罪人たちの季節

<十三>

 二学期が始まった。
 金吾は、少し頬がそげて引き締まった庄左ヱ門の顔に、こいつも一皮むけたなと思い、添え木を当てた足を引きずり腕を吊って歩くきり丸の姿に、やっぱりこいつは過激な奴だと思った。
 始業式後早々に、難しい顔をした山田先生と土井先生から、二学期こそ就職活動の正念場なのだから、日々の鍛練を怠らず、希望の職につけるよう努力するようにとの、珍しい訓話があった。その担任の固い表情は、は組有望株の庄左ヱ門が夏の実習中に内定を取ることができず、また、ほぼ決まっていたきり丸の就職も流れたという生徒間の噂を肯定するものだと金吾は見た。
 しかしなにより担任二人の眉間を曇らせているのは……忍たま長屋にも戻っておらず行方知れずだという乱太郎の心配だろうとも、金吾は見た。
 乱太郎についてなにがしかの情報を持っているのは庄左ヱ門かきり丸だろうが、互いに空席のままの乱太郎の席を見た後に、探るような視線を互いの後ろ姿に投げているところを見ると、どちらも乱太郎の消息をつかんでいるわけではないらしい。
 どちらがどちらに先に仕掛けるか、賭けないかと金吾は兵太夫に持ちかけて、
「悪趣味だよ」
 と冷たく切り返されて終わった。


 二学期二日目。
 まだ乱太郎は出て来ない。
 庄左ヱ門は意を決する。
 昼の食堂に向かうきり丸の背を呼び止めた。
「きり丸。話があるんだ。付き合ってもらえないか」
「……悪いが」
 振り返ったきり丸の瞳はきつい。
「おれはおまえと話すことはない」
「……こんなところで言い合いをしたくないんだ」
 さっと回りの空気を緊張させるきり丸の態度に、廊下を行く生徒が一人二人と振り返る。努めておだやかに庄左ヱ門はきり丸に話しかける。
「頼む、きり丸。僕は君と話したい」
 じっとこちらを見つめるきり丸の視線に、庄左ヱ門は耐えた。にらんでくる、と言うより深くこちらの中までも見透かそうとするような、視線。受け止める庄左ヱ門の瞳の中になにを見つけたのか、
「わあった。外に出よう」
 きり丸はしばらくしてからそう言った。


 9月に入ったとは言いながら、昼の日差しは真夏と変わらぬ。
 日にあぶられるのを避けて、校庭の大樹の下でふたりは向かい合う。
「……まず……僕は君に謝りたい」
「ふん」
 ときり丸が鼻で笑った。
「人のものをさんざん欲しがっておきながら、二カ月で飽きてほっぽりだしたことか」
 一瞬、なにを言われたのかと思った庄左ヱ門だったが。
「……頼むよ、きり丸。喧嘩腰にならないでくれないか。僕は君と普通に……」
「おれたちが普通に話せる間柄か、考えてしゃべれよ、委員長」
「きり丸!」
 庄左ヱ門は深呼吸する。それでもどんどん心拍は早くなるし、呼吸も大きくなってくる。
「頼む……わかるよ、きり丸が怒るの。でも、僕は……!」
「乱太郎が好きだっただけ、か? なら今、どうして乱太郎がいないんだ」
「だからそれを話そうとしてるんじゃないか!」
 思わず庄左ヱ門は叫んで返す。
「僕は何度も君に頼んだ! 喧嘩腰にならないでくれとも言った! 君はどうしても僕と話すのが嫌なのか!」
 きり丸はじっと庄左ヱ門を見つめ……それからようやく、その好戦的な目を伏せた。
「……わりぃ。……おまえ見ると、つい腹が立ってくんだ。……条件反射だと思ってこらえてくれ」
「わかるけどね、きり丸」
 呼吸を整えたあと、庄左ヱ門は委員長らしく答えたのだった。
「そういう傾向はよくないよ。話が面倒になるだけだ」
「……庄ちゃんたら、ほんとにいつも冷静ね」
 何カ月ぶり、いやもしかしたら何年ぶりとも言える、きり丸から庄左ヱ門への冗談口だった。


