恨みを買う。
いやなことだ。出来れば避けたい。
特に、訳もわからぬまま恨まれることほど、いやなことはない。が、身に覚えがあればその恨みに耐えやすいというものでもない。
これは‥‥ある恨みを買った人物が、ある日、その恨みは理不尽なものだと思い至った‥‥その故の一挿話である。
乱太郎、きり丸が忍術学園で学び出して、もうすぐ五年‥‥。
忍術を学び出して丸四年がたとうという頃。
それなりに実力も備わり、経験も積んだ‥‥はずの四年生だが、今日の乱太郎はどこかおかしく、その失敗ぶりは往年の一年は組の頃を彷彿とさせた‥‥。
昼の食堂では給食を席に運ぶ途中で滑り落とし、午後の実技では自分の撒いた“まきびし”を踏み抜き、先生の質問には上の空でとんちんかんな答えを返し、入浴の時には湯あたりするまで長湯して、人の手を借りようよう上がってくる始末である。
それまで、冷めた目で乱太郎の注意散漫ぶり、心ここにあらず状態を見ていたきり丸が、
「何があった」
聞いたのは、湯あたりした乱太郎が夜風にあたって頭を冷やしていた時。
「‥‥あ、きりちゃん」
今までちゃんと隣にいたのに、初めて気づいたような顔で振り返る乱太郎に、きり丸は少々、むっと来た。その上、その乱太郎の瞳は焦点が甘い。
こづいて、どこ見てんだ!と怒鳴りつけてやりたいのを、ぐっとこらえて、
「なに、ぼおっとしてんだよ。なにかあったのか」
きり丸は重ねて聞いた。
「‥‥え‥‥」
動揺。というのだろうか。
乱太郎はかすかに頬を染めて瞳を揺らし、うつむいた。
きり丸はかなり、きた。
「何があったんだよ!黙ってちゃわかんねえだろうが!」
「‥‥なにも‥‥そんな‥‥べつに‥‥」
ぶち。切れたのはきり丸の堪忍袋の緒であった。
「なにもなくておまえ、おばちゃんの作ったご飯、落とすのか!まきびし踏むのか!ぼおっとして‥‥アホな事ばっかじゃないか!!」
きり丸の見幕に、乱太郎は下を向いたまま、小さく言った。
「‥‥ごめん」
「実はね‥‥」
ようやく乱太郎は話し出した。
「前の、ほら、野外実習の時‥‥きただろ、利吉さんの同期だとかいう‥‥城勤めの忍びで‥‥四郎さんって‥‥」
きり丸の脳裏に、よく日に焼けた肌の、明るく笑う忍びの顔が浮かんだ。明るくひょうきんな物腰とは裏腹に、術の冴えはただ者ではなく、その技の仕掛け方の厳しさには、プロの世界で生き抜いて来た者の凄みが感じられたのだった。
「ああ、あの人。そう言えば今日も学園に来てなかったか」
「‥‥うん。学園長が、また実習の指導を頼みたいからって‥‥」
きり丸は思わず眉を寄せた。どうして乱太郎が四郎の来たおもむきまで知っているのか。
「なんだよ。おまえ、話したのか、その四郎さんと」
「‥‥うん」
そろそろ、暗くなりかける頃。しかし、きり丸はしっかりと見た。乱太郎のうなじま
でが、うなづいた時に赤く染まったのを。
「‥‥なんだよ。なにを話したんだよ」
知らず、声音が低くなる。
そんなきり丸の表情を知ってか知らずか。乱太郎は恥じらいを含んで答えた。
「あのね‥‥絶対、内緒だよ、あのね‥‥」
「あの子に言って来たよ。俺と念契を結ばないかってね」
四郎は柱を背にくつろいで、利吉のいれた茶をすすっていた。
念契。男色の契りを言う。
利吉は涼しい顔である。そんな利吉に向かい、四郎はちらりと目を上げる。
「おまえさんに頼まれたとおり」
「感謝している」
利吉の表情は崩れない。ずい、と四郎は膝を乗り出した。
「おまえが理由を聞くなと言うから理由はきかない。しかしな、もしかしたら、俺は本
気であの子を口説くかもしれんぞ」
さすがに、利吉は驚いた顔を見せた。
「ほう。気にいったのか」
「気にいった」
