罪人たちの季節

<十七>

  戒められた両手は高く、頭の上。
 覆うものとてない剥き出しの裸身は、滲んだ汗で絖のように光る。
 舌を押し唾液を吸った口枷が、その口から迸る悲鳴を、濁った呻きに変えている。
 懇願も必死の訴えもその口枷に封じられ、乱太郎は自由にならぬ身をくねらせ、腹打つほどに固く勃ちあがったものの先端から、とろり、こらえきれぬ滴を零す。
 その……痛いまでに充血しきり、最も感じやすい状態にまで柔らかな粘膜を張らせた、その、乱太郎自身は、根元をきつく三郎の指に巻かれている。
「ふ、ふーっ……ううぅーっ!」
 果てさせもせず。
 三郎はぬめぬめと唇を這わせながら、乱太郎の涙のように滴をこぼすしかないそこを、先端から喉の奥へと飲み込んでゆく。
 びくりびくり震える、白い裸身。
 三郎のもう一方の手は、乱太郎の小菊を抉り続ける。
 岩壁に響く、呻きと湿った肉壁を弄われる、淫らな音。
「……おまえのここは、女と同じように濡れるんだね」
 三郎の感情を込めない声が言う。
 乱太郎の尻の肉が、細かく震える。それがもどかしさを含んだものだと三郎は知りつつ、ぐちゅりぬちゅっと指だけの犯しを続ける。
「わたしは三郎だよ。きり丸じゃない。今度はちゃんとわたしの名を呼べるか?」
 こくこくと乱太郎がうなずくのを見ながら、三郎の唇が笑みに歪む。
「……まだ信用できないな」
 その唇がまた深く乱太郎自身を呑む。
「!!」
 果てることを許されぬきつい快は苦痛となる。乱太郎の背が反った。


 妥当な線としては、あと二週間で始まる秋休みまで待つのがよいだろうとは、きり丸も思ったが。
 とてもではないが、それまで待てるものではない。
「乱太郎は逝く時におまえの名を呼ぶ」
 『きりちゃ……っ』記憶の中にある乱太郎の刹那の声。
「まずそれを仕込み直そう」
 勝手なまねするんじゃねえ、とどうしてあの時すぐに言ってやれなかったのか。
 三郎の元にいる乱太郎、三郎に抱かれる乱太郎。きり丸はじりじりと身が焼ける思いに、いてもたってもいられない。
 ――あの別れは。乱太郎に『もう付き合えない』と言わせたあれは。あれは……庄左ヱ門の思慕を断ち切ろうとはしない乱太郎に苛立ち、乱太郎がそう言うように仕向けたのだと、今では認めることができる。それも……自分一人で就職先を決めたことに引け目を感じ、さらには乱太郎の未来に責任を持つことに怯じた結果だったのだと……今では自分自身にも認めることができる。
 きり丸は三郎の行方を追うための支度の手を止め、じっと目を閉じる。
 午後の授業の始まった校内はたださえ静かだが、ここ忍たま長屋はきり丸のほかに人もおらず、物音ひとつしない。静謐の中、きり丸は目を閉じる。
 ――おれは、乱太郎のことが好きか?
 自問に、きり丸はうろたえる。
 好きなのか、本当に。庄左ヱ門を受け入れ、おそらくは四郎ともほかの先輩とも関係を持ち、さらには三郎にやすやすと捕まっている乱太郎が、好きか。
 自問に、きり丸は答えられない。
 ならば。きり丸は自分に問い直す。
 三郎の望むままにさせるか。
 答えはすぐに否と出る。
 ――なら、どうして。
 きり丸はさらに自分に問う。庄左ヱ門と乱太郎が付き合いだした時には平気だった?
 それは……目の前だったから。自分の見ている前のことだったから。
 自分の出した答えに、きり丸は首を横に振る。
 それでは十分じゃない。
 なぜ、庄左ヱ門と乱太郎と……さらには実習中の乱太郎の交際について聞いても腹が煮えなかったのに、今、三郎といる乱太郎を思うと……これほど、胸が焼けるのか。
 きり丸はゆっくりと目を開く。
 庄左ヱ門、悪い。
 小さくつぶやく。
 おれは、おまえからならいつでも乱太郎を取り戻せると思っていた。乱太郎が、四郎と寝ようと、誰と寝ようと、いつでも、取り返せると思っていた。
 でも。三郎は。
 三郎は乱太郎を連れて行って、二度と返してはくれないだろう。乱太郎を三郎の好きな形に変え、乱太郎の中に残る自分の影も消してしまうだろう。
 きり丸は手の中の、雷蔵の文字を見つめる。
 この場所のどこかに、乱太郎がいるなら。
 取り返す。
 好きだとか嫌いだとか。乱太郎が自分を今でも好きなのか嫌いなのか。そんなことはどうでもいい。乱太郎の将来を、どう保証していてやったらいいのか、自分の生きる道さえ確かではないのに、一緒に生きていってやるなどととても言えないが、それも、それすらも、今はどうでもいい。
 乱太郎。
 好きも嫌いも、将来も、関係ない。
 おまえ、おれのものだ。乱太郎。
 迎えにゆく。


