罪人たちの季節

<十五>

 闇の中、ほほえんでいる『先輩』の唇。
「ああいう時はね、敵に動きのある瞬間が狙い目なんだよ」
 ほほえんだ形のままの唇が紡ぐ言葉に、乱太郎はうなずく。
「それとも乱太郎は、あのまま連れ戻されたかったのかな」
 そうだったのかなと乱太郎はぼんやり思う。『先輩』はいつも自分自身でさえ気づかなかった感情や考えに気づかせてくれる。本当に『先輩』は、人の奥深くまで読み取るのがうまい……。『先輩』が気づかせてくれなければ、土井先生と関係のあった人と寝ることで、先生を苦しめたいと思っていたなんて……そんな自分の復讐心にも気づけないままだったかもしれない……。
「いけない子だね。わたしが助けなければ君はあのまま学園に連れ戻されていたよ。これも使わず……」
 『先輩』の手がするりと胸元に伸びてきたと思ったら、そこに仕込んであった煙り玉が『先輩』の指の間に挟まれてあった。
「ねえ。逃げようと思えば、自分で逃げられただろう? それをしなかった君は、いけない子だね? そうだろう?」
 ――そうだ。先輩に助けられなければ、あのまま学園に連れ戻されていた自分は……連れ戻されたがっていた自分は悪いのだ……学園に戻ろうとしていた自分は、悪いのだ……。
 乱太郎はうなずく。
「じゃあ……」
 唇がさらに笑みを深くする。
「悪い子にはお仕置きだね」
 お仕置き。その言葉にぴくりと体が震えた。
「……おいで」
 短いけれど、いやを言わさぬ強いものを含んだ命令。
 乱太郎は震えをこらえながら立ち上がった。


 底の深い人だとは昔から思っていたような気がする。
 こうして近くにいるようになって……その深い底には暗黒が広がっているのじゃないかと思えるようになった。
 鉢屋三郎。
 彼の近くにいると、頭がぼんやりとしてくる。その言葉がすべてに思え、その意に添うのがなによりの大事に思えてきて。……まるで『飼われて』いるようだと、乱太郎は思う。 『飼育』なんだろうか、それとも『調教』? 
 なんでもいい、先輩はエサをくれる。……そう……最近は思い出すのもつらいような気がする『彼』だけがくれていたものに、とても似たものを、先輩はくれる。
 庄左ヱ門も四郎も……求めた誰もがくれなかったもの。炙る熱さで追い詰め、真っ白になったところで果てさせてくれる……あの強烈な快感を――『彼』とやり方はちがうし、『彼』が快とともにくれていたあたたかさはないけれど――あの快感に似たものを、先輩はくれる。欲しい時のねだり方、男の誘い方、今まで稚拙なものしか知らなかった自分に、先輩はいろいろ教えてもくれる……。
 ……でも。
 わたしはずっとここにいていいんだろうか。
 いいんだろうか。
『わたしなら君を一流忍者にしてあげられる』
 先輩のその言葉にウソはないだろうと思う。
 実技も学科も、威張りはしなくても、先輩は学年で一番だったと聞いている。それまで一人で仕事をしていた利吉さんがその技量を見込んで仕事に誘ったというのも、学園ではすでに伝説のように語られているのだし。
 でも。ここにいていいんだろうか。
 言葉にならぬ胸のなかの不安を、乱太郎は持て余す。
 ああ。なんだかほんとうに、頭がまとまらない。なんだか……なんだか、胸の中も、頭の中も、ぐるぐるぐるぐる……なにかがあふれそうなのに……なにかが……。
「……乱太郎くん?」
 乱太郎が渦巻く何かを吐き出す方途を悩み出した時だった。
 やはり懐かしい……あたたかい声が、した。


