罪人たちの季節

<十>

「おまえは人を殺したことがあるだろう」
 沈んでいるとさえ言える重い口調で、そう土井に尋ねられて。
「な、なんだよ、それ……」
 思いもよらぬ言葉にうろたえて、きり丸は返す。
「なんで……」
 その脳裏に、飛び散る重い赤がある……。
 人の血は赤い。鮮烈に、重く、密度の濃い、赤。
 人の血の色など、昔から知っていたが。
 自分の手で吹き出させた血の赤さは、今も目の底に残る毒々しさだ。
 ……どういう選択をすればよかったのか、きり丸は今も知らないが。
「殺してくれ」
 と言われた。
「わしの代わりに、頼む」
 と。
 負傷者を運ぶ余裕のない敗軍の将。まだ動ける者は、それでも戦相手がそれこそ武士の情けと運んで行ったが、もう助かる見込みのない者は苦悶の呻きを西日の中で上げ続ける……。野ざらしのまま、自軍の者が無用の苦しみの中で息を引き取るのを、その武将は見かねたのだろう、息もたえだえになりながら、末期の水をとり、止めを刺して回っていた。そして、刀を持ち上げる力も尽きた時……野盗どもが荒らした後のこぼれを探して回っていたきり丸に、そう声を掛けて来たのだ。
 さっさとずらかっとけばよかった。と、きり丸は思う。
 戦場荒らしは実入りの割に危険度が高いとは常々思っていたのだ。でも、その時も、二学期の学費に、どうしても少し足りなくて……。
 ほかにやりようはあったのだ、と後からきり丸は思う。土井先生に無心したことは――たとえバイトへの強制的な協力は常にしてもらっていたとはいえ――なかったのだから、その時ぐらい、頼んでみてもよかったのだ。
 でも……そう気づいた時には、もう、血塗れた手で足首をつかまれていた。
 どういう選択をすればよかったのか。
 きり丸は今も知らない。
 授業で聞いたことを試してみたい気も……あったのかもしれない。
 もう助かる見込みのない者を、人に頼まれて斬った。
 初めて人の命を断つ経験が……その感触にさえ目をつぶれば、「人助けだった」と自分自身に納得させることのできる条件を備えて、きり丸にはあったのだ。
 そして、その経験があったから……使いの途中で自分たちを狙う賊があった時、自衛のためにその敵の命を奪うと決めるきり丸に、ためらいはなかった。そうとは知らぬ乱太郎を先に行かせ、隙のできた奴の後ろ首に刀子をめりこませた。たまたま近くに利吉がいたので、これ幸いと、たった今死体になった人の姿に青ざめた乱太郎には、それが利吉の仕業だと説明したが。
 ……そのことが今、こんな形で出てくるのかと思うと、きり丸は意外な気がする。まさか、すりかえたことへの利吉の意趣返しではあるまい……。


 「なんで」
 と、口が動いた。
「それがそんなに大したことかよ」
 きり丸の目の前で、土井は深くうなだれてしまった。
「……そんなに大したことか……か」
 呻くようなつぶやき。腹の底から深いため息をついて、ようやく土井は顔を上げた。
「……それはそんなにたいしたことなんだよ、きり丸。人を斬れるか、斬り続けられるか、それは大きなことだ。必要にして十分な殺戮を行えるかどうか。忍びの資質が一番問われるところだと言ってもいい。一人の生徒が、忍術学園で学んだ六年間を活かして忍びとしてやっていけるかどうか……実際に人を斬らせてみなければ、わたしたちにもわからないんだ」
 きり丸の顔をじっと見て、土井は噛んでふくめるように話す。
「きり丸……人を殺せるというのは大きなことなんだ。特に、まだ生徒の身ではな。人を殺すことをおまえのように、たいしたことじゃないと言えたのは、わたしが知ってるだけでは、いままでで二人しかいない」
 そして土井が上げたのは……立花仙蔵と鉢屋三郎の名。
「……おまえが三人目だとは思わなかった……」
 うつむいた土井に、きり丸は居心地が悪くなった。
「だって……でも、先生、おれ、自分のためにやったことはないし……そんな、そういうことするの、好きでもないし……なんてか、たまたまそういう場に居合わせた時に……」
「当たり前だ」
 顔を上げた土井は苦笑の部類のものではあったが、笑みを浮かべていてきり丸をほっとさせた。
「わたしの大事な生徒が私利私欲や楽しみで人の命を奪ってたまるか」
「先生……」
「ともかくな、それが……おまえの持ってる胆力がな……利吉がおまえを欲しがる理由だ。おまえは……それを誇っていい」
 きり丸は納得のうなずきを返す。なんにしろ……利吉に見込まれたのが大きなチャンスだとはきり丸自身も思うのだから。
「じゃあ、夏は利吉さんところで……」
「ああ」
 そううなずきながら……席を立ったきり丸に、土井はまた尋ねた。
「乱太郎のこと……ほんとうに、平気か?」
 なぜ、なにがそれほど平気じゃないと言うのだろうか。不思議に思いながら、きり丸は大丈夫だと答えた……。


