罪人たちの季節
<十四>
「うっせえんだよっ!」
きり丸の罵声に、は組のみんなはまたかと首をすくめる。
今度は誰が被害者だろうとそっと様子をうかがえば、気の毒な虎若が手にした半紙を丸めたり伸ばしたりして、
「あの……その、でも……」
と要領を得ない弁明の最中だ。
はあ、とみんなはため息を隠して前を向く。
どうせ、きり丸が本気で腹を立て蹴りやら殴りやらを入れる前に、庄左ヱ門が『まあまあ』と仲裁に入るのだ。
近頃のきり丸は荒れている。
苛つき、落ち着かず、短気だ。
それが行方知れずの乱太郎を案じてのことだろうとは、誰もが推察するところ。
「またしんべヱに連絡してみたら」
兵太夫はそっときり丸に話しかける。
「……乱太郎が現れりゃ、しんべヱのほうから連絡くれることになってる」
むっつりときり丸が答える。
乱太郎の行方は知れない。きり丸たちがつかんでいる乱太郎の最後の消息は、実習先を遁走した後、二学期が始まるまで、乱太郎がしんべヱの元で過ごしたというものだ。これは乱太郎の様子を不審に思ったしんべヱが文で知らせてくれた。
「どこにいやがんだ、馬鹿野郎……」
きり丸の呟きに焦慮がにじむ。
季節は秋へと移ろうとしていた。
イライラしていると回りが見えない。
だからきり丸が、あれ? と不審に思ったのは秋の大運動会の準備もそろそろ追い込みという頃。
――土井先生、ずっと学園にいないか?
最初は気づかなかった。
気づいた後も、当直が続いてんのか、としか思わなかった。
しかし。自分の心配事と荒立った神経をちょっと静めて考えてみると、あれ? 二学期始まってから、ずっと土井先生、学園にいないか?
――利吉が長期の仕事? いや、確か、来年明けるまでは遠方の仕事は控えておくと言っていた。なら、どうして土井先生、学園に居続け?
不審に思って考えると、ひやりとする記憶があった。
あれは……二学期始まってすぐの頃。……土井先生が、謝って来たことがあったっけ。
『わたしが未熟なばかりに、おまえを苦しめた。謝って許してもらえることではないが、改めてきちんとおまえに謝っておきたかった』と。
なんで今頃、そんな昔のこと、としか思わず、
『何事も経験じゃん? 別におれ、今はなんとも思ってねえけど』ときり丸は答えたが。
あれも、考えたら、なんで突然、あんなこと?
……んで。
『乱太郎は、なにがなんでもわたしが見つけだして学園に連れ戻す』と。
担任としての責任感からの台詞としか思わなかったけど、あれも今思うと、なんか思い詰めてなかったっけ、先生。
――なんか、先生がおれと乱太郎に引け目だか罪悪感だか持ってて、ほんで、もしかして、利吉と不仲?
