「こういうのは、下級生がするべき仕事じゃないのか」
眉をひそめて言うのは仙蔵だ。
「うん……」
伊作が困ったように笑う。その手は小さな紫の花をつけた細い草を丁寧に懐紙に包んでいる。
「この岩場はちょっと急だから。一、二年生にはキツイと思うんだ」
「四年だって五年だっているだろう」
不満げに返す仙蔵に、まあまあと声をかけるのは小平太だ。
「いいじゃん? 楽しいし。なんかこういうのってピクニックみたいじゃん」
「……なにがピクニックだ……」
ギロリ。仙蔵の冷たい視線を浴びても、しかし小平太がへこむものではない。
「えーオレはぁ、仙ちゃんと一緒ならどこでも楽しいって言うかあ……」
「いっぺん死んで来い」
「きゃああ」
仙蔵に岩場から蹴り出された小平太が、それでもうれしげな声を上げて落ちて行く。
彼らなりのじゃれ合いを横目に、長次がまた一本、根ごと引き抜いた薬草を伊作に差し出す。
「――これぐらいでいいか」
「うん。ありがとう、長次」
にこやかに受け取る伊作の横から、また一本、これは文次郎が差し出す。
「…………」
「…………」
差し出す文次郎も無言なら、受け取る伊作も無言だ。
保健委員である伊作が、少し遠い岩場まで薬草取りに行きたいが誰か手伝ってくれないかと声をかけた時、真っ先に手を上げたのは小平太だった。彼が嫌がる仙蔵を引きずり、無関心を決め込む長次に声をかけている間に、文次郎はひっそりと伊作の背後に立っていた。
「行ってくれるの」と伊作が聞きもしなければ、文次郎が「俺も行く」とも言わない。彼らは出立の当初から口をききあわず、穏やかな表情が常の伊作が、文次郎に向き合う時だけはその顔を冷たく強ばらせた。
だが、それも。今日に始まったことではないので。
緊張した空気を漂わせる二人に気づいて気づかぬふりで、友人たちはこの薬草摘みに同道したのだった。
「じゃあ、そろそろ戻るー?」
今も無言のやりとりが、ある意味痛々しい彼らに、明るく邪気なく声をかけたのは、這い上がって来た小平太だ。
が。伊作の指がすっと上がった。
なんだ、と見上げた先は、この岩場よりさらに高くそそりたつ崖の中ほどに、一本、ひっそりと頼りなく揺れている草の葉だった。
彼らが立つ岩場からぬっくりとそそりたつその岩壁は、風雨のいたずらか、天然の忍び返しになっていて、登るも降りるもかなうとは見えない。
「あれは無理でしょ、いさっくん」
小平太に言われても、伊作は無言で崖の中腹を指さし続ける。
その横顔はここ数週間に彼が見せるようになった頑なさに、こわばっている。
文次郎が立ち上がる。
まっすぐに崖へと向かい歩み出す彼に、
「やめておけ」
長次がぼそりと声をかけるが、文次郎の足は止まらない。
ガッ!
