「……ふ、ふわわ……!」
夢に小平太は飛び起きる。
あ、と思った時にはもう遅い。
下帯の中は大洪水。
もうここ数日、すっかり馴染みになった情けなさを感じながら、小平太は夜着の裾をまくりあげ、冷えゆくぬめりが染み出した下帯を外す。丸めた下帯の乾いた部分で己の下腹をごしごしこすれば、情けなさはいやますばかり。
「……もう、替えがないよ……」
戻り梅雨の悪天候を恨んでも、部屋に吊るした下帯は生乾き。
朝までには、おとつい洗った分がなんとか使用に耐えるぐらいには乾いてくれるだろうと、あまり持てぬ期待を持って、小平太はスウスウする腰に夜着をしっかりと巻き付けて布団に入り直す。
朝までにはまだ数刻ある、無理にでも寝付こうと目をつぶれば、またぞろ……。
小平太の頭の中に、最前の夢の続きとばかり、仙蔵の白い裸身が満ちてくる。
先日の作業小屋での一件以来。
小平太は昼と言わず夜と言わずまぶたの裏にちらつく仙蔵の裸身に、悩まされている。
抱き締めた躯の細さ、頬に触れた頬のぬくもり、唇を吸い上げていった唇の柔らかさ、仙蔵の裸身は、今まで小平太が知らなかった、そういう『仙蔵の躯の感触』を伴って小平太に襲いかかってくる。
小平太に防ぐ術はない。
「小平太? ヤリたいんだろう? いいんだよ? 好きにしたら」
「ほら。触ってごらん。ここに……触りたいんだろう?」
夢の中で、小平太の頭の中で。
仙蔵は白くなめらかな躯をくねらせて、小平太を誘う。くっきりと桜色した乳首を指し示し、淫らがましくのけぞって見せる。唇でしか知らないはずの感触を、小平太の股間に落としさえする……。
ぶるるっと小平太は頭を振る。
なんでなんでなんでこんな……!
好きなら当たり前の反応だと、文次郎あたりに話せば笑い飛ばしてくれそうな気もしたが、しかし、友人でもあり仲間でもあった一人に、ここまでいやらしい妄想をたくましくしているなどと、話せたものではない。
まだ女性相手にも男性相手にも、性体験のない小平太である。いわゆる「筆下ろし」も「水揚げ」も済んでいない者の潔癖さは時に、恋した相手に情欲を感じることすら、いやらしい、汚い衝動のように思わせるものだが。さすがに長次、仙蔵、文次郎を仲間に付き合って来ただけあって、小平太はそこまでは初心(うぶ)でも純でもなかった。
とは言え、夜な夜なの夢精を盾に、
「一発やらせろ」
などと仙蔵に迫るまでのことは、思いもつかぬ小平太であった。
好きな人がいれば、できるだけたくさん、その人を見ていたい、あるいはできるだけたくさん、その人の近くにいたいものだ。
だが、小平太はその作業小屋での一件以来、仙蔵を避け続けた。
どうしていいかわからぬのである。
顔を見れば心臓が跳ねる。
声を聞けば顔に血が上る。
どうしたらいいのか、小平太にはわからない。
当の仙蔵は、小平太が生乾きの下帯に冷たい思いをしながら授業を受ける羽目になった日までは、小平太のことを放っておいてくれた。
あの、あと少しでやることをやってしまうところだった作業小屋でのことはおくびにも出さず、その時の小平太の言動など忘れたような顔をしてくれていた。
……その日までは。仙蔵は小平太が自分を避けていることに、気づいている素振りすら、見せてはいなかったのだ。
が。
ようやく体温の助けを借りて乾いてくれた下帯に小平太がほっとしていた、三組合同の実習時間のこと。
小平太は肩に人の手の柔らかな重みを感じ、振り返り、そこに仙蔵の美麗な顔を認めて飛び上がった。
「小平太」
仙蔵が横目で軽くにらむように小平太を見ている。
「いつまでわたしを避けるつもりだ」
「……さ、避けてなんか……!」
慌てる小平太に、仙蔵は無表情のまま、しらしらと核心をつく言葉を続けた。
「友人からの告白は初めてだからな。いつおまえが口説きに来てくれるのかと楽しみにしていたのに」
「く、口説く!?」
自分の進むべき道を、取るべき選択肢を、恋する当の相手から示唆されて小平太はさらにうろたえる。
「早くしろ。わたしは短気だ」
口説く、までは小平太の頭は理解した。しかし、続いた仙蔵の言葉は小平太の頭を真っ白にした。早く? なにを? 仙ちゃん、なにを早くしろって? え!?
