◇ 分岐バージョンb ◇
「ええい、裏暗黒魔闘術ーーー!!」
「うおッ?!」
ぼん、とソード周辺の空間が弾け、謎の煙が立ちのぼる。
そうしてその煙が消えた後、ソードは思わず絶叫した。
「何だこりゃあ?!」
宙に浮いた小さいソードを丸ごと包み込むようにして、ボール型の檻が出現していた。
見た目は真ん丸の鳥籠だ。が、出入り口的なものはどこにもない。内側から掴んで揺すってみても、檻ごと自分が振り回されるだけで格子が歪む様子もない。
「裏暗黒魔闘術で作ってみました! やったあ、大成功!」
半分くらい目を回しながらジタバタしているソードを後目に、双魔は満面の笑みを浮かべた。
「前から思ってたんだ。使う魂のパワーに関係なく、ちゃんとコントロールして小さいものも作れるようになりたいなーって」
「それでこの檻か!」
「うん。ちょっとずつ練習してたんだよ」
「こんな時にその成果を発揮すんな! 出せ!」
「しかもこれって小さいだけじゃなく、ソードさんの形を残したまま、魂の一部だけ使って作ってるんだよ」
「すげえなそんなことも出来るのかよ! でも出せ!」
「今までは何を作るにも魂丸ごと一個使っちゃってたじゃない? でもこれなら扱うぼくもそれほど疲れないし、魂の消耗も必要最低限に抑えられると思うんだ」
「その努力は認めてやるから出せ!」
「多分これって、ソードさんが表の暗黒魔闘術で魔力を圧縮するのと似た感覚じゃないかなと思うんだけど」
「そんな理屈はどーでもいいから出せ! こっから出せぇー!」
「駄目」
満面の笑みを引っ込めて、双魔は真顔で断言した。
「出したらナナちゃんにひどいことするでしょ、ソードさんは」
「オレ様のもんに何しようと勝手だろーが!」
「いいからちょっと休んでて」
バタバタと暴れている檻を手に取り、自分の胸にひょいと押し当てる。
「うぉ、何しやがんだコラ!」
「使ってる魂の量も少ないし、それほど集中力もいらないから、中に戻っても効果が続くと思うんだけど、どうかなあ」
言いながらぐいと押し込むと、ソードの魂で出来た檻は、そのまま何の抵抗もなく、双魔の内に吸い込まれて消えた。
感覚を研ぎ澄まして探ってみると、いつもと変わらぬ魂の在処で、ソードが出せ出せと暴れているのが解る。どうやら拘束は解けていないようだ。
「封印の眼鏡だと単に入れ替わりが出来ないだけで、小さいソードさんが横で暴れてるのは一緒だもんねえ」
ごめんね、と中に謝って、双魔はふう、と息をついた。
「さて、どうしようかなあ‥‥」
呟いて背後を振り返ると、少しは酔いが醒めてきたのか、へにゃりと潰れているネコの姿があった。先程のように暴れてはいないが、まだ猫型に戻りそうにはない。
猫の時なら何の問題もなくソファーに寝かせておくところだが、今は見た目が女の子だ。シャツを巻いてあるとはいえ、このままにしておくのも気が咎めるし、父が帰ってくるのもまずい。双魔はひとまずネコを抱き上げ、自室に運ぶことにした。
そっと抱きかかえてみたネコは、子供サイズだからか猫だからか、それともソードが鍛えたおかげか、拍子抜けするほど軽かった。
前ならこれも一苦労だっただろうなあ、なんて思いながら、息切れもなく階段を昇り、自室のベッドにネコを寝かせる。
タオルケットを着せ掛けて、ベッドの端に腰を下ろした時、ネコがふっと目を覚ました。
「‥‥ニャ?」
「あ、気がついた?」
まだ少し焦点の曖昧な目をしばらく周囲に泳がせてから、ネコはぼーっと双魔を見詰めた。
数秒の後、その目がぱちくりと瞬きし、タオルケットをはねのけて飛び起きる。
「ニャ? ニャ?! ‥‥ニャ??」
「大丈夫だよ、何もしてないから」
慌てて自分の身体を確かめ始めたネコに、苦笑しながら双魔は言った。
ネコがぽかんと口を開けた。少しの間の後、腰に巻かれてくしゃくしゃになったシャツと、目の前の双魔を交互に見詰める。