四郎はぱんと、膝をたたいて即答する。
「近ごろないぞ。あれほど初心(うぶ)な子は。俺の言うことが最初は通じてないのか、きょとんとしてなあ、それから火を噴くほどにまっかになって、いやあ、たまらん」
「確かに。乱太郎くんは性根もまっすぐな、いい子だ」
「だろ。俺も今まで義兄弟の契りを結んだことはないが、あの子ならいいかもしれん」
「‥‥まあ、おまえが本気ならこれも縁かもしれんが‥‥あの子に手を出すなら気をつけろよ」
「どういう意味だ」
利吉はあごに手をやり、しばらく考えていたが、
「恨みを買うぞ」
低く告げる。
四郎は大仰に顔をしかめた。
「なんだ。もう思い合った相手がいるのか」
利吉はまたしばらく考える。
「‥‥いや。そういうわけじゃない。‥‥ただ、あの子には末恐ろしい番犬がついてるってことだ」
それを聞くと四郎はにやりと笑って見せた。
「おい、利吉。知らんのか。恋は障害が多いほど燃えるんだぞ。酒でも持って来いよ。景気づけだ。おまえの大事な先生ももうすぐ帰るんだろ。酒盛りだ、酒盛り」
「念契ぃ!?」
素っ頓狂な声を上げたきり丸に、乱太郎はしいっと口の前に指を立てて見せる。
「大きな声出さないでよ。‥‥念者にね、なってやろうって‥‥」
そんな乱太郎をきり丸は茂みの奥へと引っ張って行く。
「なんだよ、なんで四郎さんがおまえにそんなこと言うんだよ」
「‥‥なんでって‥‥なんでだろう‥‥」
首をかしげる乱太郎の前髪が、風に柔らかく揺れる。
きり丸はキッと目を光らせた。
「で。ちゃんと断ったんだろうな」
「‥‥え」
「断ってないのか!」
「‥‥うん」
「なんで断らないんだよ!」
「‥‥あの‥‥うん、だって‥‥考えてくれって言われて‥‥ゆっくり考えてくれっ
て。‥‥ほら!考えてくれって言われてるのに、すぐ断ったら失礼だろ!」
ばき!
きり丸が、そばにある木の枝を乱暴に折り取る。
「なにを考えることがあるんだよ!なんだよ、おまえは四郎さんのチンチンを尻に突っ込まれたいのかよ!」
乱太郎は瞬間、まじまじときり丸の顔を見やった。
「‥‥ふつう、言う?そういうこと」
「なにがだ。おまえみたいなネンネ、はっきり言ってやんなきゃわかんねえだろうが!」
乱太郎はきり丸に返す言葉もなく、うつむく。その前髪が‥‥柔らかく揺れるのに、きり丸は手にした枝をまた二つにへし折った。
「‥‥おまえがなにを考えることがあるのかは知らねえ。四郎さんと念友の契りを結ぶってんなら、それはおまえの勝手だ。けど、おまえの両腕と両足、それと髪の毛はおれのもんだからな、置いてけよ!」
「‥‥置いてけって‥‥きりちゃん、魚の切り身じゃないんだからぁ‥‥」
弱く抗議の声を上げる乱太郎に、へし折った枝を投げ付けてきり丸はくるりと背を向ける。
「勝手にしろ」
言い捨てて立ち去るきり丸も、しかし、実のところ、わかってはいるのだ。
男同士、色恋で結ぶ契りと、命を張って生きる忍びや武士が結ぶ、年長者と年少者の間の契りの違い。もし‥‥おまえが好きだ、と言い寄られていたなら、乱太郎も即座に断っていたのじゃないか、ときり丸は思う。‥‥思いたい。
しかし‥‥おまえの念者になってやろう、と言われたのなら。
いくら忍術学園で技を学び、同窓の人脈もあるとは言いながら、実際に忍びとして独り立ちして現場で勤めるようになれば‥‥それはなんとも心もとないものでしかない。
が、もし念友の契りを結んだ相手がいれば。現場を知り尽くし幾多の経験を積んだ年長者が、特別に心にかけ、面倒を見てくれるのだ、どれほど心強いことか。面倒を見てくれるだけではない、いったん義兄弟の契りを結べば、年長者が戦場で体をはって守ってくれることもあるし、手柄をゆずってくれることすらあるのだ。肉体の交わりを媒介として、年少者が一人前の忍び、あるいは武将に育つまでの、念友の契りはある種の育成プログラムとして機能する。
