◇ 影サタン様の秘密の一日 ◇
新しく作ったこのこの世界では、サタン様は兄の跡を継いだ新しい魔王として認められ、皆に信任されている。
そのため、毎日の執務はとても忙しく、外出のためのスケジュールを調整するのはほんのちょっとだけ骨だった。 ましてや、公私共に常に側にいるシバに内緒で外出するのは、それはもう相当に大変だったが、サタン様はどうにか時間を作って、 人間界の「でぱーと」に向かったのだった。
この時期の「でぱーと」の特設売り場は、人間の女性で一杯だ。
決して大柄ではないサタン様よりさらに小さい子供もいれば、制服を着た女学生の集団や、化粧の厚い職業婦人、 人間のレベルでは寿命も近いような老婦人までが入り乱れ、山と積まれたカラフルな箱や、 ショーケースの中でライトを浴びている見本品なんかを吟味している。
その、ちょっと殺伐とした人混みの中で、サタン様は何だか浮いていた。
フードにフェイクファーのついたミリタリー風のジャケットは、この前新しく手に入れたものだ。 色味を合わせてみたブラックデニムと、メリハリを利かせた白いベルト、ドクターマーチンの8ホールブーツも、 人間界の若者としてはごくごく普通の服装のつもりだ。
それなのに、ケースの中身を吟味するのに夢中のはずの人間達が、チラチラと視線を向けてくるのは一体どういう訳なのか。
魔王と知られている訳はないから、原因はそのことではないだろう。サタン様には角なんかはないし、 魔族特有の尖った耳や、人間にはない髪と目の色も、ここらでは当たり前の色に見えるよう、魔法で目くらましをかけてある。
ということはもしかして、服装が季節に合っていなかったか、今ひとつ人間っぽくなかったんだろうか。 売り場が何だかカラフルなようだし、やっぱりいつものカナリヤ色のコートの方がよかったのかも知れない。
とはいえ、着替えに戻る時間もないし、サタン様の年格好に合った流行りを調べ直すのも面倒だ。
まあいいや、人間界に来たついでだし、帰りにどこかコンビニにでも寄って、新しいファッション誌でも買っていこう―――
なんてことを考えながら、サタン様は売り場チェックを続行した。
‥‥実のところ、人目を引いていたその訳は、女性で一杯のフロアにただ一人「罰ゲームでもなさそうな風情の、 やけに堂々とした男子中学生」が混ざっているようにしか見えなかったからなのだが、 どっちみち、買い物で頭がいっぱいのサタン様にはどうでもいいことには違いなかった。
人目のことはとりあえず忘れ、泳ぐような優雅な動作で女性の波をかき分けて、サタン様はフロア全部を端から端まで見て回った。
金に糸目はつけないが(まがりなりにも魔王だからね)、高いものがいいとは限らないし、 魔族にとっては人間の作る自然界にない「添加物」が、麻薬や毒のように働くこともある。魔力が鈍ったり悪酔いしたりと、 時に影響は人間より深刻だ。
サタン様は魔族の目を駆使して全部の品を念入りに調べ、これはと思う品を見つけ出した。
そうして、恐らく内心は違和感で一杯の店員を相手に会計を済ませ、ギフト用のラッピングを施してもらうと、 サタン様は「でぱーと」を後にした。
魔界に帰り着いたサタン様は、何食わぬ顔で執務に戻り、夕方になって城外の視察から帰ったシバを迎え入れた。
出掛けてきたことは内緒のまま、一日仕事をしていたふりをして報告を聞き、書類を片付け、魔王としての公務を終える。
そうして二人で仲良く夕食を摂り、そろそろデザートに取りかかろうという頃。
「今日のデザートは人間界のお土産だよ」
サタン様は女官に合図をすると、例の品をシバの元へ運ばせた。
可愛らしいラッピングを施した、平たいながらも重めの箱をしずしずと眼前に差し出され、シバが「?」とサタン様を見る。
「『こんびに』とやらで新しいお気に入りでも見つけたのか?」
魔王ながらも庶民文化を好み、自分が魔王だとは誰も知らない人間界での息抜きを愛するサタン様の性癖を知っているシバは、 またか、と思ったに違いない。子供の他愛ない言動を見るような、ほんのりとした笑みを浮かべて、箱とサタン様を交互に見やる。
「これは『でぱーと』で手に入れたんだよ」
その上コンビニのものに比べたら、二桁ほど値の違う上等の品だ。そこで選び抜いた「無添加」で、 季節限定のフレーバーだしね―――なんてことはあえて言わないまま、
「君がさほど甘いもの好きじゃないのは知っているけど、たまにはどうかと思ってね。これは詰め物にいい酒を使っているそうだし」
と、さりげなく、酒好きであるシバの興味をそそるようなことを言っておく。
案の定、シバは「ほう‥‥」と呟くと、武闘家らしからぬ優雅な仕草でゆっくりと臙脂色のリボンを解き、 つや消しの銀色の包み紙を開いた。
現れた木箱の蓋を開けると、繊細な細工や木の実で飾られた一口大のプラリネと、 飾り気のない生チョコレートが、宝石のように並んでいる。
「酒にも合うそうだから、試してみるといい」
サタン様の言葉を合図に、女官がシバの好きな食後酒を運んできた。
ゴブレットから立ち上る酒の香りと、チョコレートの香りを交互に確かめ、感心したようにシバが呟く。
「‥‥なるほど、不思議と調和するものだな」
「だろう?」
「『コーヒーと抹茶の不思議な出会い』のようなものか‥‥」
思い出したように、ふとシバが言った。
人間界に行った時に二人で食べた、炭焼きコーヒーと抹茶のミックスソフト。 その時にサタン様が呟いた惹句を、シバは忘れていなかったのか。
それがまるで自分達のようだと、あの時シバは言いたげだった。
思い出したサタン様と目が合うと、シバはやっぱりあの時と同じ、何だか優しい目でサタン様を見た。
「‥‥抹茶味も入っているそうだから、食べてみてくれたまえ」
サタン様は何となく照れくさくなって、ちょっとぶっきらぼうにそう言った。
勧められるままにチョコを摘むシバを、無表情のままどきどきと見詰める。
魔界の食べ物にはあまり無い、なめらかな口溶けに驚いたのか、シバは少しだけ目を丸くしてから、手元の酒を一口含んだ。
「‥‥どうだい?」
「合うものだな。‥‥酒が進みそうだ」
二つめのチョコを摘みながら、シバはほんのりと目を細め、笑った。
それにつられたのか安心したのか、自分でもよく解らないまま、サタン様もようやく口元を緩めた。
「口に合ったなら、良かったよ」
「? お前は食べないのか」
いつも二人で同じものを食べるサタン様が、お茶だけを飲んでいることに気付いたらしい。不思議そうな顔で問うたシバは、つまり、この贈り物の意味を知らないのだ。
意味が通じていないことが、逆に何だか嬉しくて、サタン様は思わず破顔した。
「君のために買ってきたんだから、いいんだよ」
「しかし」
「いいんだ。‥‥そういう日だからね」
「? そういう日とは」
シバが怪訝に眉根を寄せる。
答えないまま、サタン様は笑ってお茶を飲んだ。
沈黙を守るために何気なく飲んだお茶は、どうしてか、いつもよりちょっとだけ美味しいような気がした。
人間界の風習を、生粋の魔族であるシバは知らない。
こうして静かに更けてゆく、魔王様の秘かなバレンタインの夜。
―― 「影サタン様の秘密の一日」 END ――
(2008/03/26)