うわーそれはまずいわーときり丸は思った。
それはまずい。
考えてみれば、利吉がこの一カ月、一度も学園を訪ねて来ないのもおかしい。
先生が止めてるのか、利吉が来ないのか……どっちにしても……。
「……一度、行ってみるか」
きり丸は土井の家へ利吉を訪ねてみることにした。
* * * * * *
真夏の炎暑を思うと、今の季節は仕事がはかどる。
草を引き、肥をやり、落ちるのが早くなった西日に今日の仕事の成果を見回して、大木雅之助は満足して家路につく。
夕餉の支度をして明かりを灯し待つ人がいないのが、侘しいといえば侘しいが、その分一人暮らしは気楽だ。
家の前で、鍬はかついだまま四囲に注意を配り、戸の内の気配を探る。これは忍びだったころの習性のままでもあるし、実際にその癖のおかげで、学園からのクセのある訪問者に粋な対応ができている。
だから、漫然と戸を開けたのではない。
だが。屋内には人がいた。
窓から入る残照と、戸口からの光で、栗色の髪をした人物が部屋に上がり込んで座っているのが見えた。
「おかえりなさい、大木先生」
声とともにその人物は、気配を消すのをやめたようだった。
闇から浮かびあがるように、目視した人影が『色』をまといだす。
「お邪魔してます」
頭を下げ、にこりとほほ笑むその顔に邪気はないが。
……その人物に『邪気』を読もうとした自分に、大木は心中、眉をひそめる。
「乱太郎じゃねえか!」
表面的には大木は、ただ明るく聞こえる驚きの声をあげてみせた。
「留守中に上がり込んでしまって、すいません」
ぺこりと乱太郎が頭を下げる。
「どうした。学園のほうはおまえを探して大騒ぎだと聞いとるぞ」
「今日はそのことで、先生にちょっとご相談が……」
相談があると言う乱太郎を、大木は改めて見やる。
外見はほんとんど変わっていない。夏を越えて背が少し伸びたようだが、相変わらず少女のような華奢な体型に、日の光りさえその肌は擦り抜けるのかと思える白い肌、栗色したふわふわの猫っ毛も変わらない。優しげな面立ちも、柔らかな頬の丸みも、丸いメガネの奥の一重の涼しげな目も、変わらない。全体に、人の良さそうな、温和な性格を思わせる、その外見的な要素はなにも変わっていない。
それがかえって不審を抱かせる。夏休みの終わり頃から一カ月も雲隠れしていたのなら、どこかに荒れたものや落ち着かなげなものがありそうなものなのに。
「相談? わしにか」
乱太郎の様子を探りながら、表面は何事もないふうで、大木は尋ねる。
「ええ。先生にご相談に乗っていただけるとうれしいんですが」
「乗ってやらんこともないが、その前にわしは汗を流したいし、めしの支度もしたいぞ」
にこっと乱太郎がほほ笑んだ。
「ごはんはわたしが支度します。どうぞ先生は汗を流していらして下さい」
釣瓶を使って井戸水を汲み上げ、豪快に水しぶきを上げながら、水を体に叩きつける。ざっと泥と汗を流した後はたらいに水を満たし、手ぬぐいを使って顔や頭も洗い、全身もこする。
「先生、背中流しましょうか」
かけられた声に、大木は来たかと思う。
「おお。頼む」
「……ついでにわたしもさっぱりしちゃおうかな」
背後で着物を脱いでいるらしい気配がする。ちらりと振り返れば、ふだん着物から出ている腕や顔だけでも十分に色白だと思える乱太郎だったが、着物に隠れた部分はさらに透けるような白さで、思わず大木はヒューッと口笛を吹きたくなった。……まずい。大木は自戒する。そういう反応をとりたくなったということ自体、ふだん生徒の裸を見る時には感じないなにかを自分が感じたということなのだ。
「先生、手ぬぐい、貸して下さい」
すたすたと近づいてきた乱太郎が手を出してくる。
「……お」
濡れた手ぬぐいを渡してやれば、
「先生、さすがに背中までしっかり筋肉がついてますねー」
感心したような声を出しながら乱太郎が背中をこすりだす。
「鍛えながら身体ができてくれば、ちゃんと全身に肉がつくぞ」
背後で乱太郎がため息をついた。