 三郎先輩は小まめに潜伏場所を変える。
 町中に移り山中に移り、五日以上、同じ所に居たためしがない。 
 乱太郎がその懐かしい声を聞いたのは……川沿いに栄えた町の一軒屋で、遠慮なく家に入ってくる足音に、三郎なら二日ほどは留守にすると出掛けたはずなのに、と不審に思い表をのぞこうとした時だった。
 家に入って来たのは、見慣れたはずの……でも、まるきりちがう顔だった。
「……雷蔵、先輩?」
「ああ。やっぱり乱太郎くんだ。どうしてここに? あれ? 卒業前だよね? 授業はいいの?」
 目を丸くした乱太郎と同じ、やはり驚き顔の、懐かしい顔。
 もうこの数十日、見慣れたのと同じ顔でありながら……『色』のちがうその顔に……乱太郎はぐうっと何かがこみあげてくるのを感じる。
「雷蔵先輩……先輩!」
 一年の、まだ何も知らない、まだほんの子供だった頃のように。野外実習で道に迷った時のように。乱太郎は雷蔵の胸に飛び込んで行きたくなった。その衝動をこらえたのは……雷蔵の顔を直視できぬ、今の立場が頭をかすめたからだった。
 懐かしげな声を上げ、自分の顔を見て一瞬、芯からうれしそうな顔をしながら、すぐと目を伏せいたたまれない素振りを見せた乱太郎に、雷蔵はなにを察したのか。
 それは……三郎と少なからぬ時を共に過ごした雷蔵になら、わかることだったのか。
「……三郎と、ずっと一緒にいたの?」
 雷蔵の問いに乱太郎はただ体を固くした。
「三郎に……」一度雷蔵は言い淀み、
「……縛られた?」
 彼自身も思い切ったのだろう言葉は、乱太郎が三郎と過ごした時間に行われた行為を、雷蔵が把握していると知らせる。
 乱太郎は答えられなかった。大好きだった先輩と少し怖かった先輩が、おそらく学園にいた頃からの恋人同士なのだと知っていながら、自分は大好きな先輩を裏切ったのだと、乱太郎はうなずくことができずにいた。
 が、雷蔵は反対に、乱太郎に向かい頭(こうべ)を垂れた。
「……すまなかった。あいつの、悪癖なんだ。怖い思いをさせたね?」
 その、雷蔵の姿に。この人は許してくれるのだと乱太郎は思った。
 在学中と変わらず優しい、乱太郎の大好きだった先輩は……ぽろりと涙をこぼした乱太郎の頭を胸に抱き寄せ、「すまなかったね」と繰り返した。