成績に自信のない者は就職先より念者を探した方が確実だ、などと囁かれたりもするのにも、一理はあるのだ。
八つも年上、将来は忍頭に、と言われている学園の先輩からの申し出に、そろそろ卒業後の進路も頭をかすめる今の時期‥‥、
「‥‥おれなら、即答してるかも‥‥」
きり丸は思わず呟く。即答、もちろん、YESだ。「うまい話」に相変わらず弱いの
は自覚している。しかし、頭でそれがいくら有利な話と思っても、乱太郎が思い悩んでいるのだ、と思うと腹が立つ。
「断れよ、すぐ!」
‥‥その苛立ちには覚えがある。最近、とみに感じる苛立ち。
今までは気にならなかった。乱太郎が誰といようと誰と話そうと。最近は、それが気になる。単なるクラスメートの談笑がいちいち気にさわり、乱太郎に『怒りっぽいねえ、最近』と言われたのがきのうのことだ。
‥‥覚えのない苛立ちではない。数年前から知っているそれは、土井先生に近づく利吉を見るたび、感じていたものだ。‥‥が、今のこれは。自分でも土井に感じていたものより、タチが悪いのがわかる。胸を刺す痛みに、腹の底の熱さが加わって、なにか、どろりとしたものが体の中を蠢き回る。
土井に感じていた苛立ちと決定的にちがうのは、乱太郎に感じるそれが、体の奥底から燻り出されてくる熱感を伴っていることだろう。熱く、きり丸の身内を焼き、どうしようもない落ち着かなさをもたらす、それ。
「‥‥くそ!!」
肌が破れるほど強く、きり丸は傍らの立ち木にこぶしを叩きつけた。
自覚してないだろうなあ、と乱太郎は思う。
夕食を済ませて部屋に戻って来たきり丸は不機嫌で、一言も口をきかない。
目尻の切れ上がった大きな目は、もともときつい印象を人に与えるのに、怒っていたり不機嫌だったりすれば、なおさらだ。おまけにこの頃のきり丸は妙に迫力が増したというのか、周りの空気までぴりぴりさせて、取り繕うスキも与えてくれない、といった感じなのだが‥‥自覚してないだろうなあ、と乱太郎はため息をつく。
それでも、なんとか話の糸口を探そうと乱太郎はきり丸に声をかける。
「ねえ、きりちゃん、宿題すんだ?」
無言。
「ねえ、きりちゃん、明日の実習って忍び刀を持ってくんだっけ」
無言。
「ねえ、きりちゃん‥‥そろそろ布団、しこうか」
無言‥‥が、押し入れから夜具を取り出す行動は起こした。
「‥‥耳、聞こえてるんじゃない。返事してよ」
無言。
はあ、と乱太郎はため息をついた。
四郎の申し出をすぐに断らなかったのが、やはりまずかったのか。が、思いもかけぬ申し出に驚いているうちに、『ゆっくり考えて』と言い残されてしまってどうしようもなかったのだし、第一、大先輩にあたる人に、いきなり『いやです』は失礼だろう。
でも、だいたい、なんでそのことで、きり丸がここまで怒るんだか。
この様子じゃあ‥‥もう習慣になった「あれ」もないだろうか。乱太郎は思う。
去年の夏の終わりにきり丸が夜のバイトをやめる代わりに、乱太郎に要求して始まった「あれ」。始めはたしか左腕一本から始まったのだ。ただすべすべと気持ちがいいから触りたいだけなのだ、ときり丸が言った。変な下心はないから、と。
左腕を撫でまわされ頬擦りされ、口づけられるうち、同じ腕なんだから右も許せよ、と押しきられ、ついで、腕がいいのになんで足が駄目なんだと言われ、返す言葉に窮すうち、両の足に手が這った。‥‥なんとか膝から上を死守できたのが奇跡的だと乱太郎は今も思う。
