罪人たちの季節

<十九>

「土井先生が辞表を出した」
 庄左ヱ門の言葉を聞くなり、乱太郎は保健室を飛び出して行った。
 庄左ヱ門はそれを、大事な先生にその真意を確かめに行ったのだろうと解釈したし、事情を知っているきり丸、三郎、雷蔵の三人は乱太郎の行動を当然のものと受け止めた。
「庄」
 きり丸が体を起こして呼びかける。
「たぶん、山田先生も引き留めに乗り出すとは思うんだけど、土井先生が聞き入れるかどうかはわからない。……もしかしたら、けっこう、先生、本気かもしんない」
「そんな……あと少しで僕たちも卒業なんだ。ちゃんと……ちゃんと先生に見送ってもらいたいよ、僕は」
「おれもだ。……だからな、庄左ヱ門、署名を集めろ」
「署名?」
「先生やめないでって署名を一年から六年まで、できれば全校生徒の分を集めるんだ。卒業生にも声かけて、集められるだけ集める。……土井先生、あれでけっこう涙もろいところあるから、生徒からの嘆願なんて出されたら、無下にはできないと思うんだ」
「……なるほど。山田先生の慰留が失敗したら、それを出すと」
 そうだ、ときり丸がうなずく。
「わかった。学園長もまだ内密にって山田先生におっしゃってみえたから、準備だけ、進めておくよ」
 庄左ヱ門はようやく少しほっとした様子になった。
「そういえば、きり丸、傷の具合はどう? 痛む?」
「ああ、あっちもこっちもズキズキすらあ」
 きり丸のわざとの大声は、ついたて一枚向こうの三郎への嫌味である。
「そうか。安静にして早く治しなよ。……あのさ、きり丸。実は前から思ってたんだけど」
 前置きして庄左ヱ門が言った。
「おまえ、土井先生のこと、いろいろ詳しくて、それはちゃんと事情があることだってわかってはいるんだけど、やっぱり金吾と戸部先生に比べて、おまえと土井先生は特別な感じがするっていうか、いや、それはそれで別にいいんだけど」
 庄左ヱ門は嫌な顔になりだしたきり丸の前に、きちんと正座の膝を揃え直した。
「でも、あんまりおまえが土井先生のことに詳しい様子は、乱太郎に見せちゃいけないと思う。やっぱりそれ、乱太郎はおもしろくないよ」
 言うだけ言うと庄左ヱ門は、じゃ授業があるから、と立ち上がった。
「……はあ、どうも……」
 正面からのクギ刺しに面食らった思いのきり丸の耳に、
「あんまり土井先生のこと大事にしてると、乱太郎また出てっちゃうよ、きり丸」
 今出て行ったばかりの庄左ヱ門の声が届き、次いで、
「きりちゃん、ひどい。やっぱり土井先生のことが好きなんだね」
 乱太郎の声がした。
「……てめえ……」
 きり丸は痛みに顔をしかめながら体を起こし、ついたての向こうをのぞきこんだ。
「てめえ、鉢屋。いい加減にしやがれ」
 器用な声色使いを見せた鉢屋は、薄笑いを浮かべてきり丸を見上げる。
「問題のひとつはそこだろう? いい忠告だと思うんだが」
 きり丸が『てめえに心配されるスジじゃねえ』とかなんとか、言葉を返そうとしたところに、三郎の傍らに座り、額の手ぬぐいを代えてやっていた雷蔵が、顔を上げた。
「その点は素直に聞くべきだよ、きり丸くん」
 お、ときり丸は鼻白む。
「もちろん君には君の言い分があるだろうけれどね。でも、君の想いがどこにあるのか、どこにあったのか、それで乱太郎くんが悩んだのも事実なんだ。
 もう誰かの口から聞いてると思うけれど、僕は乱太郎くんを抱いたよ。君にしたら、僕も三郎も油揚げさらってくトンビだろうけれど、君が乱太郎くんの不安をそのままにして突き放すようなことをしなければ、今回の騒動は起こらなかったんだ。
 乱太郎くんを取り返そうと、三郎のもとへ飛んで来たことと、三郎の意地悪にもめげずに闘ったのは立派だった。だけど、その傷にあまえて、君が乱太郎くんに伝えるべきことを伝えなければ、また似たような騒動が起こるよ。土井先生に対する今の君の気持ちに恋心が交ざっているとは思わないけれど、それでもけじめはけじめとして付けるべきだ」
 多少乱太郎びいきが強い気もするけれど、それでも雷蔵の言うことはもっともで、
「はあ……まあ……気を付けます……その……迷惑かけてすみません……」
 なんでおれが謝るかな、と思いながらも、きり丸は口の中でもごもご言いながら、顔を引っ込めたのだった。