「……僕は全然、冷静なんかじゃないよ」
 庄左ヱ門は沈んだ口調できり丸に打ち明ける。
「僕は……冷静じゃない。……実習先に四郎さんがいたんだ。……四郎さんに会えて……乱太郎は喜んでるようにみえた……僕は……ふたりの間を疑って……乱太郎が信じられなくて……君についても、ひどい言い方をした。……それで……乱太郎は怒って飛び出しちゃったんだ。実習を途中で放り出して」
「…………」
「僕が……君について謝りたいと思ったのは……その、乱太郎が飛び出した原因になったことなんだけど……僕は君についてひどいことを言ったんだ。……その……嫉妬とかつまらない疑いだとかで……だから、その……君の過去のことで……」
 勇を鼓して、きり丸に声をかけた庄左ヱ門だった。きちんと謝りたくて、勇気を振るった庄左ヱ門だった。しかし、肝心の自分の発言を、本人のまえでもう一度繰り返すことができなくて、言い淀む。
「おれが昔……からだ売ってたことでなにか言ったってことか」
 あっさりきり丸が自分からそう言った。
「……うん。本当に悪いことを言ったと思う。ごめん。あの時の僕はどうかしてた……」
 きり丸は肩をすくめてみせた。
「かまわねえよ、別に。威張れたことじゃねえからな。しょうがねえだろ、どういう言われ方したって」
 そしてきり丸は苦笑に似た笑みを浮かべた。
「……黙ってりゃわからねえのによ。わざわざ謝ろうと思うところが、おまえ、委員長だよな」
「呆れてるように聞こえるよ」
「呆れてんだよ。馬鹿には限りがねえってよ」
 ――きり丸の言葉は。きつい。今までと変わらぬ。が。そこには以前あったような刺と毒がなくなっている。だから庄左ヱ門も、今までなら言えぬような本音が言えた。
「……乱太郎にも謝りたいと思うんだ。……四郎さんと、本当にはなにもなかったのかもしれないのに……。でも、ほんとは僕……疑ってるんだ、四郎さんのこと。乱太郎が……誘ってるようにみえたんだ……」
 きり丸はうつむいて言葉を飲む。――あいつは前からそうだよ。どっか男誘うところがあったよ。その返事は飲み込んで、きり丸は顔を上げて別の問を口にする。
「……見せつけてやりてえとか、思わなかった? こいつはおれのもんだって、見せつけてやりたくなかった」
 問いに庄左ヱ門は、
「僕はそんなことは思わなかった」
 きっぱりと即答した。が。委員長には珍しく、上げていた顔をうつむかせ、ややあってから。
「……でも……そうだね……もっと長くあそこにいたら……僕も、そう思ってたかもしれない……」
 小さく低く、呟いたのだった。


 かつて火花散らした恋敵。互いを傷つけよう、己が優位に立とうとせめぎあった二人が、それぞれに大事なものを失った後に、ようやく和解と理解めいたものにたどりついた、その日の夜。
 乱太郎は新たな石を投げた。最初小さな波紋を起こして、利吉と土井をのみ、さらには、乱太郎ときり丸をも飲み込む大きな渦を起こす石を……乱太郎は、投げた――

     *     *     *     *     *     *

 常にないことだが。
 本を伏せ、半助は重いため息をつく。
「やすんだらどうですか」
 利吉は半助をうながす。
「夏バテは、ちょっと暑さのゆるむ今ぐらいが一番危ないんです。体が疲れているんですから、早く寝るのが一番ですよ」
「……うん……」
 それはわかっているんだが、とうなずいて、半助はまた深く息を吐き出す。
「……乱太郎が、出てこないんだ。……いったいどこでどうしているのやら……」
「六年生でしょう。そこらで野垂れ死んでるってことはないですよ、大丈夫」
「……無茶をしていなきゃいいが……」
 半助がそう言った時だった。
 半助、利吉、ふたりを主とするその家の枝折り戸が軋んで開く音がし、そして、戸を、誰かがほとほとと叩く音がした。
「誰だろう、こんな夜分に……」
 利吉は、そう言いながら戸口へ向かった半助を見送ったが、
「乱太郎!」
 半助の驚きの声に、腰を浮かせた。


 乱太郎が戸口に立っていた。
「乱太郎、今までどこに行ってたんだ! ああ、話は後でいい。とにかく入りなさい。みんな、心配したんだぞ」
 半助の口調には、真剣に生徒を案じた末の、安堵がにじみでていたが。
 部屋から漏れる灯火の暗い明かりに浮かぶ乱太郎の表情には、一年の頃からなにくれとなく面倒を見てもらった恩師に対する愛情めいたものは一切浮かんでいなかった。ばかりか。半助が部屋へと誘おうと伸ばした手を、乱太郎は振り払ったのだった。
「乱太郎……?」
「……先生に、触られたくない。心配されたくもない」
 部屋の中から土間をのぞく利吉が、思わず一歩踏み出しかけたほど、その声には怒りがこもっていた。
「今日は先生に、聞きたいことがあって来ただけです」
 次の乱太郎の一言は、半助ばかりか利吉すら、凍りつかせた。
「どうしてきり丸が身体を売るのを、許してたんですか」