その後、触れる部分を増やしたいきり丸となんとか押し止どめたい乱太郎の間に、長年の友情さえ危うくするようなせめぎ合いがあった後、もういやだ、くすぐったい、これ以上触られるのはいやだ、という乱太郎の強硬な意見にきり丸が譲歩を見せ、なら神経の通っていない髪ならいいだろう、と下手に出てきた。髪ならば、と思ったのが大間違いだとわかった時には手遅れで、今では夜ごと、乱太郎は破れるかと思うほどに唇を噛み締める羽目になっている。
きり丸の手は優しい。その手は決して性急に動かない。‥‥手触りを楽しんでいるのだから、当然なのかもしれないが。
その手で髪を梳かれる。何度も、何度も。ふわりと眠気を誘う、その心地よさのあと、すっと両肩から腕を撫で下ろされた時、思わず吐息に声が混ざった。
「‥‥あ‥‥」
つい漏れたその音に、きり丸の手がぴくりと止まった。
「‥‥変な声、出すなよ」
「あ‥‥ごめん」
以来。髪に顔を埋めたきり丸の吐息の熱さを感じながら、両の手足を愛撫されるたびに、乱太郎はぎゅっと口元を引き締めるのだが。
くたくたと腰から力が抜けていく気持ち良さ。
髪を触る手が、耳の後ろやうなじにも触れて行く‥‥ぞくりと背筋を走るなにかを乱太郎は懸命にこらえる。唇を噛み締める。
‥‥それも今夜はないのだろう。
これほどにきり丸が腹を立てているなら。
そう思ったとたん、乱太郎は安堵と同時に確かに寂しさに似たものを‥‥感じたのだ。
無言でそれぞれの布団に入る。
乱太郎が灯火を消そうと蝋燭に手を伸ばした時だ。
それまでだんまりを決め込んでいたきり丸が、ようやく口を開いた。
「乱太郎」
「なに、きりちゃん」
「おれ、もうおまえの腕や足に‥‥触らない。‥‥どこにも触らないから‥‥一カ所だけ、許してほしいんだ」
許してほしい、その言葉は下手に乱太郎の許可を願っているが、その瞳は責めるようなきつさで、乱太郎に食い入る。
「い、一カ所って‥‥どこ」
乱太郎は鼓動が早くなるのを覚えた。不安、にそれは似ていた。
ゆっくりときり丸の上体が、近づいて来た‥‥その手が、頬に触れる‥‥。
顔が、顔に近づく‥‥。
乱太郎は縛られたように動けなかった。
ただ、近づいて来るきり丸を見ている。
黒い瞳が‥‥光っている。
「‥‥くちびる」
「え」
顔が、顔に近づく‥‥唇が、唇に、ちかづく‥‥。
「唇だけ‥‥触らせて。許して‥‥乱太郎‥‥」
いやだったのじゃない。
ただ、迫り(せり)上げて来る緊張が大きくて。
白い夜着に身を包みつややかな黒髪を背中に流した、いつもと同じはずのきり丸が、見知らぬ人に見えもして。
ぱし。軽く乾いた音が響いた時、乱太郎は自分が間近のきり丸の頬を打ったのに、気がついた。
「え、えっと‥‥あの、わ、わたし‥‥」
「‥‥‥‥」
きり丸は目を伏せて動かない。
「えーっと‥‥あの、い、いつもと同じのが、いいかなーって‥‥」
返事のないきり丸に、また怒らせたのか、と新たな不安が湧く。
「‥‥あの、ね、きりちゃん‥‥いつものなら、わたし、いいから‥‥」
はあっときり丸が深く息を吐き出した。上げた顔はいつもの顔に戻っている。
「悪かった。どうかしてた、おれ」
「‥‥きり丸‥‥」
「悪かったよ。‥‥もう寝よう」
互いの寝息をうかがう、奇妙な一夜だった。
それでも。
うーっと首をちぢめたきり丸が、
「今朝も冷えるよなあ。顔洗うの、いやだよなあ」
と言うのに、
「なに言ってるの。よだれの跡つけたまま、授業に出る気?」
軽口を叩いて返せば、変わらぬ日常が動き出す。
そう‥‥なにも、なにも変わらぬ日常が。‥‥なにも変わらぬ二人のままで‥‥。
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