罪人たちの季節

<十八>

 鉢屋はそのまま乱太郎を連れて行こうとしたが、乱太郎はきり丸を助けるのだと言って、頑としてその場を離れなかった。
 すっかり崩れてしまった洞窟からひとつひとつ大岩小岩を抱えて掘り出し始めた乱太郎に、鉢屋はため息をついたが、そのまま好きにさせておいてくれた。
 汗と涙と砂まみれになりながら乱太郎は日暮れまで頑張ったが、もう薄暗くなりかけた時に岩の間から引っ張り出せたのは血の気のなくなった例の山賊の手首だけで、ひやんと冷たいその感触とだらりと筋の垂れた人体の一部に、乱太郎は悲鳴を上げた。
 無理な力仕事を続けたせいで、腕と太ももをはじめとした全身の筋肉がまるで伸び切ってしまったようにぐにゃぐにゃして、その手首を放り出した後、乱太郎はその場に座りこんでしまった。
「飯ができたぞ。水を浴びて来い」
 ぺたんと座り込んで、洞窟を埋める岩を呆然と眺めていた乱太郎は、そう鉢屋に声をかけられた。まるで何も変わったことなどなかったかのようなその口ぶりに、乱太郎は振り返って鉢屋を睨んだ。
「最初から、きり丸を殺すつもりだったんですか」
「あいつは昔から嫌いだったからな」
 その返答にかっとした乱太郎は動かぬ体のまま、鉢屋につかみかかろうとしたが。
「だが、学園の後輩だ。……奥は別の岩盤で支えられていた。自分から岩の下に頭を突っ込んでいなければ潰されてはいまい。上には岩の裂け目もあった。出る気があればとっくにそこから出てるだろうさ」
 乱太郎は再びぺたんと座り込んだ。
「……どうして……どうしてもっと早く、それを教えてくれないんですか……」
「おまえ、聞いたか」
 もう何も返す言葉のない乱太郎であった。


 ぱちぱちとはぜる小枝の向こうに、鉢屋の寝顔がある。
 ふと乱太郎は気づく。
 そういえば……鉢屋はまだ雷蔵の顔をしたままだ。単に慣れの問題だろうか。でも、雷蔵と別れたと言い、おまえを雷蔵の代わりにするとまで言いながら、顔だけは雷蔵のままというのは、おかしくないだろうか。
 あの早朝。自分と寝た雷蔵に鉢屋が怒り、雷蔵が出て行ったあの時。二人の声はやはり声質が似て来ているのか、隣室で聞いていても感情が激してきた時の声はどちらがどちらと断じ切れないことがあった。
「おまえを絶対に許せない」
 そう叫んだのは、三郎先輩? それとも雷蔵先輩?
「もうおまえなんか知らない」
 そう叫んだのは?
 あの時、確かに二人は互いになじり合い、互いに謝り合っていた。それでも、最後まで相手を許せなかったのは、どちら?
 雷蔵の寝顔は知らないが、今の鉢屋の寝顔はなんだかあまり幸せそうではない、そんなことを思いながら乱太郎が見ていると、すっとその雷蔵の顔した鉢屋の睫毛のあたりが光り出した。
 こぼれはしない。丸く滴を作るほどでもない。でも、確かに鉢屋の目頭から睫毛が湿りを帯びている。
 乱太郎の指が動いた。指先ですくってみれば、その光の正体が分かる気がした。
「さわるな」
 目を閉じたまま、鉢屋が言った。
「さわるな。本当に返してやらんぞ」
 それはどういう意味ですか? 乱太郎は聞いてみたかったが黙っていた。聞いても鉢屋が答えてくれるとは思えなかった。ただ乱太郎は、出しかけていた手をまた引っ込めた。


