◇ 蟻地獄で逢いましょう ◇


【 0.彼女はどこへ消えたのか 】

 南砂町ターミナルに降り立ち、フリンは赤い毒溜まりだらけの寂れた街並みを見渡した。

 ここを訪れるのは久し振りだった。
 以前は街のどこかに潜んでいた四騎士の一人を倒すべく、毒への対策を万全にしてから街に踏み込んだものだった。だが、今現在の「こちらの世界」には、アンチポイズンという便利な代物がアプリとして用意されており、躊躇せず毒溜まりを歩むことが出来る。
 パシャパシャと軽い足音を立て、禍々しい色の街並みを往く。
 時折背後から己のものではない微かな足音が聞こえてくるが、フリンがそれを顧みることはない。この世界では悪魔避けもアプリ頼みで、いちいち切りつける必要もない。便利になったものだとしみじみ思う。
 やがて街並みの最奥近くに、赤黒い闇に溶け込むような、人の輪郭がうっすらと見えた。
 青白く発光する悪魔のそれではない、生身の人間のシルエット。何かを探すように蠢くそれは、近付くにつれ長く髪を伸ばした女性のものであることが知れた。
「――ノゾミ」
 フリンは少し離れたところから、声を張ってその名を呼んだ。
 人外ハンターの暗黙のルールだ。無言のまま側に近寄ると、悪魔と間違われて撃たれかねない。
 呼ばれた人影は跳ねるように振り向き、手を振るフリンの姿を見ると、案の定構えていたショットガンを降ろした。
「あら、フリンじゃない。奇遇ね、こんなところで会うなんて」
 ノゾミが構えを解くのを見、フリンは毒沼を突っ切って歩み寄った。
「妖精の森へ行ったら、クエストで出掛けていると聞いてね。‥‥間が悪く、何度もすれ違ってしまったけど、やっと見つけたよ」
「そうなの? 悪かったわね。あちこちの商会を回る必要があったものだから‥‥何か急用でもあったのかしら?」
「ああ――そうなんだ。ちょっと大事な話があって」
 言いざまに、フリンは銃を抜き放ち、撃った。
 驚いたようなノゾミの悲鳴と、二発の銃声が重なって響き、ノゾミの手から血とショットガンが飛んだ。
 間髪入れず次を撃つと、左手で抜きかけた小型のナイフが金属音を上げて弾け飛び、次いでそちらからも血飛沫が上がった。
「フリン、何を――!!」
 続きを聞く間もなく、今度は脚を撃った。防具に覆われていない太腿から噴いた血がだらだらと足下の毒沼に滴り、さすがに平衡を失ったノゾミは、水音を立ててそのまま倒れ込んだ。
 苦痛にもがき、のたうつノゾミの手が届かない死角から近寄り、装備の中からスマホを取り上げる。これで仲魔を召喚されることもない。
「安心してくれ。大して威力のない単発銃だし、ちょっと行動不能になるだけのプロメテウス弾だ。間違っても即死したりはしない」
「フリン――‥‥!」
「仮に死んでも蘇生魔法があることだしね。もっとも、それを使うかどうかは君次第だけど。――さて、本題だ」
 フリンは構えていた銃の代わりに、音もなく神殺しの剣を抜き、ノゾミの喉笛に突きつけた。
 ノゾミはわずかに身じろぎした。だが、緊縛弾の効果はまだ解けない。逆にノゾミがあがいたことで、ギリギリ間近にあった刃がその白い咽喉に血の線を描いた。押し殺したような呻吟と共に、サングラスが外れて毒溜まりに落ちる。
 ダヌーと同じ緑の瞳が、怯えの色を滲ませてフリンを見上げた。
「殺すの? 私を――どうして?‥‥人間を殺して平気なの?」
 ‥‥フリンはわずかに眉根を寄せた。

 ――あくまをころしてへいきなの?

 まだサムライになりたての頃、実力に見合ったレベルの悪魔からさんざん聞いたその台詞に、ノゾミの言葉はよく似ていた。
「‥‥ねえノゾミ、ハンタートーナメントのことを覚えているかい?」
「え‥‥?」
 涙の滲んだ緑の目を、ノゾミは何度か瞬かせた。
「え?‥‥ええ、あなたは確か、トーナメントのチャンピオンだと聞い――」
 聞いたことが、と言おうとしたのだろう。だがフリンは途中でその口を塞いだ。
 声にならない呻きを聞きながら、フリンは小さくかぶりを振った。
「知っているならそんなことが言えるのは不自然じゃないか?『人間を殺して平気なの』なんて」
 緊縛弾と傷の痛みとの二つながらに苛まれ、呻き、あがこうとしていたノゾミの目に、かすかな疑念の色らしきものが浮かぶ。
「ああ――やっぱり知らないんだね」
 フリンは小さく嘆息した。刃を引いて立ち上がる。未だ緊縛の解けぬノゾミがのたうつようにして後ずさるのを見ながら、一歩下がって低く囁く。
「あれは使役した悪魔を戦わせるだけじゃない。‥‥ハンター同士も殺し合うものなんだよ」
 びく、とノゾミが目を見開き、同時にその身が強張った。
「それを知らないはずがない――元々人外ハンターだった君ならば」
 フリンが元いた世界だけではない。端々が異なるこちらの世界でも、トーナメントが存在することは既に確認済みだった。なのにその事実を知らないということは――

「――君はノゾミじゃない」

 断言し、フリンは背後を顧みた。
 今までフリンの影になり、死角だったそこに人影があった。
 それが誰なのか気付いたのだろう、ノゾミは――いや、今やノゾミではなくなっていた〈それ〉は、掠れた声なき悲鳴を上げた。
 赤黒い毒の瘴気の中、黒き刃の剣を手にして立っていたのはナナシだった。
 フリンが無言で見守る中、血溜まりの中に踏み出したナナシは、ノゾミが声を上げる間も待たず、その身体に刃を突き立てた。
(2016/04/20)
メガテン小説目次へ