玻璃きらら

 

 遠く、笛や太鼓の音が聞こえる。
 夏の夕べはまだ暮れ切らぬが、天神さまの夏祭りはそろそろにぎやかに始まろうとしているらしい。
 去年までは祭りの囃子を遠音に楽しみ、家でひとり杯を傾けていた土井は、今年は彼の預かる生徒が立ち働いているだろう小屋掛でものぞきに行くかと、腰を上げた。


 お社が近くなると笛に太鼓、鉦に謡と、お囃子はかまびすしいほどに賑やかになって来る。境内に入り切らぬ出店が沿道にまであふれ、いやがうえにも祭り気分を盛り上げて、団扇片手にそぞろ歩く人々の目を楽しませている。
 きり丸に場所だけでも聞いておけばよかったと思いながら、土井は参拝も済ませるつもりで、のんびりと足を境内に向けた。
 いくつもいくつも吊られたぼんぼりと提灯に火が灯り、ゆらめくあたたかい光のもとで、金魚すくいにかき氷、こじゃれた玩具の当たる的当てやイカの醤油焼きの出店に、今日はちょっとこざっぱりしたなりをさせてもらった子供たちが群れている。
 ‥‥今日も朝早くからバイトだと家を飛び出して行ったきり丸は、いつもの継ぎの当たった単衣(ひとえ)を着ていたはずだ‥‥出店の中を覗き込むようにして、見知った着物の柄がないかと見ていた土井は、奥深く胸の痛むのを覚える。水を浴びて昼の汗を流し、さっぱりした着物に着替えて、屋台に遊ぶ子供たちもいるのに‥‥。
 その時、ひときわ高い赤ん坊の泣き声が聞こえた。
 見るともなしにそちらを見た土井は、彼の教え子が、団子を返す手も休めず、背中におぶった赤ん坊を揺すりあやしているのを見つけた。

 

 すすけた暖簾に、だんごの文字が踊る。暖簾の向こうで、長火鉢に焼き網を乗せ、その上でみたらし団子を焼いているきり丸の頬は、熱に煽られて赤く染まっている。
 ‥‥夕暮れとは言うものの、夏の炎暑の残る中、炭を使った仕事はきつかろうに。
『ばかだなー、先生』団子を焼いているきり丸の声が聞こえた気がする。『みんなが嫌がる仕事だからバイト料がいいんだよ』
 それでも赤ん坊を背負ってでは、大変だろう。
 熱気のこもる小屋掛で、しかも背中にくくられた赤ん坊は、その扱いの悪さにきり丸より赤い顔をして必死の大声で泣き続けている。
 苦笑まじりのため息をもらして、土井は暖簾を手ではねた。


「先生!」
 ぱっときり丸の顔が輝いた。
「団子買って、団子! 焼き立てだよ!」
「団子はいいが、きり丸。その赤ちゃんはどうしたんだ」
「昼間預かったらさあ、用事ができたとかで夕方もみてくれって。割増料金とれるからいいんだけど、泣き止まないんだ。涼しいとこでおしめ替えて、ちょっと氷でもしゃぶらせればすぐ泣き止むと思うんだけど」
 そう言ってちろりとこちらを見上げて来たきり丸に土井は眉をしかめて見せる。
「自分一人でこなしきれない仕事を引き受けるんじゃない、といつも言ってるだろう」
「引き受けたんじゃないよ、頼まれたんだよ」
 屁理屈をこねるきり丸に軽くゲンコツをくれてから、土井は裏に回って赤ん坊をきり丸の背中から受け取った。
 軽く涼しくなった背中に、きり丸が気持ち良さそうに伸びをする。
 擦りむけたように赤くなっているおぶい紐の跡が、その襟元からのぞいて土井の目を刺した。


 気がついたのは同時だったか。
 祭りに来ているほかの子供たちと同じように、質素だけれど仕立て下ろしらしい麻の単衣を着、団扇を手にした乱太郎と、その後ろに笑いながら連れ添っている両親。瞬間、また深く胸に痛みを感じた土井は、つと、きり丸と乱太郎の間に動こうとした。
 が、それより一瞬早く。
「あ! 乱太郎!」
 きり丸が友を見つけて屈託のない大声を上げた。
「きりちゃん、今日は団子屋さん?」
「なあなあ、団子焼いてみたくねえ?」
「えー、また手伝わせる気でしょー」
 そう言いながらも乱太郎はいそいそと小屋の裏に回って行く。
 仲良く並んで団子を焼き出した二人に、土井は小さく吐息を漏らす。‥‥わかっているのだ、彼の預かり子が十分にたくましく、しなやかなのは。
 大人の勝手な感傷だ。
 土井は自分を叱りつつ、にこやかに二人を見守る乱太郎の両親に会釈した。


