こすりつけるように、唇を押し付けた。
信じられないことが起こったかのように文次郎が息を飲む。合わせた唇越しにその驚きが伝わって来たけれど、伊作は文次郎の襟をつかむ手をゆるめようとは思わなかった。
ただ、ただ、重なる唇の熱を確かめるのに必死で。
「いさ……」
目をいっぱいに見開いた文次郎に見つめられた。その上に、
「おまえ……」
震える手に頬を挟まれて、ぞくりと来た。食い入るような、怖いぐらいに真っ直ぐな瞳、少しかさついて熱い手。ほんのわずか、頬に手が触れているだけだというのに。伊作は自分の肌が触れ合った箇所を通してざわめきだすのを感じる。
「……わかってんのか……」
かすれたような声が問うてくる。
「今度こそ……俺は引いてやったりできないぞ? 今度こそ……絶対、おまえが泣いても嫌がっても、俺はおまえをあきらめないぞ…?」
ささやくような低い声に、その声の意味するところに……身体の奥底から震えが兆す。
――この、唇。この、声。この、手。この、熱……。
自分を根こそぎ奪い、組み敷き、巻き込んでいく、熱さと激しさ。一度はあれほど怖いと思い、蹂躙されることにあれほど傷ついていたというのに。向けられる視線に、声に、伊作は自分の中から応えるものがあると知る。
「文次郎……」
もういい、こらえなくていい。
万感の思いを込めて……そう告げようと伊作が口を開きかけた、まさにその瞬間。
「いさっくーん!」
スパーンと音高く保健室の戸が開かれた。
とっさに伊作は文次郎の襟をつかんでいた手を離し身を引いたが、目ざとい小平太が見逃してくれるはずもなかった。
「ああーっ! もんじ! だめじゃーん!」
小平太は非難がましく言うと、大股で近寄って来た。ぐいっと腕を引かれ、その背後にかばわれる形になって伊作はあわてたが。
「最後だからって、なに勝手に盛り上がっちゃってんだよー。だめじゃーん、ちゃんと我慢しろよー」
いや、それちがうから、これは自分が。
と、伊作は言おうとしたのだが。
くるっと振り返った小平太に、がしっと肩をつかまれて。
「いさっくん。もう大丈夫だからね。もう怖がらなくていいからね」
丸くて大きな瞳に間近からのぞきこまれてそう言われて、出てきたのは、
「ち……」
の一声だけで。
しかし、小平太の勢いに押されているのは自分ひとりだけではないようで、
「な、なに言って……」
おそらくは、『なに言ってやがんだ。伊作は自分から口付けて来たんだぞ』と続けたかったのだろう文次郎のセリフも途中で途切れてしまって。
「行こう、いさっくん」
心配げに背中を押され、文次郎からかばわれるような態勢で、伊作は保健室から連れ出されたのだった。
それでも、なんとか、
「こ、小平太、ちがうんだ……」
伊作は説明しようとしたのだが。
「あ、長次! いいところに!」
廊下ですぐに長次と行き会ってしまった。
「ちょっとさあ」
小平太が長次に耳打ちし、長次が心配げにこちらを見やってくる。
「…………」
伊作は開きかけた口をそのまま閉じた。
「じゃ、いさっくん! 俺は用があるけど、長次と一緒にいたらいいから!」
小平太の満面の笑顔。
長次の憂わしげな瞳。
「…………」
言えなかった。伊作には言えなくなってしまった。今日の口付けは自分から仕掛けていたことなんだ、とは。
長次の広い背に守られて、やすらいだ記憶がある。友の心遣いに、救われた記憶がある。今さら、どのツラ下げて、「どうやらぼくも文次郎のことを……」などとほざけるのか。「あの時は絶対イヤだと思ってたんだけど、よく考えたら、実はそんなにイヤでもなかったみたいで……」などとぬかせるのか。
その上、忍たま長屋に戻れば仙蔵がいて。
「聞いたよ」