 忍び道具を調え、隠し武器も念入りに仕込み、旅支度を済ませ、きり丸は放課後の土井の部屋を訪れた。
 今日一日の授業をさぼったことに苦言を呈する土井に、
「乱太郎を迎えに行ってくる」
 きり丸は短く告げた。
「なに」
 土井の表情が変わる。
「居場所がわかったのか!」
 そして土井は学園の情報網を駆使し、乱太郎と鉢屋三郎がともにいることまでは突き止めたが、その後、利吉からの情報が得られず、鉢屋の居所がつかめていないことを、手短にきり丸に話した。
「雷蔵先輩が利吉さん経由で教えてくれたんだ。鉢屋の居場所。十箇所以上あるから、ちょっと大変だけど、手近なところから当たってく」
「……おまえ一人でか」
 とがめるように土井は言う。
「だめだ。一人では行かせられない。わたしも行こう」
 きり丸は首を横に振ってみせる。
「だめだよ、先生。これはおれ一人で行かなきゃ」
「乱太郎とのことを、おまえが一人で解決したがるのはわかる。だが、鉢屋がどういうつもりでいるのかわからない以上、おまえ一人で行かせるわけにはいかない。鉢屋があっさり乱太郎を返してくれるとは限らないだろう」
「鉢屋がどういうつもりでも関係ない。先生がなんと言っても、だめだよ、おれは一人で行く」
「きり丸!」
「……わかってよ、半助」
 利吉が半助に求愛を始めた頃から……時々きり丸は土井をそう呼んだ。まるで利吉と張り合うように。未熟ながら男として主張するように。久しぶりにその口から己の名を呼び捨てに聞いて、土井ははっとする。
 きり丸の瞳は澄んでおだやか。口元にはほろ苦さを噛み締めた笑みがある。
「おれ、先生のこと、好きだったよ。生徒としてじゃなく、子どもとしてじゃなく……たぶん、利吉さんが先生のことを好きなのと同じように……まだ子どもだったからまったく同じじゃあなかったけど、種類としては利吉さんが先生好きなのと同じように、おれ、先生が好きだった」
 面と向かっては、初めて聞く告白だった。
「なのにさ。半助と二人で乱太郎迎えに行けるわけ、ないじゃん?」
 土井はすべてを納得する。納得しながらも、それでも心配なのが親心か。
「……なら……山田先生に……」
「せんせ」
 きり丸が笑い出した。
「頼むよ。ひとりで行かせてよ。ちゃんと帰ってくるよ。危なくなったら助けも呼ぶ。ね」
「……本当だぞ。ちゃんと連絡するんだぞ。すぐに行くからな」
 うん、ときり丸はうなずき、土井もよし、とうなずいた。
 そして。見送られる者と見送る者が戸口へと立ち。
 ふと、土井が、
「そういえば、きり丸」
 と切り出した。
 振り返ったきり丸は、そこに、今までの慈愛深い教師の顔ではなく、家で時々見かける、腹に一物ありげな男の顔を見る。
「利吉につまらん知恵をつけたのはおまえか」
 きり丸は咄嗟に無邪気なこどもの笑顔を張り付ける。
「あれ、なんのことかなあ、先生」
「わからなければいいんだ、きり丸。おまえはおまえのことで手一杯のはずだもんなあ。気をつけて行って来いよ」
 こちらもすでに人の好い笑顔になって土井が受ける。
「うん。先生。気をつけて行って来るよ。あ。そうだ。利吉さんに会うことがあったら、お礼を言っておいてね。優しいね、あの人」
「そうか、きり丸。伝えておくよ」
「うん。……おれ、最近気がついたんだけど」
 きり丸は少し照れた素振りを見せてそっとささやく。
「利吉さんって、もしかしてすっごく可愛くない? あ。年上の人に、失礼なこと言っちゃったかな、おれ。内緒にしといてね、先生。あの人、怒ると怖いから」
「ああ、内緒にしておくよ、きり丸」
 答えた土井の額のあたりがひくついている。
「じゃあね、先生、行ってまいります」
 あくまで無邪気な子どものように土井に手を振り、背中を向け……きり丸はひとつ、ため息をついた。
「……手間のかかる……」


