罪人たちの季節

<二十>


 きり丸が、四日ぶりに保健室から戻って来たその日。
 課題のレポート作りに追われていた金吾は、
「あれ、兵太夫、その荷物、どうしたの」
 という、乱太郎の声に顔を上げた。
 見れば金吾と乱太郎の部屋の入り口に、両手で行李をささげ、背に風呂敷包みを背負った兵太夫が立っている。その顔はまるで怒っているように見える。
「乱太郎。部屋を替わる。荷物をまとめて僕の部屋へ行け。僕はここに移る」
 にこりともせず、兵太夫は一気にそう言うと、ずかずかと部屋に入ってき、勝手に荷物を出し始めた。
「……兵太夫……でも、どうし……」
 乱太郎がなにか馬鹿なことを言いそうで、
「おお! それはいい案だわ! 乱太郎、ほら、さっさと荷物まとめろよ」
 金吾はさっと立ち上がり、乱太郎をせっついた。
「でも……」
 何か言いたげな乱太郎に、金吾はそっと耳打ちする。
「兵太夫の好意だろ、ありがたく受けとけ」
 いや。本当は。これは兵太夫の白旗なのだろうと金吾は思う。ならば勝者であるはずの乱太郎は、せめてつましくひっそりと、敗者に鞭打つまねはせず、座るべき場所へと移ればいい。
 金吾は強引に乱太郎の荷物をまとめ、
「忘れ物があればちゃんと届けてやるから」
 と、まるで追い出すように乱太郎の背を部屋の外へと押しやった。
「だからって、夜、あんまりうるさくするなよ」
 ちょっと下品な笑みを浮かべて小声で言い足し。
「金吾!」
 抗議だか羞恥だかで声を上げる乱太郎の面前で、ぴしゃんと戸を閉めた。
 さて、と振り返れば、今まで怒った表情でなんとか自分を保っていたらしい兵太夫の瞳に、うっすらにじむものがある。
 気づかぬふりで、金吾はまた机の前に座る。
「……兵太夫、今度の休み、つきあえよ」
「……え。……なにに」
 慌てて涙をぬぐう気配がして、少し湿った声が答える。
「おれの彼女がツレ連れてくんのよ。メンツ足りなくてさ、おまえ、つきあえよ」
「え。……女の子?」
「彼女っつえば、ふつー、女だべ? ……女はいいぜ、兵太夫。柔らかいしあったかい」
 わざとらしいと言えばわざとらしいが、恋の痛手は新しい恋で癒すのが一番だというのは、金吾の信条のひとつである。
 ややあって。
「……ありがとな、金吾」
 兵太夫がぽつりと言った。


 きり丸が、四日ぶりに保健室から戻って来たその日。
 放課後、乱太郎とどこかへ消えた庄左ヱ門は、その日当番である火薬庫の在庫点検に現れなかった。庄左ヱ門を探した団蔵は、乱太郎が大きな荷物を手に長屋の廊下を行くところをつかまえた。
 案の定、乱太郎は、庄左ヱ門との話はすぐに終わったと言い、話の内容については突っ込まれたくない素振りを見せた。
 団蔵は夕暮れ近くになって、学園の物見台から、ぼうっと裏裏山に沈む夕日を眺める庄左ヱ門を見つけた。
 秋の西日に照らされ、長い影をくっつけて、庄左ヱ門はぼおっとしている。
 団蔵は黙ってその隣に腰を下ろす。
「……ありがとーって、言われちゃったぁ……」
 どれほどそうしていわし雲を紅に染める夕日を眺めていたろうか。気の抜けた声で庄左ヱ門が言った。
「……僕が優しいからあまえちゃったって……ごめんねってさぁ……」
 団蔵は返事に困り、黙って聞いている。
「……とっても助けになったんだって、僕。……ありがとう、ごめんねって……」
 友の、淡々とした声が、かすかに震え出したのに、団蔵は気づく。
「……僕は……付き合ってたつもりだったんだけど……優しく親切やってたつもりじゃなかったんだけど……そりゃ、そりゃ乱太郎が元気ないのはいやだから……乱太郎には笑っててほしくて……それも本当だけど……だけど、だけど、好きだからっ……付き合ってたのは、ちゃんと……ちゃんと、恋のつもりで……っ」
 震える声が、語尾で激しくなり、突然切れた。団蔵は友の肩に手を回す。
 庄左ヱ門は胸を押さえる。
「……乱太郎は……僕じゃだめだとか……きり丸にはかないっこないんだとか……そういうのは……もう、ちゃんとわかってるんだ。もう……そんなことで……ぐちゃぐちゃ言うつもり、全然ないんだけど……なんか、今日の……ありがとう、ごめんね、優しくしてくれてありがとう、勝手してごめんねって……なんか、それって……」
 団蔵は静かに友の背中を撫でる。――恋のつもりで付き合った、それに、ありがとうと、ごめんねと、言われてしまった友の背中を撫でる。
「……これからも……いい友達だと思っていいって聞かれて……いいよって、僕、答えて……でも、おまえなんか大嫌い、顔も見たくないって言われたほうが、どれだけいいか……!」
 ついに。
 庄左ヱ門は大粒の涙をこぼす。
 声もなく泣く友の、団蔵は背中を撫でる。撫で続ける。
 物見台の長い長い影が、薄闇に溶けて消えるまで。