「‥‥テーソーの危機は免れたニャ?」
「うん、ソードさんはちょっと引っ込んでてもらったから」
ネコの口から、ニャフー、と安堵の溜息が洩れた。が、
「ニャ?!」
何かを言おうとしたその視線が、ふいと双魔の下半身に落ち、その状態に気付いたネコはぼわりと総毛立って後ずさった。
「あ、いや、あの、ちょっと反応しちゃってるけど気にしないで!」
双魔は慌てて手を振った。タオルケットの端を引っ張って掛け、とりあえず視線を遮ると、冷や汗をかいて弁解する。
「ごめん、さっきちょっと中身が見えちゃって、あの」
「ニャか身?!」
「え、あ、ごめん、ほんとごめん!」
「‥‥‥‥ウニャ~~~~!!」
しばし強張っていたネコの顔が、見る間に赤く染まっていった。いやいやするように頭を振り、手袋めいた手で顔を覆い隠す。
「ご、ごめん‥‥でもあの、ソードさんじゃないから大丈夫、何もしないから、ぼくは!」
申し訳なさで一杯になりながら、あたふたと宥める双魔の様子に、ネコはいくらか落ち着いたようだった。
指の間からチラリと目を向け、また伏せて、自分に言い聞かせるようにぽそぽそと呟く。
「‥‥考えてみたら、ソードがあちしにアレコレするとこは、双魔にも全部見られているニャ‥‥」
「うん‥‥ごめん」
「恥ずかしいけど、今さら恥ずかしがってももう遅いニャ~‥‥!」
「ごめん‥‥あの、泣かないで‥‥」
涙目になってしまったネコの頭を思わず撫でようと手を伸ばし、次の瞬間慌てて引っ込める。怯えさせるかも知れない、と思ったのだ。代わりに、ティッシュを一枚引き出して、そっとネコの手に渡してやる。
ネコは一瞬ピクリとしてから、渡されたティッシュを受け取った。
「‥‥双魔は紳士ニャ~」
「急に触られると心臓に悪いじゃん、こういう時って」
「ソードならここぞとばかりに押し倒すニャ。ゴクアクヒドーニャ!」
「え、そっちの話?」
拍子抜けして、双魔は苦笑した。‥‥その笑いが、ふと醒める。
「‥‥そんなの嫌だよね、誰だって」
まだ赤い鼻を擦っていたネコが、ピクリと耳を蠢かせた。
少しの間の後、ぽつりと言う。
「‥‥双魔も辛いことがあったニャ?」
「‥‥ちょっとね」
曖昧に言って、目を逸らした。どうにか笑ったつもりだったが、結果は自分では解らない。
無言で双魔を見詰めたまま、大きなネコの耳がピクピクと動いた。
が、幼いからか悪魔だからか、それとも元が猫だからか、その思考には持続性がない。
「ソードさんはあれでもナナちゃんのこと可愛がってるつもりなんだと思うよ。変なとこ不器用で、ちょっと勢い余っちゃうだけで」
「ウ~~‥‥」
ネコが何かを問う前に、ごまかすように言葉を継ぐと、一瞬双魔に向いた興味はそのまま忘れられたようだった。
何かをしばし考えた末、おずおずと目を上げてネコが訊く。
「‥‥ソードは今どうしてるニャ?」
「んー‥‥出られないから、諦めてふて寝しちゃったみたい」
魂の様子を探って答えると、ネコは再び目を伏せて言った。
「‥‥あちしだってソードは別に嫌いじゃないニャ」
「うん?」
「シバ様が見込んだ悪魔だし、アレでも悪魔の中ではけっこういい奴ニャ」
「うん、そうだね」
「‥‥でもだからって、勢いだけでアレコレされたり、それをモンプチでごまかされるのは嫌ニャ」
「‥‥そうだね」
双魔は静かにその頭を撫でた。
怯えさせないように、ゆっくりと。
力無く垂れていた耳がピク、と震えた。
うつむいたネコの大きな眸が、見る間に湧き上がった涙で潤む。
「どうせあちしはイエネコニャ‥‥今じゃぜんぜん使い魔の役にも立ってないニャ。鍋にされないだけましな身ニャ」
「え、そんなこと―――」
「‥‥なのに、時々思っちゃうのニャ。もうちょっと優しくされてみたいニャ~、って‥‥」
ポロ、と涙がこぼれ落ちた。
薄い胸が、こみ上げた嗚咽に震え出す。