「さて」
 きり丸は教室へと足を向ける。もう一人、会わねばならない。
「あれ、きり丸。今日はどうしたんだよ」
 勤勉な委員長は教室に一人残って学級日誌をつけていた。


「乱太郎の居場所がわかったんだ。迎えに行ってくる」
「え!」
 きり丸の旅装姿の理由を知り、庄左ヱ門は目を丸くする。
「どこに!」
「……詳しいことは、まだ」
 なにやら事情ありげなきり丸を、庄左ヱ門は見つめる。
 一緒に行きたい。乱太郎の無事を一刻も早く、自分も確認したい。
 でも、それは……きり丸の役目だ。
「……気をつけて行っておいでね」
「おれ、行く前にひとつ、おまえにあやまらなきゃと思って」
「いいよ……それは、いいよ」
 きり丸が謝りたいというのがなんのことなのか、おぼろげながら庄左ヱ門にはわかる気がした。乱太郎はしょせんきり丸のものだということを謝ってくれる気なのか、それとも今度こそ乱太郎はきり丸のものになるのだということをか。どちらにしても。それはもう、わかっていること。
 庄左ヱ門は僕に謝る必要はないよと、きり丸に向かって首を横に振る。
「それよりね、きり丸、ちゃんと乱太郎には謝れよ」
「あ?」
「ほら……その……あれはやっぱりひどいと、僕は思うんだ」
 梅雨の合間の、蒸し暑かった番小屋。友の前でさらさせられた痴態。
「……あ」
 きり丸が思い当たったという顔をする。
「それにさ……乱太郎は話さなかったけど、あれ、メガネが割れてたの、おまえが乱太郎、殴ったんだろ? ……それもさ、僕はやっぱりずいぶんだと思う」
「……だな」
「謝れよ、ちゃんと」
「はい」
 素直にうなずくきり丸に、庄左ヱ門は笑みを浮かべる。……こんなふうにきり丸と話せるなら……いつか乱太郎とも……もう一度、友達として笑いあえるだろうか。三人で、一年の何もなかった頃のように、また遊べるだろうか。
「……きり丸。しっかりね、乱太郎、連れて戻って来てよ」
「ああ。絶対に連れて戻る」
 庄左ヱ門はきり丸を門の所まで送って出た。
 行っておいで、と背中を押した。
 すぐに速足になったきり丸の背を、庄左ヱ門は見送る。
 ……代われるものなら、代わりたい。……乱太郎を、迎えに行きたい。でも、それは。
「おまえの役目だよな……」
 庄左ヱ門は小さく小さく呟いた。