 夏の実習希望の紙を前に、乱太郎はため息をつく。
「同じところに」
 庄左ヱ門の声がよみがえる。
 まさかこのひと夏のことだけではなく、その後の進路まで踏まえて庄左ヱ門がそう言い出したのだとは思わなかったけど。
 庄左ヱ門と同じところに就職して……ずっと一緒にいる……?
 正直、考えたこともなかった。
 ずっと一緒……。
 ……でも。庄ちゃん。
「汚いよ」
 ……庄ちゃん、そう言ったよね……。
 明かりのない部屋の中で、唇を重ねて、無我夢中で交わった一回目。
 その時は……とにかく疼く身体をなんとかしてほしくて、庄左ヱ門を引き込んだ。庄左ヱ門自身もたぶん……わけのわからない熱と興奮にあおられていたのだろうと思う。
 改めて、求め合おうとした二度目。
 真っ暗闇に近かった一度目とちがって、月の光に白々と照らされた原の中では、互いの顔さえはっきり見えて、羞恥心とためらいは一度目の比ではなかった。
 緊張だろう、庄左ヱ門のそこは力なくて。
 だから。きり丸がしてくれていたように。きり丸にしていたように。そこを口に含もうとして。
「きたないよ!」
 と、言われたのだ。
 単に、それは……排泄行為もするそこに口をつけることへの、まっとうな言葉だったのだと思う。思うし、実際乱太郎も、初めてきり丸の唇が自身を捕らえた時には同じことを口にした。
「だめ……! きたなっ……!」
 その時、きり丸はどう思ったのだろう?
「なんで、おまえがきたないの」
 そう笑いを含んで答えたきり丸も……かがみかけたところに「きたないよ」と言われた時に自分が感じたような……自分の一部が絶対的な拒否にあったような……自分自身も軽蔑されたような……寂しさと疎外感を味わったのだろうか。
 結局その言葉に、
「そうだよね……わたしなんか、庄ちゃんから見たら、きたないよね……」
 と、乱太郎は巧妙にポイントをずらして泣きだしてみせ、一度目とほぼ同じパターンでそれを否定してなだめようとする庄左ヱ門を引き込んだ形で事はなったのだ。三度目からは、恋に浮かされた庄左ヱ門が乱太郎の誘いがなくても、熱い抱擁と愛撫をくれるようになって、現在では級友にも冷やかされるような熱々ぶりではあるのだけれど。
 なんとなく……それからも乱太郎は「指よりも口のほうが気持ちいいんだよ」という簡単な事実を庄左ヱ門に伝えかねているのだ……。
 ずっと、一緒……ずっと……でもずっとずっといっしょにいても……庄ちゃん……わたしのものも……口にしてはくれないよね……。
「どうしたの」
 続くため息に、金吾に声をかけられて、乱太郎は飛び上がるほど、驚いた。
「ななな、なんでも!!」
 改めて、自分はなにを考えていたのかと思いいたって、乱太郎は赤面する。
 こんなことを考えるなんて……自分がどんどん下劣な人間になっていくような気がする。
「なんでもない」
 と金吾には答えながら、乱太郎はまたひとつ、大きなため息をついた。