「……わたし、ほんとに大丈夫かな。ちゃんと鍛えてるつもりなのに、全然力こぶとか出来てこないし……こんなんで、わたし、ほんとに忍びとしてやってけると思いますか、大木先生」
「おまえの相談というのは、そのことか、乱太郎」
「……利吉さんに言われたんですよ。こんなふうなままで一流忍者になれるつもりかって。……ちょっとこたえました。……大木先生みたいに……こんな身体だったら、そんなふうに言われなかったのに……」
大木の背を、肩を、乱太郎の手と視線が撫でて行く。うらやましげに撫でさするその指先が、しかし、なにか妖しげな感触を生んでゆく……。
「身体なんぞ、忍びの条件のひとつにすぎんぞ」
「……そうですか?」
「ああ。忍びにもいろんな種類がある。なにを得意としてどういう術をこなしていくのか、ないものねだりより、自分にあるものを武器にすることを考えろ」
「……同じことを言う……」
「なに?」
小さなつぶやきを大木は聞きとがめた。が、それを大木が問い詰める前に。
するり。
乱太郎の細い指が後ろから大木の股間に回り込んできた。
しなやかな指が、大木の股間のものをやんわり握り、ひそやかに蠢きだす。
「……ここも……きれいにしましょうか、大木先生」
大木は乱太郎の手首をつかむ。
「なんのマネだ、乱太郎」
「……洗って差し上げようかと思っただけですけど? 背中を流すついでですよ?」
なにがまずいのかと言わんばかりに問い返されて、大木のほうが答えに詰まる。
「そろそろご飯が炊き上がるころかな。酒の肴に、茄子でも刻みましょうか。あれ、使っていいんでしょう?」
言いながら乱太郎は大木の横から釣瓶に手を伸ばし、勢いよく水をかぶった。
「ああ、さっぱりする。じゃあ、先生も早く戻ってらしてくださいね」
さきほど脱いだ着物を手早くまとい、乱太郎はさっさと屋内へと戻って行く。
「……なんのマネだ、乱太郎」
大木は口の中でもう一度つぶやく。
臀部のまっしろな双丘が、大木の目の底に残ってしまった。
再三、乱太郎は大木に絡んで来た。誘って来た。
うまいな、と大木は思う。井戸端でのように、あからさまに手を伸ばして来られればはねつけることもできるが、さりげない思わせぶりには、拒絶のきつさも鈍る。
水浴びを理由に全裸をさらしたのは、その効果を知っているからにちがいなく、さらに、触れなば落ちんの風情を保ちながら男を誘う手管すら乱太郎は身につけている。
乱太郎の相談というのは、無断で実習先を飛び出し、その後もずるずると欠席を続けてしまい、いまさら恥ずかしくて学園に戻ることもできない、どうすればいいかというもので、先行きの不安に沈み、犯した不始末を反省する様はそれだけで男の保護欲を刺激するが、そこに思わせ振りな目線やしなだれかかるような柔らかな動きを交ぜられれば、さらに征服欲まで刺激されてくる。
「……先生に……頼っちゃいけないと思うんですけど……でも……」
寂しげに目を伏せため息などつかれる。
ごほ! とわざとの咳払いで、大木はなにやら桃色を帯び出した空気を払おうとする。
「学園に戻るのにわざわざわしの口添えなぞいらんぞ。ただいまと戻っていきゃあいいんだ。それより、おまえ、この一カ月、どこにいてなにをしていた」
「……どこで、なにをって……」
「誰かと一緒だったのか」
乱太郎がくすりと笑う。
「言えません。どこで誰となにをしていたかなんて……」
「乱太郎」
「そんな恥ずかしいこと、言えません。……でも」
ついに乱太郎は『さりげなさ』を振り捨てた。大木の肩に腕を投げかけ、
「今夜一晩だけ……わたしを先生の恋人にしてくれませんか? もしも先生が抱いて下さるなら……話します、この一カ月のこと」
あまくささやく。
大木は乱太郎の体を押し返した。
「おまえが話したくないなら、無理に聞きたいとは思わん。わしはおまえにそこまでの責任も義務もないからな」
しばし。大木と乱太郎は見つめ合った。
「…………先生は、堕ちて下さらないんですね」