「おまえもだよ、三郎」
 きり丸が引っ込むと、雷蔵が矛先を三郎に変えていた。
「乱太郎くんがかわいいのはわかる。僕だって乱太郎くんはかわいいもの。でも、君のやり方はあざとすぎる。きり丸くんに対してもやりすぎだ。もちろん、乱太郎くんのことを思えばきり丸くんに少々痛い目を見させたくなるのはわかるよ。それにしても、今回のことはやりすぎだ。だいたい学園の後輩に、ああいう形で手を出すなんて、君は良識というものがなさすぎる。
 きり丸くんに痛い思いをさせてもらって、多少は懲りたろう? 人の心を弄ぶようなまねは、しちゃいけないんだ」
「……だけど……おまえだって」
 答える三郎の声は力ない。その声の弱さが媚びるような甘さになっているのを、きり丸はついたてを挟んで面白く聞いた。きのうから、もちろんケガの程度が酷いせいもあるのだが、三郎は雷蔵を片時も離そうとはしない。
 腹は立つ。腹は立つが、結局、三郎の本命はどこまでいっても雷蔵で、切り合いの最中にはからずも三郎が漏らしたように、「乱太郎をもらう」つもりなど、なかったのだ。また、三郎を殺してでも乱太郎を取り返そうというつもりであったきり丸とはちがい、三郎にはきり丸を殺すつもりは、最後の最後、雷蔵が止めに入る寸前までなかったのだ。あの時の、身体がすくんでしまうほどの三郎の殺気をきり丸は思い出す。あの殺気がなにより雄弁に、三郎がその気ならとっくの昔にきり丸の命を奪えていたと語っている。
「おまえだって、乱太郎に手を出したじゃないか。あれには俺も傷ついた」
「……あれは……悪かったよ。謝る」
「そうだよ……だいたい、おまえがあれほど怒ることはないんだ。おまえのことなんか知らないって言われて、俺がどれほど傷ついたか……」
「それは三郎が先に、おまえなんか許せないって言ったんじゃないか。出てけって言ったのも三郎だよ」
「俺が出てけって言ったからってほんとに出てくことないだろ。ひどいよ、おまえは。その上、おまえ、俺が塒まで崩してみせたのに、知らんぷりで……俺は絶対、おまえがきり丸を助けに現れると思ったから、あそこまでやったのに、おまえ、全然気配もなくて……俺、もうほんとに、おまえに見捨てられたんだと思ったんだぞ? きり丸に毒まで食わせたのに、それでもおまえ出てこないから……もうほんとに……おまえは……俺といるのがいやになったのかと……」
 ついたてのこちらで、きり丸は『もしもし?』問いかけたい気分だ。あれもこれもそれも、みんな雷蔵様御召喚のためですかぁ? そのためだけに、おれは死ぬような思いをしたんですかぁ? が、きり丸の思いとは関係なく、二人の会話は続く。
「ねえ、三郎。君が傷ついたのはわかるけれど、今回それだけのことをしたな、とは思わない?」
「確かに学園の後輩に手をつけたのは悪かった。けど、学園の後輩だぞ? 俺だって、そんな無茶をするわけがないじゃないか。乱太郎の背中が割れ竹で裂けてたか? 手首足首以外に縄の跡があったか? 乳首に針の跡があったか? 菊門に鈴の束が入れっぱなしになってたか? 俺だってちゃんと良識はわきまえて……ぐあっ!」
 きり丸が、立って行って三郎を殴ろうかと思った時だった、傷口をつかまれた人のような苦痛の声がし、そして、すすうっと音もなく、きり丸の足元に、ついたてを回った雷蔵が現れた。指先に血のついた手に、刃こぼれひとつない刀を抜き身で下げている。
「どうだい、きり丸くん」
 いつもとまったく変わらぬ笑顔を浮かべた雷蔵。
「これで隣の人間を刺してやりたいと思わない? 今日は止めない。存分にやりたまえ」
 穏やかであたたかい人だと思っていた雷蔵の、穏やかであたたかい笑顔のままのその台詞は、きり丸の背筋を凍らせた。
「あ、いや……おれは……その……いいです、学園の中でひと殺したくないし……」
「……そう? 残念だね……。ねえ、君も、僕がひどいと言いたいかい? 君にはなんの落ち度もなかったと? きのうのことは乱太郎に対して君の気持ちを証明するいい機会だと僕は思っていたんだけれど、君にしたら、僕がもたらした理不尽な災難に過ぎなかったんだと、君も僕に言いたい?」
「……い、いえ! あ、い、いい経験さしてもらったなって、そう! いい経験しましたっ! あ! そうだ、先輩! 食堂! 早く行かないと朝食、食いはぐれますよ! ついでにおれたちの分のおかゆかなにか、おばちゃんに貰って来てもらえませんか!」
「ああ、そうだね、じゃあそうしよう」
 雷蔵が出て行った。
 戸が閉まった瞬間に、ついたての右側と左側で、同時に安堵のため息が漏れた。
 朝の用事を済ませて戻って来た新野は、せっかくきのう縫い合わせた傷口を開かせた患者を、激しく叱責した……。


