◇ 蟻地獄で逢いましょう ◇


【 1.取り替え子の心を誰も知らない 】

 一体何のきっかけで、そのような話になったのだったか。

 それはまだ、新しき魔神が産み出される前、旧きダグザであった頃。
 何の機会だったかで姿を現し、その後再び召喚機の中に身を潜めようとした時だった。
『――なあ、ダグザ』
 魔神の肩にも届かぬ程度の、その歳の人の子としても小柄な身体。
 それがなにゆえか胸の辺りに抱きつき、戻ろうとした魔神を引き留めた。
『覚えておいてくれ』
 とナナシは言った。そしてためらうような間の後に、
『いつかダグザがダグザでなくなっても、俺はあんたの神殺しだ。‥‥永遠に』
 押し付けた顔を上げぬまま、ようやく告げられたのがその言葉だった。
『小僧、どういう意味だ』
 旧き魔神は怪訝に問うた。いかに万能の神とても、不安定極まりない人の子の――ましてや、文字通り年端もいかぬ柔い子供の心など、推し量れようはずもない。
 しかしナナシは答えることなく、僅かにかぶりを振ったようだった。
『それだけ覚えておいてくれればいい。‥‥いつか思い出してくれれば、それで』
 おい、と旧き魔神は問おうとしたが、
『俺のダグザはあんただけだ』
 ナナシは最後にそう付け加えたきり、ぱっと抱きついた手を離し、そのまま再び走り出した。
 多少の距離があったとて、機械に戻るのに不都合はない。魔神はしばし黙したまま、子供の後ろ姿を見送った。
 だが結局、言葉の意図は掴めぬまま、話はそこでうやむやに終わった。
 その不可解なやりとりは、旧き魔神の心の片隅に確かに残されはしたものの、やがて意味のない瑣末時として記憶の奥底へと沈められていった。



 ‥‥常春の妖精の森の中、ひときわ古い桜の下に佇み、新しき魔神はただ思索する。
 焼き払われた妖精の森は、今や元通り――いや、前以上の復興を遂げていた。
 それは最高神としての務めを放置し、徒労の反逆に血道を上げていた旧きダグザが消えた後、新しきダグザとして再誕した己が母神ダヌーの意に従い、尽力したからに他ならない。
『オレは自然神の王として、人間に恵みと繁栄を与えることに努めよう――』
 そう宣言した言葉の通り、新しき魔神は人間を愛し、妖精達をそのように導いた。
 妖精は以前よりも繁栄し、人間達とも近しく交わっては、幸や恵みを与えて回るようになった。ために、彼らは悪魔に怯える人間達にすら、好意的に受け入れられる存在となった。それは喜ばしいことに他ならない。
 だが――何ゆえか、新しき魔神の心には、不可解な風穴に似たものがあった。
 妖精達の繁栄を目の当たりにし、喜ばしいと思うと同時に、隙間風のような何かが魂を掠める。
 それが何なのかは解らない。旧き己の名残のようなものなのか、新しき己の心の裡にも、何か不穏な翳りが兆しているのか。‥‥解らない。
 かつて神殺しであった人の子・ナナシとその仲間達が森を訪れ、復興のために尽力しているうちは、そうした風は吹かなかったように思う。
 そのナナシは、近頃めっきり顔を見せない。
 元より、旧き己が命を楯に神殺しとなることを強いた子供だ。新しき己となったとはいえ、あまり顔を合わせたくはないのかも知れぬ。
 ましてや、一強支配だったYHVHを失った寄る辺なき世界を立て直すのに、人間達は忙しい。子供はさらに時が短く、毎日が目まぐるしく過ぎていくものだ。
 が――

『――俺のダグザはあんただけだ』

 一体なにゆえの脈絡だったのか、旧き己がかつて聞かされた言葉が不意に蘇った。
 まるで己が新生し、旧き己が消え去ることを知っていたかのような、その言葉――
 不可解さに、魔神は深緑の目を細めた。
 ‥‥小僧。オマエは一体、何を知っていた?