 夜明け前。
 きり丸が襲って来た。


 ちょっと葉擦れの音がしたと思ったら、次の瞬間には鉢屋が寝ていた場所に刀を地面に突き立てたきり丸がおり、鉢屋は苦無を手に傍らに飛びすさっていた。
「よけるんじゃねえ」
「おまえ、今の本気だったろう」
「あたりまえだ」
「上等だ」
 どちらが先に仕掛けたか、朝まだ早い木々の間に、キン、ガッと刃のぶつかり合う高い音が響く。
 きり丸の手にもいつの間にか苦無が握られ、野営の狭い空間で、男二人は互いの喉元を狙って殴り合うように刃を繰り出す。
 技と経験は間違いなく鉢屋が上回っていたが、あちらこちら破れた忍び装束に、手も顔も擦り傷だらけのきり丸には怒りと明確な殺意があった。
 ――先輩を殺すつもりだ……
 半ば呆然とふたりを見ながら乱太郎はきり丸の意図を悟る。
 きのうも、そうだ。
 きり丸は三郎がけしかけた賊をあっさり斬って捨てた。きり丸は人を殺せる。殺す選択が出来る。それは乱太郎が知らなかったきり丸の一面だが、一流と呼ばれる忍びを目指すなら持っていなければならない一面でもある。それは鉢屋の言うとおりなのだ。
 胸を掠める一閃をかわし、きり丸は手から弾き玉を飛ばす。左手からの射撃であるにもかかわらず、それは鉢屋の顔面を正確に狙っている。
 その軌跡をかわし、鉢屋はひらりと張り出した枝へと飛ぶ。
 狭い場所での接近戦を避けて、樹間での消耗戦へ持ち込む気だと知れる。
 逃がすか、とばかりにきり丸もまた、木上へと移る刹那。
「学園へ帰れ」
 我を忘れたような熱い戦いぶりとは裏腹。落ち着いた声がした。
 乱太郎はきり丸を見つめる。
 鉢屋を追い、枝から枝へ移る間際に、ちらりときり丸がこちらを見た。
「いいか。帰れ」
 激しい動作と裏腹。静かで低い声。
「きり丸!」
 もっときちんと話したい。一緒に帰るんでなければいやだ。そんな思いが呼ばせた名だったが、きり丸は振り返らなかった。
 きのうは迎えに来たと言ったのに。今日は帰れ、一人で帰れと言う……。
 枝の間を、身軽に飛び移る、ふたつの背中。
 時々ざっと音がして葉が散るのは、的を外れた手裏剣のせいか。
 鉢屋はきり丸の安全を確信していたようだが、きり丸にしてみれば自分を生き埋めにしてまで、鉢屋が乱太郎を奪おうとしたことになるのではないか。……鉢屋が生きている限り、乱太郎は取り返せない、自由にしてやれないと、思ったのではないか……。
 だから、一人で帰れ、学園へ帰れ、と? 
 自分は鉢屋と差し違っても、と?
「……だ、だめだよ、きり丸……だめだよ!」
 遠くなるふたつの影を追い、乱太郎は駆け出した。