「もうすっかり、あちしは、アクマ、失格、ニャ~‥‥!」
あとはもう言葉にならなかった。
双魔がそっと頭を抱いてやると、ネコは声を上げて泣き出した。
‥‥こんな光景を前にも見た。
しがみつく、小さな身体の感触で思い出す。
魔界の闘技場で死にかけた時も、傍らで彼女が泣いていた。
それが自分の記憶なのか、入れ替わりに目覚めたソードのものなのか、今となっては判然としない。
だがあの時、主であるシバに逆らってまで彼女が庇おうとしていたのは、多分双魔の命ではなかった。
「ナナちゃんはソードさん好きだもんねえ‥‥」
震える背中をさすりながら、ぽつりと口にした呟きに、ネコはプルプルとかぶりを振った。震え、掠れた切れ切れの声が、嫌いニャ、と言ったようだった。
その強がりが何だか切なくて、双魔はぎゅっとネコを抱きしめた。
「‥‥好きな人に適当に扱われると、悲しいよね」
ネコは今度は答えなかった。ただ、双魔の背中にしがみつく手に一層の力を籠めて、泣き続けた。
そのままどのくらいの間、震える背中をさすり続けただろうか。
ようやく泣き声が途切れがちになった頃、双魔は抱き留める手を緩めた。
固まったまま離そうとしないネコの手と爪をそっと解き、涙に濡れた赤い顔に、静かにティッシュを押し当ててやる。
されるがままに顔を拭かれる間に、ネコの涙はほぼ止まっていた。
それでも時折、未だ治まらぬ嗚咽がこみ上げ、ひくりと胸を震わせる。
「しゃっくり、みたい、ニャ」
「原理は一緒なのかもね」
顔を見合わせてそう言うと、どちらともなくほんのりと笑った。
そのさなか、ひく、とネコの胸がまた震える。
「止まんない、ニャ~」
「んー‥‥」
ほんのちょっとした悪戯心で、まだ赤いままのネコの鼻に、ちょんとキスを落としてやる。
「ニャ?!」
大きな耳がふるりと揺れ、ネコがぱかりと口を開けた。
その顔が何だか可愛くて、思わず双魔もくすりと笑う。
「止まった?」
「―――‥‥‥‥」
ネコは茫然と双魔を見詰めた。
嗚咽は止まっていた。本当に、今のびっくりが効いたのかも知れない。だが―――
見開いたネコの瞳から、止まったはずの涙が再び落ちた。
あ、と思ったその瞬間、ネコが再び双魔にしがみついた。勢いでベッドに押し倒される。
双魔は慌てて起き上がろうとした。が、ネコはふるふるとかぶりを振り、その手を離そうとはしなかった。
「あの、ナナちゃん、悪いけどちょっと離れてくれないと、一応ぼくも男だから‥‥」
一応の建て前を口にしながらも、双魔にはもう解っていた。
ほんの小さなキスの後、見返したネコの目に映っていたのは、双魔ではなく「優しいソード」だった。
有り得ない―――決して現実にはなりえぬ幻。
(神無)
目眩と共に訪れる既視感。
ソードが最初に封印され、久しぶりに外界に戻った夜。
知っていながら気付かぬふりをし、神無の名を呼んでイオスに縋った。
腕の中の小さな身体は、あの夜の双魔と同じものだった。
黙り込んだ双魔を引き戻すように、ネコが爪を立ててしがみつく。
声もなく―――突き放さないでと、叫んでいるように。
鋭い爪が刺さる痛みよりも、その必死さが痛ましくて、切ない。
あの夜双魔を抱きとめたイオスも、こんな気持ちだったのだろうか―――
‥‥胸に頭を押しつけたままの、ネコの頬に静かに触れる。
引き離すでもないその仕草に、恐る恐るネコが目を上げた。
目尻の涙をそっと拭う。
それから、二度目のキスをした。
今度は鼻ではなく、唇に。
軽く触れるだけで一旦離れ、見上げる瞳をのぞき込む。
潤んだ目が、暗黙の了承に伏せられた。
闇雲にしがみつき、強張っていた手が、おずおずと背に回された。‥‥胸に押し当てられた頬が、熱い。
双魔は少しだけ目を細めて、笑った。
「‥‥じゃ、うんと優しくしてあげる」
ソードの代わりに。
イオスが自分にそうしてくれたように―――