     *     *     *     *     *     *    

 深い山間の、この洞窟に移って来てから四日がたつ。そろそろ次の塒に移る頃だろう。
 乱太郎は今日の課題である手裏剣と苦無の的当てを黙々とこなしながら思う。
『おれが一流忍者にしてやる』という鉢屋の言葉に嘘はないのだろう、この一カ月、ひたすら基礎技術の復習と体力強化に取り組まされている。
『おまえの一番の武器は、人に警戒心を抱かせないその外見と雰囲気だ。大事にしろ。ふたつめの武器はその色気だな。気配を操るのもだいぶんうまくなってきたしな、おまえの得意は詐取と潜入工作といったところだろう。だが、だからと言って腕の立たん、肝の座らん奴は使えない。一流になりたければ、まず技を磨け』
 鉢屋の指導は信頼してもいいような気がする。
 が。
 このまま鉢屋といていいのか。自分は鉢屋といたいのか。乱太郎はずっと同じ疑問に悩まされている。……会いたいのは、きり丸。一緒にいたいのは、きり丸。でも……会うのが怖い……。
 雷蔵と派手な喧嘩別れをした鉢屋に、
「おまえを雷蔵の代わりにする。おまえはおれといろ」
 と言われたが。あれも本気なのか冗談なのか。鉢屋の本心はつかめず、乱太郎は逃げようと思えば逃げられるはずの日々を、変わらず鉢屋と過ごしている。夜になれば『御褒美』か『お仕置き』をもらう日々を、過ごしている。夜が明けるたび、また少しきり丸から遠ざかってしまったような気がして寂しくなる、そんな日々を。
 まとまらぬ思いを振り切るように、苦無を投げた。
 苦無が乱太郎の手から離れた瞬間に、的の近くに突然、人影が現れた。
「ひゃっ!」
 突然現れた人物は、鼻先を掠めた苦無に叫び声を上げた。
 あと少し、軌跡がずれていたら大ケガをさせていた、乱太郎も肝を冷やす。
「だ、大丈夫ですか!」
 が、よく見ると、四十がらみのその男は口に汚い猿轡をはめられ手も後ろ手に縛られている。
「ふん、惜しかったな」
 男の後ろから手縄を持ち、ゆったり現れたのは三郎だった。
「おまえに土産だ、乱太郎」
 三郎は、髭面(ひげづら)蓬髪(ほうはつ)のその男を乱太郎に向かって突き出した。


 よく見れば猿轡をしていても凶悪な顔相をした男だった。目が狂暴に光っている。
 それでも三郎の恐ろしさはすでに身にしみているのか、三郎が軽くつついただけで素直に洞窟の奥まで入って来た。
「――この男は、この山に棲む賊の一人でな。旅人を襲い、娘をさらい、非道を繰り返して来た。里の役人に捕まれば打ち首はまぬがれない」
 その悪人をどうしろというのか。乱太郎は不安なざわめきを感じながら三郎を見る。
 昨夜のことだ。いい忍びと普通の忍びを分けるのは、人を過不足なく必要に応じて殺せるかどうかなのだと三郎が言った。人を殺せる技術があっても、使えなければ意味がないと。学園の授業はそう言った点で片手落ちだと。
 まさか、と乱太郎は三郎を見つめ、三郎は、こともなげに言い放った。
「この男を、殺してみろ、乱太郎」
 その言葉に命運を悟った男が暴れだした。があああっと、猿轡の中から獣じみた叫びが上がる。遮二無二、出口めがけて走りだそうとする男に、三郎の手から飛んだ分銅付きの鎖が巻き付いた。
「往生際の悪い。仲間がすべて死んで自分一人助かるとでも思っているのか」
 三郎は凍りついたように動かない乱太郎に近寄ると、その手に刀子を握らせた。
「さあ。乱太郎。この男を刺してごらん」
 ぐわあっとまた男が唸り、鎖をじゃらじゃら言わせて暴れ……そこに。
「悪趣味かましてんじゃねえよ」
 張りのある響きのよい声が、割って入った。


 あ。
 乱太郎は心臓がはねるのを覚える。
 この声。
 血が一度に沸き立つ。
 この声この声この……。
 足音が近づいて来る。
 会いたくて会いたくてたまらなかった……。
 乱太郎はそろりと振り向こうとして、でも、首は少し横を向いただけで止まってしまう。
 本当に『彼』?
 ちがったら泣いてしまいそうな気がする。
 でも本物の『彼』でもやっぱり泣いてしまいそうな気がする。
 思いが苦しい逡巡は一瞬だったのか。
「ばか」
 は、と思う間もなく、視界にきり丸の顔があった。