 木々の間から漏れ聞こえる金属音を頼りに走ると、すぐにふたりの背中が見えた。
 その、先を走る墨染めの衣のほう……鉢屋の体が、突然、不自然に止まり手足が奇妙に突っ張った。
 かすみ網だ! とっさに乱太郎は悟る。
「かかったな!」
 きり丸が勇躍して三郎に斬りかかる。
 さすがの素早さで刀子でおのれの体にまつわりつくかすみ網を切り払った三郎だったが、その数瞬のもたつきを、きり丸は無駄にしない。
 気合の声も激しく、きり丸は渾身の一撃を三郎に向かって振り下ろした。
 ざん! きり丸の刀が三郎の左肩を嘗める。
「ちっ!」
 左肩を斬られながらも、三郎はきり丸の二撃目を避けて飛びすさる。きり丸がくやしげな舌打ちを響かせた。
 態勢を立て直した三郎が、刀を構える。その目に、今までの三郎についぞ見られなかった怒りが浮かんでいるのを乱太郎は認める。
「きさま、やっぱり許さん」
 言って三郎はきり丸に向かい激しい突きを繰り出した。
 よけそこない、きり丸の顎の下が薄く切れる。
「それはこっちの台詞なんだよ!」
 顔面を狙って来る鉢屋の突きを弾きながら、きり丸は叫び返す。が、鉢屋のその気になっての攻めにはきり丸は防戦一方になるしかなく、二度三度と鉢屋の刃がきり丸の衣を裂いた。
「きり丸!」
 乱太郎はただきり丸を救おうと、手裏剣を投げる。
 カン!
 高い音でその手裏剣をはじき返した三郎は現れた乱太郎に目を細め、振り返ったきり丸は目をむいた。
「感心だ。わたしのところへ戻って来たのか?」
「ばか! 学園へ戻れって言ったろ!」
 三郎ときり丸から同時に言われるのへ、
「ちがいます! わたしはもう先輩とは行かない! 戻れって言われて一人で帰れるわけないでしょ」
 乱太郎は交互に返事を返す。
「……ふむ。やっぱりきり丸がいいか……では、邪魔者は消えてもらおう」
「消えるのはてめえだっ!」
「やめてくださいっ! 先輩もきり丸も!」
 きり丸をかばう格好で、二人の間に割り込もうとした乱太郎は、小さな聞き取れぬほどのささやきを拾った。
「引く」
 え、と聞き返しはしない。きり丸の、相手の意表をつく切り替えの早さはよく知っている。
「死ねえっ! 鉢屋あっ!」
 雄叫びとともに、乱太郎の脇からきり丸が飛び出す。
 正面から飛び上がり斬り下ろそうとするきり丸に、鉢屋は刀を構えると見せて、手から数枚の手裏剣を飛ばした。
 と、同時。
 乱太郎は鉢屋目がけて目潰しを放つ。
 乱太郎がこのタイミングで助太刀してくるとは思っていなかったのだろう、狙いあやまたず鉢屋の額に当たって弾けた目潰しの、目と鼻を襲う強い刺激に、さすがの鉢屋がひるむ。
 ひるみながらも、きり丸の身に向けて刀を一閃させ、もしきり丸がそのまま「勝機!」とばかりに踏み込んでいれば、胴体はまっぷたつにされていたろう。
 が、鉢屋を襲う動きは見せかけだけ、地に片足がつくやいなや、後ろに飛びすさっていたきり丸は、その鉢屋の一撃をからくも避けた。
「行くぞ」
 乱太郎の元へ、一足で飛び戻ったきり丸が、乱太郎の手首をつかむ。
 そのままうずくまる鉢屋を残し、木々の間をくぐって走りだしたふたりだったが、きり丸につかまれた乱太郎の手首は、まるでそこに火を押し付けられているように熱かったのだった。


 ――が。
 走りだして間もなく。
 きり丸の様子がおかしいことに乱太郎は気づく。
 正確な足の運びが、揺れるように乱れ出している。
 きり丸の、息が荒ぐ。
「……くっそ……!」
 罵倒するきり丸をのぞき込んだ乱太郎は、はっと息を飲む。
「きり丸、腕!」
 きり丸の左肘の下に、四方手裏剣が不気味な光を見せて突き立っている。
「さっきの……!」
 逃げる隙を作るための打ち込みに食らった反撃が、きり丸の腕に食い込んでいる。
「手当!」
「あとだ! 今止まったら追いつかれる」
「だめ! 先輩の手裏剣には毒が塗ってあるんだ」
「どうりでジンジンしやがる」
「止まって、ねえ、止まってよ! 毒が回る!」
「死ぬ毒か?」
「……し、死にはしないけど……痺れて、動けなくなるよ」
「死なねえなら、いい。走る」
「ばか!」
 乱太郎は走り続けながら、きり丸の左側へと回り込む。
 回り込みながら首の後ろで髪を束ねる組み紐を解いた。走るきり丸の二の腕に素早く巻き付け、縛る。
「ちゃんと手当しよ! 麻痺が残るかもしれない!」
「動けなくなったら、止まってやるよ!」
 鉢屋が追って来る。
 乱太郎を取り戻すために、追って来る。
 だから、逃げる。一歩でも遠くへ、半歩でも学園の近くへ。
 きり丸の決意がその顔から読み取れて、乱太郎はもうなにも言えなくなる。


