傷―涙再び―

 

 

 


 ほんの二、三日のことなのに。
「ねえ」
 小平太につかまった。
「もんじ、伊さっくんと、なにかあった」
 友の勘の良さに思わず眉が寄った。
「なにがって、なんだよ」
 続けて、テメエは仙蔵だけ見てりゃいいだろがよ、言いそうになって文次郎はぎゅっと口をつぐむ。
 ……つまらないことを言ってはいけない。そんな切り返しをすれば、小平太は確信するだけだ、自分と伊作の間になにかあったと。
「もしかして、喧嘩でもした?」
 つまらぬことを言ってはいけない、と自制の気持ちはあったのに。
 ガハハハハ。重ねての小平太の問いに、思わず文次郎は呵々大笑いしていた。
 喧嘩!
 俺と伊作は目すら合わせず、伊作は俺と同じ空気を吸うさえ嫌かと思わせるほど露骨に、同じ部屋、同じ場に居合わせるさえ避けていると言うのに。
 喧嘩!
 謝罪の言葉を口にすることもできず、俺のほうこそオドオドと、伊作の非難の視線を怖がっていると言うのに。
 大口あけての馬鹿笑いが、やがて本物の笑いの発作に取って代わった。
 文次郎は腹を抱えて笑い続ける。
 ああ、こいつに、このバカに、ほんとのことを答えてやったら、いったいどんな顔をするだろう。
 喧嘩? ちがうちがう、そんなたいしたことじゃない。ちょっとな、ちょっと、俺、あいつを強姦しちまっただけなんだ。嫌がるあいつに俺様のちんちんブチこんで、ヒイヒイ言わせてやっただけなんだ。それだけだ。
 ああ、そう答えたら、こいつはどんな顔をするだろう。
 おかしい。おかしいぜ。
 笑い納めて文次郎は床を見つめる。
 ……ああ、ほんとに一体、俺はあいつに、なにをした?
「もんじ?」
 顔をのぞきこんでくる小平太をにらみ上げた。
「口を出すな、小平太」
 すごんだ。意味のない凄みなのはわかっていたが。
「おまえには関係ない。口を出すな」
 小平太の丸く澄んだ瞳がじっと見つめてくるのがうっとうしかった。
 文次郎はくるりと小平太に背を向けた。

 


 なんの拍子にか。
 伊作の声が聞こえる。伊作の影が見える。
 気にしすぎているせいだろう。
 食堂の騒がしさの中にも伊作の声が響くように聞こえ、校庭を横切る人があれば伊作に見えた。
 耳をすませ目をこらせば、それはまるで違う人間のものと、たやすく聞き分け見分けることができるのに。
 伊作を意識しすぎているのだ。
 傷つけた、怒らせた、その罪悪感が過剰に伊作の存在を意識させる。
 ――もう一度、きちんと謝ろうか……。
 文次郎は考えた。
 ……そうだ……。あの時は……もうおまえなんか友達ではないと言い、謝られても許せないと言っていた伊作でも……もう一度、きちんと頭を下げ、自分が悪かったと詫びを入れれば……聞き入れてくれるかもしれない、またあの穏やかな笑みを……向けてくれるかもしれない。
 虫のいいことを考えている、と思わないでもなかった。
 それでも。
 過剰に伊作を意識しながら、互いに無視し合う今の状況を、少しでもコトが起こる以前の気持ち良さに近づけたいと思ったら……もう一度きちんと謝るしかないだろう。
 文次郎は伊作に謝ろうと決めたのだった。

 



 だが。
 決めたわりには実行は難しかった。
 声をかけようにも、伊作は文次郎を避け続けていた。
 そしてまた、文次郎も。あの、冷たく、怒りをはらんだ伊作の瞳を思い出し、またあの瞳に相対しなければならぬかと思うと気が進まなかった。
 そんなふうに……謝る機会をうかがいながら、文次郎が伊作に声を掛けることもできなかったある日、ある時。
 文次郎は伊作の笑い声を聞いた。
 またいつもの空耳かと聞き流そうとした文次郎は、続けて耳に届いた確かな響きにはっと顔を上げた。
 休憩時間の教室のざわめきを縫って、確かに伊作の声が聞こえる。
 文次郎は校庭に面した窓へと駆け寄る。
 窓枠に手を掛け、下をのぞきこむ。
 伊作が、笑っていた。