「ばか。こんな奴の言いなりになってんじゃねえよ」
 夏をはさんで二カ月ばかり会っていないだけのはずなのに。
 ずいぶんと面差しがちがって見えた。
 痩せた、日に焼けた、背が少し高くなった……顔が、きつくなった?
 ほんの少しの変化なのに、きり丸はぐっと大人びたように見える。
「…………」
 言葉もなく、きり丸を見つめる乱太郎に、
「迎えに来た。一緒に帰るぞ」
 きり丸がそう言った。
 ―― 一緒に。帰るぞ。なにを言われるかと不安だった。再会した時には侮辱の言葉を浴びせられるのかもしれないと思っていた。だけど。
「迎えに来た。一緒に帰るぞ」
 こうしてきり丸のほうから現れてくれるとは思っていなかった。まさかもう一度、手を差し伸べてもらえるとは思っていなかった。
「……きり、丸……ほんとに……?」
 乱太郎は震える手を伸ばす。
 天井に岩の裂け目のあるこの洞窟は、日のあるこの時間はまだ明るい。
 それでも屋外とはちがう、間接的な光は、なんだか幻を生みそうな気がする。
 乱太郎はその言葉とともに、きり丸本人を確かめようと手を伸ばす。
 が、その手がきり丸に触れる前に。
「感動のご対面だろうが、ちょっと待て。授業中だ」
 三郎の声にきり丸がきっと目をとがらせる。
「……ざけんじゃねえ。乱太郎を返してもらうぞ」
「わからん奴だな。授業中だと言っているだろう。休み時間は課題をこなせたらくれてやる。……そうだな、おまえもついでに実力考査を受けていけ」
 じゃらん、と岩壁に反響する音を立て、山賊の一味だという男に絡んでいた鎖が落ちた。
「自由にしてやる」
 三郎が男に話す。
「あの二人のうち、どちらか一人でいい。殺してみろ。そうしたらおまえは自由だ」
 男の目が光った。
 三郎の手がひらりと舞い、男の猿轡も手縄も、切れて落ちた。
「がんばれよ。殺せなければおまえも仲間と同じ運命だぞ」
 恐ろしい教唆を笑みさえ浮かべながら言い、三郎は男の手に刀を握らせる。
 男にとっては起死回生のチャンスであり、後のない背水の陣での戦いでもあった。
 おおおっ!
 雄叫びとともに、男はまっすぐ乱太郎へと殺到した。


 たださえ凶悪な山賊が、死に物狂いで刀を振り回す。
「うわっ……!」
 すんでのところで後ろへと飛びすさり、乱太郎は最初の一撃を避けた。
 が、男はすぐに次の突きを繰り出し、乱太郎を狙う。
 きり丸がすぐさま、男の間合いへ飛び込もうと忍び刀を手に走り寄るが、男はきり丸への牽制も忘れず、寄せ付けない。
 きり丸を一歩引かせると、男は二歩三歩と乱太郎へと距離を詰める。
 さすがに身の軽さを見せて乱太郎は狂刃をかわすが、狭い上に足場の悪い洞窟内のこと、何度目かの着地の際に態勢を崩した。
 狙い目だと思ったのだろうその瞬間、男に隙が出来た。
 男が乱太郎に突き立てようとした刀は、男の手首ごと、宙に舞った。


 乱太郎は見た。
 歯を剥き出した男の必死の顔。男の手に握られた刃が、ものすごい太さと大きさで自分に迫ってくるのも、見えた。
 それでも、その瞬間、刃と男の身の間にはぽっかりと隙があった。
 その隙にするりと入り込んで来た刃。
 その刃はためらいもなく振り上げられて、男の手首を斬った。
 時間にすればほんの数瞬。
 ぼたん、と湿った重い音がして、男の手首が地面に落ちた。
 後には、耳をおおいたくなるような絶叫。男の、手首を斬り落とされた腕から血がものすごい勢いで吹き出す。
 乱太郎は見た。赤に染まる視界のなかで、きり丸がちらりといまいましげに三郎のほうを見やったのを。
 まるで目の前の男の苦しみが見えていないかのように。男の苦痛の叫びが聞こえていないかのように。
 きり丸にとっては、男の手首を切り落としたことより、三郎の意図にはまることのほうが重大事なのだと、その一瞥は語っている。
 男はすでに正気をなくしていたのだろうか。
 落ちた己の手首ごと、刀を取り上げると、きり丸に向かって振り回した。
「ち」
 聞こえるはずのない舌打ちの音が乱太郎には聞こえた気がした。
 そこからはスローモーション。
 男の刃をくぐったきり丸が男に向かって踏み込み、男の腹を一文字に裂いた。信じられないものをみるように、己の腹を見つめた男の背後に、横撫ぎの一歩で回り込んだきり丸が、立つ。ためらいもなく。背からきり丸は男の心の臓を一突きにした。