 乱太郎が落ち着くと、雷蔵は改めて、
「授業は? 学園のほうはどうしたの?」
 と尋ねて来た。
「……なにか、事情があるの」
 責めるでない、好奇心からでもない。雷蔵は親身な心配を見せる。
 それ以上は問い詰めては来ない。じっとおだやかな瞳のまま、底に憂いだけ見せて、乱太郎の言葉を待っている。
 この数カ月で初めて、乱太郎はすべてを打ち明けていいのだと感じることができた。
 だから、乱太郎は話した。
 雷蔵相手に、乱太郎の中で形もなく渦を巻いていたものは、容易にそれを表す単語を見つけ、それは文章となって乱太郎の口から流れ出た。
 雷蔵は小さくうなずきながら、乱太郎の話を聞く。
 この数カ月で初めて……乱太郎は安心して言葉を話せる相手を見つけ、理解してもらえる喜びを感じることができた。
 乱太郎は話した。きり丸との別れ。彼との情交を思い出しては、肉欲にさいなまれたこと。それを埋めるために、ただそのためだけに、同級生を始め、手近な男たちと躯を重ねたこと。そして気づいた、きり丸への想い。彼の過去へのこだわり、土井への怒り。
「その時、ちょうど……三郎先輩と出会ったんです……」
 三郎に拾われ……、
「……一流忍者になるためのあれこれを……教えてやるって言われて……」
 それが土井への報復になるとほのめかされて、大木のもとを訪れ、誘おうとしたこと……。
「でも……なんだか、わからないんです、わたし……わたしはきり丸に会いたいのに、今のわたしがどんな顔して彼に会えるのか、わからない。会いたいけど会いたくない、会えないと思う。……彼が好きだ。彼が好きだから……彼が好きだったから、だから彼が横にいなくなって寂しくて……耐えられなかった。ヘンでしょう、ヘンなんだ。彼が好きだから、わたしはほかの人と寝たんだ。……でも……彼が好きならわたしは庄左ヱ門や四郎さんとあんなことになっちゃいけなかったんだ。大木先生を誘っちゃいけなかったんだ。……三郎先輩と……一緒にいちゃ、いけなかったんだ。
 きり丸に会いたい……でも、会えない。会えなくしちゃったんだ、自分で。どんな顔で……どんな言い訳したらいいのか……わからない、わたしはもう……汚い」
 雷蔵は穏やかな顔でずっと黙って乱太郎の言葉を聞いていたが。
 ゆっくりと首を横に振った。
「そんなことは……きれい汚いに関係ないよ。逆に……忍びとして乱太郎くんが生きて行くつもりなら……そういう身体についての貞操観念は早目に捨てたほうがいい。忍びにとって身体は道具のひとつだから。色事は武器のひとつだから。きり丸くんも……そのへんのことはわかってるんじゃないのかな。身体の関係を持ったことそれ自体は、きれいでも汚いことでもないよ。……ただね」
 苦笑に近い笑みを浮かべて、雷蔵は乱太郎の顔をのぞきこんだ。
「男たちが自分に性的な興味を持つことを……乱太郎くんは楽しんでない? 誘うことを、おもしろく思ったことはない?」
 う。と乱太郎は詰まる。ほほーんとどこか間延びした味わいもある雷蔵だが、あの三郎が見込んでくっついているだけのことはある、要所要所けっこう鋭いところがある。今も雷蔵は乱太郎の痛いところを突いていた。
「だろう?」
 乱太郎の表情を読んで雷蔵は笑う。
「それはきり丸くんも怒るかもしれないし、君たちが付き合っている間にも、君にそういう傾向があったとしたら、それはきり丸くんも穏やかじゃなかったろうねえ」
「……庄左ヱ門のことでは……よく……彼、怒って……。別れる時も……あんな恥ずかしいところを見せたくせに……それをわたしが喜んでるんだろうとか言って……わたし、なにを言ってるんだって、余計に腹が立って悲しくなったけど……」
「今から思うと、彼が言ってることも正しかった気がする?」
 雷蔵の口調には乱太郎を非難する響きがどこにもなかった。だから、乱太郎は問われて素直にうなずいた。
「……だから、なのかな……」
 早くも鼻の奥に冷たいものが差し込む気配を覚えながら、乱太郎はつぶやいた。
「だから、なのかな……わたしが……そういう……インランなタチだから……だから、きり丸、わたしのことが嫌いになったのかな……」
「それは……きり丸くんに確かめてみないとわからないね……」
「確かめて……でも……」
 鼻の痛みが、熱い涙になって目からこぼれた。
「それでそうだって言われたら……? だから嫌いになったって、言われたら……? 今のおまえは許せないって、言われたら……?」
 指先で何度払っても、涙はぽろぽろこぼれて乱太郎の頬を濡らした。
「……そうやって君が泣ける間はね……君はなんにも変わってないんだよ」
 雷蔵の優しい声に、乱太郎をまた別の切なさが襲う。
「でも……でも……わたし、わたし……さ、三郎先輩とのことも……」
 愉しんだ、と乱太郎が口にする前に。
「三郎のことは別だ」
 ぴしゃりと雷蔵がさえぎった。今日初めて、いや、乱太郎が初めて聞く、雷蔵の厳しい声だった。
「三郎がその気になれば、一日中、鎖につながれ地面に餌を置かれるような生活でも、君は喜んで尾っぽを振っているだろう。三郎は……実際、それに近いことを、今までにもやっている」
 怒りの深さを思わせる声だった。――卒業してからの五年間に、ふたりに何があったのか。それともそれは学園にいたころからのものなのか。何も知らない子供だった自分が見ていた雷蔵と三郎は、ただ同じ顔をした親友同士としか見えなかったけれど……。雷蔵の声には、ふたりの間の長年の相克を思わせる激しいものがある。
「……ごめん。……大丈夫だよ、きり丸くんは君のことを嫌ってはいないと思うよ。なかなかね、十(とお)の子供の頃から一緒だった相手を憎み切る、なんてことはできないもんだよ」
 そう慰めてくれる雷蔵の言葉も……聞けば雷蔵の三郎に対する気持ちの吐露のようにもとれる。
 ふたりの間にも……なにかがあって、それでも、二十を越えた今も、雷蔵と三郎は共にいる。……それなら、自分たちも……自分ときり丸も……今これほどの距離があり、互いに傷つけたり裏切ったりしていながらも、また、肩を並べられる日が来るのだろうか。
 乱太郎は読めぬ未来を思い、深く目を閉じた。


