友の泣いた夜

 

 今夜も、隣に敷かれた布団から、音もなくきり丸が滑り出て行く。
 さすがに忍者の卵、いやもうヒヨコにはなっている、室内を動く気配はつかませない。
 その所在が知れたのは、古い鎧戸が開かれて小さく軋んだ音を立てたからだ。
 今夜もきり丸は出て行く。夜の中へ。密やかに、忍び出て行く。


 たまらず、乱太郎は飛び起きた。窓辺へ駆け寄る。慌てて戸を開け、
「きりちゃん!!」
 叫んでみるが、もう友の背中は木立の闇にのまれて見えない。
「‥‥きりちゃん」
 身を乗り出す乱太郎の頬を、もう秋の気配の濃い、冷えた夜気が撫でていく。
 今夜は月もない。暗闇を乱太郎はみつめ続けた。
 いつからだったろう。きり丸がこうして消灯後、忍術学園の寄宿舎を抜け出すようになったのは。いつからだった?
 乱太郎には思い出せない。
 乱太郎はこぶしを握り締める。自分の迂闊さが許せない。夜な夜な学園を抜け出すきり丸の、「いいバイトが見つかったんだ」その言い訳を鵜呑みにして、なんの疑問も抱かずにいた迂闊さ、それがいつから始まったものだったかも思い出せない迂闊さ。
 昔からきり丸の、小金に対する執着は人並み外れていて、いろんなバイトを掛け持ちするのも珍しくはなかったから、またいつものことかと、どんな仕事かと問うこともしなかったのを、乱太郎は悔いた。
 “修行”に来ていただけのしんべヱが三年の終わりに学園を去った後、二人部屋になったこの部屋から、毎夜、きり丸は忍び出て行っていたのに。
 そして今夜もだ。さんざん迷いためらった揚げ句に、自分は寝たふりをしただけで、いつものようにきり丸を行かせてしまった。問うことも、止めることも出来ぬまま。
 乱太郎は、ぎり、と奥歯を噛み締めた。


 平穏で当たり前の日常が、突然に、まったく違う荒々しさで人を襲うことがある。
 隠されていたその顔に、人はうろたえ、戸惑う。
 それまで、友の素行になんの疑問も持っていなかった乱太郎の平穏が乱されたのは、忍術学園四年の夏の終わり。発端は‥‥一通の付け文だった。朝礼の後、生徒全員が校庭からそれぞれの教室へ戻る混雑の中で、それは乱太郎の襟元の合わせに滑りこまされていたのだ。
 さすがに付け文されたことにはすぐに気づいたが、振り返って今すれ違った生徒を特定しようにも、敵もさるもの、ほんの一瞬のことなのに、もう人込みにまぎれている。
「なんだろ?」
 小さく首をひねって乱太郎は教室へと足を運びながら、その文を開いた。そこには金釘流の下手くそな字で、昼の放課に屋上へ来いと書かれていた。誰にも知らせるな、と。
 乱太郎が思わず眉を寄せたのは、そこにわざわざ「きり丸にも絶対に」と、書き添えられていたからだ。
 考えながら教室に入って行くと、当のきり丸が、どんと肩をぶつけて来る。
「どうした」
「え、あ、いや、なんでも」
 咄嗟に乱太郎は嘘をついた。
「ふーん? いつもよか、よけいにぼおっとしてるじゃねえ?」
 切れ長の目を上目使いにして、きり丸がのぞき込んで来る。
「ひどいなあ、きりちゃん。いつもそんなにぼおっとしてないよ」 
 笑いながら乱太郎は手を振った。
 軽口を交わすうちに、一限目が始まった。
 いったい誰が何の用事で自分を呼び出したのか、思いめぐらしてもわからぬまま、午前の日課は過ぎる。
 気にはしていないつもりでも、やはり気にかかる。「お残し厳禁」の、あいかわらず威勢のよいおばちゃんが切り盛りする学校の食堂でそそくさと昼を終え、乱太郎は呼び出された校舎の屋上へと出向いた。
 屋上、文字通りの屋上は見事な瓦葺きである。鳶職か泥棒を稼業にしているのでもなければ、すくんで動けなくなりそうな高さと勾配がある。その屋根の上に猫のように楽々と居場所を確保してたむろしている集団をみつけて、乱太郎は思わずため息をついた。
 安堵の、である。
 その集団はいわゆる「不良」と呼ばれているが、それは彼らの外見や派手なパフォーマンスに対して世間がラベルを貼っただけのことで、もう4年間も寄宿舎生活をともにして来た乱太郎は、彼らが根っからの悪ではないことを知っている。
 それでも「ひなたぼっこには暑すぎますね」の軽口は飲み込んで、乱太郎は軽く頭を下げた。
「先輩たちだったんですか、この文」
「おう、誰にも言ってねえだろうな」
「言ってませんよ?」
 リーダー格の左近が、乱太郎に向かい、こっちに来いとあごをしゃくった。
 乱太郎は素直に近寄る。
 するとまた、左近はグループの一人に、目配せした。が、目配せを受けた少年はまた、横にいる別の少年の肘をつつく。肘をつつかれた少年は、向かいに立つ別の少年に合図する。まるで、答えられない教師の質問をたらい回しにしているようだ。
 らちが明かぬと見たか、左近が、初めて口を開いた。
「おい、乱太郎」
「はい?」
「‥‥おまえ、きり丸と同室だったな」
「ええ。一年からずっと。去年まではしんべヱがいましたから、三人でしたけど。
それがなにか?」
「‥‥‥‥」
 左近が黙ると今度は左近の横に立っていた三郎次が、
「それでおまえ、何も気づいてないのか」
 と言う。
「何もって‥‥何を?」
「ああ、その‥‥きり丸の奴、夜、学園を抜け出してるだろう」
「あ」
 そのことなら、と続く言葉を飲み込んだが、顔にはしっかり、思い当たったという表情が出てしまった。
「じゃあ、それはお前も知ってるんだな。‥‥じゃあな、じゃあ、それで、きり丸が、その‥‥」
 なにかよほど言いづらいのか、強面の面々がすぐに言葉につまる。