「ゆる……」
 こわばった一瞬の後、ようやく出た半助の声は奇妙にかすれている。
「許していたわけがないだろう……そんなこと……」
「じゃあ、どうしてやめさせなかったんですか」
 まだ、本当はたった二年前のこと。利吉と半助の同居に傷ついたきり丸が、自棄を起こして辻で身体を売り、利吉、半助、きり丸、三人三様に苦しんだ時期。乱太郎の言葉は、その血を吹くような時間を掘り返す……。
「先生なら止められたはずでしょ。どうして止めなかったんですか」
 利吉はこわばり切った半助の背中を見つめる。……止めようとした。だけど、止まらなかった。だから、地獄だった。
 それを、当人ではない人間にどう説明すればいいのか。
「縛り付けてでも、薬を使ってでも、きり丸を止めることはできたはずですよね」
「……止めた。何度も……」
 追求に半助は力無く答える。止めた、何度も。でも、止められなかった。やめさせることは、できなかった。
「でもきり丸はやめなかったんでしょう。それって先生が黙認していたと同じことじゃないですか。それともあれは全部、きり丸が勝手にやったことだとおっしゃるつもりですか」
「そんなことは言ってない!」
 さすがに半助の声が荒いだが、乱太郎に怯む色はない。
「わかりました。ほんとは全然、わかりませんけど。先生がもし本気だったら、忍たま一人、行動を制約することぐらいできたはずだと思えて仕方ありませんから。でも、いいです。先生は止めた。止めようとしていた。わざときり丸にそんなマネをさせていたわけじゃない、そういうことにしておきましょう」
「いい加減にしろ!」
 たまらず利吉は声を上げた。
 乱太郎はちらりと利吉を見上げ、そしてまたすぐ、土井に目を戻す。
「もうひとつ、先生にうかがいたいことがあります。確かめたいことがあるんですけど。利吉さんが言うように、もうやめておきましょうか。先生にとっては、利吉さん、ものすごく大事な人なんでしょう」
 乱太郎の声に、したたるような毒がある。
 その毒に刺されて、利吉も半助も……全身が冷たくなるのを感じていた。


「どうします。ひとつ、確かめたいだけなんですけど」
 暗い明かりに……乱太郎の目が光っている。底深い怒りにとらわれ、ふだんはおだやかな笑みの似合う顔が、厳しく締まって半助に向けられている。
「……なんだ。なにを聞きたい」
 教え子からの……きり丸と同様、まだ十の幼い頃から見守って育ててきた愛しい教え子からの……怒りの糾弾に、半助がなんとか踏みとどまろうとしている。利吉は駆け寄ってその背を支えたくなるのをこらえた。
「聞きたいのは、きり丸が身体を売るようになった理由です」
「それは……わたしがあの子を裏切ったからだ。……わたしがあの子に、きちんと向かい合って大事なことを伝えようとしなかったからだ……」
「抽象的な言い方はやめてください。きちんと現実的な理由があったんでしょう。先生が利吉さんと同居を始めて、きり丸は先生に捨てられたと思ってヤケを起こしたんじゃないんですか」
 痛みをこらえるように、半助が大きく息をつくのが見えた。
「……そうだよ。それが……理由だ」
 でき得る限り誠実に、半助はきり丸の親友であり恋仲だった少年に、事実を答えようとしていた。……が。その誠意は乱太郎には伝わらないのか、あるいは伝わっても、その怒りを鎮める役には立たないのか……。
「わたしは、卑怯だった。きり丸に……利吉とのことを伝えて、反感を買うのが怖かった。正面きって話さなくても、きり丸はわかってくれるはずだ、そんなふうに思って……きり丸と向かい合わなかった。そのことが、きり丸を余計に傷つけて、あんなマネに走らせたんだ……」
 半助のその言葉にすら。
「……先生のおっしゃることを聞いてると、きり丸は利吉さんと先生の同居に傷ついたんじゃなくて、先生の態度に傷ついてあんなマネをしたことになりますよね」
 乱太郎の追求は容赦ない。
「だからですか。だから、きり丸が実際に身体を売ってるのに、利吉さんとの同居を解消しなかったんですか。する必要がないと先生は思ったんですか」
 利吉は吹き出す痛みの記憶に身を震わせる。
 ――半助は、解消したかったのだ、自分との同居を。なにもなかったことにできれば、と願っていたのだ、本当は。きり丸が体を売っていた数カ月。あれほどに、半助からの接触を求めながら、あれほどに、半助からの言葉を恐れたことはなかった。きり丸きり丸と、もう自分とのことなど眼中にもなく、ただきり丸を案じることばかりでいっぱいだった半助に、もう一度自分の方を見てもらいたい、語りかけてもらいたいと思いながら、半助が『利吉』と呼びかけてくるたび、今度こそ別れを切り出されるのだと、必死にその場をごまかそうとしていた時の……その切なさと痛みが、利吉を襲う。
 今。しかし、利吉がそれを乱太郎に言うわけにはいかなかった。この人は本当はわたしと別れるつもりだったのだと、告げるわけにはいかない。それは……背徳の告発となって、半助と利吉の間のしこりになるだけだ。今まで通り、それは『なかったこと』なのだ。二人ともに、そこにあることを知りながら、なかったふりをしている……不可触の領域。
 半助にとっても。利吉にはわかる。それは自分がいるこの場で、乱太郎に認めるわけにはいかないことなのだ。
 黙り込んだ利吉と半助に。乱太郎の目がきつくなった。
「……いいですよ、どちらでも。事実は……きり丸が身体を売っていた時期も、今も、利吉さんと土井先生は一緒にいる。それだけで十分です。……先生」
 上げられた乱太郎の瞳が、闇色にきらめく。
「先生はそれなのにどうして教師をしてるんですか。続けていられるんですか。生徒に身体売らせてまで好き勝手するなら、先生は教師を辞めるべきじゃないんですか」
 ついに。
 我慢ならなくなった利吉は裸足で土間へと降りた。
「それはおまえが決めることじゃない。きり丸のことは、半助ときり丸の個人的な事だ。教師としての過失なら責任をとるべきだが、あれは教師としての半助と生徒としてのきり丸の間に起こったことじゃない!」
「……個人的なこと」
 ゆっくりと乱太郎は繰り返して、また土井へと向き直った。
「きり丸があんなマネをしていたことについて……もうひとつ、確かめたいことがあるんです。土井先生。先生は、きり丸と寝てたんですか」


