバを地上に降り立たせた。
無言のまま背を向けて去ろうとした衛士に、どういうことだ、と問いかけたが、衛士は仮面の
衛士と浮遊艇を回収したのち、箱船は空路を引き返し、遠ざかり、やがて点になっていずこかへ消えた。
と――
その行く末を茫然と見上げ、立ち尽くしていたシバの身体が、不意に虚脱し、くずおれた。
揺らぎ、霞んでいく視界の中で、束の間共有したサタンの記憶から、シバはその訳を悟っていた。
何度も自死を繰り返した挙げ句、ひび割れてしまった魂は、サタンがあれほどに繕ってもなお、完全に癒えてはいなかったのだ。
サタンが支配する
あるいはこれこそが緩慢な処刑なのかと、散じていく意識の中でシバは思った。
だが――ならば何故、あの場で自分を殺さなかった。
解放されたという驚きの中で束の間忘れていた答えのない疑問が、再び脳裏を渦巻き始める。
何故ああまでして己を助けた。どうしてここに置いていった。敵でしかないはずのサタンの中に、どんな好意があったというのか。
解らない。何故、どうして、お前は――
‥‥意識が混濁を深めていったその時、どこか聞き覚えのある魔力の波動が、わずかに魂を震わせた。
周囲を探ろうにももはや目が開かず、なけなしの魔力で気配を辿ると、何か巨大な生き物と、同時に駆動する巨大な船――地の底を行く
やがて轟音と共に浮上した船から、己によく似た姿の弟が血相を変えて降り立って――いや、違う。
それは魔界の闘技場からソードを人界に送り返し、門を破壊した後の記憶だ。
再度の砲撃を加えた後、箱船はシバの生死を確かめず打ち捨てたまま去って行き、その後に外魔宮殿が――いや、だとしたら、捕らわれた
己は箱船に囚われたのか、外魔宮殿に救われたのか。それとも全てが偽りの夢で、己はあの時闘技場で死んだのか?‥‥
『――シバ』
誰かが己が名を呼んでいる。
静かに、しかし懸命に、曖昧な虚無に沈んでいく意識を呼び覚まそうとするかのように。
『シバ‥‥』
だがそれが誰の声なのか、五感と記憶を失いつつあるシバにはもはや思い出せない。
覚えていることはただひとつ――己を助けようとするその声の主が、敵なのだという矛盾だけだった。
『まだ、目覚めぬか‥‥』
低い鼓動が響く中、また別の誰かの声が聞こえる。
『あれ以来、誰が呼び掛けても目覚めない――兄の魂は、本当にここにあるのでしょうか‥‥?』
年老いた呟きに、若い声が答えた。
その言葉に、一瞬、何かを思い出しかける。
が、それが明確な思惟になることはなく、シバは再び奈落の底で深い眠りに沈んでいった。
『シバ――』
切ないような優しいような、しかし決して眠りを妨げぬ誰かの声に引き留められ、危うい死の淵でシバは眠る。
やがて訪れるソードの呼び声を聞くまで、深く、シバは眠り続ける。
―― 「バラ色の日々」 END ――
(発行・2006/12/29 再録・2014/09/06)