 片付けがあるから遅くなると言うきり丸に、それなら夜食でも用意しておいてやるかと先に戻っていた土井は、帰って来たきり丸の顔を見て一瞬、息を飲んだ。
 きり丸の左目のまぶたが青黒く腫れて重く垂れている。
 土井の顔を見るときり丸は、へへ、とばつの悪そうな笑みを浮かべた。
「よけそこなっちゃった」
「‥‥どうしたんだ、誰にやられた」
 喉にからまる声を土井は無理に押し出して尋ねる。
「えー、ちょっとドジって、団子屋のおやじ怒らせちゃって。ほら、ああいうテキヤのおやじって短気だから」
 だからと言って。土井の脳裏を祭りで見た近在の子供たちの様子がめぐる。今頃あの子たちは買ってもらったきれいな千代紙で出来た風車を枕元に置いて‥‥。同じ年頃と見てわかるだろう、十になってまだ間もない。そんな、普通なら親の庇護のもとにある筈の年頃の子供を、痣のできるほどに殴ることはないじゃないか。土井はきり丸を殴りつけた男に激しい怒りを覚えた。
 見た目ほどはひどくないとか、痛みはないとか、自分に起きた災難を努めて明るくなんでもないことのように流そうとしているきり丸に、土井は目を向ける。
「‥‥きり丸。明日の祭りのバイトは休みなさい」
「なんでっ!」
 きり丸は大声を上げる。
「明日で終わりじゃん! 明日のほうが本祭だし、せっかくの稼ぎ時だよ! これぐらいどってことないんだから!」
 必死に言い募るきり丸に、土井は表情は変えぬまま、身内にたぎる怒気をほんの少し、外に出す。
 ‥‥忍びの仕事をしている時は。闘気や殺気、その「気」のぶつけ合いも戦いのひとつ。気迫負けしたものは刃を交える前に殺られているのも同じなのだ。だからこそ、そういう負の気配を土井は日常漂わせたことがない。
 どれほど悪戯をしようと馬鹿をしようと、今まで土井が見せたことのない怒りのオーラに、勘の良いきり丸がびくりと身をすくませるのがわかった。
「‥‥わ、わかったよ‥‥休むよ」
 土井はあっさりと「気」を消す。
「塩結びをこさえておいた。水を浴びたら食べなさい」
「はあい」
 中庭の井戸へと出て行きながらきり丸が呟くのが聞こえた。
「テキヤのおやじよりこええ‥‥」


