気づかねど、色にでにけり・・・<前>

 

「‥‥もう一度言って下さい」
「‥‥いや、だから、あの話は‥‥もう少し待ってもらえないかと‥‥」
「いやです」
「君の気持ちはわかってるよ。でも‥‥もうしばらく‥‥」
「あなたがなにをわかってるって言うんですか。何もわかっちゃいない
くせに!」
「‥‥あの子が心配なだけなんだ。頼む‥‥」
「いやです。もうこの話は終わりです。それ以上言うと‥‥噛みますよ」

 

 乱太郎にくいつかれてから、三日間、おれはそれまでとおり、夜の町へ商売に出た。
 乱太郎に“商売”のことがばれてうろたえなかったわけじゃない。思い詰めた、でも必死な乱太郎に「やめろ」と言われて揺らがなかったわけじゃない。
 乱太郎がおれを心配してくれてるのは痛いほどわかってた。‥‥でも。
 おれにも自分が止められなかった。意地とか勢いとか、そんなんじゃなく。
 どうしても取れない痛みが疼き続けてた。おれが帰れる場所だった、おれが甘えられる場所だった、おれの‥‥おれの、先生。うぬぼれじゃないと思う、先生もおれを大事にしてくれていたと思う。おれの唯一、先生の大事、そこに割り込んできやがったあの野郎。おれの至福はあっさりとあの野郎に壊された。そして、おれからその場所を取り上げた奴は、今もその場所でのうのうとしてやがる。それだけではらわたが煮え繰り返る思いがするのに、おれが自分のからだを五寸刻みにしたいような衝動にかられるのは、結局先生も、おれといることより奴との生活のほうを選んだってことだった。
 痛かったんだ。
 どうしても。
 乱太郎の気持ちはわかった。でも。自分の体をぼろぼろにして、ぐちゃぐちゃに汚してるあいだだけ、俺は痛みのはけ口を見つけたような気になれた。‥‥そういうのをヤケって呼ぶんだろうな。
 おれはどこからも、誰からも救われないと思ってたね。
 ところが。妙なところでひっかかるもんだ。
 おれの夜の外出は四日目以降、ふっつりと途絶えてしまった。

 おれが三晩続けて出掛けなかった次の朝。乱太郎が、まあ、嬉しそうな笑顔でおれの手を握ったよ。
「やめたんだ。きりちゃん。もう大丈夫だって、思っていいよね」
 おれはわざとふてたように横を向いた。
「だいじょうぶってなにがだよ」
 そんなおれの照れはかるうく無視して、乱太郎は言った。
「嬉しいよ。きりちゃん、自分を大事にしてくれるようになったんだ。わたしもこれで安心していいんだよね」
 そう言って乱太郎は足取りも軽やかに朝の食堂に向かってったけど。
 聞こえなかったんだろうな。
「‥‥そういうわけじゃねえんだけどな」
 ぼそりとおれが呟いたのは。