 ――その夜。
 乱太郎は雷蔵に、どうやら適性もあれば才能もあったらしい、三郎の仕込みのおかげで最近めきめきと、そう言ってよければ『上達』してきていた色仕掛けを、仕掛けるつもりはなかった。
 雷蔵にもまた、かわいがっていた学園の後輩を、そういう意味でも『可愛がる』つもりはなかっただろう。
 ただ……。
 今の乱太郎にとっては、雷蔵は最近ではただ一人、心を開けた相手であったし。
 雷蔵にとっても、妖しさすら漂いだした色気を持つ乱太郎はその意味では初対面であったし。
 夜の帳(とばり)が呼んだ、恋心と欲情。
 互いに、間違いを犯してはいけない一番の相手と、わかっていたが。
 理性の制止を振り切るだけの激情が、ほんの瞬間にあっただけ。
 心細さを埋めてほしいあまえと、慰めてやりたい支えてやりたい好意が、ほんの一瞬交わった色欲に、恋情に化けた。
 ――互いに。間違いを犯してはいけない相手と、わかってはいたけれど。


 早朝。
 雷蔵と行き違っていた三郎が戻って来た。
 二人は何食わぬ顔をしたけれど、交情のあとの空気の湿りを三郎は敏感に察した。
 雷蔵と三郎は時に低く、時に獣じみた唸りを交え、時に激高し叫び……なじり合い、責め合い、許しを請い合い……そして。
 雷蔵が出て行った。
 言葉を交わすのは三郎が許さなかったから、目だけで乱太郎に詫びを言いつつ。
 雷蔵が出て行った。

     *     *     *     *     *     *

 きり丸は闇を見つめる。
 乱太郎……どこにいるのか。
 一人、少しカビ臭い本の中で、きり丸は乱太郎を思う。ここは図書室奥の書庫。同室の兵太夫の、おそらくはまだそれほど具体的な欲望は伴っていなさそうな、淡い恋心に触れて以来、きり丸はここを寝場所に定めている。
 ……寝付けない。
 乱太郎が目の前にいて庄左ヱ門といちゃついている時には、重圧から解放されたような気分で、こいつと俺はもう関係ないんだと思うことに、なんの痛痒もなかった。
 夏休み中、利吉のもとで働きながら無茶を繰り返し、それが乱太郎の不在のせいだと言われても、それはちがうと思えたし。
 ……でも。今、乱太郎の居場所すらわからず、その生死すら定かではなくなって、きり丸は自分の神経がぴりぴりととがり続けているのを感じるようになった。
 目の前にいろよ、と思う。
 庄左ヱ門といちゃつこうが、誰と付き合おうとかまわねえ、とにかくおれの目の前にいろ。……心配なんだよ。おまえがいないと。
 ため息をついて、布団代わりの古着を巻き付け寝返りを打った。
 その時。
 うなじのあたりがちりりと灼けた。
 ……誰もいないはずの図書室奥の書庫。……でも、誰かがいる、いや、近づいて来ているのか。きり丸は寝たふりで神経を研ぎ澄ます。
「探したぞ。こんなところにいたのか」
 突然、傍らから声がした。


 音もなく、どこから入って来たのか。
 きり丸は全身が総毛立つのを覚える。
 警戒と恐怖。
「大丈夫だ。かわいい後輩を、いきなり殺したりはしないから」
 きり丸の心を読んだように、声が笑いを含んでそう言った。
「誰……だ」
「おや。わからない?」
 声には確かに聞き覚えがあった。
 きり丸は闇の中に目をこらす。背中の側から聞こえていた声は、いつの間にかきり丸の頭上から聞こえてくる。
 天井に近いところに、ほんの小さな空気を通す窓しかないその部屋は、ほとんど完全な闇だ。それでも……かすかに、なにか凶々しい光を放つ、ふたつの瞳が見えた気がした。
「……さぶろう……先輩?」
「ご名答」
 空気が震えて笑いの気配が伝わる。
「今日は一応、おまえに挨拶に来てやった。おまえの片割れは、俺がもらう」