 張り出した岩が、上からの視界を遮ってくれる。
 急な斜面に張り付くように枝を延ばした松も、左右から遮ってくれている。
 ここなら、ときり丸が足を止めるのを許したのは、山間を走る急流の、石ばかりの河原だった。
 もうその時には、きり丸の息はぜいぜいと荒ぎ、冷や汗が額に浮かんでいた。赤黒く腫れた腕に眉を寄せながら、乱太郎は手裏剣を引き抜き、毒を吸い出し、自分の手甲をさらしがわりにきり丸の傷口に巻き付ける。
 きのう崩れた塒(ねぐら)になら解毒の薬があったが、きのうも今日もろくな荷物を持たずに飛び回っていた乱太郎だ。とりあえず傷口に止血効果のある膏薬を貼るしか、出来る手当はなかった。……間もなく熱が上がるだろう、せめて解熱と鎮痛の薬でもあれば……。胸痛む思いの乱太郎に、きり丸が荒い息とともに言った。
「……おまえ、髪、伸びたな」
「……え」
 こんな時になにを言い出すのか。
「鉢屋な……殺しておきたかった。……寝込みか……網の罠か……どっちかしか、狙い目はないだろうって思ってた……やりそこなった」
「でも、一太刀浴びせたじゃない。先輩、怒ってたよ、だいぶん」
「……へ。ざまみろだ……」
 そう言うきり丸の目が、とろんと焦点を失い出している。
「……くそぅ……痺れが……」
「きり丸!」
 閉じかけるまぶたを無理に押し上げるようにして、きり丸が目を開く。
「……がくえん、もどれ……ひとりで……」
 呂律まであやしくなりかける。そのまますうっと瞳閉じるきり丸に、乱太郎は悲鳴を上げる。
「きり丸っきり丸っ!」
 その瞳は開かない。


 死にはしない毒だと聞いている。
 絶対に? たとえば岩の間に押し潰されそうになった次の日に、ろくろく眠りもせず闘って、しかも毒を受けた後に、山道を全力疾走しても? それでも、痺れだけ……? 
 震える手できり丸の額に手を当てれば、燃えるように熱い。
 それなのに握った指の先も、投げ出された足も、凍えるほどに冷たい。
 ――このままじゃ、まずい。
 乱太郎は決める。
 なんとしても、学園に戻る。きり丸を連れて。
 見回す乱太郎の目に、対岸にもやわれた川船が目に入った。急流を下るに適した細身の船は、樵(きこり)の用にでも使うのだろうか。
「……借ります、ごめんなさい」
 きり丸の懐を探って見つけた手鉤を飛ばした。


 慣れぬ急流下りは、それこそ死ぬ思いだった。
 ひう、ひう、と苦しげな息に時折呻きの交ざる、船床のきり丸を振り返る余裕もない。
 乱太郎は必死に棹を操る。
 三郎と過ごした一カ月の間に、この山に来たことは何度かある。だから、この先に滝や岩場などの難所がないことがわかっているのが、唯一の安心だった。この急流さえ抜ければ……あとはだんだん川幅は広く、流れは穏やかになってくる。その川は裏裏山にぶつかってゆっくりと蛇行し、学園とは反対の方角へと流れてゆくのだが、ともかく、うまくすれば、半日とかけずに学園の近くまで行き着ける。
「きり丸、あと少しだから」
 口を開く余裕はない。乱太郎は必死に心の中で呼びかけた。


 船を岸に寄せ、息の荒さと熱の高さが尋常ではないきり丸を背負い降ろした時には、日は中天を過ぎようとしていた。
 傷口からは赤黒い血が固まりもせずぐずぐずと出血を続け、背に触れる体温は人のものとは思えぬほど高い。
 きり丸を連れて、学園に戻る。
 そう決めていた乱太郎だったが、高熱と毒に苦しむきり丸を肩に背負い、よろめく足を踏み締めること、数間。
 ――だめだ。
 乱太郎は悟る。この状態で学園まで、いくら慣れ親しんだ裏裏山とは言いながら、山ひとつ越えてゆくのは無理だ。
 ここからなら……助けを呼んで戻って来た方が、早い。
「……きり丸、きり丸、聞こえる? すぐに、すぐに戻って来るから」
 その根元に、ひと一人横になれるほど大きな洞を擁した大樹が、山道を少し分け入ったところにある。乱太郎はなんとかそこまできり丸を運び、乾いた落ち葉を集めた上に、きり丸の体を横たえた。
「すぐに戻ってくるから。待ってて」
 返事のないきり丸にもう一度声をかけ、濡れた手ぬぐいを額に乗せ、水を満たした竹筒を傍らに置いた。……気休めかもしれないと思った。薬、薬がほしい。
「待っててね」
 乱太郎は後ろ髪をひかれながら、走りだした。