 我慢、なんてのは性に合わないと思ってるから。まあ、そろそろ限界でもあった。
 その夜。
「‥‥なあ」
 おれは隣の布団に呼びかけた。
「‥‥なに‥‥」
 乱太郎は眠そうな声で返事する。
「なあ。なんでおれが夜出掛けるのやめたと思ってる」
「‥‥えっと‥‥」
 もそもそと乱太郎は布団の中で身動きする。
「‥‥わたしの説得をきいてくれた‥‥じゃあないよね。きりちゃん、人の言うことなんかそんなに聞く方じゃないもん‥‥あれ?じゃあ、なんでだろ」
 ようやく疑問をもってくれた乱太郎に、おれは親切に説明してやった。
「おれ、昔からさ、金かせぐためには生半可な苦労じゃあだめだってわかってた。金の価値と金稼ぎの難しさををわかってたから、あれぐらいどってこたあなかったんだ。それに、人のものじゃない、自分のものを売るんだ、悪いコトだとも思わなかったし。だいたい、たった数時間であれだけの額をもらえるんだから、おれにとっちゃ、ヤケくそばっかでもない、けっこうおいしい仕事でもあったわけ。‥‥だけどさ。
 あの日、おまえに触った時、おれ、びっくりした。肌がすべすべでさ。おれ、人に触って気持ちいいなんて思ったの、初めてだった」
 ひく。乱太郎の肩がはねた。
 そんな乱太郎に、じり、と近づきながらおれは続けた。
「おやじ連中なんて、全然だめ。肌はざらざら、ねばねばして、臭いしさ。二日は我慢したんだ。でも三日目はもうだめだった、商売にならないんだ。もうそばに寄られるだけで気色悪くってさ」
 暗闇の中、おれはじりじりと乱太郎の布団へ移動していく。乱太郎の体がこわばっていくのが、気配でわかる。
「‥‥なあ」
 こういうのを猫撫で声って言うんだろうな、と思いつつ。
「もっかい、触ってもいいだろう?」
「い‥‥いいわけないだろうっ!このボケっっ!!」
 がば!と布団にくるまり、おれに背を向ける乱太郎。めげてなるか。おれは布団の上から乱太郎の肩を揺する。
「なあ。なあ。乱太郎ってば」
「‥‥‥‥」
「触るだけだってば。あんなことやこんなことはしないからさあ」
「なんなんだよ、その“あんなことやこんなこと”って!わああ!!いい!言わなくていい!!聞きたくない!!」
 乱太郎、一人で騒ぐ。
「なあ、ちょこっとだけだからさあ‥‥」
 じれたおれは掛け布団の上から乱太郎に馬乗りになると、布団からわずかに出ている乱太郎のおでこやほっぺたをすりすり撫で回そうとした。確かにおれは金のためにエッチした。でも、一度もそれを楽しいとか気持ちいいとか思えなかった。でもさ、この前、おれとしても引くに引けなくなって乱太郎に迫った時にさわった乱太郎の肌‥‥気持ち良かったんだ。とにかく。人肌が心地いいもんだって初めて知ったね、おれは。
 どさくさにまぎれて顔を首筋に押し付けたりもしちゃったんだけどさ。そうすると、こう、懐のあたりから、乱太郎の匂いがするわけよ。おやじたちとは全然ちがう、なんか健康な息吹を感じさせる、どっか甘酸っぱい匂い。おれ、確かそんとき、土井先生のことで泣いちゃったりなんかしてたんだけど、それすらふうっと遠くに行きそうな感じだった。
 おまけに、乱太郎の猫っ毛がふわふわあっとして、こそばくってさあ‥‥。
「い、いいかげんにしろっ!だいたいきり丸は土井先生が好きなんだろっ!」
 と。おれの感慨をよそに、乱太郎はさすがに怒ったみたいだ。
 先生の名前が出るとおれもちょっと弱い。
「‥‥うーん」
 おれは考えた。そうだ。
「半助の裸は見たことあるけど、触ったことはないんだ。絵に描いた餅よか、やっぱ、すぐに触れるもんのほうがよかないか?」
 そのおれの言い草に、乱太郎はマジで切れた。
「よかない!!」
 おれは部屋の隅までぶっとばされた。

 

 あっさり引き下がるおれじゃない。
 ってゆうか、乱太郎にはつけこめる、と思ってたんだな。でもおれを増長させたのは乱太郎自身だぜ。おれが体を売ってたって知っても、揚げ句、おれに押し倒されまでしても、乱太郎の奴、ぜんっぜん、俺に対する態度が変わらないの。あいかわらず、まっすぐにおれを見て「きりちゃん、きりちゃん」だもんな。
「なあ」
 前の晩、あんなことがあったのに、おれの前で平気で寝衣に着替えて布団をひいてる乱太郎に、おれは声をかけた。
「なあ。いいだろう。ちょこっとさわるぐらい」
「へ?やだな、きりちゃん、まだ言ってるの」
 おぼこい奴とは思ってたけど、これだよ。まだ言うに決まってる。
「さわるぐらいいいだろ。だいたい、おまえ、この前、ずうっとおれのそばにいるって言ったじゃねえか。それってすんごい、口説き文句だろ。そういうこと言ったんだからさ、責任とってちょこっと触らせるぐらいしろよ」
 我ながらすごい論理。乱太郎が顔をひきつらせた。
「く、口説き文句って、そ、そんな‥‥。わ、わたしはだ、大事な友達として‥‥」
「大事な友達ならさ、いいじゃん、それくらいきいてくれたって」
「それくらいってね、きりちゃん‥‥」
「無邪気なお願いじゃん。すべすべして気持ちいいからさわりたいってだけじゃん。別に変な下心があるわけじゃない。おまえのほうが妙に構えすぎなんだよ」
 ‥‥言い訳するわけじゃないけど。この時点ではそれはおれの本心だった。変な下心。
 そんなものは乱太郎に対してかけらも持ってない。って、おれはその時は思ってた。
「なあ」
 おれは甘えた声を出した。ちょっと困った顔もして見せる。
「らんたろぉ。いいだろう。頼むよぉ」
 こうして下手に出て甘えて見せて、おれは今まで乱太郎に拒まれたことがない。
「‥‥そ、そんなこといわれても‥‥」
 ほら、とたんに乱太郎も気弱になる。あと一押し。
「なぁ、頼むよ。すこしだけ、な。少しだけだから」
 乱太郎がため息をつく。やり!このため息が「仕方ない」という意味だって、おれはよく知ってる。
「‥‥で、でも、やっぱりだめ!!」
 おっと。珍しく抵抗するじゃん。しゃあない。
「じゃあさ、腕一本だけ。なあ、乱太郎、腕一本、好きに触るくらいいいじゃないか」
「え、ええ?」
 乱太郎がしぶる。おし。もう一押し。
「腕一本だぜ。腕一本」
「‥‥でも‥‥」
「なんだよ。ずっとそばにいてくれるとか言っといて、腕一本も好きにさせてくれないんだ。いいよ。もう」
 おれはすっくと立ち上がった。乱太郎が慌てる。
「き、きりちゃん?!」
「出掛ける。おっさん相手に小銭稼いでたほうがいいや!」
「‥‥きりちゃあん、それって脅迫」
 おれはちろりと横目で乱太郎を見た。
「どうする、乱太郎?おまえ次第だぜ」
 乱太郎はもう一度、深々とため息をつくと、寝衣の袖をまくって左腕を突き出した。
「‥‥はい」
「サンキュー、乱太郎」
 おれの語尾にはハートマークがついていたに違いない。
 おれはいそいそと、乱太郎の腕をとってほお擦りした。

