傷―はじまり―

 

 

 

 伊作はぎゅっと下唇を噛んでいる。
 唇が切れるぞと、文次郎は言ってやりたかったが、やめておいた。
 つい先程、伊作の躯の別の部分を傷つけ、血を流させたのは自分であったから。今さらの忠告は白々しいだけだろうと思われた。
 正直、伊作の唇がそれほど心配なわけでもなかったし。
 それよりも、唇は青じむほどに噛み締められていながら、それでもヒューヒューと漏れてくる息の音がいつ泣き声に変わるかと、そちらのほうが文次郎は気になって仕方なかった。

 



 まだ剥き出しになったままの肩が、大きく二、三度上下した。
 ――最前、その肩に、文次郎は腕の戒めにしていた上着をほどき、掛けてやろうとしたのだが、伊作に振り払われたのだ。
 今度こそ泣き出すか。文次郎は身構えた。
 金を仲立ちにした女なら泣かれても大したことはないが、目の前で、この状況で伊作に泣かれて、なにをどう言えばいいのか、文次郎はわからない。
 とても冗談口でまぎらわせる雰囲気でないのは承知だったが、このまま泣き出されるのも困る、
「……赤飯でも炊くか」
 苦し紛れにそう言ってみた。
 伊作が顔を上げてこちらを見た。
「……炊いたら……殺す」
 殺す、と。
 伊作ははっきり言った。
 目に怒りをこめて。……涙をいっぱいに浮かべた目に、怒りをこめて。
 低く静かに、伊作は言った。
 殺す、と。

 


 背中を痺れが駆け抜けた。
 大股広げた女が叫ぶ、死ぬ死ぬ、と。
 コトの最中の、多分にアオリの入った言葉に比べ、同じ「死」を意味しながら伊作の言葉はなんと刺激的なことか。
「殺す」
 その言葉を口にした瞬間、確かに伊作は殺気をまとった。非情になりきれぬのを一番の欠点に上げられる伊作が。一瞬だけ、それでも確かに殺意を見せた。
 一瞬の殺意は、しかしすぐに消え、うつむいた伊作の横顔に、はらり、乱れ髪が垂れかかる。

 


 背中を駆けた痺れが、下半身であまい疼きになって拡散していくのを感じながら文次郎は伊作を見つめる。
 ……精なら、たった今、吐き出したばかりなのに。
 なのに。
 下半身の疼きは、また明瞭な熱を持ちそうな気配がある。
 屈辱に唇を噛み、怒りに肩を震わせている伊作。
 その伊作を見つめていると……腰が熱を帯びそうなのだ。
 ――背中がしなやかに反っていた。
 ――栗色を帯びた髪が、床に広がり波打っていた。
 ――押し入ったそこが、熱かった。
 ――噛み殺そうとしながら漏れる声が、高く細かった。
 記憶が、文次郎の腰を熱くする。

 


 目をそらそうとしたのは、なにかがマズイとささやいたからだ。
 マズイマズイ。これは、マズイ。
 勢いと冗談で友を凌辱してしまうより。
 マズイ気がする。
 欲情をもって友を見つめること。勢いなどではなく、最初から明確な意図を持って、その躯を自分の下に引き込みたいと願うこと。
 それはマズイだろう、そう思って文次郎が身じろぎしたところに、伊作が顔を上げた。
「……友達だと、思っていた」
 聞き取れぬほど低く、伊作がつぶやいた。
「あ?」
「友達だと、思っていた」
 今度ははっきりと聞き取れる。
 そこにこめられた、怒りと非難も。
「文次郎」
 伊作は正面から文次郎に向き合う。
「許さない」

 



 伊作は美男子なのだと言う。
 優しげな二枚目だと、下級生には人気なのだと聞く。
 しかし、今の今まで、文次郎は伊作の顔の造作に見惚れたことはなかった。
 雅(みやび)な公家人形を思わせる仙蔵が身近にいたせいだったか。
 だが。
 涙で濡らした瞳をしっかりと向けられて、文次郎は初めて伊作を綺麗だと思った。
 ほつれた髪に縁取られた、その顔を……綺麗だと思った。
「出てけ」
「伊作……」
「出てけっ!」
 腕を振り回されて、文次郎は腰を浮かした。
「出てけっ! おまえなんか、もう友達でもなんでもない! 出てけ出てけ出てけえっ!!」
 半裸の伊作が腕振り回し、叫ぶ。出てけと叫ぶ。ついにこぼれだした涙をぬぐおうともせず、伊作が叫ぶ。おまえなんか友達じゃない。
「で、出て行けねえよ……」
 立ち上がりかけながら文次郎は言ってみる。
「だっておまえ、泣いてるし」
「誰のせいだっ!」
 ……確かに。
「それは……俺が悪かった。謝る」
 ふと。伊作の腕の動きが止まった。目を大きく見開いた状態で、顔の表情も固まった。
「……あやまる……?」
「お、おう! 俺が悪かった。謝る。ごめん。すまん」
 手を合わせて見せた文次郎を、伊作が見上げる。
「……あやまって、すむことなのか? ……あやまられたら……僕は、許さなきゃいけないのか……?」
 文次郎も固まった。
 減るもんじゃなしいいじゃねえか、と言い返しても、正真正銘の女だってんならともかく、男同士の冗談じゃねえか、と言い返してもよかったが、伊作の表情に文次郎は返す言葉を失った。
 伊作は、傷ついている。傷つけたのは、自分なのだ。
「……僕は……」
 伊作の声が震え出した。
「……僕は……許せない。……こんなことされて……許せるわけがない……!」
 ぱたぱたっと涙が膝に落ちた。
「伊作……」
「出て行け。……おまえは、もう、友達じゃない……!」
 昂然と頭を上げて伊作は宣する。
 断罪された文次郎は、深く深く息を吸い、吐き出した。そしてもう一度、
「すまなかった」
 詫びを口にして、その部屋を出た。

 


 閉めた板戸にもたれかかり、文次郎は顔を覆う。
 己がしでかしてしまったことへの後悔も。
 友を失うことへの恐怖も。
 すべてが。
 目先にちらつく伊作の肌、乱れた髪、涙をたたえた、綺麗な瞳に呑み込まれる。
 浅ましい、と思った。
 後悔よりも悲しみよりも怖れよりも。
 大きいのは伊作への欲情だと、文次郎は気づく。 
 浅ましい。
 自分の浅ましさがたまらなくて、文次郎はこぶしを口へと持って行く。
 思い切り歯を立てたそこから、にぶい鉄の味が口の中へと広がった。

 

 


                               了
 

 

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