ふぅっ。
耳に吹き込んだ優しくぬるい風に、小平太は思わずびくりと躯を震わせた。
それが、仙蔵が自分の耳に吹き込んだあまい息だと小平太が悟った時には、仙蔵はもう立ち去るところだった。
仙蔵の息がなぶっていった耳をしっかりと手で押さえ、小平太は胸の鼓動が高く鳴るのを聞いていた。
口説く。楽しみにしていた。早くしろ。
たださえ仙蔵の裸でいっぱいのところにもってきて、そこに仙蔵の言葉が渦を巻いてなだれこみ、小平太の頭は爆発寸前である。
なにを、なにを仙蔵は待っていると? 仙ちゃん裸で裸で裸で待ってる待ってる待ってる口説いて早く早く早く……!!!!!
仙蔵と話すどころではない。
小平太はその合同実習の最中も後も、力いっぱい、仙蔵を避けた。
あまりに露骨に懸命に避けたものだから、ついに担任の教師にまで、
「七松、立花になにかされたのか」
問われる始末になった。
小平太は思い切り首を横に振る。
「た、立花は……立花はなんにもしてません!! 立花は悪くないんです!!」
それでも仙蔵を守りたいらしい自分の健気さには気づかず、小平太は思い切りそう叫んでいた。
その日その時を境に。
仙蔵は小平太に『ちょっかいを出す』と決めてしまったらしかった。
仙蔵が談笑している部屋近くで、くるりと回れ右して、小平太はもと来たほうへ廊下を戻る。が、次の角を曲がろうとすれば、そこに仙蔵が涼しい顔で壁にもたれて立っていたりする。
「なあ、小平太。教えてもらいたいことがあるんだが」
などと言う。
「恋と言うのは、こうして目も合わさず、口もきかず、同じ部屋にいることすら避けて、育てるものなのか?」
「…………」
絶句するしかない小平太の顎の下に、ちょい、と仙蔵が指をかける。
「ん? おまえは確かあの時、『これはちがう』と言ったよなあ? なにがどうちがうのか、教えてくれないか。こうして触れ合わずいるほうが、恋というのはよく育つものなのか?」
「……!」
口はぱくぱくと開くものの、言葉のない小平太に、すっと頬などすりよせて、仙蔵は立ち去るのだ。
なぶられ転がされた気分の小平太を一人残して。
――そして……小平太も仙蔵も、知らぬ一場面。
文次郎は、今日もフリーズしている小平太にぺったりくっつき、嫌がらせをしているのだかアプローチしているのだかわからぬ仙蔵に、ふん、と鼻息を荒くする。
「旦那!」
文次郎は背後を通りかかった長次を言葉きつく呼び止める。
「……いいのか、あれ」
あごをしゃくって、真っ赤な顔の小平太に、見事な流し目をくれている仙蔵を指し示す。
「ほっとくのかよ」
「…………」
長次は黙って文次郎と共に二人を眺め。
ふ、と。わからぬほどに、その目元を和ませる。
「……楽しそうだ」
ぼそり。低く低く、一言だけ残して、長次は行ってしまう。
文次郎は一人残って唇を突き出し、もう一度、ふん、と荒く息をつく。
「どしたの、もんじ?」
友の不満気な様子に、伊作がその顔をのぞきこむ。
「……笑いやがった。長次の野郎」
「ああ」
と伊作はすぐに得心の相槌を打つ。
「ほんとに恋人同士ってわけじゃなかったんだね、長次と仙蔵」
「……だけどよ、おまえ、だけど……」
「うん」
わかるよ、の言葉のかわりに伊作は微笑む。
「深い仲、ではあったからね、二人。……でも、小平太が仙蔵に本気で……仙蔵がいいなら、いいんじゃない?」
「ま、そうなんだけどよ……」
まだなにか納得いかなげな文次郎の肩を、伊作がぽんと叩いて行き過ぎる。
――小平太も、仙蔵も、知らず。気づかず。友たちの一場面。
答えを出す時間が、小平太にはなかった。
仙蔵に対する欲情と自分の好意に折り合いをつけさせる術も知らず、仙蔵の煽りにただ翻弄された小平太は、たやすく『なにも手につかない』状態となってしまった。