 そうしてさらなる日々が過ぎ、久々に、ナナシが森を訪れた。
「久しいな、小僧」
 風に揺れる大樹の花影で、魔神は子供を出迎えた。
 だが、ナナシの面差しに笑顔はなかった。
「ああ‥‥うん」
 と素っ気なく言ったきり、少し魔神から距離を置き、暗い目の色で佇んだまま、ナナシはしばし黙していた。
「‥‥小僧。何が言いたい」
 ただ訝しく魔神は問うた。何をしに来たのか、話すことはないのか。言いたいことがあるのではないのか。あるいはそれは「新しき己に」ではなく――
 我知らずそこまで考えた時、魔神は確かに動揺した。時折身の内に吹く、風のようなもの――それは寂寥だ、と気付いたがゆえだった。
 だが、ナナシはそれを知らぬげに、かすかに、だが確かに、溜息をついた。
「‥‥今日はノゾミはどこに?」
「出掛けている」
 内なる揺らぎがのぞかぬよう、抑えた声音で魔神は答えた。
「行き先を知ってる?」
「南砂町だ。捜し物を頼まれたと言っていた」
 依り代たるノゾミが外出する際は、同時にダヌーも不在となる。そのためノゾミが写真家、もしくはハンターとして森の外へと出かける際は、行き先を告げておくのが常であった。
「そこからあちこち行き来する必要があるそうだ。一週間は戻らんだろう」
 ふうん、とナナシは素っ気なく言い、じゃあ、とそのまま踵を返そうとした。
「待て、小僧」
 呼び止めると、ナナシは振り返った。
 だが、魔神を見る目は、どこかしら遠い――もはや取り返しのつかない何かを、どうしようもなくただ眺める時のように。
「オマエは何を見ている」
 苛立ちと共に、魔神は問うた。
「目に映るオレを見て、何を考えている」
 ‥‥しばしの間、ナナシは沈黙した。あたかも涙を堪えるように、一瞬ぎゅっと目を瞑り、それからゆっくりとかぶりを振った。
「ダグザのことを思い出してた。‥‥今はもういない方の」
「‥‥何故だ」
 固い声で、魔神はまた問うた。聞くべきではないと、どこかで解っていたはずなのに。
「あんたは何も悪くないよ。‥‥けど、俺のダグザは、前のダグザなんだ」
「――――‥‥」
 魔神は息を呑んだ。
 ‥‥解っていた。どうしてか、解っていたのに、それでも、ナナシのその言葉は、激しい動揺と衝撃をもたらした。
「あんたは任を解くと言ったけど、俺は今でもダグザの神殺しだ。‥‥永遠に」
 かつて旧き己に告げたのと、同じ言葉をナナシは繰り返した。そして今度こそ踵を返し、大樹の前から立ち去って行った。
 ‥‥茫然と、魔神はその場に立ち尽くした。
 ナナシの言葉が乱れた胸中に繰り返し響き、こだましていた。
 人間に付与された神格を厭い、ナナシを神殺しの道具としてしか見ていなかった、頑迷に凝った旧き己。
 人間を愛し、世界を愛し、神であることを全うするべく、無限の力を分け与える新しき己。
 ヒトにとって歓迎されるべきは、明らかに今の己であるはずだ。
 なのになにゆえか、どうした訳か、ナナシは彼を顧みることのなかった、旧き己の方に執着している――
 ダヌーによって新生した己は、旧き己の頑迷を捨て、新たな力を得たはずだった。
 それは人間からの崇敬であったり、母神ダヌーや妖精達からの信頼といった、好ましいものであるはずだった。
 だが、それならば、この空漠感は何なのか。
 そうしたものを得た代わりに、己は何を失ったというのか――

 ダヌーにそのように創られたが故、新しき魔神は人間を愛した。
 だが、それはそのまま、与えたものを顧みられぬ苦痛を背負うことでもあった。
 それを今にして理解した魔神は、「‥‥おのれ」と低く呟いた。

 ――おのれ母上、何故オレをこのように産み給うた‥‥!

 骸骨を模した鎧にも似た、表情の動かぬ顔貌の中、わずかに生身の部分と見える深い緑の双眸が、怒りの炎に揺らめいた。
 それは今では捨て去られたはずの、旧き魔神の色によく似ていた。
(2016/04/20)
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