などと言葉短くかけられて、わかっているよとうなずかれれば。
その細い肩を借りて、泣かせてもらった記憶が甦る。「仕方ないよ」と背を抱きながらささやいてもらった記憶が甦る。『ぼくは、ぼくが、大嫌いだ!』そう叫んだ。泣いた。仙蔵は静かにそれを受け止めてくれた……。
言えない。言えるわけがない。「ボクさあ、実は文次郎に触れられるとときめいちゃうみたいなんだあ」などとは。
ぽん、と仙蔵に肩を叩かれた。
その顔を見上げ、そして伊作はうつむいた。
ぼくは、ぼくが、本当に大嫌いです……。思いながら。
その夜は、仙蔵と文次郎の部屋でみんなで別れを惜しみながら呑むことになった。
「もんじ、水くさいよ〜! 明日発つっていきなり今朝言い出すんだも〜ん」
そう小平太が恨みがましそうに言うのを聞けば、文次郎が旅立ちを伏せていたのは自分に対してだけではなかったらしい。それだけで、なにかほっと救われる思いがする自分はやっぱり相当にマズイんじゃないかと、伊作は思うのだが。
「まったくだ」
仙蔵がうなずいた。
「その上、卒業式にも出ないだと? 何様だ、おまえ」
コブシの代わりに、ぐっと突き出された杯を受けながら文次郎が笑う。
「たった一ヶ月早まっただけじゃねーか。なんだ、仙蔵。俺との別れが悲しいか」
「誰が悲しい?」
言いながら腰を上げた仙蔵は、文次郎の頬を鷲づかむと左右にぎゅうっと引っ張った。
「わたしは礼儀の話をしているんだ、礼儀の」
「ひょれあ、れいひららひいらいろかお」
それが礼儀正しい態度かよ。文次郎が言い返す。
「もんじ、俺は悲しいよ〜」
小平太が割って入って、文次郎の背中から抱きついた。
「もうちょっと早く言ってくれてもさ、いいと思うよ?」
そうだ。
伊作も思う。
もう少し、早く。もっと時間のある時に。
まだなにも伝えていない。なにも確かめていない。
だが――
自分の傍らには夕方からずっと長次が影のように寄り添ってくれていて。おまけに、こうして酒盛りが始まってしまえば、二人になるどころか文次郎と会話を交わす機会さえ得にくくて……。
「あーあー悪かった悪かった」
文次郎が絡む仙蔵と小平太を振り払って立ち上がった。
「あ、もんじ、逃げるんだ」
「誰が逃げるか。厠だ、厠」
とっさに伊作は腹を決めた。このまま五人で呑み明かしてどうする。伝えるんだ、想いの丈を。確かめるんだ、二人の間にあるものを。
「……あ。ぼくも、厠に……」
伊作にしたら精一杯の自然さを装ってそう呟き、腰を上げた。
……自然だったと思う。いや、自然すぎたのがいけなかったのか。
「えー二人が行ったら、俺も行きたくなっちゃうじゃーん」
小平太が言い、
「まあ、連れションというのも、これが最後かもしれんしな」
と仙蔵が立ち上がり、
「…………」
無言で長次も膝を立て。
………………。
これがほかのことなら。伊作には言えたのだ。『いいよ、ぼく一人で』と。『小平太と仙蔵と、長次の分だね。いいよ、ぼくが代わりにやっておくよ』と。ほかのことなら。
小便はそうはいかない。
代われない。
代われるわけがない。
代役の立てようなど、あるわけがない。
五人でぞろぞろと厠に入った。
みんなで並んで用を足した。
気のせいだか、伊作には自分のモノがにじんで見えた。
その夜一晩。常に文次郎と伊作の間には、小平太か、仙蔵か、長次か、あるいは三人全員がいた。
「大丈夫だ」
「心配ない」
「なにもさせやしないよ」
時折、ささやきとともにぽんと肩を叩かれたりするのを見れば、これは三人の友情なのにちがいなかった。
それはそうだ。
あれだけの心配をかけたのだ。
長次は文次郎と殴り合いまでしたのだ。小平太も怒り、仙蔵もかばってくれた。
そうだ、これは、三人の、友情なんだ……。