教師はそれを『スランプ』と呼び、自信を取り戻させるためには低学年に編入させるがよいだろうとの教育的判断を下したのだった。
最高学年から最低学年への編入。
小平太が正気だったら泣いていやがっただろうその決定に、しかし、足元すらおぼつかなげな今の小平太は唯々諾々と従った。
六年の中にはその決定を笑う者も多かったが、小平太の状態と今後を真剣に案ずる者もあったのである。
同じ学内とは言うものの、一年生と六年生ではカリキュラムがまるでちがう。クラスがちがうぐらいはさほどの障害ともならないが、一年生へ編入されては顔を合わせる機会は激減する。
仙蔵は窓際で頬杖をつき、無聊をかこつ。
その仙蔵の横に。
黙って並んだのは伊作だった。
「……ヒマそうだね」
笑いかけた伊作に仙蔵はちらりと視線を走らせ、またつまらなさそうに校庭へと目を向けた。ため息まじりにこぼす。
「……仕方ないな。おもちゃを取り上げられてしまったから」
「おもちゃって、小平太のこと?」
確認の問い返しに、仙蔵は伊作を振り向いた。
常は笑って聞き流してくれる仙蔵の毒舌に、しかし今、伊作は厳しい表情を見せている。
それでも、
「ほかに、誰がいる」
仙蔵は強気に言い返す。
「仙蔵にとって、小平太はおもちゃなの?」
伊作も引かない。言葉は柔らかいが、仙蔵は伊作の非難をその中に読み取る。
「小平太は本気だよ? 本気で仙蔵が好きなんだ。……仙蔵、ちゃんとそれがわかってて、それでちょっかい出してるんだと思ってた」
「……好きだとは言われた。けど、それきりだ。あいつは逃げるばっかりだ。……おもちゃにする以外、どうやって遊べと言うんだ」
あくまで強気に毒舌を振る仙蔵に、ふう、と伊作はため息をついた。
「……仙蔵は……小平太と遊びたいの? 遊びたいだけなの?」
「あのバカは……」
言いさして仙蔵は唇を噛む。あのバカは……からかって遊ぶしか価値がない、と? 言い放とうとして仙蔵はためらう。
仙蔵のためらいを伊作は読んだようだった。
「遊びたいなら……仙蔵、初めからほかの相手を探してたろう?」
「……手近な楽しみなど、そうそうあるか」
「言うね」
伊作は苦笑をもらす。
「最近、長次と出掛けてないのは、小平太のためじゃなかったんだ」
「…………」
長次の名を出されて、さすがに仙蔵は押し黙る。
「仙蔵ね、小平太のこと、おもちゃにしてちゃ駄目だよ。小平太はまっすぐ走ってる時に一番元気なの、仙蔵だって知ってるだろ」
まっすぐ。小平太をまっすぐ走らせるために、わたしにまでまっすぐになれと言うのか。
伊作の言葉に胸の中で反論して、仙蔵は再び、梅雨の晴れ間の校庭へと視線を投げた。
仙蔵が無聊をかこち、伊作が心配した小平太の一年編入は、しかし、あっけなく終わりを告げた。
小平太が急浮上したのである。
一年生の授業に参加させ、自分の実力を再確認させる法が当たったと、教師陣は喜んだが、実際のところ小平太が再確認したのは、自分の実力ではなく、自分の想いであった。
仙蔵に会いたくても会えない。避けるまでもなく、その姿が身近にない。
その状況になってようやく、小平太は恋する者が普通に欲する、『会いたい』『声が聞きたい』『近くにいたい』という気持ちを自分のなかに認めたのだった。
いつでもすぐに会えたから。
仙ちゃんの裸ばっかり想像してる自分にうろたえちゃったけれど。
仙ちゃんにからかわれて、あわてて逃げることだけしか、考えられなかったけど。
いつでもすぐに会えたから。
一番大事なところを飛ばしてた。
仙ちゃんが、好きだ。
会いたい、声が聞きたい、近くにいたい。
仙ちゃんが、好きだ。
小平太は両のこぶしを握り締める。
もう、うろたえない。一番大事なところから。今度はちゃんと始められる。
だだだだだっ!!