 なにも、身を縛るものはないはずなのに。
 きり丸は押さえ付けられたように動けなかった。
 『気』が重い。
 それでも、きり丸は自分でも思わぬ大声で叫び返していた。
「乱太郎っ! 乱太郎をどうするつもりだっ!」
「ほう……片割れと聞いてすぐそう出るか。だが、残念だな。乱太郎はわたしがもらう」
 宙に浮かんでいた双眸が、近づいてきたような気がした。
「いいだろう? おまえがいらないと捨てたものだもの。わたしがもらっても、いいだろう?」
 くっときり丸は肩を撥ねさせる。
「あんたにはあんたの片割れがいるだろう。雷蔵先輩はどうしたんだよ!」
「それはわたしにとって不愉快な質問だが答えてやる。雷蔵とわたしは別れたよ。君の可愛い乱太郎くんはね、わたしの可愛い雷蔵と寝たんだよ。わたしも雷蔵も大人だからね、少々の悪さは大目に見るが、これはまずい。雷蔵は昔から乱太郎を憎からず思っていたし、わたしはわたしで乱太郎を気に入ってはいたが、雷蔵が乱太郎に寄せる好意を快くは思っていなかったんだ。せっかくわたしが可愛がってやっているのに、わたしの大事な雷蔵を奪うようなまねをする乱太郎は許せないが、もっと許せないのは、わたしを平気で裏切った雷蔵だ。
 雷蔵はわたしを裏切ってはいけないんだ。彼がわたし以外の者に心を寄せて、しかも肌まで重ねるなんて……ものすごい裏切りだ、ものすごい……わたしは雷蔵が許せない」
「それはあんたと雷蔵先輩の問題だろうが! なんでおれと乱太郎を巻き込む!」
「おや」
 声が嘲笑を含んだ。
「おまえと乱太郎は、もう付き合わないんじゃなかったのか? 乱太郎の話ではおまえのほうが乱太郎を切り捨てたんだろう? 人のものになると聞くと惜しくなるか」
 きり丸は唇を噛み締め、闇の中、ほのかに浮かぶ双眸をにらみつける。
「にらむな。おまえの目はなかなかに怖いよ」
 怖いと言いながら、その実、完全な優位を確信している余裕が口調にある。
「ふむ。そういう顔をするところを見ると、やはり嫌って疎遠にしたわけではないのか。おおかた、相棒の将来を肩にになうのが怖くなったというところか。振り捨ててはみたものの、軽くなった肩がまた不安か、きり丸」
 三郎の言葉はきり丸が誰にももらしたことのない、きり丸の本音をえぐっていた。
 きり丸は目を見開く。
「図星か。残念だね、きり丸。わたしはおまえのように怖くなったりはしないんだ。おまえのように乱太郎の将来に責任を持たなければならないのが怖くなりもしないし、無垢な者が汚れてゆくのを怯じる気持ちもない。
 自分の浅はかをゆっくりと悔やむがいい。せっかくあそこまで仕込んだものを、他人に奪われてゆくのは口惜しかろうが」
 あははと、邪悪な響きの笑い声。
「おれは……」
 きり丸は低く唸る。
「おれは乱太郎を仕込んだりしねえ! 乱太郎を犬みたいに言うんじゃねえや!」
 すうぅっと昏い光をたたえた瞳がきり丸の間近まで迫った。
「……まったく、おまえは。身に合わぬきれいごとを言うのは、土井仕込みか? どうしようもないな。もういいだけ、汚いことを見、手も汚して来ているくせに、口清いことを言うんじゃない。虫酸が走る。
 あの純な子を、あそこまで淫乱に仕込んだのがおまえでなければ誰だと言うんだ。あの子のお初を奪ったのはおまえだろう? 血は出なかったか、あの子は叫ばなかったか。痛みに息を詰まらせていた子を、男のものを求めて腰振るようにさせたのは誰だ? 悦楽を教え、性の禁忌を破ることを教えたのは誰だ? あの子はとても柔軟だ。嫌悪がない。今までおいしいものしか食べさせてもらっていないのがよくわかる。ああ。それもわかるよ。おまえは自分が味わった嫌な思いをひとつも乱太郎にさせていない。だからあの子は素直だ。素直に汚れていく」
 声が楽しげに踊った。