 朝餉の片付けに、利吉が洗い桶を井戸端へ持ち出そうとしているところだった。
「ただいま」
 戸口をくぐる人物に利吉は驚く。鉢屋の居所を明かす明かさぬで言い合いをしてから、まだ十日とたってはいない。その後、どちらも謝ったり歩み寄ったりはしなかったから、まだ喧嘩は続行中なのだと、利吉は思っていたのだが。
 ただいま? はて。自分はいつ、仲直りをしたのだったか。
「半助?」
「片付け? わたしがやろう」
 背中の荷を下ろすと、半助は気安く利吉の手から洗い桶を取った。
「……あの、半助……」
「きのう、きり丸が鉢屋の元から乱太郎を連れ戻して来た。きり丸も鉢屋もケガがひどくてね、今は保健室で寝ているが、新野先生がついてみえるから、大丈夫だろう。乱太郎がきり丸の看病をして、不破が鉢屋について、ようやく落ち着いた雰囲気だったよ。まだ元通りまでは時間がかかるかもしれないが、それでもね、もう心配はないと思う」
 がちゃがちゃと茶碗や櫃を洗う手をふと止めて、半助は顔を上げた。
「だから、学園に辞表を出して来たよ。学園を辞める」
 とっさにはなんと言ってよいかわからぬ利吉である。
 半助は言うだけ言うと、また洗い桶の中の手を動かし始める。
「……ちょ、ちょっと待ってください、半助……辞めるって……なんですか、それは」
「なにって、教師を辞めるんだよ。……わたしにはね、やっぱり教師の資格はないんだよ。本当は三年前にこうするべきだったんだ。遅すぎるけれどね、これ以上、過ちを正さずにいるよりはいいだろう。乱太郎も無事、戻って来た。担任の最後の責任として、乱太郎が学園に戻るまではと思ってたけれど、これで安心だ。だから……」
「だから? だからって、なぜあなたが学園を……」
「言ったろう? 三年前にこうするべきだったって。わたしは三年前に、君と暮らすことを決めた時にも、学園を辞める決心をした。その時は学園長と山田先生の温情で許しをもらったかっこうになったけれど……やっぱりね、どちらかを選ぶべきなんだよ。教師か……君との暮らしか。わたしには、君が必要だ。どちらかを選べと言われたら、わたしは、君との暮らしを選ぶ」
 利吉は考える。半助が教師を辞めても自分といてくれると言うのはうれしい。もし逆に、教師を続けたいから同居を解消してくれと言われるより、どれほどいいか。……しかし。これは半助の人生の大事だ。それを……。
「――待ってください、半助。どうしてそんな大事なことを、あなたは一人で決めてしまうんですか。一人で決めて一人で行動して、そしてわたしにはその結果を突き付けるだけなんですか」
 洗い終わった食器を積んだ洗い桶を抱えながら、半助が立ち上がった。
「……驚いたな。君には喜んでもらえる選択をしたつもりだったのに」
「それがうれしいうれしくないの話をしてるんじゃありません。わたしは、そんな大事を、あなたに相談された覚えはないと言ってるんです」
 はあ、と半助は小さくため息をついた。
「……まいったな。まさか君にそれほどきんきん言われるとは思ってなかったよ」
 きんきん、その台詞にカッとしかけたが、利吉はこらえた。つまらないことで言い合いたいわけではない。
「いつから、ですか。いつから、そうと決めていたんですか。乱太郎が怒鳴り込んで来た後ですよね、あれはもう一カ月以上も前のことだ。その間、一度もあなたはわたしと話し合ってはくれなかった。あなたの人生の大事ですよ? それをどうして一言の相談もなく、決められるんですか」
「……君を悩ませたくなかったんだ」
「じゃあ、あなたは悩まなかったんですか! あなたは一人で悩んだんでしょう! どうして……どうして、一緒に悩ませてくれないんですか! あなた一人のせいで、きり丸は体を売ったんですか、乱太郎は傷ついたんですか。ちがうでしょう? あなたとわたしがいたからだ。あなたとわたしが愛し合って、一緒に生きて行こうと決めて、それで傷つく人間が出たのに……なぜ、あなた一人ですべてをしょいこもうとするんですか!」
 かまどの横に洗い桶を置き、半助は振り返った。
「君が言うこともわかるけれど、教師としてきり丸と乱太郎に責任があるのはわたしだ。君に関係ないとは言わないけれど、責任を果たすのはわたしでなければおかしいだろう?」
「あなたは……いつもそうだ。わたしが隣にいるのに……少しはわたしに頼ってくれてもいいじゃないですか。どうして、なにもかもひとりで……わかりますか、あなたはそうやってわたしのことを拒否してるんですよ。一緒に生きていく、暮らしていくと言いながら、その実、あなたはあなたの人生は自分一人のものだと言い続けてるんだ」
「話が飛び過ぎだ、利吉」
「飛んでません!」
 どうしてこの人はわかってくれないのだろう。利吉は涙ぐみたくなるほどの情けなさを感じる。二人で暮らした家で、二人で煮炊きもした。そのかまどの前で、なぜこんな簡単なことを、わかってもらえない悔しさを噛み締めなければならないのか。
「……あなたは、昔からそうだ。わたしの気持ちを知りながら、気づかぬ振りをしていたころから……なにもかも、なにもかも、あなたは一人で決める。二人でと言いながら……あなたはいつも一人で……」
 危うく涙声になるところだった。本当に泣き出す前でよかったと利吉は後から思うのだが、その時、
「先生!」
 表口から、紙のように顔を白くした乱太郎が、飛び込んで来た。


