ゾウガメハリー物語

(作・榊 祐介)
 ゾウガメのハリーが物心ついた時、島に住む同じゾウカメの仲間は、たった12頭しかいなくなっていた。
 だが、人間の乱獲で減ってしまったゾウガメ達は、その12頭が島のひとところに集まっていた訳ではなかったし、 そうやって滅多に会わないのが当たり前になっていた仲間に、みんなすっかり興味を失ってしまっていた。
 実際、島で一番若かったハリーは、自分達が絶滅の危機に瀕していることなど全く知らず、呑気に一人で暮らしていた。


 ハリーはのちに里に来てから「怪獣ではないか」と噂されることになるが、もしかして本当に、普通ではない、 特別なカメの血を引いていたのかも知れない。
 海を渡れないはずのゾウガメでありながら、まだ小さい頃、別の島に行った思い出があったからだ。
 どうやってそこに行ったのか、今となっては思い出せないが、ともかく未知の島をうろついていた時、 ハリーは自分より年上の、一匹の無口なゾウガメと出会った。
 彼はハリーとは違う種族らしく、甲羅の形状が異なっていた。
 ハリーはそれが珍しくて、彼にこの島のことを聞き、彼の種族のことを聞き、彼自身のことを聞き、 他にも若さゆえの好奇心で、色んなことを質問した。
 彼はその都度ゆっくりと考え、ゆっくりと説明してくれた。
 もう長い間、彼は自分以外のゾウガメを見ていなかったこと。恐らくはもう、この島にいるゾウガメは、 自分一頭だけだということ。人間が連れてきた奇妙な生き物が、ゾウガメ達の食べる植物をあっという間に食い荒らしてしまったこと。 そうして飢えて減っていった仲間達を、さらに人間が食べるために、船に乗せて連れ去ってしまったこと―――
 その時初めて、ハリーは「ゾウガメは元はたくさんいたのに、今のように減ってしまったのだ」という事実を知った。 そうして、自分の島でごくたまに出会う、数少ない仲間達のことを考えた。
 ハリーは彼に、自分の島に来てみないか、と言った。甲羅の形が違っていても、彼と自分たちは基本的に同じゾウカメだし、 何度か違うメスを見かけているから、気の合うのが一頭くらいいるかも知れないぜ、と。
 だが、彼はゆっくりと首を横に振った。
 ゾウガメは海を渡れないし、自分はここで静かに甲羅を埋めるつもりだと、彼は穏やかな声で言った。
 実際の彼は、カメとしては決して高齢ではなかったが、その目にはどこか年老いた、静かな諦めがあったように思えた。
 ハリーはそれ以上彼を誘うのを諦めた。そうしていくつかの他愛のない話を交わしてから、一人で自分の島に帰ったのだった。


 ハリーと仲間達が人間に捕まって船に乗せられ、違う島に連れて行かれたのは、それからすぐのことだった。
 孤島のゾウガメの話を聞いていたハリーは、自分達もそうやって食べられてしまうのか、甲羅を剥がされてしまうのかと、 仲間達と甲羅を寄せ合い、不安に首を縮めていた。
 だが、その人間達は、何故かゾウガメ達を大切にしてくれた。
 船から降ろされた皆が連れて行かれたのは、石垣で区切っているだけの、元の島とさほど変わらぬ広い自然の中だった。
 ハリー達はそこで十分な食料を与えられ、やがて、島の仲間ではないが同じ種類の、オスのゾウガメに引き合わされた。
 随分前に島から連れ出され、しばらくの間「あめりか」という場所にいたという彼は、
「人間達は、減りすぎた俺達がまた繁殖して、昔みたいに増えるのを期待してるのさ」
 とハリー達に言った。
「昔みたいに」と言われても、ハリーにはピンと来なかったが、ちょうど成熟期が来た頃だったのだろう。 ハリーと仲間達は、結局人間の期待する通り、その島で沢山の子供を作った。
 その子供達は、ある程度大きくなってから、少しずつ元の島に戻されているのだということを、 後で件の「あめりか」帰りのカメが、したり顔で解説してくれた。


 それから何年か後。
 ハリー達の元に、どこかの島でたった一匹だけ生き残っていたゾウガメが見つかり、 別の区画に連れてこられたというニュースが届いた。
 区画をものともせず飛び回っては近隣の噂を知らせにくる、おしゃべりなフィンチからその話を聞いて、 ハリーはすぐにそのゾウガメが、以前孤島で会った彼だと気付いた。
 ハリーは彼の島に行った時と同じに、他のカメが越えられない、池や石垣や人間用の扉を何故か通ることが出来たので、 人間が全く気付かないうちに、島のあちこちを気ままに見て歩き、時には別の島に渡ったりしては、 やはり気付かれないうちに戻ってきたりという気楽な生活を送っていた。
 その特性を利用して、ハリーは特別区画にいる、今は「ジョージ」と名付けられた彼に会いに行った。
 彼はちょっとだけ種族の違う、二匹のメスを妻としてあてがわれて、たいそう大事にされていた。
 だが、彼の目はやはり、諦めたように遠くを見ていた。
 元いた島を懐かしんでいるのか、あるいは、種族の違うメスが気に入らなかったのか。
 それはハリーには解らなかったし、どっちにしろ、彼は到底自分達のように子供を増やせそうな様子ではなかった。