 夜の商売に代わって、夜な夜な乱太郎の腕を撫でくり回すのがおれの日課になった。
 話し合いの結果、おれが触っていいのは肩口から手の甲までってことになった。指くらい、いいだろうと思うのに、一度おれが一本一本口でなぞって、指の間をちょこっと嘗めたら、乱太郎が真っ赤になって怒るんだ。ケチはどっちだ、ほんとに。
 実際、乱太郎がここまで細かい奴だとは思わなかった。
 いちいちチェックがはいるんだぜ。
「ああっ!だから、二の腕の内側はだめだってば!」
「だから、爪立ててなぞるのはやめろってば!」
「吸い付くなってばあ!」
 ケチ。
 おれにケチと言われちゃあおしまいだぜ、乱太郎。
 でもさ。乱太郎の肩に頭をのっけて、そこから伸びる乱太郎の腕を見ながら、何度も何度も撫で上げたり撫でおろしたりするの、超絶、気持ちいいんだ。
 ‥‥腕一本って言ったけどさ、どうせおんなじ腕なんだから、右腕も好きにさせてくれないかなあ。

 昼の休みの時だった。
 職員室に課題を届けに行った乱太郎が「憮然」って顔に書いて戻って来た。
「どうしたんだよ」
 乱太郎は声をかけたおれを見もせず、ぼそっと。
「きりちゃんのせいだ」
 あれ、怒ってる?
「どうしたんだよ、わけわかんねえ」
 乱太郎がらしくもなく、ぼそぼそと語ったところによれば。
 職員室にいた土井先生に、乱太郎は呼び止められたんだそうだ。
「その、きり丸のことなんだが」
 先生も話しづらいのか、小さな声で言ったんだそうだ。
「最近、落ち着いて来たみたいだな」
「落ち‥‥そうですね、いちおう‥‥」
「乱太郎」
 先生はぽん、と乱太郎の肩を叩いたんだそうだ。
「すまないな。わたしは何も出来なくて。でも、きり丸にいい友人がいてくれて、よかった」
 そして、先生は嬉しそうに笑って付け加えたんだそうだ。
「これからもきり丸を頼んだぞ」
 ‥‥まあな。夜のあのバイトのことでは、かなり半助にも心配かけたからな。
「わたし、先生にどんな顔すればいいのか、わからなかったよ」
 横で乱太郎がぶちぶち言い続けてる。
「きり丸が夜でかけなくなったのは、代わりにあんなことしてるせいだって。わたしは恥ずかしいよ、ほんとに‥‥きりちゃん!!」
 怒鳴られて気づいた。おれは乱太郎の手を取ってその甲をすりすり撫でていた。
「だ、誰かに見られたら、どうすんの!!」
「じゃあさあ、誰にも見られないとこ、行かないか?」
 殴られた。

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