「教え子に手を出すほど飢えとらん」
「へえ」
皮肉げな笑みが乱太郎の顔に浮かんだ。……その笑みは、行方不明前の乱太郎が一度も浮かべたことがないものであるにもかかわらず、今日の乱太郎がようやく本心を出してきたものと大木には見えた。つまらぬ色仕掛けで乱太郎がなにをもくろんでいたのかは知らないが、ようやくこいつの本音が聞けるのだと大木は思う。
「わたしの誘いに乗って下さらなかったのは、わたしが先生の好みじゃなかったからじゃんないんですか」
「……なに」
「土井先生のようなタイプが、先生、お好きなんでしょ」
大木は眉を寄せる。
「土井?」
「昔、付き合ってらしたんでしょう?」
「どこのガセネタだ、それは」
大木は顔色ひとつ変えずに切り返す。
「なんだ。ガセなんですか」
乱太郎は残念そうに言い、また『にやり』としか形容しようのない、やはりかつての乱太郎の顔に浮かんだことのない笑みを浮かべた。
「残念。わたしが大木先生と寝たら、土井先生、どんな顔するだろうって楽しみだったのに。それから利吉さん。どこまで知ってるのかなーってドキドキしてたのに。なんだ、ガセなんですか」
「……おい」
乱太郎の腕をつかみ、大木はずい、と顔を寄せた。
「痛いですよ、大木先生」
「おまえがやろうとしてたことのお仕置きにしちゃあ、あまいもんだ」
そして大木はぐっと乱太郎を睨み据えた。
「いいか、猪名寺。ガキが色事、おもちゃにすんじゃねえ。ちょっとぱっかし、色の世界を覗いたからってな、ガキが閨事(ねやごと)、いじくるんじゃねえ」
上から押さえ付ける目線と、きつい声音。しかし、乱太郎は平然とその大木を見返した。 「でもね、大木先生。コドモは色事学んでオトナになって行くんでしょ」
「好きなだけ学べ。だがな、今のままならおまえは、勘違いした大人にしかなれねえぞ」
「勘違いでも……」
またなにか乱太郎は言い返そうとしたらしい。だが、はっと言葉を切ると耳を澄ませる仕草をする。
「……!」
大木はさっきのお返しとばかりに、思い切り人悪くにやりと笑ってみせた。
「おうよ、乱太郎、おまえはまだ詰めがあまいわ。井戸であれだけコナかけてよ、相手が落ちなきゃ脈なしだろうがよ。手の内に入れられなかった相手をああやって一人にしといちゃマズイ。基本だ、覚えとけ」
そのしゃべりもまた、時間稼ぎ。これも覚えとけよ乱太郎と、大木は心の内で呟いて、さっきからつかんでいた乱太郎の腕をことさら強く握りしめ、叫んだ。
「入れ!」
がらりと戸が開いた。
入ってきたのは、忍術学園教師の制服である墨染めの忍び装束に身を包んだ、土井だった。
乱太郎はしまったと、自分の失敗に臍(ほぞ)を噛んだろうか。
土井は、教え子の無事の姿に安堵しながら、駆け寄ろうとしていたろうか。
すべては……。
突然の破裂音ともうもうと室内に立ち込めた煙りに包まれ……。
大木と土井がようやく視界を確保したときには、乱太郎の姿はなかった。
土井が無念のこぶしを床に打ち付ける。……彼には珍しい激情の行動に大木は目線をそらす。
「……仕方ねえわ、土井」
土井は深呼吸ひとつ、気を静める。
「……ご連絡、ありがとうございました、大木先生」
「おう。連絡しといてよかったわ。なかなかすごいぞ、今の乱太郎は。思わず食指が動いちまった。学園に連絡しとらんかったら、据え膳、食っちまっとったな」
「据え膳……乱太郎は、あなたを誘ったんですか」
「わしと寝たらおまえがどういう顔をするか、見たいというのが、乱太郎がわしのとこに来た理由のようだったぞ」
土井がぴくりと顔を上げる。
「……ということは……」
「おまえとわしの昔の経緯(いきさつ)を知っとる奴だな、今、乱太郎にくっついとるのは。ついでになかなかの手練れだ。さっきの呼吸もわしらのスキをついとったし、乱太郎もな、ずいぶん腕を上げとるぞ」
「……やはり……」
「心当たりがあるのか」
「だいたいは。ただ、なかなか居所をつかませてくれないので……」