 そうしてハリー達がその島に来て、おおよそ十年も経った頃。
 いつものフィンチが、少し離れた別の島で変わったイグアナが生まれたという、妙なニュースを仕入れてきた。 その子供は、海イグアナと陸イグアナの間に生まれた雑種で、見たこともない奇妙な姿をしているというのだ。
 ハリーはその話に興味を引かれ、いつものようにこっそりと抜け出して、噂のイグアナを見にいった。
 何日もかけてあちこちを探し回り、ようやく見つけたそのイグアナに、ハリーは茫然と目を見張った。
 雑種だと聞いて想像していた通り、兄弟らしき彼らは確かに、海陸どちらの種族ともつかぬ、不思議で曖昧な姿をしていた。
   が、ハリーの眸を釘付けにしたのは、その中にいた、ただ一匹―――兄弟と一緒にちょろちょろと歩いている、まだまだ小さなイグアナの、目にも鮮やかな赤い色だった。
 ―――あれだ。
 と何故だかハリーは思った。
 海イグアナと陸イグアナ、両方の能力を受け継いだ雑種。海と陸とに分かたれた世界の、 どちらでも生きていけるであろう、優れた力を示す、あの赤い色―――!

 ‥‥その直感は実のところ、半分も当たっていなかった。
 赤いイグアナは確かに海と陸の雑種だったが、海には潜れず陸で暮らしていたし、赤い体色も 特殊な能力のしるしなどではなく、単なる突然変異の結果でしかなかった。
 だがその時は、ハリーは赤いイグアナに、すっかり心を奪われていた。
 イグアナがオスだということも、カメとイグアナでは繁殖は出来ないという至極当たり前の事実も忘れ、 「いつか成長したあのイグアナとの間に、赤いハイブリッドのゾウガメを作り、水陸両棲の赤いゾウガメで故郷の島を一杯にする」 という、降って湧いたような考えに取り憑かれていた。
 今にして思えば、それらの理由は混乱した脳が咄嗟に作り出したこじつけに過ぎず、 実際は無謀にも種族を越えての一目惚れであったのだが、ハリーはまだそれに気付いてはいなかった。


 その日は探索に手間取ったせいで、長く留まるだけの時間がなかった。
 ハリーはひとまず保護区に戻り、疑われない程度人間に顔を見せると、数日後、隙を見てまたイグアナの元を訪れた。
 だが、イグアナは見つからなかった。
 周辺を探し回り、アシカや海イグアナや陸イグアナ、フィンチやゾウガメ達にも聞いてみたが、誰もが首を横に振った。 それでどうにか解ったことと言えば、彼のことを知っている者は、最初からそう多くはなかったらしい、ということだけだった。
 それからハリーは何度も保護区を抜け出しては、赤いイグアナを探し続けた。
 何度目かの探索で、ようやく彼の母親を見つけたが、
「あの子はここにはもういないよ」
 と、陸イグアナの彼女は言った。
 曰く、最初の雑種イグアナでもある上、やはりあの色は目立ちすぎる。仲間の群れにも入れてもらえないし、 いつか人間に見つかるかも知れない。この島で暮らしていくのは困難だろう。だから秘密の通路を使って、 伝説の「獣の里」に行かせたのだと―――