思いやりを無碍(むげ)にすることのできる伊作ではなかった。
だから、次の日の朝、門の前で並んで文次郎を見送る段になっても、伊作は自分の肩に置かれた長次の手を振り払うことができなかった。
「もんじ、元気でね」
「無茶はするなよ」
胸にせまるだろう思いを、しいて明るい口調に乗せて、友らが別れの言葉を口にする。
「おう。おまえらもな」
文次郎は笠を手に、小平太、仙蔵と視線を当て……そして、伊作を見た。
「文次郎……」
合わせた視線に万感がこもる。
だが、あふれる感情に揺れる瞳を、文次郎はふいっと伏せた。
「……おまえも、元気でな」
最後に文次郎は伊作の背後に立つ長次に視線を向けた。
「だんな……いろいろ、面倒かけて悪かった」
ぐっと頭を下げるその姿に、伊作は文次郎のけじめを見た。
きのう、口付けた。
ほかの誰が知らなくても、文次郎自身は二人の間に通いかけたものに気がついたはずだった。
「今度こそ、俺はおまえをあきらめないぞ?」
気づいてくれたからこその、あの言葉だったのだと思う。
それでも。
おまえが踏み出して来ないなら、おまえたちがやはり許せないと言うのなら、俺が悪かった、俺はもうこのまま発つ、と?
「文……」
思わず呼びかけようとした伊作の声を聞きながら、文次郎はくるりと踵を返す。
「じゃあな」
余計なことはもう言わない。
文次郎は歩みだす。
学園の門に、そこに立つ伊作に、背を向けて。
見る間にその姿は小さくなった。
伊作はぎゅっとこぶしを握った。友が自分を案じてくれる気持ちはうれしい。さんざん心配をかけた申し訳なさもある。しかし、今、今、駆け出さなければ、自分は一生後悔する。
肩の手を振り払う勢いで、伊作は長次に向き直った。
「ごめん!」
がばりと頭を下げる。
「勝手…勝手を言うけど、ぼくは……っ!」
必死に言葉を紡ごうとするけれど、想いがあふれて、うまく続かない。と。
「なんだあ」
小平太の声がした。
「もんじ、すっかりイイ子じゃん」
「だな。もう一波乱あるかと思ったが」
こちらは人を食ったような仙蔵の声がして。
え、と伊作は顔を上げた。
その鼻先に、にゅっと突き出されたのは、小さな風呂敷包み。
「ごめんね、いさっくん、意地悪して。仙ちゃんがどうしてもそうしろって言うからさあ」
「なにを。おまえだっておもしろがってたくせに」
伊作は慌てて三人の友の顔を見回す。長次と目が合うと、
「……すまん」
寡黙な友が一言、落とした。
まだ呆然としている伊作の手に、小平太が風呂敷包みを押し付けてきた。
「はい。一泊分の着替えと荷物」
「明日までの外出・外泊届けは出しておく。昼までには戻れよ?」
手に押し付けられた荷物を見た。もう一度、友の顔を一人一人、見回した。
長次がひとつ、うなずいてくれて。
「あ……」
伊作の胸に、じわりとあたたかいものが湧いた。……こういうことだったのか。こういう……。
「行きなよ、いさっくん」
小平太の、背中を押してくれる言葉に、どうしようもなく頬がゆるんだ。
本当は、怒った顔で言いたいのに。
「……おまえら。帰って来たら、ぶん殴ってやる」
そして、これは笑顔で言いたい言葉を、伊作は思いっきりの笑顔で口にした。
「ありがとう!」
小平太のイタズラ成功と言わんばかりの笑顔。
仙蔵のちょっと斜にかまえた微笑。
長次の、口元をわずかに緩めただけの笑み。
三人の友の笑顔に押されて、伊作は駆けた。
伝えるために。確かめるために。
自分の想いを。二人の絆を。
「文次郎ーっ!」
駆けながら、大声で伊作は呼んだのだった。
了
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