 きり丸が、四日ぶりに保健室から戻って来たその日。
 土井先生も四日ぶりに教壇に戻って来た。
 表向きは、疲労のために休養をとっていたことになっている土井先生を、事情を知っている六年は組は何食わぬ顔で受け入れたが、土井先生はやっぱり少し、ばつが悪そうだった。
 が、そのばつの悪さは、四日前、自宅で山田伝蔵の訪問を受けた時のものに比べればはるかにマシで、土井は、結局自分はまだまだ青二才なのだと、瞳だけに土井の復帰を喜ぶ色を浮かべた十人の生徒の前で、咳払いひとつして、出席を取った。
 四日前。
 涙ながらに詫びを言いに走ってきた乱太郎が、土井の辞職の決意を翻させることはできないと知って、肩を落として帰って行った後。完全に腹を立ててしまったらしい利吉は一言も口をきかず、土井はため息をついていた。そこへ。
 早々に授業を終えたらしい山田伝蔵がやって来た。
「上がらしてもらっていいかね」
 断りを言って部屋に上がった山田は、円座の上にあぐらをかきながら、
「白湯でいい、一杯もらえんか」
 と不機嫌そうに立つ自分の息子に声をかけた。
 そして、土井に向かっては、とんとんと自分の前を叩いて座るようにうながし、盆の上に湯飲みをみっつ乗せて戻ってきた利吉には、学園長が仕事の話があるそうだと告げて出て行かせた。
「さてと」
 不承不承戸口を出て行く利吉の背を見送ってから、伝蔵は土井に視線を合わせた。
「これを学園長から預かって来ました」
 そう言って伝蔵が懐から出したのは、土井が学園長にこの早朝に提出したばかりの辞職願いであった。
「預かって来られても困ります。撤回するつもりはありません」
 堅い口調で押し返した土井に、伝蔵は苦笑を漏らす。
「まあそう居丈高に構えなさんな」
 伝蔵はぱらりと三つ折りになった半紙を開くと、中の書状を取り出した。
「……ここに、辞職の理由が、教員にあらざるべき私生活の亂れにより、忍術学園の品位を落とすを恥じ、とありますが……これはまあ、利吉との同居を言っとられるんでしょうな?」
「もっと早くに決断すべきだったと思っています。学園長と山田先生のご厚意にあまえすぎました」
「生真面目ですなあ、土井先生は。しかし、学園としてはこういう理由で辞められるのは、非常に困る」
 湯飲みから茶をすすり、伝蔵は反論を口にしようとした土井を、手で制した。
「学園長も受け取るつもりがないから、わしに託した。そこのところを汲んでもらいたい」
「ですが……教員の資格のないものが教員を続けていてはいけません」
「なにをもって教員の資格などというものをはかると言われるのかな、土井先生は。大声でそういうことを言われては、困る輩が忍術学園の職員室にはごろごろしとります。世の中は、本音と建前で動いとるんですよ、土井先生」
 そう言ってまた一口、茶で喉をうるおすと、伝蔵は背筋を伸ばした。
「もう少し、大人になりんさい、半助。あんたももう三十を越えとるでしょう」
 少々面食らった思いの土井だ。
「た、たしかに三十は越えるところですが……」
「だから二十三十はまだ青二才だと言うんですよ。考えてもみんしゃい。あんたは自分の男色を理由に教師を辞めようとしとるんです。そんな理由で学園を辞められたら、学園の教師の半分は辞めなきゃならなくなる」
「……で、ですが……」
「まだ土井先生は相手が学外の人間だからいい。教師同士の色恋は両成敗で辞めさせますか。教え子に手を出した教師などどうします。打ち首ですか」
 伝蔵にねめつけられて土井は言葉に窮する。
「よろしい、土井先生の同居がもとで、苦しむ生徒がいたとしましょう。自分の我欲のために教え子を傷つけた、わたしには教師たる資格がない、だから辞表を、と土井先生なら思われるかもしれない。しかし、もしそんな理由であんたに学園を辞められたら、その同居相手の父親であるわたしは、どうすりゃいいんですか。父の同僚をたぶらかした不肖の息子を育てたかどで、わたしも辞職せねばならんでしょう」
 土井ははっと伝蔵の顔を見つめる。
「……忍術学園は、実習こそさせませんが、人の急所を教え、人を殺める武器の使い方を教えるヤクザなところです。そんなところの教師に、なにを清廉と実直ばかりを、学園長が求めるものか。半助。清濁合わせ呑む器を持ちなさい。たとえあんたのせいで生徒が傷ついたとしても、それもその生徒の大事な経験の一部になってゆくと思うくらいの図太さを、持ちなさい。……きり丸も乱太郎も、いい肥やしをもらっとると思いますよ」
 冷えきった茶をすすりあげ、伝蔵はにやりと笑って土井の顔をのぞきこんだ。
「撤回したくなったでしょう、これ」
「……山田先生……」
 伝蔵は土井の手に、辞職願いを押し付けた。
「これはまだ内緒の話のようですが、庄左ヱ門はどうやら全校生徒の署名を集める気でおるようですよ。あんただっては組の生徒全員にここまで押しかけられて留任をねだられたら、困るでしょう」
「それは……」
「学園はいいところですよ、土井先生。学園を巣立って行った生徒達が、いつでも安心して帰って来られる場所です。……きのう、たまたま保健室で木下先生と居合わせたんですが……不破はもちろん、あの鉢屋でも、わしを見る顔とはちがう。そういう場所にいてやるのも、生徒思いってもんですよ」
 土井は返された辞職願いを見つめる。
 さて、と伝蔵は腰を上げた。
「行方不明の生徒の探索ではずいぶん土井先生が頑張った。疲れもたまっとるだろうから、三日間の特別休暇をやると、学園長がおっしゃってみえました。ゆっくり休みんしゃい」
 その間にゆっくり考えろと、言われて土井はまた手の中の辞職願いを見つめる。
「しかしまあ……複雑ですなあ」
 土井に背を向け、草鞋を履きながら伝蔵がつぶやく。
「同居を続けて学園を辞める選択というのは……父親としては喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか……まったく、複雑ですわ……」
 土井は胸えぐられる思いがする。そう、確かに……自分が利吉と別れる選択をしたほうが……利吉の父である伝蔵には喜ばしいだろう。
「……すいません。すいません、山田先生」
 伝蔵の背に向かい、土井は頭を下げた。
「わしにあやまらんでもいい。……明々後日(しあさって)には元気な顔を見せて下さい」
 そう言い置いて伝蔵は学園へと帰って行った。