 昼過ぎになって、げっそりとやつれた風情で、乱太郎がきり丸の枕元へ帰って来た。
「説得、不調?」
 顔色を読んできり丸は尋ねる。
 乱太郎は崩れるように座り込み、
「……わたしのせいだ……」
 両手で顔をおおった。
「――おまえのせいじゃないよ」
「だって、わたし、ほんとにひどいこと言ったんだよ、先生に。わたしがあそこまで言わなきゃ土井先生……辞めるなんて、きっと言わなかった……」
 嘆く乱太郎をきり丸は見つめる。
 ――髪が伸びた。首の後ろで束ねられた髪は、小さく波打つようにして背中に垂れている。ほどいた時、栗色の優しい光が顔の回りを包んだように見えた。
 ――綺麗になった。この夏は実習があったり鉢屋の元で過ごしたりと、忍びとしても活動する時間が多かったはずだが、乱太郎の肌はそういう荒々しい時間はまったく映していない。肌理さえ細かくなったように見える肌は、しっとりと白く、ついと手を伸ばして触れたくなる……。
 ――艶っぽくなった。背が伸び、その割りには体重は増えていなさそうだが、体の線が柔らかくなっている。動きになまめかしさが出て、それが体の線まで柔らかく見せているのだと、きり丸は気づく。眼鏡の奥の瞳は潤んだ光を絶えずたたえているし、すいっと目を伏せる仕草などに、計算でない色気がある。……つい、押し倒したくなるような、あまさと色気。
 この、ひと夏。何人の男がその肌に手を伸ばしたのか、何人の男に押し倒されたのか。
どれだけの男に愛されて、その艶が出たのか……。
「……おまえのせいじゃねえじゃん」
 きり丸は視線を乱太郎から天井に移す。そう、それもこれも。
「先生にひどいことを言いたくなったのは……おれが身体売ってたせいだろ? なら悪いのはおれ。でも、おれが身体売りたくなったのは、先生と利吉が同居したせいだったんだから……やっぱり悪いのは先生と利吉じゃん。おれら、なーんも悪くね」
 覆っていた手を下へずらし、乱太郎は目だけを出した。
「……なんか、それ、すごい理屈」
「おまえが気にすることないって。……先生は大人なんだから……ちゃんと自分で考えて出した結論だろ? しょうがねえじゃん。おまえ、それに言い過ぎたって自分が思った分は、ちゃんと謝ったんだろ?」
「それは……」
「なら、いいじゃん。先生だってさ、わかってるって」
「うん……でも、もし先生がほんとに先生辞めちゃったら、わたし……」
「……山田先生がさ、きっとうまく説得してくれるって。庄左ヱ門も署名集めるって言ってたし、だいじょうぶだよ」
 そうだね……とうなずいた乱太郎がようやく顔から離した手を膝の上に置いた。きり丸は、ふとその手を握りたくなった。乱太郎を慰めたいとか力づけたいという理由ではなく、ようやく近くに帰って来た乱太郎の体温を確かめたい思いが強かったから。
 だが、伸ばし掛けた手が目標物を捕らえる前に、
「あ。午後の授業から出るって、わたし、庄左ヱ門に言っておいたんだった」
 ぱん、と乱太郎が両の手を打ち合わせた。
「……そうか。これ以上、欠席続くとまずいんだろ」
「それがね、そうでもないんだって。六年生は実習扱いで最長二カ月まで欠席が許されるんだって。でも、戻って来たんだったら、まじめに出なきゃね」
「……だな」
「庄左ヱ門ね、ずっとノート、とっといてくれたんだよ。……まだね、わたしと目を合わせてはしゃべってくれないけど」
「そりゃあ……」
 無理ないだろう、あいつはおまえが初めてだったんだろう? 続く言葉をきり丸は飲み込んだ。それは、まだ自分たちにとってはあまりに生々しい事実をさらす。
「……うん。……一度ちゃんと謝りたいと思うんだ。それと……ありがとって、伝えたい」
 それはやめておいてやれ、今度は口に出す前に、きり丸は言葉を飲む。
「――それは、おまえたちの問題だから。おまえの気のすむようにすれば?」
 悪い、庄左ヱ門。おまえも男だ、試練に耐えて成長してくれ。
「うん。……じゃあ放課後、また来るね」
「おう」
 布団の中から手だけを上げて、乱太郎を見送る。
 格子窓から秋の柔らかな日差しが差し込み、埃を舞わせる。見るともなしに、小さな埃たちの乱舞を眺めていたきり丸に、隣から憮然とした声がした。
「口でも吸ってやればいいだろう」
 黙って乱太郎ときり丸の会話を聞いていたらしい三郎だった。
 雷蔵は請われて下級生の実技の授業に引っ張り出され、三郎は傷からの発熱もあって眠っているかと思っていたのだが、しっかりこちらの様子はつかんでいたらしい。
「いまさら、おまえが俺に遠慮とも思えんが?」
「なんでおれがあんたに遠慮なんかしなきゃならないんだ」
「ならさっさと口づけのひとつでもしてやれと言っている」