 乱太郎は学園に向けて駆ける。
 歩き慣れ、走り慣れている山道が、今日は歯噛みしたくなるほど長く険しく感じられる。一刻でも早く一刻でも早く。拭いても拭いても油のような汗がにじむ、きり丸の苦しげな顔が浮かぶ。手足が細かく震えていた……早くしなければ、本当に二度と手足に力が戻らないかもしれない……。ああ、本当に、この山はこんなに大きかったっけか。これほど、学園は遠かったっけか……。
 それでも懸命な走りを休みなく続け、日がそろそろ西に傾く頃には、学園の屋根が見えてきた。
 乱太郎は裏裏山を駆け降りる。
 きり丸を助けてくれる人。
 頭に浮かぶのは、ただ一人。
 ……彼ならなんとかしてくれると思う。
 困っている時、彼はいつでも骨身を惜しまず生徒に力を貸してくれた。
 父親のように距離のある存在ではなく、学園の教師陣のなかでは一番生徒に年の近い彼は……頼れる教師でもあり、兄でもあったような気がする。親に見つかったら困る不始末も、兄はたしなめながらもなんとかしてくれた……。彼なら……。
 だから放課後の職員室に飛び込み、乱太郎は叫んだのだ。
「土井先生!」
 と。


 驚きと乱太郎の姿を見た喜びに、土井は飛び上がるかと見えた。
「乱太郎!」
 すぐと駆け寄って来る土井に、乱太郎は、あ、と声を飲む。
 薬が欲しければ一番に校医である新野の元へ行けばいい。手が欲しければ別にそれは土井でなくてもかまわない。……なのに、苦しむきり丸の顔が浮かぶたび、助けてくれるのはこの人だと、この人しかいないと、そればかりを思った。ほかの人間の顔など、正直一度も思い浮かばなかったのだ。
 ――ひどいことを言った。
 許さないと、怒りと嫉妬と義憤をぶつけた。
 間違ったことを言ったとは思わない。利吉との恋を貫く中で、土井はやはり教師としての資格を問われるような無責任を働いたと、乱太郎は思う。でも、あの時の自分は。非難するだけじゃない、この人を苦しめたくて、傷つけたくて、わざと傷つけるとわかっている言葉を選んだ。
 自分の非難の言葉を受けていた時の土井の表情と瞳の色を、乱太郎は覚えている。
 苦しげだった。哀しげだった。
 まだ十(とお)の子供の頃から、一緒に転げ回って遊び、一緒に泣いたり笑ったりしてくれた、成長を祈って見守ってくれていた、いつも自分たちのために必死になってくれていた、その先生を、言い訳のしようのない過去のことで、糾弾した。
 ほかの誰でもない、教え子からの非難に、この優しい先生はどれほど傷ついただろう、苦しんだだろう……。なのに、今、助けてくれ、と? どのツラ下げて頼めると言うのだろう。
 一度は大木の元へ駆けつけた土井の前から去っておきながら。虫がよすぎる。
 自分はごめんなさいと背を向けるべきだと思った。
 思ったが、次の瞬間、乱太郎の体は土井の胸に抱き込まれていた。


「ケガは!? ケガはないか!?」
 一年の頃は。抱かれると、土井の腹の当たりに顔が当たった。今は。土井の肩に楽に額が乗せられる。……それでも、同じだった。あたたかさは、同じだった。
「……せん、せ……土井先生……!」
 乱太郎の喉を、熱い塊がふさいだ。
 どいせんせえ……!
 大声あげて泣きたい思いの乱太郎だった。
 が。
 今は泣いてる時間はない。
「……きり丸は!?」
 きり丸の不在に気づいた土井の声にも切迫感がにじんだ。
「ど、毒を受けて……! う、裏裏山です!」
「案内しろ!」
 土井は素早く踵を返していた。