 学園長から短期の仕事を依頼された利吉が戻って来ると、半助は竈の火を起こしていた。
「おかえり。……今日の夕餉は君の好きなキノコの炊き込みにするよ」
 相手の好物を作るのは、婉曲ではあっても、喧嘩の仲直りを求めていることになる。きつい言葉を返すのはためらわれて、しかし、ほいほいと半助のペースに乗るのもしゃくで、利吉は黙る。
 半助はかまわずふいごを使いながら、
「君の父上には、まだまだかなわないね」
 ぽつりと漏らす。
「……父は……なんと?」
 腰を伸ばして立ち上がり、半助は苦笑する。
「大人になれと言われたよ。こんな理由で辞められたら、まわりが困ると」
「……確かに。野村先生や刀部先生まで辞めることになっては大変です」
 半助がちょっと首をかしげた。
「……野村先生はわかるけど……刀部先生?」
 利吉はこほんと咳払い。
「まあ、その話はいずれゆっくり。たたけば埃の出る先生はほかにもいますよ。……それで、半助、あなたは?」
「うん……どうすればいいと思う? 山田先生は慰留は学園長の意志でもあるとおっしゃって辞職願いを置いていかれたよ」
「……わたしの意見を、聞きたいとおっしゃってくださるんですか」
「わたしは……」
 半助は柔らかい笑みを浮かべて利吉に向き直る。
「少々へそを曲げていたんだよ。……乱太郎に言われたことがこたえてね……だからわたしは家を出てしまったけれど、そのうちに君が学園に泣きつきに来るだろうと思ってもいたんだ。ところが、もうそろそろ君も限界だろうと思ったころに、君は団子屋の娘なんかといちゃいちゃしてるし、家に戻ってみれば、これまたきれいに片付いて、君は仕立て下ろしの着物なんか着ている。
 ああ、いいよ、わかってる。おおかた、きり丸の入れ知恵だろう? あいつはわざとわたしに焼き餅を焼かせるようなことまで言っていたよ。……まったく。
 でも、手の内は見えていてもね、わたしがいなくても君がまるで平気な顔をしているのは、おもしろくなかったんだ。その上、君は鉢屋の居所を教えてくれなかった。それも、仕事絡みのことだ、無理のない選択だと頭ではわかっていたんだがね……わたしはどうにもおもしろくなかった。だから、君がそうして仕事の秘密を優先するように、わたしだってわたしの仕事のことを君に黙っていてもいいだろう。……そんなふうにね、わたしはすねていたんだよ」
「半助……」
「本当は、辞職願いを出す前に、君に相談しようと思っていた。相談と言うより……報告かな。勝手に決めるなと君に言われたけれど、君との生活を捨てるなんて、わたしにはできない、それははっきりしてたんだから。でも、それを君に事前にちゃんと了解しておいてもらおうとは、思っていたんだ。だけど……団子屋の娘の話を聞いてね、かっと来た。わたしが一カ月いなくても元気で平気な奴に、なんで相談なんかしなくちゃいけないんだって。相談なんかしなくても、君も喜ぶ選択なんだからいいだろう、悪いことしてるわけじゃないんだから、君に文句を言われる筋合いはないはずだ、そんなふうにこじつけた。……確かに、山田先生に言われたように、わたしはまだまだ青二才だ」
「……時々……時々、あなたはとてもずるい」
 利吉はおだやかに自分を見つめる半助の視線から逃れるように横を向く。
「あなたは……とても意地悪で勝手なことをするくせに……時々、時々、そうして、自分の手札をさらして見せる。……わたしのことが本当に大切で好きなんだと……わたしが思ってしまうようなことを言う……」
 半助はおだやかな笑みを深くする。
「本当に大切で好きなんだよ、君のことが」
 利吉は意地になったように、横を向き続ける。
「……あなたは……意地悪で勝手だ。……なのに……あなたがそういうふうに……そんなことを言われると……」
 利吉の顔がじんわりと赤みを帯び出す。
「これもあなたの手のひとつかもしれない、わたしはいいように丸め込まれようとしているのかもしれない、そう……思うんですが……でも」
 はっきりと利吉の顔が赤い。
「……うれしいんです。……うれしい自分が……情けない……」
「利吉」
 半助は歩み寄り、横を向いたままの利吉を抱き寄せる。利吉も抱き寄せられる。
「勝手をして、悪かった」
「半助」
 寄り添うふたりの間に、引き合う磁力が生まれる。
 唇が、重なり合おうと近づく……。
 と。
「……ん?」
 ふたりは同時に同じ違和感を感じて目を見交わす。
「……焦げ臭くないですか……?」
 火加減も適当に、放り出されていたカマドの上の釜は、いまや湯気を煙りに変えて吐き出している。
「あああっ!」
 慌ててカマドへ駆け寄る二人であった。


 半助が大急ぎで釜を火から降ろしていると、横から利吉が手を出した。
「ん?」
「辞職願い。わたしに預けてください」
 懐から半助が出した辞職願いを、利吉はカマドの中へとくべた。
「……わたしは……あなたに教師を辞めてほしくはないんです。あなたは、生徒にとって、いい教師なんだから。だからって、あなたとの同居を解消するつもりもありません。……半助。学園長も父も辞めるなと言い、乱太郎もあなたを引き留めに来た。あなたの悔いはわかりますが、耐えてください。わたしのために、生徒のために」
 半助の手を、利吉の手が一瞬、強く強く、握り締めた。