手甲鉤を岩に食い込ませ、文次郎は反り返るようなその岩壁を登り出す。
「無理、無理だよ、もんじ!! いさっくんも止めなよ! ねえ!」
制止の声を上げる小平太を、文次郎は崖を登り続けるその背で無視し、伊作はこわばった横顔で無視する。
「…………」
もう誰も声を上げない。
急峻な崖を指さす伊作、登る文次郎。
友人たちは押し黙る。
文次郎の指が、たよりなく震えるその草に、届いたと見えた時だった。
ガラリと彼の足元が崩れ、たださえ取り付きの悪いその崖から、文次郎の身体はほとんど一直線に滑り落ちた。
ガラガラと岩くれとともに落下する文次郎に、下にいる者たちは息を飲み、駆け寄る。
「もんじっ! だいじょうぶ!?」
顔に派手な擦り傷を創り、制服もぼろぼろにしながら、文次郎はなんとか立ち上がった。
「…………」
よろりと来た足を踏み締めて、文次郎は腕を伸ばす。
小平太たちの後ろに立つ伊作に向かい。
落下の途中、ついに手放さなかった薬草を差し出す。
だが。
文次郎の手の中の、千切れかけた薬草を伊作は数瞬、見つめ……
「――もうそれは、使いものにならない」
言い捨ててくるりと背を向けた。
「いさっくん!」
さすがに上がった小平太の非難の声にも、振り返らず。
伊作は足を止めようともしない。
そして文次郎は、そんな伊作に怒りの声を上げることもしないのだ。
受け取ってもらえなかった手の中のものを投げ捨てると、彼は制服に付いた砂ぼこりをはたいて落とし、ひょこたんひょこたん、軽く足を引きずりながら歩きだす。
小平太は口を引き結び、仙蔵は軽く肩をすくめ、長次はわずかに眉を寄せ……三人は、そんな二人の背を見つめていた。
「……らしくないよ!」
たまりかねたように口を切ったのは小平太だ。
はるか前を行く伊作のことである。
保健委員というばかりではない、本来、人に対しては自然なあたたかさを持って振る舞えるはずの彼が、一歩遅れて足を引きずる文次郎に肩を貸そうともしなければ、歩みをゆるめてやることもしないのだ。
「……だな」
感じるところがあるのだろう、仙蔵がこれはあっさりと同意を示す。
「あれは伊作のキャラじゃない」
うんうんと、うなずく小平太。
「あれはわたしのキャラだろう」
うん……とうなずきかけて、凍る小平太。
「うん? どうしたの、小平太?」
わかっていて仙蔵は、にっこりとその美麗な顔をほころばす。
「もしかしたら小平太は、わたしのためには崖など登るのはイヤだとか?」
ぶんぶんと、首を横にふる小平太。
だが、その目はもう少し正直に彼の内面を映す。
「……そう。イヤなの」
仙蔵の笑みはますます輝く。
「いいよ、それなら長次に頼む」
ぶんぶんぶん! 音さえたつほどに首を横にふる小平太である。
「登る〜登る〜、おれ、登る〜」
「いいんだよ、無理しなくても」
「登るってば〜」
――当初。
確かに、本当に、友人を案じていたはずの彼ら、小平太と仙蔵の会話が、いつしか二人のじゃれあいに変化しているのを、長次は無言で聞いている。
――無理からぬ。
彼らの恋も始まったところ。
人の恋路に、かかずらう余裕などないところ。
……いや。伊作と文次郎が『恋』をしているとしての話だが。
長次は、ひょこひょこと揺れる文次郎の影とすたすたと足早に行く伊作の影を見やる。
その瞳には憂慮の色が濃かった。
知っていた。
友人たちが自分と文次郎を見る瞳に、心配と、時に非難の色が浮かぶのは。
伊作は気づいている。
気づいていたが……止まらなかった。
どうしたら止まるのか、わからなかった。
――自分にのしかかるこの男を、刺せばいいのか?
「いやなら、殺せ」
そう言い放ち……自分の口をがさついた手でおおうこの男を、刺せばいいのか。
堅く堅く、怒張したもので自分を貫くこの男を……
その堅さも、長さも、大きさも……もう覚えてしまったこの男を……
殺せばいいのか。
肌の熱さを、匂いを、湿りを覚えた。
逝く時のリズムを覚えた。
脱力した時の重さを覚えた。
その男を。
殺せばいいのか。
――そうしたら、自分は解放されるのか?
叫びを上げさせまいと口をおおう手がなければ……苦痛よりはあまいなにかを訴えて声をあげてしまいそうな、自分の口から。
律動に合わせて、広がるなにか、深まるなにかを追って、揺れてしまう自分の腰から。
得手勝手なだけの、凌辱者の肌に触れるそこから嫌悪ではないなにかを感じてしまう自分の肌から。
解放されるのか?
文次郎がいなくなれば? この男を刺しさえすれば?