 


 伊作が笑っていた。
 植え込みの傍らで、毬のようなアジサイの花を手に、伊作が笑っていた。
 そして。
 その伊作の横に。
 小松田秀作が、木鋏を手に立っていた。

 


 久しぶりに見る伊作の笑顔に、こいつも笑えるようになったのだとほっとしたのが先だったか、その笑顔の向けられているのが小松田秀作であることにむっとしたのが先だったか。
 文次郎が見下ろしているとも知らず、伊作が秀作に話しかける。
 秀作が手にした鋏を示しながら困ったように首をかしげる。
 いいですよ僕がやりますよ、とでも伊作は言ったのだろうか。伊作は薄紫に染まった紫陽花を秀作に手渡し、代わりに秀作の手から木鋏を受け取った。植え込みにかがみこんだ伊作は、彩り美しい球形の花房を次々に秀作に手渡して行く。
「ありがとう!」
 秀作の弾んだ声が、これは文次郎の元まで届いた。
 知らず、窓枠をつかむ文次郎の手には力がこもる。
「なにを怖い顔をしている」
 横合いからそう問いかけられて、文次郎は手ばかりか自分の眉間にもぐっと力がこもっているのを初めて自覚する。
「…………」
 仙蔵がつい、と窓の下をのぞきこむ。
 表情は変わらない仙蔵が、しかし、しっかりと状況は把握したらしいのを感じて、文次郎は不機嫌に窓辺を離れた。

 



 むしゃくしゃした。
 伊作にあやまろうと思っていたことが、なんだか馬鹿らしく思えた。
 あやまる必要なんかねえじゃねえか、と思えた。
 あいつは平気なんだ。
 あいつにとっては、どうってこともなかったことなんだ。
 だから小松田なんかと笑ってられる。
 小松田にあんな顔を向けられる。
 ばっかやろう。
 ――そんなふうに。むかっ腹を立てていながら。
 文次郎はどこかでわかってもいた。……友人であった文次郎に無理やり手ごめにされた伊作が、その傷をそんなに早く忘れることができるはずがないことも、伊作が小松田を相手に、なにを懸命に立て直そうとしているのか、それすらも。
 だから文次郎は繰り返す。
 あいつは平気なんだ!
 あやまってやることなんか、なんもねえんだ。
 文次郎はそう繰り返す。

 



 無意識に焦点から目を背けながらも。
 そのむしゃくしゃはいっかな収まらず。
 文次郎は鬱憤晴らしを決める。
 女、買おう。

 


 買える女のランクというのがある。
 小遣いにあまり影響のないところなら、筵(むしろ)を持って道端で客を引く夜鷹だが、さすがにそれは味気無い。置屋の暗い明かりにも耐えないしわくちゃ年増が夜鷹では相場と決まってもいて、安いと言うだけで飛びつく気にもなれないのだった。
 友と連れ立って大人の世界をのぞき見る時には、白粉もはじくほどに若い肌を誇る遊女が紅がら格子の向こうから華やいだ声をかけてくれる店にはさすがに入れず、客寄せがそっと袖引いて案内してくれる、暗い路地の奥にある間口の狭い店に厄介になるのだ。
 安普請の古い建物の中で、お世辞にもきれいとも若いとも言えない女郎を抱くのだが、それはそれで、やりたい盛りの若者には十分な遊興であった。
 だが。
 きょうだけは、みじめったらしい宿で優しいだけが取り柄のような女郎を抱く気には、なれない文次郎だった。
 ぱあっと遊びたかった。
 後で金に困るのは見えていたが、けちけちと金勘定したい気分ではなかった。
 文次郎は、通りに面した二階建の店に入った。
 唇の横のほくろが色っぽい、まだ二十もそこそこかと思える遊女を敵娼(かたき)に選んだ。
 通された部屋は小作りながら二間続きで、行灯の淡い光りに浮かぶ寝具を改めてみれば、多少、柄がケバすぎる感じはあったが、古くもなっていなければ綿もたっぷりと、ふかふか乾いて気持ち良さそうだった。
 酒肴をさっさと平らげて、文次郎は床へと移った。