 意識は浮かんだり沈んだりを繰り返し、現(うつつ)と夢幻の境がわからなかった。
 ただ、手足が氷のように冷たく重く、その異常な冷たさがじりじりと胸に向かって広がってくるようで、やめろやめろと、きり丸は何度か呻いた。
「――待ってて」
 泣きたいほど懐かしい面影が、そう言って離れていった。行くなと言いたかった。もう離れるな、ここにいろ、そう呼び止めたかった。呼び止めよう、叫ぼう、そう思う自分自身も現のものなのか、夢のなかのものなのか、それすら定かではない。
 それから間もなくのことだったのか、それとも一夜があけたほどの時間が経ったあとだったのか、きり丸は誰かに頭を抱え起こされた。
「薬だ、飲みなさい」
 その誰かが舌の上に苦いものを置く。
 吐き出そうとしたが、舌まで思うとおりに動いてくれなかった。
「飲みなさい。楽になる。解毒薬だから」
 優しげなその声の主が、唇の透き間から水を流し込んだらしい。きり丸はむせた。
 その人物はもう一度、ゆっくりと水を流し込む。
 今度は飲めた。
 舌の上の苦いものが、苦さの尾を引きながら、喉の奥へと落ちて行った。
「よし、いい子だ」
 子じゃねえや。言い返したかったが、まぶたすら持ち上がらない。
「傷口を焼いておく。少し痛いかもしれんが我慢しろ」
 ちり、と左肘のあたりに、かすかな痛みが走った。冷たさと重さがあまりに大きくて、痛みはさほど感じない。
「これで血が止まる。薬ももう少ししたら効いて来るだろう。……悪いね、君にはもう一頑張りしてもらうよ」
 かすむ視界に、ぼやけた人影。……でも見知った人の気がした。
 ……らい……。
 きり丸はそのまま、再び大きな闇に飲まれてしまった。


「うえ……」
 目覚めた時の気分は最悪だった。
 手足がじんじんと痺れ、胸がむかむかした。
 きり丸は文字どおり這って外まで出ると、そこに思いきり吐いた。きのうからまもとな物は食べていない胃からは、黄色い胃液が出ると思いきや、出てきたのは青黒く泡立つ液体だった。
 それでも吐いたことで少しはすっきりとして、きり丸は自分の体を確かめる。
 左肘、鉢屋の手裏剣を受けたところには、なにやら膏薬が貼られ手当の後がある。右手と両足の甲に小さな穴があり、これは誰かが毒に染まった血を抜いてくれた後らしかった。ずいぶんと高い熱で苦しんでいた覚えがあるが、今は熱はない。代わりに、忍び装束が汗と血を吸ってずっくりと重い。着替えられたらどんなにさっぱりするだろうとは思ったが、それどころではない。
 今度は回りを見回す。
 日の位置から、昼から日没のちょうど中間の時刻かと知れた。振り向いて自分が出てきた木の洞を見る。……見覚えがある。
 まだ手足に力が入り切らず、よろめきながら行くと見覚えのある山道に出た。
 ――裏裏山の裏側か……。
 乱太郎の姿がない。
 なんとなく船に乗っていた覚えがあるから、川を使ってここまで乱太郎が運んでくれたのか。待っててと言っていた……。そのあと、学園に助けを呼びに行ったのだろう……。
 鉢屋はどうしたのか。あのまま、あの山で諦めてくれていればいいが、その保証がない以上、一刻も早く乱太郎の顔が見たい。それに、薬を飲ませてくれた人物……その本意と正体の確信は持てないが、もし、推測が当たっていれば、鉢屋もまた、学園を目指していることにならないか。
 そこまで思った時、なにか、まだ音とも言えぬ音が聞こえた。はっとしてきり丸は、地面に耳を当てる。……聞こえる、のぼってくる足音。
 きり丸は道の傍らの木の陰に回り込んだ。忍び刀を握り締める。
 ――もし、鉢屋、おまえなら、こっから先には行かせねえ。


 左肩にさらしを巻いた、墨染めの忍び装束。見覚えのある髪形。
 きり丸は九字を切り、彼が行き過ぎるのを待つ。
 ……後ろから狙うのは卑怯だとか武道の道に背くとか、聞いたことはあるが、それがどうした。おれは忍びだ。
 鉢屋の背中を狙って、棒手裏剣を飛ばした。