ふーむと大木は腕組みをした。
「このまま、乱太郎がどこまでバケるか、見てみたい気もするが……。しょせん本気でもなかった火遊びを、こういう形で蒸し返させようと乱太郎に吹き込んだ奴の、気がしれん。あまり性(しょう)の明るい奴ではないわな。そういう奴に乱太郎をまかせとくのは、まずかろう」
土井が深くうなずいた。
「ええ。乱太郎は……わたしの大事な生徒です。後半年……わたしは乱太郎が胸を張って忍術学園を卒業していけるようにしてやらなきゃならない。……取り返します、相手が誰であろうと」
決意に満ちた土井の顔を大木は見上げ、
「……あのな」
と小声で話しかけた。
「それはそれで大事だが……おまえさん、自分の足元はしっかりしとるか?」
「え?」
怪訝そうな表情になる土井だ。
「乱太郎はもひとつ気になることを言っとったぞ。利吉がどこまで知っているかとな」
「……利吉は……関係ありませんよ」
大木は目を丸くしてみせる。
「ほーお?」
「あなたとのことは……はっきり話したわけではありませんが、わたしも若いころの、そう、火遊びだと、一過性のあやまちだと、彼も思ってくれているようだ。どうってことありませんよ、二、三度酒に失敗しただけの話だし、犬猫がさかるのと変わらない。実(じつ)のある話ならわたしも利吉に申し訳ないが、あんな……あれ? 大木先生、どうかなさったんですか? あの、大木先生?」
大木は頭を抱えながら、利吉がんばれ土井はこういう奴だと、胸の中でエールを送っていたのだった。
こちらはひそかにエールを送られているとは知らぬ利吉である。
彼は酒でどんよりと濁った目で、かいがいしく立ち働く少年の後ろ姿を見ている。
「ったくもう……なに、この鍋……うわ、黴びてるよ、これ。水瓶は……あ、やっぱ腐ってる。ひえーひでー。なに利吉さん、一カ月なに食って生きてたの」
呆れた口ぶりで文句を続けながら、きり丸はぱたぱたと家の中を掃除し整理して回る。
きり丸の手によって、見る間に家の中がこざっぱりしていくのを眺めながら、利吉はまたひょうたん徳利をあおる。
「ほっとけ。どうせすぐまたドロドロになるんだ」
「いいから、そこも、ほら、どいて。布団の下にキノコ生えるよ。うわ。しけってるよ、この布団」
そう言って布団をはぎ、上掛けを丸めるきり丸はこちらに背を向けている。
……本来なら、こうして床の準備をしてくれるのは……。
ふとそちらに頭が行ったのがまずかった。
利吉は自分でもそうとは気づかぬうちに、きり丸におおいかぶさっていた。
「わ!」
と、バランスを崩してきり丸が布団に倒れ込む。
肌の接触が熱を呼ぶ。
利吉は勢いのまま、きり丸をかき抱き……強引に着物の合わせに手を入れる。
が。
下になったきり丸は、あわてるでもなく、いやがるでもなく。
「あのさあ、利吉さん」
しみじみと落ち着いた声で利吉に呼びかけた。
「やりたいなら尻ぐらい貸すからさあ、いっぺんどいてよ。苦しいよ、この姿勢」
利吉は急激に酔いも醒めていくのを感じる。
「……悪かった」
なんとなくそのまま布団の上に、利吉は正座し、きり丸はあぐらをかいて向かい合う。
「たまってんのはわかるけどさー。おれは尻貸すぐらい平気だけど、利吉さんのほうが、あと、まずくない?」
「……悪かった。一時の……いや! 一瞬の気の迷いだ。忘れてくれ」
利吉の前で、なにもかもわきまえた顔の少年は、仕方ないなあとため息をついた。
「やっぱ先生とケンカしてんだ」
「ケンカじゃない」
利吉はむっとして言い返す。
「あの人は出て行ったんだ」
「ほんで利吉さんは、ここで酒びたり? 情けなー」
利吉は目線を落とす。声が沈む。
「……わたしたちは……もう駄目かもしれん……」
そしてきり丸は利吉の口から、乱太郎が落としていった爆弾について聞いたのだった。
「……前もそうだったんだ。……あの人はふたりで生きて行こうという気が最初からないんだ。だからちょっと問題が起きるとすぐに逃げ出す。……決して……決して二人で立ち向かって行こう、二人で解決しようとは……してくれない」