 次の日の夕刻、しぶしぶ戻って来たきり丸に水浴びをさせ、さらとはいかないが、土井の着物を仕立て直した単衣を差し出した。
 唇を突き出していたきり丸が、その着物に袖を通した時だけ、その袂に顔を寄せ、
「‥‥先生の匂いがする‥‥」
 と、にこりとした。
「ばか。ちゃんと洗ってあるぞ」
 だいたい体臭と言われるほどのものが付かないように小まめに体を洗っていると、さらに言葉を継ごうとした土井は、なんだかやけに嬉しそうに仕立て直しの着物を着てくるりと回って見せたきり丸に、笑みをもらし口をつぐんだ。‥‥新品の反物を求めるよりよかったかと思う。
 が。
 きり丸の機嫌がよかったのはそれだけだった。
 祭りへと連れ出した土井に、よほど昨夜の見幕が怖かったのか文句こそ言わないものの、折角の銭儲けの機会を潰されたと、きり丸は仏頂面を崩さない。
 出店をのぞいても、屋台の前に立っても、『本当なら銭をもらう側なのに』と思う無念が先に立つらしく、楽しむ風がない。
 余計なことをしたか、と土井も浮かぬ顔になる。
 ‥‥だいたい‥‥きり丸にはきり丸の夢があり希望があり、それがたとえビタ銭一枚に血道を上げることであっても、本人が満足なら邪魔してはいけなかったのだ。近在の子供のように‥‥祭りを楽しんでほしいと思ったのは大人の勝手な感傷だったと、土井はため息をついた。
 なんとはなし、気まずい雰囲気になって祭りの中を行く二人の先に、大きな人だかりがあった。
「猿だ猿だ!」
 子供たちが叫びながら二人の横を擦り抜けて行く。
「へえ。猿回しか」
 よほど猿の芸が見事と見えて、人だかりはどっと笑い崩れたり囃し立てたり、賑わいでいる。
 不機嫌だったきり丸も興を覚えたか、小走りになると人垣の後ろから背伸びをして前をのぞきこもうとしたが、人の輪が三重四重の厚さで子供の背丈では隙き見もできそうになかった。
「先生、おれ、前行く、前」
 言って人の間をくぐって行こうとするきり丸の襟首を土井はつかんで引き戻した。
「こら。こぼれた投げ銭でも拾うつもりだろう」
「えー、それもあるけど、ここじゃ見えないじゃん!」
 本音もぽろりと漏らしつつ本当に見えないことに焦れているきり丸の様子に、土井頬もようやく緩んだ。
「よし」
 土井はきり丸の胴に両手をかけた。まだ丸くて細い胴を抱えて、ぐい、と持ち上げる。
「せ、先生!?」
 驚くきり丸の足の間に頭を突っ込み、
「どうだ、見えるか」
 あっと言う間にきり丸を肩車に乗せ、土井は尋ねた。
「うわ‥‥! せ、先生、い、いいよ、おれ、こんな‥‥」
 きり丸が慌てるのも無理はない。肩車に乗ると言えば、せいぜいが四、五歳ぐらい。もう十分に体重もあり、上背もあるきり丸が、決して小柄なほうではない土井の肩に乗れば目線は八尺を越える。
「お、降ろしてよ、先生‥‥!」
「いいから、ほら、見えるか」
 きり丸の膝から下をしっかりと手で支えながら土井は聞く。
「‥‥‥‥」
 上からの応え(いらえ)はなかったが、くせのある髪におおわれた土井の頭につかまる手に、ぎゅっと力がこもった。
「‥‥見えるか、きり丸」
「‥‥うん、うん、見えるよ、先生‥‥」
 心なしかくぐもった声がようやく答えた。
「‥‥見えるよ‥‥」


 身振り手振り、猿の真似をしてみせるきり丸に笑いながら、祭りの人込みを行く。
 ようやく機嫌のなおったきり丸に、土井はあちらこちらの屋台を指さす。
「あれ、ほしくないか、きり丸」
「金魚すくってみないか、きり丸」
 きり丸の返事は同じ。
「いらない、おれ」
 ついにたまりかねて土井は言う。
「あのなあ、せっかくの祭りなんだぞ」
 きり丸はまだ重く腫れている左目のまぶたの下から、ちろん、と土井を見上げる。
「祭りだからって財布はひとつなんだよ、先生。薄給なんだから無理すんなって」
 給料のことを言われて土井は黙る。
 ‥‥学園の給料以外に、土井が稼ぐ手立てはいくらでもある。いままで、長期の休みには、体と勘が鈍らぬように忍びの仕事を請け負っていた。夏休みいっぱい、よその城で働けば、今この祭りに出ている出店すべてを買い占めても、十分に足るほどの報酬が得られる。
 ふう、と土井はため息をついてみせた。
「おまえが心配することはないんだ。わたしにだってへそくりぐらいあるんだから」
「でも、それってさあ‥‥」
 口の減らないきり丸はすぐに反論してくる。
「先生の結婚資金だろ? ぼけぼけしてるとさあ、先生、ずっと一人だよ?」
 ぐ、と今度こそ土井は言葉に詰まる。反射的にこぶしが出るのは痛いところを突かれたせいだ。
「おまえに結婚を心配される覚えはない!」
「だって、先生、もう25‥‥」
「うるさい!」
 あはは、と笑ってきり丸は土井の前に回り込む。
「がんばんなきゃだめだよ、先生。先生の回り、男ばっかりなんだから。ほんと、気をつけないと結婚できないよ。ずうっと自分でごはん作んなきゃ、だよ?」
 ごはんなら、と土井は出掛けた言葉を飲む。ごはんなら、おまえが作ってくれるだろう? 大きくなっても、わたしの家に、おまえは帰ってくるだろう?
「‥‥そうだな」
 土井はぽん、ときり丸の頭に手を置いた。
「がんばらなきゃな」
「そうそう、美人な嫁さんつかまえて‥‥あ!」
 話していたきり丸が不意に言葉を切った。