改めて抱きしめた小さな身体は、普段猫型で膝に乗っている時の乾いた毛並みの匂いとは違う、女の子の甘い匂いがした。
「―――ただいま帰りました。‥‥って、誰もいないんですか?」
買い物から帰宅したイオスは、無人のリビングを見回した。
猫用の小皿とマタタビの空き袋、手つかずのささみスティックが出しっ放しになっているが、ソードも双魔もコウモリネコもいない。
買ってきた食材を整頓し、こまごまと冷蔵庫にしまい込む。ついでにリビングも片付けてから、イオスはソードに注文されたコンビニ専売のアイスやプリンの袋を持って二階に上がった。
コン、とノックして扉を開ける。
「ソード、双魔くん、おやつを買ってきたんですけど―――」
という呼び掛けは中途で切れた。
足の踏み場もない双魔の部屋の、いつもと変わらぬ混沌の中、脱ぎ散らかした衣服が目に入る。
視線を上げた先のベッドでは、双魔がすやすやと眠っていた。
重ねた毛布とタオルケットの端から、裸の肩がのぞいている。
その胸元には、何故か猫型のコウモリネコが、丸くなって寄り添っていた。
「‥‥何だ、お昼寝中でしたか」
『‥‥そういう問題じゃねえ』
中で不労を決め込んでいたはずの神無が、いきなり不機嫌に呟いた。
「え?」
『代われ、イオス』
地獄の底から響くような声に、構いませんが、と答える間もなく、神無が肉体の制御権を奪取した。
ざわりと気配が一変した後、そこに立っているのはもう神無だった。
手にしたコンビニの袋を一瞥し、そこらに積んであった雑誌の上に置く。アイスが溶けて結露して、表紙がべろべろに波打っても知ったことか。大事なものならその辺に転がしとくな。と、些細な八つ当たりと嫌がらせを兼ねた理論武装を固めて思う。
「‥‥おい」
床の混沌を蹴散らして、ずかずかとベッドに歩み寄り、双魔の肩をぐいと揺する。
「んー‥‥」
もそもそと眠たげに身じろぎし、双魔がぼんやりと薄目を開けた。その傍らで、ネコもぱちくりと瞬きする。
「‥‥ニャ?!」
「‥‥あ」
ネコがビクリと跳ね起きると共に、双魔もようやく目を覚ましたらしい。仁王立ちしている神無の姿に、見る間に血の気が引いていく。
空気が固化した沈黙の中、ネコがぴょりん!と飛び上がった。猫の手で器用にロックを外し、ガラリと窓を引き開ける。呆気にとられている二人の前で、ネコはバサリとコウモリの羽を出し、マッハダッシュで飛び去っていった。
神無がチッと舌打ちした。
「逃げられたか」
「え‥‥あ!」
ようやく事態に気付いた双魔は、あたふたと周囲を見回した。が、部屋の最奥のベッドの上だ。窓から飛び出す訳にも行かず、当然逃げ場はどこにもない。
ベッドの前に立ちはだかった神無が、魔界の風景が似合いそうな顔で言った。
「‥‥ヤったのか、ネコと」
「え、ええ、何を?」
思わずしらを切ろうとするが、目が泳いでいるのが自分でも解る。
神無がバコン!とゴミ箱を蹴倒し、中のティッシュをぶちまけた。
「匂うんだよ!」
「わーーーー!!」
「マタタビで酔っ払ったとこを狙ったのか? あぁ?」
神無がベッドに膝を乗り上げ、双魔との距離を詰めてくる。
「いや、あの、そういう訳じゃ!」
「しかもお前ゴムとか持ってないよなナマでヤったのか猫なんかと!」
まくし立てる神無に後ずさるうちに、いつしか双魔はベッドと壁のどん詰まりまで追い込まれた。
状況が状況であるからして、双魔はうっかりと裸のままだった。慌ててタオルケットを引き寄せているうちに、神無がその前にドカリと腰を下ろし、さらに糾弾する態勢に入る。
「みずのとか七海とか普通の女、人外でもせめてガーベラ辺りならともかく、何が悲しくて猫なんかにやる気出してんだお前は!」
「いやあの、そのラインナップだと、七海ちゃんはちょっと無理‥‥」
「‥‥‥‥‥‥だな」
そこは例えが悪かった、という顔の神無と、でしょ?と同意を求める双魔で、無言のまましばし頷き合う。