 痺れの残った指先が狙いを狂わせた。腕を掠めたそれに、鉢屋が振り返る。
「なんだ、おまえ、まだ動けるのか」
「鉢屋、こっから先は行かせねえ」
「まだ痺れが残っているだろう、熱は下がったのか。無理はするなと言ってやりたいが、おまえには借りが出来た。忍たまごときに手傷を負わされるとは俺も不覚だが、この借りは倍にして返してやる。念仏唱えろ、きり丸!」
 鉢屋が刀を構えて切りかかってくる。
 また、新たな闘いが始まる――


 すでに大人の体格になっている鉢屋と、まだ少年の華奢さを色濃く残したきり丸とでは
もともとの力が違う。その上に、毒刃を受けたきり丸の、余力はとうに尽きていた。さらに忍びとしての経験にも技にも、格段の差があることは否めず、刀を構えるきり丸の肩は、すぐに乱れた息に上下した。
 それでも力を振り絞ってのきり丸の一撃一撃を、三郎はかわし、逆にきり丸の隙を突いて白刃を閃かせる。そのたび、きり丸の肌は斬られて血をしぶかせる。
「…………!」
 ついに気力だけで動かしていた身体の無理が利かなくなった。きり丸はがくりと折れた膝を打つ。が、地についてしまった膝はもうきり丸の上体を持ち上げてはくれない。
 鉢屋が歩み寄って来る。
「俺への一太刀は高くつくだろう、きり丸? このままあの世へ送ってやりたいところだが、ひとつ、質問に答えろ」
 横柄な鉢屋の物言いに、きり丸はぎっと目を上げる。が、にらみつけてやるだけが精一杯で、憎まれ口をたたき返すだけの余裕も、きり丸にはすでになかった。
「――おまえの、傷を手当をしたのは、誰だ」
 質問の意外さに、きり丸は驚く。
「それほど早く抜ける毒ではない。薬を飲んだな? 誰が飲ませた」
 その時。
 まったく平静を装う鉢屋の必死さを感じ取ったのは、なぜだったか。人の顔色を読み取らねば生きて来れなかった、人の機微に通じなければぶたれるばかりだった、その経験が培った勘だった。きり丸には、鉢屋の必死さを見破ることができ、鉢屋を痛めつける答えを選ぶことができた。
 息をあえがせ、これが相手を追い詰める一言になるのを確信しながら、きり丸は苦しげな表情を保ち、答えた。
「乱太郎だ」
「……嘘をつくな」
「嘘ついてなんになる。乱太郎がおれを助けるのがおもしろくないか。……乱太郎が、あんたの持ってる毒の解毒剤を持ってたんだよ」
 鉢屋の表情がかすかに揺らいだ。
「――では……俺は、完全に見放されたということか……」
 その表情が、獣の荒々しさを浮かべた。
「ふん。では、やはりきさまには死んでもらおう。乱太郎は俺がもらう」
 初めてだった。その時、初めてきり丸は鉢屋の殺気を感じた。
 あの書庫の夜にも、きのうの洞窟でも、今日切り結んだ時にも、一度も感じなかった殺気を、きり丸は感じた。
 殺られる!
 鉢屋が振り上げた刀が日をはじくのを見ながら、きり丸は悟る。
 きり丸は視界の中心に迫り来る刀をとらえながら、微動だにできなかった。初めて感じる鉢屋からの殺気は凄まじく、その気に全身が縫い止められてしまったかのようだった。
 きり丸が瞬間に己の死を覚悟した、その時。
 唸りを上げて横合いから飛んだ刀子が、空を切り裂いてきり丸を撃たんとしていた刀身をはじいた。
「!」
 かつーん! 高く金属音が尾を引き、その音がまだ空に消え去る前に、
「鉢屋あっ!」
 渾身の一撃を放つきり丸の姿があった。