 きり丸は黙り込む。
 自分たちは……まだなにも伝え合っていない。実際のところ、自分たちはあの六月の別れ以来、まだなにも変わっていないのと同じなのだ……。少なくとも、自分はまだ……。
「――おまえな、いろいろ俺に憎らしいことを言ってくれたが、ひとつ……雷蔵で失敗したから、乱太郎でやり直したいのかと言ったろう、覚えてるか」
 きり丸の物思いを破って三郎が言った。
「……あれはな、まるきり的外れというわけでもない」
 きり丸は見えないと知りつつ、三郎の方へ顔を向ける。
「俺には雷蔵しかおらん。乱太郎が雷蔵の代わりになるなぞ、最初から思っとらん」
「……の、割りにはいいだけ、引っ掻き回してくれたな」
「歯がゆかったのよ」
 三郎の声に、笑いに似た響きが交ざった。だが、それはいつもの三郎の、こちらへの嘲笑の言葉とは聞こえない。
「雷蔵はな……今でこそああだが……あいつは、初めて人を殺した時、三日三晩吐いた。初めて人を騙した時には、三日三晩、泣いた」
 見えないと知りつつ……きり丸はついたての向こうを見つめる。
「情けない話だが、その時の俺はどうすればいいのかわからなかった。俺はだから、俺にとってはそれがどんなに平気で当たり前の所業であるかを強調して……よけいに雷蔵を追い詰めた。
 ……同い年なのを呪ったよ。五つ六つ、いや二つでも三つでもいい、あいつより早く生まれていたかった。あいつより大きく強くいたかった。
 土井と山田……ああ、息子の方の山田だ……あの二人はいい。土井には山田のいる位置が上から見えるし、山田のほうも安心してあまえていける。七つの年の差とはそういうことだ。だが、同い年というのはな……そうはいかん。思い切りあまえさせてやりたくても、経験も度量も足りん。あまえるほうもおっかなびっくりだ。
 同級生だからこそ、同い年だからこそ、出会えた相手だと思えばいいんだが……自分の無力が情けなくなりもする。どうやって生きていけばいいのかと……悩みもする」
 きり丸はひたりとついたての一点を見つめ、三郎の言葉に聞き入る。三郎もまた、きり丸と同じことで悩んだのだと思った。同じ重圧を感じ、同じ負担に同じように怯えたのだと。
「しかし、そういうことで悩むのが、第一から青臭い」
 声に変わらず含まれる笑いの響きは、今でははっきりと三郎自身に向けてのものと聞き取れた。自嘲。
「忍びの道が進めぬ奴なら、この道から降りてゆくだけのこと。支えてゆくだの、守ってゆくだの思うから、ややこしい。きり丸。俺たちが付き合ってるのは、女じゃない。自分で決断して自分で生きて行けるだけの力を持った、俺たちと同じ男だ。
 今なら……初めて人を殺した十四、十五の奴を、もっとうまく抱いてあやしてやれる自信があるが……雷蔵も、乱太郎も男だ。俺たちが乗り越えたように、乱太郎もいろんなことを乗り越えて自分で生きてゆく。丸抱えしてやる必要はない。自分で乗り越えていかなきゃならんものがあると、自分で気づいてゆく。
 当たり前だろう? 誰だって自分の人生は自分で生きていかなきゃならんのだ。そんな当たり前を忘れて、なんでもかんでも相手のすべてを背負わねばならない気になるところが青臭いのよ」
 三郎が口をつぐんだ後も、きり丸はじっと耳を澄ませていた。三郎の言葉が、何度も何度も頭の中をめぐる。同じ男だ、乱太郎も自分で気づいて自分で乗り越えてゆく、丸抱えしてやる必要はない……きり丸が感じていた重しの向こう側を、三郎は透かし見させてくれる。その重圧は、感じる必要のないことだと、それでも一緒に生きていくことは出来るのだと、三郎の言葉が教えてくれる。
 先輩。その言葉の意味をきり丸は初めて感じる。同い年の汚れない恋人とともに、忍びの道を生きていく不安も、土井と利吉を見て感じた羨望も、三郎は知っている。知った上で、大丈夫だと心配ないと言ってくれる存在。
「どうだ」
 きり丸のしんみりした気分は、また横柄さを取り戻した三郎の声に破られた。
「俺は後輩思いの優しい男だろうが?」
「ぬかせ!」
 はっと気づいてきり丸は体を起こす。
「てめえ、なんだかんだ言って、スケベ心で乱太郎連れてって遊んだんだろうが! おためごかしで丸めこもうたって、そうはいくか!」
 三郎がわざとらしくため息をついた。
「……つくづく、おまえはかわいくないなあ。口づけのひとつもしやすくしてやろうと、俺がこんなにいい話をしてやったのに」
「……おれじゃねえよ」
「なに?」
「おれじゃねえって」
「…………」
「……おれは、手を握ろうとしたんだ」
「…………」
「…………」
 こほ、と小さな咳払いが聞こえた。
「まあ……あれだ。あと一波乱、がんばれってことだ」


