如月も半ば。卒業まであと丸一月もない。
「友達からやり直し」ている友達とも……あと、一ヶ月。
一ヶ月。残された時間は長くない。
伊作は暦を見つめてこぶしを握る。
絵のうまいのがいた。
器用に教師や級友たちの似顔絵を描いて見せ、時にその似顔に珍妙な味付けをして皆を笑わせた。
誰が初めだったか、想い人の面影を描いてもらい、懐に忍ばせておくことが流行った。次には、好みの女性を好みの姿態に描いてもらうことが流行った。
「こう、しどけなく裾が乱れて……そうそう! つま先がすらりと綺麗で……」
「襟が乱れるほど胸がでかいのがいい! 後れ毛を押さえて、切なげに身をよじる感じで……」
などなど。卒業前に気に入りの一品を手に入れようと、皆、躍起になった。
食堂でその生徒が絵筆を握っていた時のことだ。
「文次郎」
その生徒は気軽な感じで、盆を手にしていた文次郎に問いかけた。
「おまえだったら、どんな感じのがいい? 今までで一番、色っぽいって思ったのはどんなの?」
文次郎なら遊んでいそうだとか、すごいのが出てきそうだとか、周りの生徒たちがわっと盛り上がる。
伊作は文次郎の後ろで、やはり盆を手に、はっとして文次郎の背中を見つめたが。
「俺? あー……俺はいいわ」
「遠慮すんなよ。描いてもらえよ」
煽る声に、文次郎は答えたのだ。
「いいんだ。俺のとっときは俺の頭の中にあるから。一生、消えねーから」
と。
もうなにを言ったらいいのか、どういう顔をしたらいいのか、伊作にはわからなくて。
そして文次郎は盆を置きながらぼそりと言うのだ。
「……頭ん中だけだ。許せよ」
伊作は奥歯を噛み締める。
「……許せない。消せ。今すぐ消せ」
「んなこと言われても」
「阿呆」
一言ぶつけて、伊作は離れた席へと移動する。
なにをぬけぬけと。頭の中にある? 一生消えない? 一生記憶とサカッてろ、馬鹿野郎。
口の中だけでののしって、それでも顔だけが妙に熱かった。
忘れている。
忘れたふりをしている。
あの唇に唇を吸われたことを。あの腕に抱き締められたことを。熱く……貫かれたことを。
乱れた吐息が混ざり合った。
重ねた肌の間に、汗が流れた。
濃密で、爛れた時間。
二人だけの……時間。
友人として過ごすはずの日常の中で、不意に伊作は思い出す。記憶はまざまざと肌の上に甦る。
「伊作」
友の……友達のはずの男の、重い声。
「な、んだよ。ハラでも痛いの? 深刻な顔して」
軽く笑って冷やかして返そうとするけれど。
「伊作」
呼びかけの声だけ。もう強引な手が伸びてくることはない。
「伊作……」
真剣な瞳だけ。もう身勝手な言葉がつむがれることはない。
「……だから、なんだよ、もう。なにか、薬でも取りに来たの?」
軽く平静に返そうとするけれど……呼びかけられるたび、それは少しずつ、むずかしくなっていく。
あと、一ヶ月。
「卒業したら、次に会う時は敵同士かもな」
仲間内では意識して避けている話も、教室ではいやでも耳に入ってくる。
「ああ。みんなバラバラだもんな。ほら、先生なんかもさ、合戦場では昔の友達と斬り合わなきゃいけなかったとかさ」
「きついよなー」
ありえぬ話でないことは、誰もが知っていて。
あと、一ヶ月。
もう如月も半ば。
でもまだ、如月の半ばだったのに。
「伊作」
呼びかけてくる声は、なぜか、いつもより少しだけ明るくて。
「なに?」
薬草を挽く手を止めて、伊作は顔を上げた。
文次郎はいつものように壁に背を預けて座っていたけれど。
「俺、明日、発つから」
「え」
瞬間に意味がわからなくて問い返した。
「向こうの城が新人は少しでも早く欲しいんだってよ。俺、卒業式は出られねえ」
「……え」
やっぱり意味がわからない。あと一ヶ月。でも、まだ、あと一ヶ月……。
「なに、それ、そんな……」
「いいんだ。早いほうが」
きっぱり言い切る口調に、それ以上の言葉が出ない。
「伊作」
隣に行ってもいいかと尋ねられ、とっさに返事をしかねている間に、文次郎は身軽く立ち上がり、伊作の傍らに膝をついた。
間近で……ここ数ヶ月なかったほど間近で、目が合った。
「…………」
心臓が不自然に早くなる。
この近さから、何度も抱き寄せられた。何度も組み伏せられた。記憶が伊作の身を強張らせる。
文次郎は笑おうとしたようだった。それはちょっと唇の端が歪んだだけのものだったけれど。
「……んな顔すんなよ」
なにもしねーよ、と。
「最後にさ……いや、こういう頼み方ってのは情けねんだけど……まあ、最後だし」
最後? なにそれ、そんな急に。だってまだあと一ヶ月――
伊作の思いをさえぎって、文次郎は、頼む、と言った。
「髪。髪だけ、ちょっと撫でさせてくれねーか。友達だってそんぐらいはするだろ、な?」
髪? 最後に? なんだかそれはひどくこの場にそぐわぬ要求に思える。
「いいか?」
文次郎の手が伸びてきた。
その手はゆっくり、ゆっくり、伊作の髪を撫でる。慈しむように、感覚を手に覚えこませるように。
なんで最後に髪? 髪を撫でて? 最後? これで、終わり……?
「……元気でな。……いろいろ、悪かった」
手が離れていく。
ぬくもりが、離れていく。
「文次郎!!」
戸口に向かう背に伊作は叫んでいた。
「待てよ! なんだよ、なんだよ、これ!」
「伊作?」
いぶかしげな表情に怒りが一気に沸点に達した。
「なんでおまえはいつもいつもいつも! そう勝手なんだよ!」
伊作は叫んでいた。
「最後? なんだよ、それ! あと一ヶ月あるだろう!? あるはずじゃないか!」
文次郎はまた、歪んだ笑みを見せた。苦笑という。
「わりぃ。俺もいい加減、つれえんだ」
その言葉に伊作は床にこぶしを叩きつけた。
「自分ひとりが悩んでたようなことを言うな!」
怒りのあまりに涙が出てきたのか視界がにじんだ。
「おまえは勝手過ぎる! なんで勝手にここで終わりにするんだよ! なんで一人で勝手に決めるんだよ!」
「伊作……」
「ぼくは、ぼくは……ぎりぎりまで悩むこともできないのか!?」
あと一ヶ月。でもまだ一ヶ月あると思っていた。まだあと一ヶ月、友達としての時間があると思っていた。もう一度、あの唇に、腕に、肌に、自分が触れたらどうなるのか、自分はどうしたくなるというのか、思い惑う時間があると、思っていた。
呼びかけてくる声に潜む、熱さに狂おしさに、悩む時間があると、思っていた。
もう一度、あの力で抱き締められ、あの熱さで求められたら。
自分はどうなるのか。
伊作。呼びかける声に応えたら、自分はどうなるのか。
触れたいのか。
応えたいのか。
思い惑う時間は、あと一ヶ月あるはずだった。
立ち上がった。
戸惑うように自分を見る男の、制服の胸元をつかんだ。
「馬鹿野郎……」
思い惑う時間を断ち切られたら。
触れて確かめてみるしかないじゃないか。
伊作は文次郎の唇に己のそれを押し付けた。
了
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