「獣の里か‥‥」
 その時はもう、ハリーの心は決まっていた。
 ただひとつ思い出したことのため、ハリーは一旦保護区に戻り、夜を待って、ジョージの住む区画に忍び込んだ。
 人には聞こえぬよう低く呼びかけると、しばらくして、奥の茂みから草を踏んで、ゆっくりとジョージが現れた。
 ハリーの姿を見て、どこか不思議そうに目を細めた彼に、ハリーは昔と同じ言葉を、十数年ぶりに繰り返した。
 ただし今度の行き先は、懐かしい故郷の島ではない。
「獣の里に行かないか?」
 と、ハリーは彼に誘いかけた。
 自分がイグアナを追っていくことや、里には色んな動物がいるらしいこと。 だからもしかしたらそこに行けば、ジョージの仲間がまだいるかも知れないということを、ハリーは熱心に説明した。
 ジョージは深い皺の刻まれた瞼で、ゆっくりと何度か瞬きし―――昔のように、静かに首を横に振った。
「何でだ?」
 思わず、ハリーは聞き返した。
「甲羅を埋めるって言ってたあの島には、多分もう二度と戻れないぜ。子供も出来ないみたいだし、 あの女達とも上手くいってるって訳じゃないんだろ? それなら―――」
 ハリーの言葉を遮るように、もう一度、ジョージはゆっくりとかぶりを振った。
 そうして、
「もう、いいんだよ」
 とだけ言うと、再びハリーに尾を向けて、茂みの向こうへ戻って行こうとした。
「ジョージ!」
 ハリーは声をひそめるのも忘れて叫んだ。
「俺は諦めないぞ!」
 怪訝そうに、ジョージが首を伸ばして振り向いた。
「俺はあいつと赤いゾウガメを増やす! あんたの仲間の女も探す!‥‥何度でも迎えに来るからな!」
 ジョージはどこか困ったように笑い―――言った。
「‥‥どうせ探すんなら、美女よりハンサムなナイスガイにしといてくれ」
「‥‥え?」
 ぽかんと口を開けたハリーを尻目に、ジョージは再び草を踏み分け、茂みの奥へと消えていった。
 ‥‥随分後になってから、ハリーは人間達の間で囁かれていた噂を耳にした。 それは、あてがわれたメスに興味を示さないジョージが、実はゲイなのではないか、という話だった。
 それが単なるジョークなのかどうか、確かめる術はなかったが、案外本当かも知れない、とハリーは思った。
 あの島に甲羅を埋めるつもりだと、どこか遠い目をして言っていたジョージ。
 もしかして彼はあの島で、人間に連れ去られた大事な誰かが、いつか保護されて戻ってくるのを、 ずっと待っていたのではないのか。そうでなければ、あるいはその誰かの甲羅は既に、あの島のどこかに埋まっていたのかも―――
 ‥‥ハリーはしばらく立ちつくしたまま、満天の星を見上げていた。
 ジョージの過ごしてきたであろう長い孤独や、故郷の島に戻された、自分の沢山の子供達のこと、 赤いイグアナを見た時の衝撃が、ぐるぐると胸中に渦巻いていた。
 だが結局、それらの気持ちをどうにも整理出来ないまま、ハリーはジョージの区画を後にした。
 そうして自分の区画に戻り、仲間に手短に旅立ちを告げると、ハリーはその足でイグアナを追って「獣の里」に向かったのだった。





 里の案内係だという、後ろ足だけで立ち上がって歩く、大きな白い犬に連れられて、ハリーは長老の祭殿に通された。
 古めかしいコタツの布団の中から、歳古りた亀が顔を出し、まじまじとハリーの姿を見た。
「おぬし‥‥珍しいのう」
「何がだ?」
 長老は長い髭を揺らすようにして、口をもごもごと動かした。
「ここに来る前から、人の姿を取れたんじゃろ?」
「へ?」
「あるいはおぬし、伝説の大怪獣『がめら』の血でも引いとるのかも知れんの〜‥‥」
 それだけ言うと、長老はまたしても、布団の中に引っ込んでしまった。
「ちょっと待てよ、おい!」
 思わず布団をめくろうとしたハリーに、白い犬が「おいおい」とたしなめた。
「一度寝ちまったら、長老は当分起きないぜ」
「聞きたいことがあるんだよ! こらジジイ!」
「まあ落ち着けよ。里のことなら、まず俺に聞きな」
 犬に背中から羽交い締めにされ、ふかふかした外観からは想像もつかない剛力で、ずるずると祭壇から引き下ろされる。
 その途中、ハリーはハッとして力を抜いた。
「ん? どうした?」
 犬の声は、茫然となったハリーの耳には、既に届いていなかった。
 長老の祭壇の傍らには、カメを象徴するような、大きな丸い鏡が祭られていた。
 そこには白犬に羽交い締めにされた、自分の姿が写っており―――それは見慣れたゾウガメの姿ではなく、 大柄で逞しく、髪の長い、いかつい顔の人間しか見えないものだった。
 ―――ああ‥‥そうか‥‥
 その時初めて、ハリーは気付いた。
 陸ガメの自分が、海を越えてジョージの島に行けた訳や、 石垣や扉を苦もなく通り抜けられたその理由に―――
 急に大人しくなったハリーに、白犬はやや力を緩めた。
「で? 聞きたいことってのは、何なんだ?」
「ああ‥‥」
 ハリーは犬の手をゆっくりとほどき、カメのものではない自分の手を、初めてまじまじと見ながら言った。
「赤いイグアナが、ここにいるって聞いてきたんだが」
「ああ、あいつな」
 白犬は頷き、先に階段を下りながら、どこかぼうっとしたままのハリーを手招いた。
「用があるなら紹介してやるよ。―――だがまず、役場での住民登録が先だけどな」
「ああ‥‥それと、ある島の出身のゾウガメも探してる」
「それは住民票を調べないと解らないな」
 白犬はひくひくと鼻を動かした。
「ここにはカメもそれなりに沢山居る。出身地までは覚えきれないからな」
「‥‥出来ればオスがいいんだが」
「何だ、嫁捜しじゃないのか?」
「いや‥‥友達の友達捜しだ」
「変な注文だな」
 白い牙を剥いて、犬は笑った。
 ハリーは曖昧に笑い返すと、犬の後に続いて祭壇を降りていった。
――― ゾウガメハリー物語 END ―――
(05.02.26up)