「寝ていない!」
 地に向かい吐き出すように土井が叫んだ。
「乱太郎。本気でわたしが生徒に手を出すと思っているのか。本気でわたしときり丸になにかあったと思っているのか!」
 土井が怒りの気を迸(ほとばし)らせる。さすがに感ずるものがあるのか、乱太郎が一歩後ずさった。
「きり丸とわたしの間にはなにもない。……なにもない。あの子の気持ちに薄々気づきながら、上手に水を差してやらなかったのは、確かにわたしの落ち度だ。だが、自分の劣情に振り回されて、あの子の気を引いたことは一度もない!」
「……でも……先生は黙って見てた!」
 いったんは押されかけたと見えた乱太郎だったが、そう叫んだ。
「先生は……見てたんでしょ、きり丸が身体を売るの!」
 乱太郎の声が震え出した。
「わたし……わたしはこの一カ月、いろんな人と寝ました。実習先に、たくさん先輩たちがいたから……誘われたら寝ました。……でも……腹立つ奴やいやな奴とは……しなかったし、失礼なことしてくる奴にはちゃんと文句も言えた。でも、それ……きり丸は違ったんでしょう、ちゃんと名前も知ってて優しくしてくれる人を選んで寝たんじゃなくて、その日出会った人と……名前もなにも知らなくて、なにしてくる人かもわからないような奴と寝てたんだ。……客を取るってそういうことなんでしょ。やらせて……優しい言葉をかけてもらうかわりに、銭を投げ付けられて……そういうことなんでしょ! きり丸はそんなことを、ずっと続けてたんだ。わたしが知ったのが夏の終わりでしたよね、でも四年になってすぐに、きり丸はそういうこと始めてたんですよね。4月5月6月7月8月9月! 一年の半分も……! 知らない奴に次々買われてやらせて……先生、止める気があったなんて、嘘だ!!」
 嘘だ。叫んで乱太郎は土井をにらみつける。
「……先生……先生が……きり丸に身体を売らせてたんだ。先生がやらせてたんだ。先生が……きり丸をほかの男たちに抱かせてたんだ! それって同じことだよ! 先生がきり丸やったのと、同じことだよ!!」
 糾弾はついに叫び声となり。
 土井は声もなく。
 ただ一人動けた利吉は乱太郎の頬を打ち、その叫びを止めた。