 そんな会話があったから、鉢屋は鉢屋が言うほど『優しい』『後輩思い』ではないにしろ、それでもある程度、こちらの事情というものを汲んでくれる度量の持ち主だと、うっかりきり丸は思ってしまった。
 油断は大敵である。
「久しぶりの授業だったから、大変で」
 と、次に乱太郎が保健室を訪れてくれたのは、夕飯もすんだ後だった。
 灯火に乱太郎の影が揺れる。秋の夜は冷気が忍んで、しっとり語り合うにはいい空気である。もちろん、隣に三郎と雷蔵がいるこの部屋で、突っ込んだ話し合いをするつもりはきり丸にはなかったが。
 だが、それでも思いやりのある言葉のひとつふたつ交わすことはできたろうし、そろそろ、この数カ月のことを話題にしてもよい頃合いではあったはずだ。
 が――
「ああ、そう言えば、きり丸」
 二言三言、きり丸と乱太郎が今日の様子など当たり障りのないことを話しているところへ――
 三郎が声を掛けて来た。
「おまえ、妙なところで寝てるんだなあ」
 ぎくりと来たきり丸の心中など知らぬ気に、雷蔵が、
「妙なところって?」
 無邪気に突っ込む。……本当に邪気がないのかどうか、鉢屋と不破は顔だけでなく性格も似た者同士ではないのかと思い始めているきり丸には疑問ではあるが。
「ああ。おまえ、図書委員だったから知ってるだろう? 書庫の奥に古い蔵書を保管してある倉庫があるの」
「覚えてる。なに? きり丸くん、あんなところで寝てるの?」
 ついたての上からひょっこり雷蔵が顔を出した。
「毎晩? どうして? 同室の奴のイビキがすごい? 寝相が悪い?」
 お願いですからもうそれ以上突っ込まないで下さい、必死に目で訴えようとするが、その訴えは雷蔵に届く前に乱太郎に届いてしまった。
「……あれ? 兵太夫だろ、きりちゃんの同室。兵太夫ならイビキも寝相も問題ないはずだよねえ?」
 この数カ月ですっかり“腹芸”というものを身につけてしまったらしい乱太郎が、心底不思議そうな顔で小首をかしげる。その目が『訴えは却下』と言っている。
「もしかして、襲われそうになった?」
 雷蔵が簡単に問題発言を飛ばし、
「そういえば、僕らの一年上にもいたねえ。同室の人に襲われそうになって、よそで寝てた人」
 としれしれと続け、そこに三郎が、
「でもあそこは、卒業の時にはくっついてたぞ、確か」
 止めを差す。
 きり丸は二人の悪意を確信する。
「へえ……きり丸、兵太夫に襲われそうになったんだ」
 くすくす笑って冗談めかす乱太郎の目が笑ってない。
「……いや」
 中途半端に否定すれば、
「じゃあ、きり丸くんが襲った?」
 雷蔵がすかさず追撃してくる。
 きり丸は迷う。事実を告げるのは簡単だ。だが……。きり丸は思い出す、兵太夫の真っすぐこちらを見る瞳の色。緊張に少し、青ざめながら、それでも庄左ヱ門ときり丸と、二人ながらに好きだと告げた、彼の純直さ。それは余人の耳にもらすべきことではないと思う。乱太郎一人に、そっと告げることはできても、こんな場面で、面白半分に冷やかされながら、口にしていいことではないと思う。
「――それ、あんたらに関係ないと思う」
 ふざけたノリの会話に、少しきつい口調で釘を刺した。きり丸としては、雷蔵と三郎の口出しを封じたかっただけなのだが。
「……そうだね」
 乱太郎が目を伏せて呟く。
「わたしには……関係ないことだよね」
 え、いや、おまえには、いずれゆっくりと話すつもりで……と、きり丸が引き留めるより早く、
「あした、また来る! おやすみ!」
 ばたばたと乱太郎は保健室を駆け出て行ってしまった。
「ちょっと待て! おい!」
 慌てて手を伸ばすが、浅いとは言いながら全身に散る切り傷があちらこちらで悲鳴を上げて、きり丸の身をすくませる。
「いかんなあ、きり丸」
 ついたての向こうから、三郎の人を食った声がした。
「おまえたちはまだ、雨が降るだけ降って地が固まってない状態なんだから、言動に注意せんと、また地崩れ起こしてぐちゃぐちゃだぞ?」
「……ほんとにいっぺん、殺すぞ、あんた」
 きり丸はこぶしを握り締める。そこへ、
「あれ、きり丸くん、そこ、また血が出てるよ? 傷口が開いたんじゃない?」
 雷蔵が襟元を指さす。もともとたいした傷ではないのだが、
「膏薬も貼り直してもらったほうがいいよね。新野先生を探してくるよ」
 と雷蔵は気安く立ち上がり、部屋を出て行った。
 きり丸はちぇっとかなんとか、舌打ちする。ようやく乱太郎は学園に戻って来たのに、まだ手も握れない、話もできない。これなら、明日からは忍たま長屋で寝かせてもらったほうがいいかもしれない。
 そんな考えを追っていた時だ。
「……いいのか」
 また三郎の声がした。
「なにがだ」
 不機嫌にきり丸は返す。
「雷蔵だ」
 あ? ときり丸は眉を寄せる。
「……わからんのか」
 三郎の声にため息が交ざった。
「つくづくガキだな、おまえは。雷蔵は乱太郎を口説きに行ったんだぞ」
「ああっ!?」
 今度の「あ」は声に出た。
「な、なんでだっ!」
 傷が悲鳴を上げるのもかまわず、ついたてを回り込んだ。三郎が呆れた顔をしている。
「おまえ、俺と雷蔵の仲は知ってるだろう? 俺にもらした情報はすべて雷蔵にも知れると思え。乱太郎がおまえに手を触れさせんなんぞとおいしい情報を、俺が握り潰すと思うか。雷蔵は勝機ありと見たんだ」
「あ、あんたはそれでいいのかよっ? あんただって雷蔵先輩が……」
「話したんだがな。俺も雷蔵も乱太郎がかわいいことでは同じだし、雷蔵にとって俺が一番であるならば、二番に乱太郎を据えても、それほど目くじら立てることはないかと……」
 そこまで聞けば十分だった。
 きり丸は保健室を飛び出した。