     *     *     *     *     *     *

「おまえ、今日の午後と明日の午前中って、なにか用事ある?」
 きり丸がそんなふうに聞いてきたのは、旅立つ鉢屋と不破の背を、学園の門の前で見送っている時だった。
「え……特に予定はないけど……」
 乱太郎が答えると、
「じゃ、外泊許可取っとくから、今日と明日、あけといて」
 そう言い置いて、きり丸はすたすたと門の中へと戻って行った。
 乱太郎はひとり、もうすっかり乾いて冷たくなった風の中に立ち尽くす。
 冗談ではすまないような過激な言動でさんざんこちらを振り回してくれたが、なんだかつい頼ってしまいたくもなる、相似の先輩二人も今日で学園を去る。その二人の出立の日に、きり丸が言い出した外泊許可。
 枯れ葉を運ぶ冷たい風に、髪が乱されるにまかせて、乱太郎は立ち尽くす。
 ――それは、自分が望んだこと。


 兵太夫と部屋を替わり、乱太郎が同室になったことに、きり丸は喜ぶ様子を見せた。
「やっぱりおまえと同室ってのが、一番落ち着く気がする」と。
 きり丸の態度は教室でも二人きりの部屋の中でも、屈託のない親しい友人のものであり、変わりがなかった。ただ、親しい友人なら自然にあるはずの、軽いじゃれあいや接触はなく、乱太郎との間に、常にこぶし一個分の距離を取っているのが、普通の友人同士とはちがう。
 それは……どうしても土井の影を振り切れず、きり丸が土井のためにしたと同じことを、自分のためにもできるまで、きり丸に触れられたくないと言った乱太郎の気持ちを尊重してのことだと、乱太郎にはわかっている。
 表面上は、肉体関係のなかった頃の、無邪気なこども時代と同じ友達同士として。水面下では、許せぬことを抱えたこじれた恋人同士として。ふたりは一カ月とすこしを、言葉にはできない、しない緊張感を抱えて過ごしたのだ。
 それでも……。
 ふとした瞬間に、きり丸の視線が濃密に絡んでくることがあった。同じ部屋にいる、その気配だけで、乱太郎の肌がざわめき落ち着かないことがあった。きり丸は夜になると無言で部屋を出て行ったし、着替えは申し合わせたように部屋の隅と隅で、互いに背中を向けてすませたし。
 しかし、その瞬間瞬間に走る熱さえ無視すれば……ふたりはまったくただの友人と変わりなく、乱太郎は改めてしみじみと、その物足りなさを噛み締めた。
 誰だ、と乱太郎は毒づきたくなる。「いつまでも友達でいてね」誰がそんな馬鹿を言った。自分たちは……二度と、ただの友達には戻れない。戻りたくもないと思う。過去へのこだわりを捨て切れず、触れず触れられない暗黙の了解があるにも関わらず、自分はきり丸に求めてもらいたがっている、きり丸を求めたくて仕方なくなっている。恋の激しさ熱さにくらべ、友情のなんとぬるく物足りないことか。もし……本当に、きり丸が自分への執着のすべてをなくし、ただの、本当にただの友達に戻った感情しか向けてくれなくなるくらいなら……それくらいならいっそ、刃物を構えて向かい合うぐらい憎しみ合うほうがましだとすら……乱太郎は思う。
 なのに、と思わなくもない。なのに、自分はきり丸に、今度は自分のために客をとってほしいと言ったのだ。かたわらにあって、冗談を言いふざけあい、まじめなことも話し合い……そうする友達としての付き合いが物足りぬほど、熱い感情をもつ相手に……自分はなんという要求をしたのだと、乱太郎は怯じもする。……だが。
「なんで土井先生のために、そんなことまでしたんだよ!」
 胸倉つかんで叫んだくらいでは消えぬ、黒いものが、胸の底にわだかまる。
 たぶん。友達に戻ってやり直せないのが事実なように、これをこのままにしても、自分たちは、少なくとも自分は、やり直せないとも、乱太郎は思う。
 三日前だ。
 きり丸は唐突に、壁にもたれて本を読んでいた乱太郎を、壁に手をつきその両腕で挟んだ。
「やっぱ、だめ?」
 短い問い。
「うん」
 乱太郎の返事も短かった。
 それでふたりには十分で。
 そして、今日。
 町へと抜ける道を行きながら、乱太郎は吹きつける風のせいではなく、緊張で指先が冷たくなっているのを感じる。
「……とって食われやしねえから」
 今日は常より無口だったきり丸が、苦笑気味にそう言った。
「なんかおまえ、おまえのほうが売られに行くみたいな顔してるぜ」
 売られに行く。その言葉の生々しさに、乱太郎は面を伏せた。