 

 

「きり丸が、どうかしたんですか」
 三郎次が意を決したように顔を上げる。
「おまえ、きり丸が夜、なにをやりに町に出てるか、知ってるか」
 知らない。
「‥‥なにか、お金もうけの‥‥」
「だから、どうやって金を作ってるか、知ってるのか」
 知らない。乱太郎は自分がそれを知らないことに初めて気づいた。
「‥‥あいつはな、あいつは‥‥ほら、今、はやってるだろう‥‥」
三郎次がまたもいい淀むと、左近がさすがにリーダーらしく、低くしっかりと宣告した。
「援助交際だ。あいつは体を売っている」
「‥‥え?」
 思わず聞き返した乱太郎に、
「体を売ってるんだ。わかるな、その意味」
 爆弾はもう一度しっかり、狙いを定めて落とされた。
「そ‥‥え‥‥な‥‥」
 そんなばかな、ええっ何かの間違いじゃ、なに言ってるんですか。その手の驚きの言葉が沸き上がってくるが、どれも口からまともに出ない。
 言葉もなく、ただ呆然と左近を見ている乱太郎と反対に、グループの少年たちは重荷を下ろした者の気安さで今度は口々に事情を語り出した。
 町の盛り場できり丸を見かけ、後をつけたこと、きり丸が男色を好む衆が集まる川筋で立ち、客引きとしか思われぬ様子で通りすがりの男と言葉を交わしていたこと、そして近在の船宿に男と二人、姿を消したこと‥‥。
「一回だけじゃないんだぜ、なあ」
「そうそう。俺たち、ちゃあんと日を変えてつけたもんなあ」
 そうと聞かされても、すぐには信じがたい。乱太郎はなんとか立ち直ろうとした。
「で、でも、それだけじゃあ‥‥それだけで、だって、からだを売ってるなんて‥‥」
「乱太郎」
 左近がその目にだけ同情の色を見せて、重々しく口を開いた。
「ちゃんと相手の男たちに術をかけて確かめた。きり丸となにをして、いくら渡したのか。そうでなければ、おまえにこんな話は持って来ない」
 衝撃で今度こそ乱太郎は言葉を失った。ずるり、その足元が滑りかける。とっさに三郎次が飛びついて支えてくれなければ、下まで滑り落ちていたかもしれない。
「俺たちがこんな話をおまえにしたのは」
 乱太郎の腕をつかんだまま、三郎次が言う。
「こんなことが先公に知れる前に、きり丸にやめさせたいからだ。援助交際なんてばれてみろ‥‥いくら学園長が頑張ってくれたって、放校処分はまちがいないだろ」
「‥‥放校?‥‥退学?」
「そうだ。ここまで来てちゃんとライセンスがもらえる前にほっぽり出されたら‥‥特にきり丸は帰るところもないんだ」
 そうだ。乱太郎は思った。いくさで焼け出されたきり丸には親も故郷もない。この学園だけが、きり丸の「場所」なのだ。なのに、なぜ、きり丸はその大切な「居場所」をなくすようなマネを‥‥。
「いいか、乱太郎」
 左近が再び口を開いた。
「きり丸にばかなまねはやめさせろ。あいつは何かヤケになってる。俺たちが言ったってききゃあしない。なら勝手にしろと言いたいとこだが、みすみすあいつがハマっちまうのも寝覚めが悪い。だから、おまえに話した。いいな?」
 乱太郎はへたりとそこに座り込んだ。

 

 

 

 性の知識は、ある。男色の意味も知っている。が、頭で知っているに過ぎないそれは、実は何も知らないのと変わらない。一番の友達、たくさんの時間を共有して育って来た親友が、男と枕を交わすことで、金を得ていた。
 それは、その事実を知らされたことは乱太郎にとって、消化できない、どろどろした粘着質の物体を胃の腑に詰め込まれたようなものだった。
 まず第一に、重い。
 そして、気分が悪い。
 許せるとか許せないとか、そういう次元の話ではなかった。乱太郎にとっては、性行為ひとつでさえ、未知の世界のものだった。漠然と形しか知らないものと、日々一緒に過ごす親友との距離感、なのに、その親友はその未知とすでに馴染んでいるというギャップを乱太郎は扱いかねた。その上に‥‥代償に金を‥‥?
 その事実を乱太郎は受け止めかねた。訳のわからぬ不快さをどう考えたらよいのかも。
 昔から‥‥一年は組にいた時から‥‥小金に目のくらんだきり丸はいろんな騒動を起こしてきた。そんな時には乱太郎は、いつもしんべヱときり丸と一緒に、解決のために走り回ってきた‥‥が、今度のことは今までの騒動とは質が違い過ぎた。乱太郎には、どこをどう走り回ればこの難題が解決できるのか見当がつかない。
 だから。仕方ないと言えば仕方なかった。たった半日では、先輩の言葉をきり丸に正すべきなのか、その後、どういう言葉できり丸を説得したらよいのか、メドなど立とうはずもなかったのだから。
 その夜もきり丸は、闇の中に忍び出て行った。
 乱太郎はおのれの迂闊さと優柔不断さを悔やみながら、眠れぬ一夜を過ごしたのだった。

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