 その目は一点に吸い付けられている。
 土井はきり丸の視線を追う。
 飴屋の屋台だった。その店先に、見事な飴細工が並んでいる。
 どのような細工によるものか、棒のついた平たく丸い飴の中に、鶴が飛んでいたり、夕焼けのような色合いと星が散りばめらていたり、朝顔と金魚があしらってあったりする。どれも鮮やかな色彩と細かな造形が見事な作ばかりだ。その横に、普通の丸飴や棒付きの渦巻き飴が並んでいるが、きり丸の目にそちらは入っていないようだった。
 土井は屋台に近づくと、
「一本、下さい」
 飴屋の親父に声をかけ、きり丸を振り返った。
「どれにする」
「え」
 きり丸は心底慌てたようだった。
「どれにする」
「え‥‥い、いいよ、先生、おれ、いいよ‥‥」
 きり丸の手が土井の着物をつかんで引っ張る。
「いいよ、おれ、行こう‥‥」
「欲しいんだろう?」
 土井はきり丸の目が離れない一本を指さした。夜空に浮かんだ三日月を、ぽちりと赤い目の可愛いうさぎが見上げている。
「これ、お願いします」
 土井を引っ張るきり丸の手に力がこもった。
「いいよ、いいよ、先生。おれ、おれ、知ってるんだ、高いんだよ、こういうの! 先生、いいってば!」
「‥‥きり丸」
 土井はきり丸の顔をのぞきこんだ。
「いいんだよ、きり丸。子供が大人の財布を心配しなくても」
 職人気質らしい飴屋の親父は、黙って二人のやりとりを聞いていたが、土井が渡した小銭を受け取ると、その綺麗な飴細工と小さなあめ玉のついた竹串の二本をきり丸の前に差し出した。
「はいよ、ぼっちゃん。そっちの先生と一緒に食べなさい」
 きり丸は差し出された飴と、飴屋の主人と、傍らに立つ土井を交互に見比べた。
「ほら」
 促されてようやく受け取ったきり丸は、赤い顔で小さく言った。
「‥‥ありがと」


「先生、ほらほら、これ、ギヤマンみたい」
 提灯のあたたかい灯に、きり丸は買ってもらった飴細工を透かす。
 きらきらきらきら、光をはねて、それはきり丸の手の先で、唐渡りのギヤマンのように輝いている。
「‥‥きれいだね」
 うん、と土井はうなずく。
「乱太郎に見せたら喜ぶかな」
 うん、と土井はまたうなずく。
「きれいだね」
 きり丸はちらりとはにかんだ視線を土井に投げた。
「‥‥土井先生、ありがと」


 なんだかんだ言っても、きり丸が祭りを楽しんでくれたようでよかった。そう思いながら神社の鳥居をくぐった土井は、なにやら足の重くなったきり丸を振り返った。
 楽しい祭りから家に帰るのが嫌なのか、とは思ったが、祭りもすでに終わりに近づいているのに、どうしたのか、といぶかしむ。
「どうした、きり丸」
 ついに鳥居を出るか出ないかで、足の止まってしまったきり丸に、土井は声をかけた。
「帰らないのか?」
「‥‥帰るよ‥‥帰るんだけど‥‥」
 要領を得ないきり丸の様子に土井は首をかしげる。
「どうした」
 左手に飴を持ち、空いた右手を体の横で振ってみたり着物の裾にこすりつけたりしているきり丸。
 ああ、と得心のいった土井は、笑って左手をきり丸に向かって差し出した。
「帰ろう、きり丸」
 自分に向かって差し出された手に、ぱっときり丸の顔が輝いた。
「うん!」
 飛びつくように土井の手に、きり丸は手を伸ばした。


      先生。今日は楽しかったね。
      うん。
      先生。飴、買ってくれてありがとね。
      うん。
      先生‥‥先生の手って、やっぱ大きいね。
      そうか。


 土井と手をつないで月明かりの下、帰路を行くきり丸の手の中で、飴の月と兎が、燦めいていた。


                            了

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