 川沿いを一本入ったところだった。両側に格子をはめた窓が並ぶ通りの中で、ひときわ大きな店があった。その店の間口に吊るされた提灯で店の名を確かめると、きり丸は迷うこともなく、店の裏へと回った。
「おっはようございまあす。誰かいませんかぁ」
 すでに昼より夜が近い時間だ。きり丸が裏口を押し開けながら掛けた挨拶に乱太郎は驚いたが、ここでは真夜中でも挨拶はこうだときり丸が小声で教えてくれた。
「おー」
 間の抜けた声で出てきた男は、きり丸の顔を見るとおっと驚いている。
「久しぶりー。ねー芳乃サン、いるかなー? 会いたいんだけど」
「また商売始めるか? おまえなら芳乃さん喜ぶぜ、あがんな」
 框へ上がるきり丸に続いて、乱太郎もあわてて草鞋を脱ぐ。
 奥へと案内してくれながら、男は、大きくなったなあなどと言いながら、きり丸と自分の背を比べてみたりしている。一見して腕に自信のあるヤクザな稼業の奴だと目星はつくが、きり丸は屈託なく笑っている。
 ――昔、『世話』にでもなったのだろうか。
 乱太郎はずくりと疼くものを覚える。
 奥の障子戸の前で男は膝をついた。
「芳乃さん、お客人です」
 どうぞーと甘く間延びした声がした。
 きり丸の後ろから中へ入ると、長火鉢の前にやたらとあだっぽい男が一人、座っている。
「あらま!」
 やや下がり気味の目尻が色っぽいその男は目を丸くしてきり丸を見た。
「やだ、きり丸じゃないの。どしたのよ、アンタ」
「どうもー。久しぶりに芳乃サンの顔が見たくなってー」
「あらぁ、うれしいこと言ってくれるようになったわねぇ。伊達に背ばかり伸びたわけじゃなさそ。……で、用件はなに?」
「うん。おれを一晩、ここで売ってほしいんだ」
 芳乃(*)と呼ばれているその色白な男は、きり丸がそう言うと、ぽん、と長煙管を火鉢の角に打ち付けて灰を落とした。
「……それはまた。……で、それはそちらのお友達もご一緒に?」
 煙管で指されて、乱太郎はあたふたと頭を下げた。
「いや。こいつはちがう。おれだけ、一晩、世話になりたいんだ」
「……二年振り……だったかしら? じゃあ、ちょっと見せてもらえる」
 なにを見せろと言うのだろう、乱太郎が不審に思っていると、すっときり丸が立ち上がった。するすると脚絆を解き、すとんと袴を落とし、肩から着物を滑り落とす。あっと言う間に、きり丸は下帯ひとつ残して裸になった。
 数カ月ぶりに見るきり丸の裸に、はっと乱太郎は息を飲んだ。
「きゃ」
 小さく芳乃も叫ぶ。
「なによ、アンタ、これ!」
 慌てた様子で芳乃がきり丸の前に回り込んで、膝をつく。
「ひどおい……」
 芳乃のように声も放てず、動きもできなかったが、乱太郎も驚きは同じだった。
「なめし皮みたいにきれいな肌だったのにぃ」
 芳乃が嘆く。
 そう……きり丸の肌はきれいだった。厳しい実技の授業で傷があることもあったが、それでも浅い傷はさほどの跡も残さず消えたから、きり丸の肌はきれいだった。なのに、今。きり丸の体には縦横に白い傷痕が走っている。その大半は鉢屋との争いで負った傷らしく、肉を小さく盛り上がらせた白く細く走る傷跡だったが、左腕には不破が血止めした火傷の跡がまわりをひきつらせながらそこだけてらりと光らせて残り、右腕には醜くひきつれた、肉がえぐれたようになっている赤ずんだ傷痕があり、足には急いで縫い合わせたようなじぐざぐの傷痕が大きく走っている。
 ――兵太夫が言っていた。きり丸は、おまえがいなければ駄目なんだと。ひどかったんだと。その意味を、乱太郎は初めて悟る。
 ただ、きり丸の背中は、かわらずなめらかにきれいなままだ。
 それも芳乃は見て取ったのだろう、
「向こう傷……でも、これ刀傷がほとんどよね……ねえ、あんた、ほんとに何者?」
 きり丸はその質問には答えず、
「まずい? 売り物になんないかな」
 まるで畑で採って来た大根が売れるかどうか尋ねるような口調でそう聞いた。
「まあそれは……売りようはいくらでもあるけど」
 芳乃がかすかすに眉を寄せてきり丸を見上げる。
「あんた、それでなくてもひどいことされやすかったでしょう。これじゃあ、普通の客はつかないわよ、いいの?」
 きり丸は小さく肩をすくめた。
「しゃあないじゃん。まあ刃物だけはしまっといてよ」
 はあ、と芳乃はため息をついた。
「……肝心な商売物は大丈夫なんでしょうね」
 言われてきり丸は、また、平然と顔色も変えず、今度は下帯に手をかけた。
 前を見せる。
 指先でつまんで持ち上げて見せ、それからくるりと後ろを向いて前かがみになった。
「開けて」
 芳乃の前に尻を突き出した姿勢を取りながら、芳乃の短い言葉に、きり丸は手を後ろに回して双丘を分けて見せた。
 乱太郎は両手で口を覆う。こんなふうに……こんな……まるで魚の腹をさばいて見せるような……売り物になるというのは……こういうことなのか……と。
「いいわ。問題なし」
 芳乃が立ち上がり、きり丸は慌てるでもなく、脱いだものをまといだす。
「四分六でもらうわよ。飛び込みだから」
「いいよ」
「客もこっちが選んでいいわね」
「まかせる」
 細かいことを打ち合わせ、最後にきり丸が言った。
「悪い、芳乃サン、もひとつ、頼みがあるんだ」