廊下を走る、忍びの学び舎に似つかわしくない高い足音に、長次の部屋で夕食までの時間をつぶしていた長次、仙蔵、文次郎、伊作の四人は小平太の帰還を知る。
す、ぱーん!!
あたりはばからぬ足音に続いて、戸も外れよとばかりの勢いで板戸が開いた。
「仙ちゃん、いる!?」
活力がそのまま人間の形になったような小平太が、部屋に飛び込んで来る。
「いるよ」
にっこり答えたのは伊作だ。後の三人は、見ればわかることに答えてやるほど親切ではない。
「仙ちゃん!!」
一足飛びに。
小平太は仙蔵の前に座り込み、その手を取っていた。
「仙ちゃん、好きだよ! 俺と付き合って!」
小平太の勢いに、事の流れを読んでいた四人ではあったが。
いきなりの交際申し込みには、さすがに言葉もなく。
長次、文次郎、伊作の三人は仙蔵の顔を見つめ。
仙蔵は小平太の顔を見つめ。
仙蔵の唇が動いた。
「……いやだ」
「えーっ!! なんで、なんでイヤだよ!? 大事にするよ、絶対? ねーいいじゃん、ちょこっと、ほら、一回付き合ってみればさー、案外うまく行くかもしれないじゃん! ねー仙ちゃん、もいっかい、考えてよ!」
臆面もなく。行け行けドンドンの本領発揮で仙蔵を口説く小平太の後ろで。
長次が黙って立ち上がった。
そのまま、長次は戸口へと向かう。
部屋を出かけて立ち止まり、長次は中を振り返る。
その無言のうながしに、伊作が身軽く腰を上げ、目を見張ったまま二人を見つめる文次郎の肩をつついた。
ああ、と気づいた文次郎も立ち上がり、そして三人は部屋を出て行く。
ぱたん。戸が閉まった音を聞きながら、小平太は仙蔵を見つめる。
「……仙ちゃん、好きだよ。本当だよ。……ね、俺と付き合って」
「つ、付き合うもなにも……」
「友達から、なんて言わないでよ? 俺たち、今まで友達だったけど、今度は俺、友達じゃなくて、恋人として仙ちゃんと付き合いたいの。……ね。仙ちゃん、だめ?」
仙蔵は小平太の澄んだ大きな瞳を見つめる。
まっすぐに、とにかくまっすぐに、自分を見つめる大きな瞳。
まっすぐに……自分に向かってくる気持ち。
「……おまえは……」
その瞳からどうしても目をそらすことができぬまま、仙蔵は口を開く。
「なら、おまえは……教えられるのか? 恋がなんなのか……教えてくれるのか……?」
大きな澄んだ瞳が、二、三度、戸惑ったような瞬きを繰り返した。
「……それって……仙ちゃん、教えたり教えられたりすることじゃないんじゃない?」
「教える自信がないのか、おまえは」
「自信……」
眉を寄せて小平太は首をひねる。
「だって教えるもんじゃないじゃん、そんなの……」
困った顔で呟いた小平太の顔が、ぱっとまた、明るさを取り戻した。
「そうだよ! 教えるもんじゃないよ! それってさ、わかるもんなんだよ! うん、それなら、俺、自信ある!」
小平太は仙蔵の白い手を握り直す。
「俺と、付き合ってよ、仙ちゃん。俺と、恋、やってよ。恋、やればわかるよ、仙ちゃんにも。俺、仙ちゃん、好きだから。すんごいすんごい、好きだから。だから、仙ちゃんが恋わかってくれるまで、好きでいる自信はあるよ」
「小平太……」
「俺と恋しよ。ね。仙ちゃん。俺と恋してよ」
仙蔵は静かに目を閉じる。
まっすぐに、自分に向かってくる……このあたたかで、明るいもの。
ゆだねてみようか、添ってみようか。そんな気を起こさせる、まっすぐな……。
「うん」
気が付けば、そう返事を返していた。
「……付き合うよ……小平太……」
「やりっ!!」
その喜びあふれた短い一言と同時に……仙蔵は小平太の腕に抱き締められていた。
それはひとつの、恋の始まり。
了
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