 男の叫びが消え、しんと静まった洞窟に。
 ぱちぱちぱち。
 人を食ったような、拍手の音。
 三郎がすらりと立つ。
「それでは授業は終わり。お待ち兼ねの休み時間だ。ただし、乱太郎は補習がいるな」
「ざけんじゃねえ!」
 きり丸が吠えた。
「てめえの悪趣味にこれ以上付き合ってられるか! 乱太郎は連れて帰る!」
「それは困るな。わたしも乱太郎は気にいっている」
「てめえが欲しいのは雷蔵の身代わりだろうが! そんな奴に乱太郎をくれてやれるわけがないだろう!」
 乱太郎は目の前に横たわる男を見つめる。
 死んでいる……ぴくぴくと動いていた指先ももう動かず、開いた目も動かない、体の下から真っ赤な血だけが、まだ流れ出している……。
 ――二人はなにを言っているのだろう……。
 乱太郎はぼんやりと三郎ときり丸を見上げる。
 ふたりは……なにを。人が一人、死んでいるというのに。きり丸はその手でこの男の命を奪ったというのに。
「……ねえ。死んじゃったよ……?」
 乱太郎はそっとふたりの注意をひいてみる。
「ああ」
 そうかと振り返ったきり丸が、申し訳に両手を合わせてみせる。
「……それだけ……?」
「そういうものなんだよ、乱太郎くん」
 三郎が雷蔵の声を出した。優しく暖かな声で、三郎は語る。
「きり丸くんを責めるんじゃない。彼はこの場でやらなければならないことをやっただけだから。彼も殺したくて殺したわけじゃない。彼は人を殺せる、それは彼のせいじゃないし、忍びとしてやって行きたいなら、君もこういうことに慣れなきゃいけない。戦なら、殺されなければ殺されるのは当たり前のことだ。忍びとして一流になりたいなら、君も人を殺めることを覚えなければならない。きり丸くんはね、君より一足早く、そういうことを覚えただけなんだ。君を切り捨てるようなまねをしたのは、そのあたりのことが関係してるんじゃないかと僕は思うよ」
 そこまで語ってから、三郎はふん、と鼻で笑った。
「どういう事情にしろ、一度捨てたにはちがいないだろう。いまさら返せは虫がよすぎるな、きり丸」
「乱太郎」
 三郎の挑発が聞こえなかったかのように、きり丸は乱太郎を振り向いた。
「迎えに来た。おれと一緒に、来るか? それともこいつの元へ残るか、どうする」
 乱太郎はきり丸の瞳を見つめる。
 いろいろ話さなければならない、伝え合わねばならないことがあると思う。
 でも。話す前に、伝える前に。一緒にいなければ、なにも始まらない。
 乱太郎の手がきり丸に向かって、伸ばされる。
「きりちゃん、いっしょに……」
 言い果てる前に。
 乱太郎の体は横から走って来た三郎にさらわれた。
「あ!」
「油断だな、敵の前でうっとり見つめ合ってるんじゃない」
 きり丸の体も反射的に飛び出そうとしたが。
「おっと」
 三郎が抱えた乱太郎の喉元に苦無を突き付ける。
「くそっ!」
 乱太郎を人質に、三郎はじりじりと洞窟の入り口へと移動する。
「乱太郎を離せ!」
「おまえはつくづく馬鹿だな。敵の塒に飛び込んで退路も確保せず深入りする。いちゃついて隙だらけ。おまけに、敵にとってその人質がどういう意味のものか、考えもせん。わたしが乱太郎を傷つけるわけがないだろう?」
 つまりは。乱太郎に人質としての意味はないと。
 足を止めたきり丸を嘲笑う言葉を口にしながら、三郎は手にした苦無を天井の一角目がけて思い切り叩きつけた。
 不気味に岩のこすれる音がしたかと思うと、がらがらとその岩穴が崩れ出した。
「きり丸っ!」
 乱太郎の声すら飲む、岩の崩れる轟音。
 もうもうと立つ砂煙と岩の向こうに、きり丸の姿がかき消える。
「きり丸きり丸きり丸っ!!」
 叫ぶ声も空しく……乱太郎の身は三郎に抱えられて洞窟を離れ、きり丸の身は崩れる洞窟の中に取り残され……。
 つかの間の再会を果たした恋人同士は、崩れ落ちる岩に引き裂かれた。


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