*芳乃:オリキャラ.初出は「水底の泥はねて」

 バカな子ねえ、と芳乃は嘆息する。
「こっちよ」
 と、栗色の柔らかい髪がかわいらしい眼鏡の坊やを案内しながら。
 きり丸の頼みというのは、自分が客を取っているところを、連れの友人に見せてやってほしいというものだった。覗きを楽しむ、そういう趣向の部屋もあるのを知っての上での頼みだったが、自分が客に責められている様子をかなり訳ありらしいご友人とやらにわざわざ披露するなどバカだと思う。
 年齢はきり丸と大差ないようだが、こちらはまだそれほど世間ずれした様子のない坊やは、もうさっきから桃のような頬を緊張にひくつかせ、泣き出すのを我慢しているように見える。
 ……こんな子なら……丸め込むのも簡単だろうに、と芳乃は思う。なにも本当に客を取るところまで行かなくても、おまえならその口ひとつで丸め込めるだろうに、なにバカやってんだよ、きり丸、と。……それとも、ごまかしたくない相手だった? そこまで一生懸命にならなきゃならない相手だった? それにしてもバカだわあと、芳乃はため息。
「こっちよ」
 襖を開けて、きり丸と客のいる隣の小部屋へと誘う。
「向こうの部屋の掛け軸に細工がしてあるの、こっちからは見えるけれど、あちらからは見えない。だけど、声は出しちゃだめよ。聞こえるから」
 ひそひそと注意を与える。
 いくつも開けられた小さな穴から、不自由ながら隣の部屋の様子が見える。
 部屋の奥にはすでに派手な上掛けの布団が敷かれ、手前に酌をするきり丸と酒肴を楽しむ客の背中が見える。客の男は少々嗜虐癖のある、この店の馴染み客だ。耳のあたりに毛が残るだけで、てらてらと油ぎった禿頭が光り、肉のついた肩が精の強さをうかがわせる。
「つまらんなあ」
 客が大声でこぼした。
「ただの酌ではつまらん。おまえ、脱いでみんか」
 客の要求にきり丸は立ち上がって帯を解く。
「出し惜しみするな」
 と言われて下帯も取った。芳乃の横できり丸の友人である坊やがひっと息を飲む。
「……ほお。すごい傷だな。どうした?」
「……ちょっと……こんなひどい跡、残るって思わなくて」
「おまえ、あれか? こう、血だらけになって、いいわあとか、よがったりするのか」
「…………」
 客の淫らがましい問いに、きり丸は薄く笑って答えない。腹の中でくそ馬鹿野郎、エロおやじ、と思っているのかもしれないが、その笑みは客の答えを肯定しているともとれる。こういうあたり、うまいのよねえ、この子は、と芳乃は感心する。もし本当にきり丸が色事を好む性質(たち)であったら、是非とも店の専属にしたいところだ。
 客はまっぱだかのきり丸を隣に座らせると酌を続けさせた。
 時々、きり丸が奇妙なふうに身をよじる。見ると、客はきり丸の傷痕に手を伸ばし、爪の先でそこを引っ掻いているのだ。
「……つ」
 短くもらした声に、客がうれしそうに笑う。
「痛いか、そうか。まだ新しい傷だな。うん? いい男にやらせたのか? うん?」
 芳乃は横目で震え出している坊やを見る。関節がまっしろに浮いたこぶしを噛み締めているが、それでも全身が震え出すのは止められないようだ。
「そうだな、杯でちまちま呑むのもつまらんか。おまえも酌ばかりでは飽きるだろう。ワカメ酒でも楽しむか。ん? おまえも好きか?」
 聞き馴れぬのだろう言葉に、きり丸の友人は芳乃を見上げてくる。見ていればわかる、と芳乃は隣室に向かい顎をしゃくる。
 きり丸は背を反り気味に、両ももをぴたりと合わせて、膝を立てて座る。そうやって座るとできる股間と下腹の窪みに、客は徳利から酒を注いでいく。
「んー? ちょっと熱いか、どうだ、気持ちいいだろう。これやるとな……このおまえのかわいいところが酒を呑むのよ。そうするとポカポカして……いいぞう、後で気持ちがようなる……」
 客はその禿頭をきり丸の股間に伏せる。酒を嘗めるのだろう、ぴちゃぴちゃと音がする。ずずっとすすりあげたのは……なんだったのか、きり丸がさすがにひっと背をそらした。
まずいとばかりに口を押さえるのが、客を煽ったか。
「もう一杯いくか。そしたら、今度はおまえの後ろの口にも呑ませてやろうな」
「え……後ろは、ちょっと勘弁……」
「いやだなんぞと、言える身分か、おまえ。アー?」
 客は酒で濡れそぼったきり丸の股間のものをわしづかむ。
「アッ!」
 仰向いて身体をこわばらせたきり丸の顔を、客はうれしげにのぞきこむ。
「酒が効いてきとるだろう。どうだ、ビンビンこんか?」
 芳乃の隣で坊やは小さく首を振り、まるで彼のほうが凌辱にあっているようだ。
「…………」
 芳乃はその耳元に口を寄せる。
 たぶん、そのことを知っているのは自分ひとりだと思うから。
「あんたとおんなじ目をしてた人を知ってる」
 え、と坊やが芳乃を見上げる。
「きり丸が客をとるのを……その人は現場を見たわけじゃないけどね……男といるきり丸を、あんたとおんなじ目で見てた人がいるの。きり丸は先生って呼んでた」
 坊やはまたぶるりと身を震わせた。かまわず芳乃は続ける。
「きり丸がね、どうして躯を売り出したのか……それはどうやらその先生に失恋だかなんだかしたせいだったみたい。でも、その先生が、ああいう客の男に土下座までしても、唾を吐きかけられたりしても、きり丸は躯を売るのをやめようとはしなかった。先生にはね、きり丸を止めることはできなかったの。きり丸が躯を売るのをやめたのは……」
 客が自分の一物を引っ張り出し、そこに酒を垂らしている。さあ呑めと、きり丸に向かい腰を突き出し、きり丸がそこへ顔を寄せて行く……。
「きり丸が足を洗う気になったのは……らんちゃんって友達のおかげ。きり丸、言ってた。あいつはこういうことには関係ない、きれいなヤツだって。乱太郎に、これ以上、心配かけられないからって」
 今にもこぼれそうに目に涙をためている坊やに、芳乃は優しく尋ねる。
「あなたが、きり丸の大事ならんちゃん? ……いいのよ、別に。誰かのためにここを去った子が、またその誰かのためにここに戻ってくる、そういう皮肉には、あたし、馴れてるから」
 客は今度は、うつ伏せたきり丸に高く尻だけかかげさせ、そこに酒を注ぎ込もうとしている……。
「……だめだよ!」
 乱太郎が叫んだ。
 小部屋を飛び出して行く乱太郎を、芳乃は微笑で見送った。


 突然部屋に飛び込んで来た乱太郎に、客の男は目を丸くしたが、とりなしにはいった芳乃に新しく若い色子を二人あてがわれて、機嫌を直した。
 芳乃ときり丸はなにやらひそひそと、借りがどうのツケがどうのと話していたが、収まるところに収まったのか、芳乃は屈託ない笑顔で、裏口まで見送りに出てくれた。
 乱太郎は……きり丸に肩を抱かれながら、夜の道を歩いた……。