 保健室を飛び出したきり丸は、だから、
「……手間のかかる……」
 いつぞやの自分の台詞と同じ台詞を三郎が漏らしたのは聞かなかったし、その五分後に、
「あれ? きり丸くんは?」
 雷蔵が新野とともに、保健室に戻って来たのも知らなかった。
 雷蔵の問いに答えて三郎は、
「さあなあ? 厠じゃないのか」
 すまして答えたのだった。


 きり丸は乱太郎を捜し回った。
 ふたりでよく過ごしたあずまや、図書室奥の書庫、駆けずり回った後に、最後に忍たま長屋に飛び込んだ。
 そのころには、結い上げてもいない髪は千々に乱れて背をおおい、襟の合わせもゆるみ、裾も乱れて広がった白い寝衣には、あちこちに血がにじんでいた。
 その、すさまじいまでの格好で飛び込んだ忍たま長屋で……。
「うわ。いろっぺえ」
 きり丸を迎えた第一声は、金吾のそれだった。
 廊下を金吾と乱太郎の部屋に向けて突進すれば、
「きり丸! どうしたの!」
 庄左ヱ門も駆け寄って来る。
「乱太郎が……!」
「え、乱太郎なら、部屋にいるけど」
「……あ?」
 庄左ヱ門にそう聞いてはいたが。
 がらりと開け放った戸のうちに、乱太郎の驚き顔を見て、きり丸は一気に脱力した。
「……なんでおまえ……ここにいるんだ……」
「え……さっきからずっといるけど……」
 野郎、ときり丸は呟く。
 三郎、絶対、殺す。


 なにをどう解釈したものか。
 とにかく二人でじっくり話し合え、と、は組の面々はきり丸をその部屋の中へ押し込んだ。


「……鉢屋の野郎にかつがれた」
 そう言ってうるさげに、きり丸は顔にかかる髪をかきあげた。
 あちらこちらに血のにじむ乱れた夜着、頬にかかる艶やかな黒髪、見ているとドキドキしてくる色気がある。きり丸はどんな格好をしていてもこちらをドキドキさせる、と乱太郎は思う。……触れたくなって、触れられたくなって、その指でまさぐられたらどんなにか気持ちいいだろうと思い、その肌に肌を合わせたらどれほどに胸躍るかと思い。
 ほかの誰といても感じない胸の高ぶりを、乱太郎は数カ月ぶりに味わう。
「……乱太郎」
 すっと手が伸びて来た。
 その手に触れられたいと思い、その手に握り締められた手首の熱さをまざまざと思い出すこともできるのに、乱太郎はその手をよける。
 かすかに目を細めて乱太郎を見やるきり丸は、痛みをこらえている人のようだ。
「……おれに、さわられるの、いや?」
 問われて乱太郎は首を横に振る。自分でも、それは理由にならぬ理由のせいだと思うから。
「……じゃあ、なんで……」
「わたしね……」
 乱太郎は顔を上げる。きり丸に伝えるため、きり丸に伝えてもらうために。