伊作は自分の指を噛む。
「……やめろ」
気づいた文次郎が口から指を外させる。
「……いやだ……」
指がなければ、いやだ。なにか噛んでいなければ、いやだ。
口を塞いでくれ。
でなければ自分は叫んでしまう。いい、と。もっと、と。
一度叫んでしまったら、きっともう止まらない。
喘ぐだろう、嬌声を放つだろう、腰を振るだろう……きっと、文次郎にしがみついてしまうだろう……
いやだ、いやだ、それはいやだ。
なら、おまえを刺せばいいのか?
……それは、もっと……いやだ……
「いやだ」
伊作は繰り返す。
文次郎の瞳にも、言葉にはならない想いが渦巻いているように見える。
……なんで、そんな目をする。
なんで、そんな目でぼくを見る。
おまえなんか、ただのスケベじゃないか。
死をちらつかせて劣情を遂げようとする、卑怯者じゃないか。
友達相手に強姦かます、卑劣漢じゃないか。
……なのに、なんで、そんな目でぼくを見る……
「……噛め」
文次郎の指先が口の中に差し入れられる。
「……自分の指は……噛むな」
――なんで……なんで……
伊作は文次郎の指に歯を立てた。
がんばらないと顎に力が入らないような気がした。歯が、その肌を破るのを恐れているような気がした。
だから伊作は、顎に思い切り、力を込めた。
容赦などしないように。
ぼくは、おまえを許してなんかいないんだから、と。
文次郎が深く、呻きを飲んだ。
重いため息をついたところだった。
「善法寺くん」
明るい声に呼ばれた。
顔を上げると、小松田が手に木箱を持って立っていた。
「これ、保健室に補充する分なんだけど、これだけでよかったかなあ?」
「あ、はい」
腰掛けていた縁から、伊作は立ち上がる。
「これは……この前、補充希望のリストを出した分でしょうか?」
「うん、そうだと思う」
思う、その言葉に、ああ相変わらずの小松田さんだなあと、笑みが漏れる。
「リストと照合したいんですけど、持ってみえます?」
わざと言ってみる。
案の定、小松田はすぐに困った顔になった。
「えっと……あのリストだよねえ? えー……確かこのへん……」
両手に木箱を持っていながら、懐を探ろうとした小松田の動きに、木箱はぐらりと揺れた。
「ああっ!」
「おとと」
二人同時に声を上げ、木箱は伊作の手に支えられて事なきを得る。
「……あーびっくり。ありがとう、善法寺くん」
にっこりと邪気ない笑顔を向けられて……
胸の奥からあまずっぱいものが込み上げて来た。
小松田の笑顔が好きだった。
目の離せないドジぶりには、「ぼくがついててあげなきゃ」と責任感めいたものが湧いて、でもそれは、蕩けそうにあまい想いだった。
一緒にいると、いつでも春の日だまりのあたたかさが味わえた。
――好きだった。
正直に言えば。
小松田と唇を合わせる場面を想像して、一人赤くなったことがあった。
小松田の肩を引き寄せ、抱き締める場面を想像して、あわてて首を振ったこともあった。
きっとそれは……裸で抱き合ったり、おのれの男のもので小松田の中に入って行きたいという欲望に、近いものであったろうと思う。
もう少し自分に経験があったら。
想像はきっともっときわどく、直截なものを望んだものになっていただろうと思う。
――それを、望むようになる前に、自分は……
また小さくため息をついた伊作に、
「善法寺くん?」
小松田は顔をのぞき込んでくる。
無防備な、その顔、唇。
伊作は首をかしげてみた。
すっと顔を前に差し出してみた。
……それだけだった。
それだけの動きで……唇は小松田のそれに重なった。
柔らかかった。
あたたかだった。
こどもの肌を連想するような、柔らかさとあたたかさだった。
押し当てた。
離れる時に、ちょっと吸ってみた。
小松田の柔らかい唇は、チュン、と小さく湿った音を立てた。
「……好きでした」
目を丸くしている小松田に告げた。
「これはぼくが保健室に運んでおきます」
驚きさめやらぬらしい小松田に、小さく会釈した。
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