 月に照らされて歩きながら、ずっと乱太郎は泣いていた。
 あんなことだとは思わなかった。
 あんなことを、自分はきり丸に要求してしまったのだと思うと、涙が次から次へと湧いて来た。
「ごめんね……ごめんね……」
 どれだけ謝っても謝り切れるとは思えず、ただ乱太郎は繰り返した。
「……おれもさ……ガキだったと思うんだ……」
 ぽつん、ぽつんときり丸が答える。
「土井先生のために躯売ったって言われればそうだけど……それってさ……ガキが馬鹿やったんで……なんてか……十分に考えて、それだけの思いがあってやったことじゃないっていうか……今、これだけおまえが煮詰まるようなことなら、せずにおいたのにって……。
今のおれなら……戻ってけるなら、戻って、馬鹿やってんじゃねえって……殴ってやりたい」
 その時には。そうするしかないと思っていた。それしか痛みをまぎらわす方法はないような気もしたし、もっともっと自分を痛めつけなければいられないような気もした。土井が苦しむこともわかっていて、土井のことを苦しめたくもあった。……でも、それもこれも。
「こんな……おまえまで巻き込むってわかってたら……しなかった。しなかったよ」
「……ごめん……きり丸、ごめん……」
 もっと早くにいろんなことが、もっとはっきりわかっていたら……そんな要求はしなかった。ごめんね、きり丸と、乱太郎は繰り返す。
「いいよ」
 きり丸が答える。
「おれがやっちゃったことは取り消せないけど……今のおれにはおまえだけだから。おまえが一番で一人だから。……だから、いいよ」
 いいよと、きり丸は繰り返す。


 道を少し入ったところに、小さな鳥居に小さなお堂があった。
 月の明るい晩だったから、そのまま手をつないで一晩語りながら歩いてもいいような気もしたけれど。きり丸は乱太郎の手をひいた。


 乱太郎はこらえかねて、笑い声を立てた。
「……くす、くすぐったい!」
 無言で向かい合った、あまい緊張はさほども続かず。
 乱太郎は顔と言わず頭と言わず、腕も足も、着衣のままとは言いながら、撫でまわしてくるきり丸の両手に、ついにたまらず身をよじる。
「こら、逃げるな」
「だって、アン、もう……くすぐったいよ、きりちゃん!」
 きり丸が唇をとがらせる。
「一カ月、おまえ、おれがどんな思いで我慢したか……ほら、いいから、触らせろよ」
「あー、我慢したのはお互い様」
「…………」
 にや、ときり丸が笑った。
「……ほんじゃ、盛大、ご期待に応えて」
「や! いやって、もう!」
 飛びかかるまねのきり丸に、乱太郎も大袈裟に悲鳴を上げる。
 笑ってふざけ合う。わざと下品に、やらせろ、いやだと言い合って。
 ……なんだか、そうしてふざけていないと。
 ……そうして、冗談交じりの言葉を交わしていないと。
 泣いてしまいそうだった。
 互いの体温が近くにあるのがうれしくて。
 触れ合えるのが、うれしくて。
 互いに。他人の肌を知っている。この相手とはちがう、肌を知っている。
 だからなおさら。
 今、こうしてふたりでいるのが、うれしくて。
 ようやく、こうして、ふたりになれたのが、うれしくて。
 ただ一人の相手と、触れ合えるのが、涙が出るほど、うれしくて。
 涙が落ちてこないように。
 ふたりは、ふざけ合う。


 笑いの形の唇が触れ合い、笑いをたたえた眼が合った。
 視線はたちまち、真摯な熱を帯び、唇は笑いを忘れる。
 夢中で、吸い合った。
 舌を差し合い、唾液をすすった。
 どれほど深く唇を重ねても、足りぬ気がした。
 どれほど強く吸い合っても、足りぬ気がした。
 飢えていた。
 この相手に。
 飢えの深さに、初めて気づいた。
 剥ぎ取る荒さで、互いの着物を脱がせ合った。
 全裸で固く固く、抱き合った。
 密着させた肌の熱さに、涙がこぼれた。
 この熱さだと、この肌の、この感触なのだと。
 からだの全てが、喜びを叫び立てるようだった。
 ふたりは互いを求め合った。


 きり丸は、乱太郎の腕の中にいた。
 乱太郎は、きり丸の腕の中にいた。
「おれ、おまえが好きだ」
 苛立たされた。傷つけた。突き放した。重かった。……ほかの男に抱かれたと知った。堕ちてゆくのを見た。男を誘い、喜ぶのを知っている。
 すべてを知り、それでも言わずにいられない。
「おれ、おまえが好きだ」
「わたしも……きり丸が、好き……!」
 傷つけられた。突き放された。恨んだ。……ほかにも抱きとめてくれる腕があるのを知った。ほかの人を愛した過去を見ている。冷たい、勝手なところがあるのを、知っている。
 すべてを知り、それでも言わずにいられない。
「好きだよ、きり丸」
 すべてを越え。
 すべてを赦し。
 すべてを求め合う。
「好きだ」
 互いの瞳に互いを映し。
「ずっと、いっしょだね」
 告げ合う言葉は、全身全霊をかけて……。