「―――それはさておいてだ」
「さておかなくていいから!」
「残りの誰ならいいのか追求されたいのか!」
「追求したいのはむしろ神無でしょー!」
「それが嫌なら本題に戻れ。何で猫なんだよりにもよって!」
「いやあのそれはー!」
勢いで言い合いになったところで、体力の尽きた双魔が息切れした。
ぜえはあと呼吸を整えているうちに、パニックを起こしていた頭が少し冷える。
「えーと‥‥マタタビで酔っ払って変身しちゃったのは本当だけど―――」
ピク、と神無の眉根が寄る。
「だから続き聞いてよ!」
「‥‥言ってみろ」
「別に最初っからそんなつもりだった訳じゃなくて、むしろ逆っていうか‥‥普段ソードさんが勢い余ってナナちゃんに無体をしちゃうことについて話してるうちに泣き出しちゃって、それで」
「あー‥‥」
しどろもどろの説明に、吊り上がっていた神無の眦が、それでも見る間に緩んでいった。逆に少し困ったような、どこか気まずそうな顔になって言う。
「それは‥‥しょうがないな‥‥」
「‥‥急に話早いね」
今度は双魔が怪訝な顔になる。
神無は曖昧に目を逸らし、どこか遠くを見て呟いた。
「まあ確かに、女を泣きやませるには適当に宥めながら押し倒すのが一番手っ取り早いからな‥‥」
「‥‥何その一回や二回じゃなさそうな経験に裏打ちされた断言」
自分の行動はさておいて、双魔は思わずむっとして言った。にわかに沸き上がったその気持ちが、そうした状況にはとんと縁のない身の上ゆえの僻みなのか、神無の相手はいくらでもいるしね、という自虐の混ざった嫉妬だったのかは、自分でも判然としなかったが。
「まあ、男としてその行動は評価してやる」
神無はふっと口元を緩め、双魔の頭をポンと撫でた。
見慣れた不敵なそれとは違う―――少しだけ柔らかくて、優しい笑み。
‥‥どうしてか頬が熱くなり、双魔は思わずうつむいた。
色んな感情がいちどきに溢れ出て、ごまかされているのか褒められているのか、今ひとつよく解らない。
なんにしろ、双魔はそれ以上言うのをやめた。走れば転ぶし、逃げれば見つかる。それが自分の体質だということは、うんざりするほど思い知っている。神無の機嫌が直った(らしい)今、口を開けば中身がどうあれ藪蛇になるに決まっているのだ。
だから―――
―――‥‥だって、ぼくもそうやって助けてもらったから。
声にせぬまま、双魔は胸中で呟いた。
これで話が終わるのを願いつつ、神無が口を開くのを待つ。
が―――次の瞬間、不意に視界がぐらりと揺れた。
え、と思う間もなく引き寄せられ、神無の腕の中に抱き込まれる。
「な、何?‥‥」
慌てて訊いたその耳元で、神無がかすかに笑ったようだった。
思わずひくりと身震いする。
背を抱く硬い掌が―――熱い。
‥‥双魔は陶然と目を細めた。気怠く重い腕を上げ、無意識に神無の背に縋る。
筋肉の細い双魔の体は、神無よりいつも体温が低い。
ソードが来て以来ましにはなったが、それで人肌恋しさが変わる訳でもなかった。
じわりと染みる温もりは、いつも泣きたいほどに心地良い。
「ん‥‥ッ‥‥」
唇で耳殻に触れられて、思わず甘い吐息が洩れる。
波立つように沸き上がる疼きに震え始めた双魔の耳元で、神無がそっと囁いた。
「‥‥だからって、つまみ食いがチャラになる訳じゃないけどな」
「‥‥え」
つい今しがたまでの心地良さが、その一言で一気に消し飛んだ。
縋っていた手を振りほどくどころか、神無をはねのける勢いで後ずさる。
が、壁際に追い込まれた状態のままだったのを忘れていた。ゴン!と音を立てて後頭部を強打し、思わずその場にうずくまる。
「い、痛い‥‥」
馬鹿、と小声で呟いた神無に、双魔は涙目で言い返した。
「つまみ食いって、神無だって女の子は別腹じゃん! あんな発言が出るほど遊びまくってたくせにー!」