 


 緋襦袢の胸元から乳房をこぼれさせ、茂みも露わになれと裾を捲り上げた。
 陽を浴びたことなどないだろう目に沁みる白さの太ももを大きく左右に広げさせ、剥き出しになった狭間目がけて、文次郎は腰を進めた。
 ……が。
 はやる文次郎の心と裏腹、肝心の股間のものは、持ち上がってはいるものの、女の秘肉を貫いて行くには頼りない堅さしかない。
 性急さがまずかったのだろうか。
 文次郎は、半勃ちのそれを、深い紅色に染まった肉の花びらにこすりつける。あたたかく柔らかい肉の感触に、そこが血の熱さを集めて張って来てくれることを願って。そしてまた、同じ効果を願って豊かに実った乳房に吸い付いた。手の平いっぱいに乳を納めて揉みこんだ。
 値段だけのことはある女の肌は張りもよければ香りもよい。……なのに。文次郎が望む効果はなかなか現れては来ないのだった。
 文次郎が焦れだしたのを感じたのか、女がもそりと身を起こす。
「若い人にはよくあることやよ」
 そう言って女は中途半端にふくらんだまま、頭を持ち上げ切らない文次郎のそこに唇を寄せて行く。
「……また、今度、うちを買うてね」
 上目使いに媚を込め、女は文次郎を口に含んだ。
 十分に扇情的な光景だった。
 話に「口」は「壷」よりもいいものだと聞いたことがあったが、まださほど数をこなせているわけでもない女郎買いのなかで、今まで文次郎はその奉仕を受けたことがなかった。
 実際に女の頭が己の股間でうごめいて、その口中に己の大事な一物を含み込んで愛撫を加えてくれる……それは視覚的にも感覚的にも、非常に刺激的だ。
 なのに。
 文次郎の頭は、これはすごいことだと冷静に受け止めてしまっていた。
 十分に刺激を刺激と認識しながら、煽り切られない醒めた部分があった。
 文次郎はせめて、柔らかに濡れ切った口中の粘膜と、自在に動く舌が与えてくれる刺激に酔おうと目を閉じる。
 そこに。
 すっと差し込んだ、妄念。
 ――これが、伊作の口であったなら。
 思ったことに、文次郎はあわてた。
 さらに文次郎が泡を食ったことには。
 頭の中に浮かんだ、伊作が己の股間に屈み込み、それを口にしてくれている情景に……文次郎の全身はかっと熱くなり、その熱さに呼応して、そこはぐっと密度と体積を増したのだ。
 見る間に天を向いて勃ちあがったそれが、求めているもの……。
 慌てながらも文次郎は、その影を振り払おうと女の肩を押し、布団の上へと押し倒す。
 ようやくに堅く強ばったそこを、女の秘部にめり込ませる。
「ああん」
 遊女の嬌声。が、文次郎の耳に響くのは。
『やめろ、やめてくれ! 文次郎!!』
『い、痛いっ……いたいっ文次郎っ……!!』
 制止を求める伊作の必死の声であり、痛みをこらえようとする懸命な息遣いと喘ぎだった。
 女の悶える様を見ようと目を上げれば、映るのは肩を撥ねさせ、苦痛と怒りに引き歪む伊作の顔なのだ。
 ――こうして組み敷いているのが、伊作であったなら……。
 もう振り払おうにも、振り払えぬ。妄念はあの日の伊作を甦らせるばかりだ。
 精を放とうとする腰の動きは、一点を目指して自然に激しくなる。
「ああっああっああっ」
『いたっ! んあっ! うぅっうっ……!』
 女の単調にも聞こえるよがり声を圧して、文次郎の頭の中には噛み締める歯の間から、それでも漏れた伊作の苦鳴……。
 文次郎は頂点に、背筋を震わせ、精を放つ。
 女の体内に向かい……あの日の伊作に向かい。

 


 当初の目論みと逆に。文次郎は躯が重く感じられるほどの何かを抱えて学園に帰って来た。
 巾着の中を探れば、残った食券は一枚二枚……これがなくなったら次の仕送りか小遣い銭稼ぎのバイトがあるまで、三度の食事は魚を釣るか畑から失敬するか……。
 それならせめて、「豪遊」の心楽しさでも残っていればいいものを……友に吹聴できるほどの「贅沢」と「極楽」を味わっていながら、それを自慢する気にもなれない暗い気分を文次郎は持て余す。
 伊作。
 ……俺は、おまえになにをした?
 そして……おまえは、俺に、なにをした?