「きり丸とあんなふうに別れてね……すごくつらかった……すごく……」
「あれは……おれが悪かったんだ」
「……きり丸、わたしのことが嫌いになったのかと、あのころ、ずっと思ってた」
「……嫌いってんじゃないけど……庄左ヱ門のこととか……なんでもっとはっきり振らねえんだって、イライラしてた」
「うん。それ、雷蔵先輩にも言われた。……わたしね……そういうの、たぶん、これからもあると思う」
「……男に言い寄られるの、気持ちいいか」
「……正直に言うとね……気持ちいいっていうのとは少しちがうけど……おもしろいって思ってる部分はあると思う」
「…………」
「許せない?」
「いや。……許せる、と思う。……ってか、そういうの、許せなかったらおまえといられないってか……おまえといられないことのほうが、おれはつらいって……なんか認めたくないけど……たぶん、おれ、おまえがいなかったら、ボロボロだ」
 きり丸は頭の奥で、声を聞く。ウソを言うな。たぶん、じゃない。実際、おれはボロボロになった。
「……そうかな……きり丸はもっとしっかりしてると思うよ。でも、ありがと。そう言ってくれて、うれしいよ」
「おまえこそ……許せんのか? おれ、わざと庄左ヱ門に見せつけたくて……」
 思い出して乱太郎は、身を震わせる。
「……あれね……あれはちょっと……でも、気持ちはわかるんだ。きり丸の気持ちは、今になってみると、わかる気がする」
 明かりが暗くてよかった、乱太郎は思う。昼の日差しの中ではとても口にする勇気が出るまい……。
「でもね……きり丸はわかる? 別れたあとの、わたしの気持ち……」
「……おれは……やっぱり寂しかったけど……」
「疼かなかった?」
「え?」
「きり丸は、疼かなかった? わたしね、わたしは、だめだった。……夜になると……躯が火照って火照って……どうしようもなかった。恨んだよ、わたし、きり丸のこと。きり丸はきっと、わたしがこうなることを知ってて、知っててわざと別れて、嘲笑ってるんだって、思ってた」
「…………」
「自分ではどうしようもなかったんだ。誰かに……誰かになんとかしてほしくて……だから庄左ヱ門と寝た。実習先で、四郎さんとも、学園の先輩たちとも……!」
「やめろっ!」
「…………」
 きり丸はおのれの髪をつかみ、苦しげにうつむく。
「……もういい。……やめろ……おれが……おまえの手を離さなけりゃ……だから、もういい。おまえのせいじゃない」
 乱太郎はそっときり丸の手に手を重ねる。
「……ちがうよ? きり丸、ちがうよ? きりちゃんのせいじゃない。きりちゃんはわたしと別れただけ……その後のことは……わたしがやりたくてやったことだよ? ねえ、そこ、ちゃんと認めてよ。認めて……考えて。わたしのこと、許せるかどうか……ねえ」
「……おれは……許せる。……さっきも言った。許せなくて……おまえといられないことのほうが、おれにはつらい。……こんな、今になってみれば、こんな簡単な当たり前のことがわからずに……おれはこの夏ずっと……おまえのことも、自分のことも……苦しめてたんだと思う……」
「きり丸……」
 乱太郎は深呼吸する。
「きり丸、ごめんね。……だけどね……だけど、わたしはやっぱり、許せないんだ」


 きり丸が顔を上げる。その瞳を乱太郎は見つめる。……なにも言う必要はないのを、乱太郎はきり丸の瞳に読み取る。きり丸は、わかってる。
 だから、乱太郎は伝えるためにではなく、確認のために、口を開いた。
「わたしね……わたしは、もう、こんなこと言える立場じゃないって、思うんだ。……土井先生は、先生を辞めるって言い出して、きり丸は……わたしを取り返すために、こんなひどいケガまでして……。
 先生はちゃんといつも先生だったんだよね? きり丸にとって、わたしは大事な人間なんだよね? それで……それで、もうよしにしなきゃいけないって、わたし、わかってるんだ!」
 ぱたぱたっと、乱太郎の目から涙が落ちた。
「わかってるのにっ……! もう……納得してるのにっ……!」
「乱太郎……」
 きり丸は乱太郎の肩に手を触れかけて、すぐとその手を引っ込める。
「……だから……おれに触られたくないんだ」
「ご、ごめん……!」
 乱太郎の声が嗚咽に途切れる。
「わかっ……わかって……るん、だ……だけど……だけど……」
 きり丸は乱太郎の泣き声が静まるまで待つ。やがて。泣き止んだ乱太郎が顔を上げる。
「……もう一度……聞いてくれる? あの時のわたしは、なにもわかってなかった……好きな人がいるのに……ほかの人に抱かれる意味も……ほんとに大事でもないのに……そういう行為だけする意味も……全然、わかってなかった。……いまでも……ほんとはわからない。……お金……お金と引き換えに、そういうこと……それも……それも、す、好きな人がほかにいて……そ、その人のこと、諦められなくて……そういうこと、するのっ! わ、わからない!」
 激しかけた感情をなだめるように、乱太郎はまた大きく息をつく。
 顔を上げた。
「……ごめん、きり丸。もう一度……聞いてくれる? 今度はちゃんと……答えるから」
 きり丸もまた、大きく肩で息をつく。
 そう……自分たちの間で、土井の影は、まだこんなに大きい。
 きり丸は静かに、問う。
「――おれが、今度は、おまえのためだって、身体売ってみせれば……満足か?」
 

 乱太郎は、今度は答えない、誰もそんなことを望んでいないとは、答えない。


 うん。
 乱太郎は、うなずいた。

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