「‥‥イオスが来た時点で、それまでの女とは自動的に全部縁が切れた」
「え」
「たまに俺と入れ替わっても、何でかソードがくっついてきやがるしな。一人で出掛ける隙間もありゃしねえ」
「えーと‥‥ソードさんが七海ちゃん達と遊園地行った時は、完全に別行動だったじゃない」
「たった一日で全員のフォローなんか出来るか!」
「どんだけ人数いるのさそれ?!」
「‥‥ともかく。現状、俺の方は全部精算済みだ」
「‥‥不可抗力の上、すごく不本意そうに聞こえるんだけど」
双魔の突っ込みに、わざとらしく眉間に皺を寄せ、神無は不機嫌な声音で言った。
「‥‥そもそもお前さっき、ネコに突っ込んだまんまの身体で俺とやる気満々だっただろう」
「え」
「別腹どころの問題じゃなく、人としてどうなんだそれは」
「いや、あの、それは」
つい流されて、というか神無に「人として」とか言われたくないよ! などと馬鹿正直に言う訳にもいかず、あわあわと言い訳を考えているところに、
「猫はトキソプラズマだの猫ひっかき病だのリケッチアだの、色んな人獣共通感染症を持ってるんだぞ!」
「そっちの問題?!」
予想外の方向から一喝され、思わず頓狂な声が出た。
「でもナナちゃんは一応悪魔だから、人間界の猫の病気は持ってないんじゃ―――」
「悪魔の持ってる病気の方がよっぽどたちが悪そうだろうが!」
「‥‥ていうか神無、ほんとにお父さんの猫の本を暗記する勢いで読んでるんだ‥‥」
「‥‥ともかく、未だにあれこれつまみ食いしてるのはお前の方だけな」
「ちょ、色々ごまかしつつ無理矢理そこに持っていこうとしてない?!」
双魔の言葉を今度は無視して、神無は大仰に肩をすくめた。
「ッたく‥‥お前のトラウマに触れるかと思って自制してたらこんなことになるとは」
「そんなのソードさん達が来る前の話でしょー! 入れ替わり自在になった後は地下武闘会だなんだと忙しかったとか、やる気出ないとかで放置してただけのくせにー!」
突っ込みどころを中略しまくり、棚上げ三昧の言い分に、さすがに双魔も思わずキレる。
が、
「‥‥解った。今後は思う存分やる気出してやる」
「え、ええ?!」
「お前の方の入れ替わりも簡単になったし、天魔絡みのゴタゴタも一区切りついたことだしな」
何故か自分に言い聞かせるように、頷きながら神無は言った。ここしばらくの煮えきらなさが、どうやらにわかに吹っ切れたらしい。
さて、と呟いて双魔を見る。‥‥いつにも増して、目が据わっていた。
「え、それはいいけど、 あの、目が恐―――」
「まずは風呂だな」
言うなり神無はタオルケットを引き抜き、バサリと双魔の頭からかぶせた。それはいいのか! と突っ込みたかったが、それでは話が進まない。
朦々と舞い上がる埃と猫の毛に咳き込む双魔には構わずに、布の四隅を手早く掴み、ひとまとめにして包み込む。その様子はかぶせ網漁そのものだ。
そうやって出来上がった袋詰めの双魔を、神無は軽々と背負い上げた。
「うわー乗り物酔いするー! どうせなら自分で歩くからやめてー!」
ぐらぐらと不安定に揺れる視界に、手足をばたつかせて訴える。
が、季節外れのブラックサンタと化した神無は聞いていない。
「隅から隅まできっちり洗って消毒してやる。‥‥その後は何が泣きついてきても反応しなくなるくらい構ってやるから覚悟しろ」
「いやあの、さっき消耗したばっかだから、いま既にそんな体力はー!」
「‥‥知るか!」
八つ当たり気味に一喝し、神無は扉を蹴り開けた。
すたすたと階段を下っていくにつれ、運搬される双魔の悲鳴が尾を引いて遠ざかっていく。
そんなこんなで以下同文、天野家は今日も平和であった。
―― 分岐バージョンa end ――
◆ 余談 ◆
「というかお前、これで名実共に猫で童貞捨てたことになるよな‥‥」
「‥‥‥‥気の毒そうな目で見ないでくれる」
(2010/02/16)