 きり丸は鉢屋の急所めがけて刀を突き上げる。
 ずぶ。刀が肉にめり込む、重く湿った音がした。
 身をひねり急所を外しながらも、鉢屋の脇腹にはきり丸の刀が食い込んだ。きり丸はそれでよしとはしない。完全に鉢屋の息の根を止めようと、苦無を振り上げる……そこへ。
「待て」
 刀の柄が、横合いからきり丸の首を押し上げた。
「気持ちはわかるが、ここまでで納めてくれ」
 きり丸は目だけを横に流して、そこに立つ不破雷蔵を認める。
「きり丸くん。腹が立つのはわかるが、これで引いてほしい。三郎……」
 脇腹を押さえ顔をしかめながら、鉢屋が雷蔵を見上げた。きり丸の刀を脇に呑みながら、妙にその顔はうれしそうだ。
「……雷蔵」
「多少は懲りたろう。人のものはとっちゃいけない。わかったか、三郎」
 まるで子供に言い聞かせるように雷蔵は言い、
「わかった。もうとらない」
 子供の安請け合いさながらに鉢屋がうなずき。
 呻きながらついに力尽きて、きり丸はその場に倒れ込んだ。
 もしかして、今日一日自分はあんたらの痴話喧嘩に巻き込まれてましたか? そう聞く元気も残っていないのがありがたかった。これで『そうだ』と答えられたら、ほんとに死ぬ……きり丸は地面の冷たさを頬に感じながら思った。


 山道を上っていた土井と乱太郎、は組の面々は、西日を背によろめく塊を見つけて声を上げた。
 それぞれ雷蔵の肩を頼りに、血だらけの鉢屋ときり丸がよろめき歩いているのだった。

     *     *     *     *     *     *   

 三郎ときり丸は、保健室についたて一枚を隔てて寝かされた。
 ついさっきまで互いの命を狙い合っていた二人を、同じ部屋に置いておいていいものかという意見が出なかったわけではないが、
「だいじょうぶ、もう無茶はさせません」
 にっこり微笑む雷蔵と、
「もう……無茶しないでよ」
 泣き顔になった乱太郎に、
「うん」
 と血だらけのふたりが神妙にうなずいてみせて、ことは決まった。
 二人を診察した新野は、一見重傷そうなきり丸には三日の治療を、三郎には二週間の治療を言い渡した。
「きり丸君は、まあ毒が抜け切って疲れも取れれば、一番ひどい怪我が左肘の手裏剣あとですからな、これもきちんと応急処置がしてありますから、さほど心配はありません。後は、軽い切り傷と擦り傷ぐらいで、筋も筋肉も切られていない。怪我の数は多いが、三日も寝ていればだいじょうぶ。
 鉢屋君は、これはまあ、ちょっとひどいですなあ。左肩も骨まで切れてるし、脇腹も容赦なく突かれとる。急所は外れとりますが、腹の中まで縫わねばなりません。最低で二週間ですな」
 この診断を聞いた鉢屋がにやりときり丸を見やり、
「ほら、俺は後輩思いの優しい男だろう?」
 とうそぶき、きり丸が殴り掛かったというオマケはあったが、その夜は誰も彼もがくたくたで、結局どさくさまぎれのまま、問題の四人が四人、保健室に泊まった。
 明けて、朝。
 改めて、じっくりと顔を合わせたきり丸と乱太郎が、ふとんの中と横で、それぞれに目のやり場にも困る沈黙の中にあった時に。
 たたたっと廊下を走って来る足音があった。
 音高く保健室の戸を開け放ち、これも泊まり込んでいた新野の短い叱責をくらったのは……その冷静さでもって知られた六年は組の委員長だった。
「す、すいません! きり丸! 大変だ! ……あ」
 彼もまた、きのうの混乱の中で乱太郎と再会しただけ、まだろくに意味のある言葉を交わしていない、その気まずさに、ついたてを回り込んだ瞬間こそ、庄左ヱ門は言葉を詰まらせたようだったが。
「どうした、庄左ヱ門」
 きり丸に問われて、抱えていた重大事を思い出したようだった。
「……まだ、誰にも知られてない。山田先生が朝一番で学園長に呼ばれたから、気になってのぞきに行ったんだ」
 いかにも大事と、声をひそめて庄左ヱ門は盗み聞いたことを伝えた。


「土井先生が辞表を出した。先生、やめるって」

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