 



 伊作の声が聞こえる。
 伊作の影が見える。
 その過剰な意識が……罪悪感からでないならば……なんだと言うんだ。
 俺はあいつに……詫びを言いたいのではなかったか。
『痛い……っ! 痛いよっ!』
 衣で後ろ手に腕を搦め捕られ、身をよじっていた裸の伊作。
 女の柔肌と、密壷の潤みを圧して、伊作の姿は甦った。
 その……声が、息が……寄せた肌の感触が甦るのが……罪悪感でないならば……。
 その意味するところは……。
 イライラと文次郎は爪を噛む。
 だから、なんだってんだ。

 


 伊作の声が聞こえた。
 廊下を曲がった先から聞こえてくる声は、空耳ではなかった。
 ……あの時と同じだった。明るい声で、伊作が言っている。
「いいですよ。用具室に僕が返しておきましょう」
 きっとにっこり笑っているにちがいない、その相手は……。
「ありがとう、善法寺くん。じゃあ頼んでしまっていいかなあ」
 のんびりした小松田の声がする……。
「ついでだから。全然、かまいませんよ」
 明るい伊作の声が言う。……きっと伊作は微笑みを、小松田に向けているにちがいない……。

 



 何を考えたのだろう。
 文次郎は足音を忍ばせて、用具室へと歩を進める。
 そっと戸を押す。
 音もなく開いた戸の透き間から、室内へと滑り込んだ。
 侵入者の気配を感じたのだろう、伊作が、振り向いた。

 



 数日振りに、目があった。
 伊作は文次郎の顔を見て、ぎょっと一瞬、肩を揺らした。
 それから、一瞬でも怯えた自分に腹を立てたように、今度はぎゅっと口元をきつく締めた。
「何の用?」
 普段なら人当たりのよい、やわらかな印象の伊作の声が、さすがにとがって固い。
「僕の用は済んだから。戸締まりは君がしてくれ」
 そう言って、カギを手近な棚の上に置いてみせ、文次郎の横を擦り抜けようとした伊作の前に……文次郎は立つ。
 後ろ手に戸を閉め、つっかい棒をかった。
 今度は肩だけではない、伊作は全身を揺らすようにして固まった。
 じり。文次郎は伊作へと足を滑らせる。
 伊作が一歩引く。
 文次郎は、また一歩、寄る。
 伊作が、また一歩、下がる。
 寄る、下がる、寄る、下がる……。
 何度目か。
 伊作は背後の棚にぶつかる。

 



「……来るな……」
 そう言われたが、文次郎はまた一歩と、歩を進める。
「……来るな!」
 そう叫ばれたが、止まる気はなかった。
「…………!!」
 ついに。
 二人の間に手幅の分しかなくなった時。
 文次郎は足を止めた。
 伊作が眼前に、握り込んだ棒手裏剣を構えていた。

 



「……寄るな」
 伊作の声はしゃがれて聞こえた。いや、低く震えていたのか。
「寄るな」
 伊作は顔の高さの棒手裏剣を、文次郎へと向ける。
「刺すぞ」

 


 伊作に本当には人を殺せまい、などとは思わなかった。
 伊作の目には確かに殺気があり、棒手裏剣の細い突端は、しっかりと文次郎の目を狙っていた。
 だが、不思議と怖くなかった。

 


「刺せ」


 文次郎は、手幅分の距離を詰める。


「刺せ」


 伊作を、抱き締めた。


 刺されてもよかった。


 あやまるつもりだったのだ、だとか。
 この世の極楽よりも、おまえのことを思い出したのだ、だとか。
 そんなことは……なにも意味がないように思えた。

 


 ただ、伊作を抱き締めた。
 この躯、この感触……これだけだ。
 自分が欲しかったのは、これだ。

 