「なあ」
 金吾に呼び止められて庄左ヱ門は振り向いた。
 もらったばかりの一学期の成績表を丸めて、ぽんぽんと自分の肩を叩きながら金吾が立っている。
「庄左ヱ門、実習先、乱太郎と同じなんだっけ?」
「うん、そうだよ」
「……そうか」
 そうか、と言いながらどこか納得していなさげな金吾に庄左ヱ門は、
「なんだよ、それがどうかしたの」
 と聞いてみる。
「……うん……けっこう、乱太郎、悩んでたみたいだったからさ。実習先」
「……へえ」
 愉快な情報ではなかった。
 乱太郎がなにを悩んでいたというのか……相談を受けた覚えはない。
「……なあ」
 金吾が上目使いでのぞきこんできた。
「乱太郎とさ、うまくいってんの」
「……うまくって、なんだよ」
 一部の無邪気な級友たちは、親密度の増した庄左ヱ門と乱太郎をからかってくることがある。彼らは乱太郎ときり丸が別れて次に乱太郎が庄左ヱ門と付き合い出したことを、それほど重大なこととは思っていない様子で、気安く冷やかしてくる。そんなからかいにいちいち目くじら立てる庄左ヱ門ではなかったが、もともと仲のよかった団蔵や兵太夫がこの付き合いをどうやら快くは思っていないらしいのは、どうしても引っ掛かるところだった。
 だから金吾にあらためて乱太郎との仲を問われて、庄左ヱ門はかちんと来たのだ。
「うまくって……なんだよ、金吾に関係ないだろ」
 が、色事に関しては長けていると言う噂の金吾は、軽くいなして笑う。
「そうやってムキになる時ってのは、問題がある時なんだよ。……おい」
 金吾が顔を寄せて廊下の隅へと庄左ヱ門を引っ張る。
「ちゃんとイカセてやってるか?」
 まさか昼の学園でそういう質問を受けると思っていなかった庄左ヱ門は答えに窮した。その沈黙をどうとったのか、金吾は訳知り顔にうなずく。
「きり丸はな、ああみえてけっこう床上手なんじゃないかと俺はにらんでるんだ。ほら、色子宿で稼いでたって噂があったろ」
 確かに。あれは四年の頃だったか、上級生のほうからそんな噂が流れて来たことはある。
「ま、噂なんて当てにはならないけどな。でも、乱太郎が去年ぐらいからこう、ぱあっと色っぽくなったのは、あれはさ、絶対、きり丸の……」
 聞いていられなかった。
 庄左ヱ門は肩にかかった金吾の手を払いのけた。
「もう一度いっとく。おまえには、関係ない」
 ひょっと口笛を吹いて両手を上げてみせた金吾にかまわず、庄左ヱ門は歩きだした。
 関係ない、関係ない、関係ない。僕は……乱太郎が好きだ。庄左ヱ門は思う。乱太郎が笑っているのが好き。乱太郎が幸せそうなのを見るのが好き。だから……そばにいたいと思う。だから……雑音は関係ない。関係ないと、庄左ヱ門は繰り返す……。


 一人残った金吾は、
「だからはげめよって言いたかっただけだって」
 聞く人のいない言い訳をつぶやく。
 その金吾の横を、
「じゃあきり丸は夏の間、利吉さんのところなんだ」
「ああ。兵太夫は?」
 話しながらきり丸と兵太夫が連れ立って歩いて行く。
 別に真っ昼間の教室前の廊下だ、誰が二人連れで歩いていてもかまわないが。
 金吾の目の端で、茶色い頭が教室からのぞいてすぐに引っ込んだ。
「……気にする奴もいるか……」
 一人ごちて金吾はにやっと笑う。
「今年の夏は、一波乱あるな」

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