「おまえの感じた不安はわかるよ。あれだけ素直な子だ。忍びの道の険しさつらさを、おまえが自分の手で教えるのを怯じるのはもっともだ。だが、おまえは知らない。人がどれほど簡単に汚くなれるか、堕ちることができるか、おまえは知らない。最初の抵抗を破り、泥にまみれさせる、そうすると次からはその人間は泥の中で快感にのたうちまわるようになるんだ。楽しいぞ。おまえはその楽しさも知らない。だから乱太郎はわたしがもらってやるよ」
 きり丸は深呼吸して気を落ち着ける。ひとつ、確かめておきたいことがあった。
「……乱太郎に……土井先生にきついことを言わせたのは、あんたか」
「乱太郎が土井と山田の家に乗り込んだ時の話か。それはわたしには関係ないことだ。だが、あれはなかなかの見物だったよ。偶然にその場に居合わせてね。おまえにも見せてやりたかったよ。乱太郎は全身で叫んでいた。おまえが好きだ、だから土井が許せない、と。あれほど熱烈な愛の告白は聞いたことがない。あれを聞いてね、乱太郎を手元に置いてみたくなったんだよ、わたしは。ただ純な白い子には、わたしは興味がないんだ。人を恨む事も知り、嫌うことも知っている子のほうが、おもしろいだろう? ただきれいな子は、あとは壊れるかしかないが、内に汚いものをひそめている子は、染まるんだよ、いろんな色に」
 きり丸はもう一度深呼吸する。
 乱太郎が近くにいる気配はない。今すぐに乱太郎を取り返すのが無理だとしても……このまま、鉢屋にいいように言われたままにはしたくなかった。
 圧倒的に押されながらも、きり丸は唇の端を持ち上げて笑みの形にした。
「三郎先輩。なんだかんだ言って、雷蔵先輩で失敗したから乱太郎でやり直そうってんだろう。捨てておけねえなあ」
「……きいたふうな口をきくな。……まったく。おまえはかわいくない。昔からそうだ。わたしはおまえが嫌いだった。親兄弟をなくし、住む村を焼かれ……どうせ学園に来る前には、幼い躯を売って銭に替えていたんだろう。そういう不幸てんこもりな境遇なら、もっとすねろ、もっとひねろ。自分は可哀想なんだとぶっていればいいだろう。……わたしはおまえが嫌いだ。継ぎの当たった着物を着ながら、臆せず級友たちと遊び、乱太郎と無邪気に笑い合ってた、おまえが嫌いだ。人が死ぬのも平気なくせに、そんな自分を堂々とさらして生きてるおまえが嫌いだ」
「おれだって」
 きり丸は歯を剥き出した。
「他人の顔ばかり、てめえの顔をさらせもしねえで、態度だけはでけえてめえが嫌いだよ!」
 ざん!
 きり丸のくるまっていた古着が、苦無で床に縫い付けられた。
 咄嗟に身を翻し、書棚を背に立ち上がったきり丸は、床にうずくまる黒い影へ向かい、懐の小刀を構える。
 睨み合うこと、数瞬。
 きり丸は脇の下をたらりと油のような汗が垂れて行くのを感じる。……格がちがう。押される。
 だが。いまここで鉢屋にやられるわけにはいかない。なにがなんでも、乱太郎を……その思いだけを奮いにして、きり丸は汗ばんだ手に小刀を握り締める。
「……まあいい」
 しばらくして、鉢屋がそう言った。
「きょうはおまえに挨拶に来た。思わぬ長広舌になってしまったが、今おまえを傷つけたら、これも計算外だ。今度からは口の利き方に気をつけろ」
 そして、鉢屋は不気味な含み笑いをもらした。
「おまえには楽しいものをもらった。あの子は逝く時におまえの名を呼ぶ。まずそれを仕込み直そう」
「まっ……!」
 待てときり丸が言い終わる前に。
 床に染み入るように、黒い影が消え、気配がなくなった。
 すぐにきり丸は火種を取り出し明かりを灯す。案の定、書棚に囲まれた狭い書庫の空間に鉢屋三郎の姿はない。鉢屋が消えたとおぼしいあたりの床をこつこつ叩けば……。
「……抜け道か……」
 今から追ったところで追いつくわけもないだろう。
「くそ……!」
 きり丸は床にこぶしを叩きつけた。
「乱太郎……」
 呟きには切ない響きが濃かった。


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