     *     *     *     *     *     *

 


 恐ろしいほどの眼差しだった。
 用具室に入って来た文次郎を見た瞬間、伊作は息詰まるほどの圧迫を感じた。
 それは瞬時に、先日の暴力の思い出と結び付いて、伊作の躯を強ばらせた。
「何の用?」
 怯えているのを悟られたくなくて、あえてそう聞いた。
 声がどうしても震えて、自分に腹が立つほどだった。
 これ以上、一秒でも一緒にいたくなくて。
 部屋を出ようとして。
 目を据わらせた文次郎に無言のまま、眼前に立ち塞がられて。
 伊作は背筋にべたりと張り付く恐怖に身動きならなくなった。

 



 じりじりと追い詰められた。

 


 もう、あんな目に合わされるのは、イヤだ。
 ついに、追い詰められて進退窮まった時に、伊作は手甲に忍ばせてあった棒手裏剣をこぶしに握った。
「刺すぞ」
 本気だった。
 また、この前のように……裸で床に転がされ、尻の肉を分けられ……そこに、友人だったはずの男が、欲望にしこった物を突き立てる……そんなことは、もう二度と許せない。


「刺せ」



 今日初めて……いや、ここ数日で初めて聞く文次郎の声は、低く低く、なんのけれん味もはったりもなかった。
「刺せ」
 恐ろしいほどに思い詰めた光を浮かべる瞳が、食い入るように自分を見つめている。
 その腕が、伸びて来た。

 


 怖いのは、この腕か、それとも、目か。
 それとも……文次郎という……この男自身か。
 それとも……本当に刺されてもかまわないという……この、気迫そのものか。

 



 伊作は文次郎の腕に抱かれていた。
 二度と、触れられたくない腕だった。
 一度で十分なはずの、抱擁だった。
 文次郎の息がだんだんに荒いでゆくのが、耳元にかかる息で感じられ、自分の背中にがっしりと回った腕に徐々に力がこもってゆくのが、圧迫される胸の息苦しさに感じられた。
 ――また、繰り返されるのだと、思った。
 また、あれが繰り返されるのだ。
 この男は、またあれをするつもりなのだ。
 友人だと言っていたくせに。
 また人を、欲望を遂げる道具にするつもりなのだ……。

 



 この前のあれは、油断だった。
 最初から文次郎の意図がわかっていれば、ああもやすやすと言いなりになど、ならなかった。
 あれは、二度とはないことだ。
 伊作は汗ばみだしている手に、ぎゅっと凶器を握り直す。
 文次郎に抱き締められている伊作の両手は、自然に文次郎の背中へと抜けている。

 


 伊作は凶器の先端を文次郎の背中へと向ける。
 人の身体の急所は知っている。この細い棒手裏剣一本でも、人の命を奪うことはできる。
 文次郎の背中は、伊作の手の前に、無防備だ。


「刺せ、伊作。俺はまた、お前を犯すぞ」


 手が震えた。
 文次郎の背中は、伊作の手の前に無防備だ。
 刺せと言う。
 刺さなければ……また、この前と同じことになるのは、見えている。

 


 もう二度と、あんなことは嫌だった。
 そして、文次郎は刺せと言う……。



 手が、震えた。



 刺せばいいのだ、こんな身勝手な男。
 一度でも友人だなどと思ったのが間違いだった、最低な男だ。
 人の意思を踏みにじり、欲情を遂げる道具にした。
 ああ、本人もよくわかっているじゃないか。自分の汚さ、卑劣さ。
 だから、刺せと言うのだろう。
 刺してやる、刺してやる……。

 


     *     *     *     *     *     *

 


 伊作の手が、腕ごとぶるぶる震えていた。
 文次郎は、背中に突き立つ刃物の感触を覚悟した。



 ――が。



 背に当たったのは……弱い衝撃だけ。
 伊作の震える指の間から滑り落とされた棒手裏剣は、文次郎の背中に突き立つほどの勢いなどなく、ただ、文次郎の背に当たり、床へと高い音を立てて転がった。


 ならば。


 欲しいものが目の前、腕の中にあった。
 文次郎は床へと押し倒した伊作の制服の襟を、思い切り左右に開いた――

 

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