まあ、わかるけど。と前置きして、きり丸は上目使いに利吉を見やる。
「でも、おれ。もしもあの時、先生があんたと一緒におれを追っかけに来てたら、刃物振り回してたね。あんたに死んでほしいと思っちゃったかも」
「……そうか。そういうものか……」
「そういうもんだよ。……でも、確かに先生は腰が引けてるよな……」
だろう? と利吉は勢いを得る。
「あの人は絶対に、わたしと墓まで一緒だとは思ってないんだ!」
「……そうかなあ……先生にとってもけっこう、利吉さん、大事だと思うんだけどなあ。……あのさあ」
と、きり丸は身を乗り出す。
「こーゆーこと、今、言っちゃっていいかどうかわかんないんだけど」
「なんだ。言ってみろ」
「利吉さんね、先生に見切られてるんだよ」
「見、見限られてる……?!」
ちがうちがうときり丸は首を振る。
「利吉さん、読み切られてるんだって。今だって、ほら。着物は垢ずんで髪もばさばさで、酒飲んで荒れてる。ものすごくわかりやすいじゃん。先生が出てって、荒れてる。たぶん、そうだろうと思ってたけど、案の定じゃん。おれにすら読まれてるんだから先生なんかもう、なんもかんもわかっちゃうんじゃないの」
「…………」
「先生さ、利吉さんがよそ見するなんて、思ってないんだよ。おれから見たって利吉さん、先生一筋じゃん。ほうっといてもこいつは大丈夫だと思うから、先生が勝手するんだよ」
利吉は確信に満ちて語る少年の顔を見つめる。……そう言われればそうな気もする。
「……じゃあ……どうすれば……」
「まずさ、先生に好きだ好きだ言うの、やめな。……あのさ、言葉か行動か、どっちかでいいんだよ。抱いてやるなら好きだって言わなくていいの。好きだって言ってやったら抱かなくていいの。あれ、こいつ、ほんとにおれのこと好きなのかなって、どっか不安がらせとけばいいんだよ」
「……おまえ、それやって乱太郎に愛想つかされたんじゃないのか」
きり丸、硬直。
「いや……悪かった」
「……別に……いいんだけど、うん」
「……ほんとはどっちが振ったんだ」
「……どっちがどうってわけじゃ……」
「乱太郎くんの行動を見てると悪いのはやっぱりおまえじゃないかと思うんだが」
「……そういう……どっちがいいの悪いの決めるのって意味ないじゃん! ほら、なんてか、物事はこう複雑にからんで……」
「やっぱりおまえが悪いんだな」
利吉がしみじみうなずき、きり丸は憤然と顔を上げた。
「今はおれたちのことはどうでもいいんだよ! 利吉さんと先生のこと話してるんじゃないか! いい! とにかくこういう色恋は駆け引きできなきゃ駄目なんだ! こんなさ、汚い格好してちゃだめだよ! いい? あしたにでも湯屋に行ってさっぱりしておいで。ついでに着物もこの際、ばーんと新調しておいで。それで女の一人も連れて学園の回りをうろうろしてみな。先生、顔色変えて飛んで来るよ!」
「……確かに顔色は変えてくれるかもしれんが……あまりいい顔色じゃあないだろうなあ」
「とにかく、先生にも少しは不安がってもらえって。今のままじゃ、利吉さん、いつまでたっても先生の手の内だよ」
確かに。きり丸の言うことは正しい。と利吉は思う。
「だいたい、こんなんで利吉さん、仕事のほうは大丈夫なの」
ああ、それなら、と利吉は顔を上げる。
「不破が今、下工作を行ってる。鉢屋が時々連絡と打ち合わせに来てくれているから、仕事のほうは大丈夫だ」
ふときり丸は引っ掛かるものを感じた。
「……鉢屋先輩? ここに、よく来るの?」
「ああ。……おまえの内定取り消しが取り消しになるようなら、また先輩後輩になる。鉢屋はいい忍びだ。おまえもいろいろ学ばせてもらうんだな」
きり丸の胸の中で、なにか嫌な感触のものがざわめいた。
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