 それから卒業までの数カ月は、二人にとって、二度目の蜜月だった。
 乱太郎が戻って来てすぐのことなら、周囲もさほど面食らわなかったかもしれない。
 しかし、乱太郎が戻り一カ月の余を過ぎてからの突然の二人の熱々ぶりには、皆驚いたし、少々眉をひそめる向きも多かった。
 もちろん、皆、紆余曲折については直接間接に見聞きし、知っている。知っていても、おまえらいいかげんに知ろよ、と言いたくなるきり丸と乱太郎のいちゃつきぶりだった。
 教室でもどこでも、常に体の一部がどこか触れていなければ落ち着かないとでも言いたげで、ちょっと人気がなくなれば、それこそ所かまわず口づけをかわし、おかげでは組のみんなはいらぬところで度胸がついた。
 そのふたりの熱々ぶりを知ればこそ。
 いよいよ年も明けてそれぞれの就職先が決まり出した時に、きり丸と乱太郎が同じところに就職しないというのは、かなりな重大ニュースとしては組ばかりか学内を騒がせた。
 きり丸はいったんは内定を取り消された山田利吉のもとへ就職が決まった。これは、利吉の下で働いていた鉢屋と不破が乱太郎をめぐっての騒動のあと、表向きは学園生を拉致した事への反省として、実際はふたりの関係の立て直しを図って、遠方へと旅立ってしまったために、なんとしても新手を補充する必要があったためだった。
 乱太郎は、実習を途中で放り出した城へ詫びを言いに出向き、ちゃっかり内定をもらって帰って来た。
 報告の時に乱太郎は、
「本当に、桂木四郎先輩っていい人ですね」
 と無垢な笑顔を見せたが、この半年で乱太郎に表と裏の別ができたのを知っている一部の人間は、心の底から桂木に同情を寄せた。
 が、四郎に同情しているわけにはいかなかったのは、きり丸だ。
「なんで……なんで、あんなとこに就職するんだよ。利吉さんだって、おまえも一緒でいいって……」
 乱太郎に詰め寄った。
「そりゃあ利吉さんはきり丸が欲しいからでしょう? きり丸がわたしも一緒にって言えば、断れないんじゃない?」
「断れないならいいじゃないか。一緒で」
「わたしがイヤなの」
 きり丸は泣きそうな顔をしてみせる。
「なんでだよ」
「……ねえ、きり丸」
 乱太郎はきり丸の手を取る。
「きり丸は……人を殺せるよね?」
「そん……そんなのは……」
「すぐに慣れる? わたしはね……まだ自信がない。すぐに慣れるよ、なんて、わたしは人に言えない。それがね……きり丸、わたしときり丸の差なんだよ。きり丸は実技も度胸もいい線いってる。でも、わたしはね……まだまだなんだ。今ここで、わたしがんばらなきゃ、わたしは一生、きり丸のオマケになっちゃう」
 乱太郎の言うことはわかる。とにかくなにか人より秀でたものを、と、乱太郎が新野のもとに日参し、薬や医学の知識を学ぶことに懸命になっているのを、その時間、ともに保健室で過ごしているきり丸はよく知っている。オマケになりたくない、その気持ちが、そこまで乱太郎を駆り立てていたのだろうと、きり丸には察しがつく。
「ねえ、きり丸。わたしだって、男なんだよ? おれが食わせてやるよ、大丈夫だよってきり丸に言われて……喜んでなんかいられないんだよ、わたしは。……ね? 一生懸命、わたし、やるよ。ちゃんと……忍びとして、きり丸と肩を並べられるようになるように。ちょっと出遅れちゃったけど……でも、わたし、がんばるよ。……ね?」
「おれは……これからは、ずっとおまえと一緒だって……」
 乱太郎はきり丸の頭を胸に抱え込む。
「一緒だよ? 一緒にいるために、わたしもがんばるんじゃないか。今離れても……わたしは、きり丸と、一緒だよ?」
 きり丸は泣いてみせた。怒ってもみせた。
 だが、乱太郎の決意をひるがえさせることはできず、ついに。
「しつこい人って、わたし、嫌い」
 つん、と横を向いた乱太郎の一言に、折れた。
 が、きり丸が乱太郎の就職先以上に納得できなかったのは……庄左ヱ門の進路だった。庄左ヱ門は実家の炭屋を継ぐという。進路相談に訪れた庄左ヱ門の父親の胸倉を、きり丸はつかみ上げた。
 大事な跡取りに、命の危険にさらされる忍び稼業などさせられないという庄左ヱ門の父親の言うことはもっともだったが、それなら最初から忍術学園になど入れるなときり丸は怒鳴った。どれほどの訓練をしたと思う、どれほど忍びを目指して耐えて来たと思う、炭屋を継がせるつもりなら、最初からいれるんじゃねえ、と。
 庄左ヱ門とそっくりな眉をした父親は、やはり庄左ヱ門とそっくりなまっすぐな気性らしく、子供の同級生であるきり丸に向かい、丁寧に説いた。
「跡取りだからこそ、跡目を取るまでは、好きにさせてやりたかったのです。忍者になるという夢を、庄左ヱ門が捨て切れなかったのなら可哀想だが、家を継ぐのは最初からの約束です。伜もわかっているはずです」と。
 庄左ヱ門がこぼせぬ涙の代わりのように涙をにじませたきり丸だった。
「仕方ないんだよ」
 庄左ヱ門がつぶやく。
「弟もまだ小さいし」
「……おれ……おまえは……家族がいるからいいなって……それしか、思ったことなかった……」
「うん」
 庄左ヱ門はきり丸に向かい、泣き顔に変わってしまいそうな笑顔を見せた。
「……僕は……大きな声では言えないけど……きり丸は縛られるものがなくていいなって……思ったこと、あった」
 きり丸は歯を食いしばり、ごめん、と呻いた。







 そうして……。
 今年は早い春の訪れが、桜を満開にさせたその日。
 彼らは卒業を迎えた。
 土井が、きり丸を見る。乱太郎を見る。
 きり丸が、乱太郎が、土井に向かい頭を下げる。笑う。
 庄左ヱ門が、きり丸の肩をたたく。乱太郎の肩をたたく。
 きり丸が庄左ヱ門の頭を、小突く。乱太郎が笑う。
 兵太夫が笑う。団蔵が笑う。金吾が笑う。
 彼らの頭上で、桜が舞う。


 ただ、恋をしていただけだった。
 恋をしていただけなのに。
 傷つけた。裏切った。恨んだ。憎んだ。
 

 ただ、恋をしていた、罪人たちの頭上に……桜の花びらが舞っていた。


                                the end

罪人たちの季節 あとがき

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