「やめろ! きり丸には悪いことをした。それは認める。だが、全部、全部、過ぎた事だ、終わった事だ! いまさら半助や俺を責めてどうなる! 俺たちを責める前に、おまえがきり丸と向き合え! 今、きり丸がどんな状態か、おまえがきり丸にとって……」
 どういう存在なのか、おまえは知らなきゃならない。そう利吉が言葉を続けていれば……その後の流れは、もしかしたら変わっていたのかもしれないが。
「勝手なこと!」
 利吉の言葉は、大事な乱太郎への言葉は。乱太郎自身の声にさえぎられた。
「どんな状態か、わたしに関係あるんですか! 利吉さんがきり丸の面倒見るんでしょ! きり丸にとって今大事なのは雇い主の利吉さんじゃないんですか!」
「内定は取り消した!」
 利吉が叫び返した。
 乱太郎が目を見開いた。
「……取り消し……?」
「そうだ。今の奴では使い物にならん」
 それはきり丸を心底心配した末の、利吉の苦渋の結論であったのだが。
「……どこまでも……どこまでも、勝手なんですね……」
 声ばかりか、乱太郎のこぶしまでが震えた。
「誰がどう傷つこうが……先生たちはいつも好き勝手やってるだけなんだ……」
「いいかげんにしろ!」
 利吉が乱太郎に詰め寄る。
「いったいおまえ自身はなにをやっていると言うんだ。学期が始まっても学園に戻らず……そんなことで、おまえ自身はどうするんだ。このままそうやって拗ねて卒業までフイにするつもりか? 一流忍者を目指すが聞いて呆れる。きり丸との差は開くばかりだぞ」
 それは……惜しまぬ本人の努力の故とは言いながら、忍びの道を目指す上で、歯噛みして転げ回りたくなるような挫折は知らずに来た……才に恵まれぬ者の足掻きと苦しみだけは、ついに知らぬまま来た……優等生利吉のもっともな、しかし冷たい指摘だった。
 乱太郎の目がふっとかげった。
「きり丸と……わたしの差……?」
 それはもしかしたら、乱太郎が初めて忍びとしてきり丸に敗北感を感じた時だったかもしれない。
 一瞬で沈んだようにみえた乱太郎に、
「乱太郎。とにかく、今夜は中へ……」
 半助が手を差し伸べた。が。その手は、またも乱太郎に振り払われた。
「さわらないで! きり丸が先生を許せても……わたしはきり丸にあんなことをさせた先生を、許せない!」
 叫び、乱太郎は夜の闇へと駆け出した。
「待て! 乱太郎!」
 叫び、二歩三歩と追いかけかけたのは、利吉。
 半助は戸にもたれ、ずるずるとその場に座り込んだ。


 先生は許せない。
 きり丸とわたしの差?
 先生は許せない。
 利吉さんは勝手だ。
 きり丸とわたし……わたしは一流の忍者になれるのだろうか……?
 ひとつひとつの思考がまとまらぬまま、夜を駆ける乱太郎に。
「乱太郎」
 呼び止める声がした。
 は、と足を止めた乱太郎は、木立の闇を、月の光に透かし見ようとする。
「わたしだよ」
 月の光の中へ、姿を現したのは……。
「あ」
 乱太郎が声を上げた。


 利吉は半助の肩に手をかける。
「……半助、半助。もう戸を閉めますよ……半助」
 この表情は見覚えがある。利吉は眉をひそめて思う。この表情は……あの数カ月と同じだ……半助が利吉を拒否し、自らの殻にこもってしまった、あの数カ月と。
 乱太郎の言葉はようやく薄皮一枚下になっただけの過去の傷を暴き出して血を吹き出させ、さらに新たに深い傷をつけて行った。
「半助」
 でき得る限り、優しい声で、利吉は呼びかける。
 しかし半助は、その虚ろな瞳を利吉に向けることなく、伏せる。
「……すまない」
 そのたった一言で。
 利吉は続く言葉を悟る。
「一人に……してくれ」
 利吉は首を横に振る。
「だめです。今は……こんな時だからこそ……二人でいなければならないんですよ、半助」
 ほう、と深く漏れた半助のため息は、利吉の言葉を納得してのものではない。
「今は、君と、話したくない」
「……半助……」
 肩にかかる利吉の手を、半助はそっと手に取り。そして自分の肩から外させた。
「半助、だめです……」
 半助は立ち上がる。
「こんな時だから、二人で話さなけりゃだめなんだ」
 半助は歩み出す。
「半助、お願いだから行かないでください。これじゃあ、あの時と同じだ」
 半助は振り返らない。
「きり丸のことだって……乗り越えられた。今度だって二人で乗り越えられます、半助」
 乱太郎の背をのんだ夜の闇が、半助の背をも、利吉から遠ざける。
「……半助、半助!」
 行かないでください。
 利吉の叫びを、夜が包んだ。

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