罪人たちの季節

<二>

箸の止まってしまった土井に、利吉がもの問いたげな視線を投げる。
「‥‥きり丸が、わたしを見ている」
茶碗の中に溜め息を落としながら土井は言った。
「‥‥そうですか」
土井は苦笑を漏らす。
「なんというか‥‥教師なんて情けないものだね‥‥」
「‥‥‥‥」
「あの子が悩んでるのもわかるし‥‥誰かに 手助けしてほしいんだろうともわかるのに
‥‥なにも言えない‥‥なにも」
同じように箸と茶碗を持つ手を休めて、利吉が口を開く。
「わたしとしては‥‥わたしの 申し出を受けるように、あなたからもお口添えを願いた
いところですが」
土井は静かに首を横に振る。
「‥‥すまないが」
「わかります、あなたの教師としての立場は」
「‥‥保護者代わりとしても‥‥あの子になんと言ってやればいいのか‥‥わたしには
わからないよ。‥‥あの子が、自分で答えを見つけなければならないことだと‥‥でも
‥‥なかなか見てるだけと言うのはつらい」
「そうですか?いい教師に恵まれて、奴は十分幸せだと思いますよ?」
利吉は言い、茶碗の中身をかきこんだ。


新学期が始まってすぐの、如月のある日だった。
利吉は校庭の隅に、きり丸を呼び出した。
つい先日まで同じ屋根の下で暮らしていたきり丸は、改めて話があると切りだした利
吉に不思議そうな顔をしている。それでも、すぐに勘のよいところを見せて、
「土井先生ンちでは話せないような話なんだ?」
と探りをいれてくるきり丸に、利吉は笑みを漏 らす。
「まあな。先生は先生だからな。もっとも、おまえに話したらすぐに、この話は学園に
も正式に申し入れようと思っているし、半助にももう通してある」
話が 見えない、ときり丸が眉を寄せる。
「単刀直入に言ってよ。オレだって暇じゃないんだし」
ならば、と利吉は切り出した。
「きり丸、卒業したらわたしのもとで働かない か」


フリーで働きだして、利吉も六年を越える。初めの一年二年は一人で働いていた利吉
だが、それなりに名前も売れ出し、評価も得られるようになってすぐに、 壁にぶつかっ
た。一人で請け負える仕事には限界があった。折々に、同じように雇われた忍びと組ん
でみたり、忍術学園の人脈を頼って複数人での仕事もこなしたが、 やはり、仕事の間口
を広げ、能率を求めるなら、その力量を信用できる相手と「党」を組みたい、と利吉は
思うようになった。
一度は、土井と組みたいと熱烈に願った 利吉だったが、利吉がフリーの立場で忍びの
世界で伸びてゆきたいのと同様、土井は教師という職業に生きがいを見いだしていると
知ってあきらめた。
そんな利吉が 最初に、自分のもとで働く人材として声を掛けたのが、鉢屋三郎と不破
雷蔵のペアだった。その後も忍術学園卒業生の希望の星のような利吉のもとで働きたい
卒業生は多 くいたが、利吉は受け入れず、現在にいたっている。


きり丸も知っている。利吉が忍術学園生徒の憧れであり、その彼が見込んだ三郎と雷
蔵が、在園生の中で 出世頭と目され、尊敬と羨望を集めているのを。
「わたしのもとで働かないか」
その利吉の申し出の意外さに、きり丸は身構える。
「‥‥なに、それ。新手の いやがらせかなにかか?」
「まあな、おまえとわたしの間だ。おまえがそう思うのも無理はないが‥‥わたしは、
おまえの才と能力をかってるんだよ。鉢屋と不破は よくやってくれているが、もう少し
厚い布陣を引きたくてな。どうだ」
「‥‥どうって‥‥」
六年になれば、いやでも卒業後の進路というのを考えるようになる。 が、進級してま
だ日も浅い。忍びになるかどうか、という根本的な選択はすでに済ませているきり丸も、
では、卒業後フリーになるのか、主を決めて城勤めをするのか、 あるいは‥‥つてを求
めてどこかの忍びの党に属するのか、決めてはいなかった。
そして‥‥自分の進路を自分一人で決めていいものかどうかも‥‥彼は決めかねても
いたのだ。
きり丸は唇を噛んだ。
「‥‥乱太郎は‥‥?」
小さな声のその疑問に、利吉は一言で答えた。
「わたしが欲しいのはおまえ一人だ」


「‥‥おれ、一人」
きり丸に利吉は大きくうなずいて見せる。
「仲良しクラブを作るつもりはない。俺がおまえに声を掛けるのは、なにもおまえと親
しいせいじゃない。 おまえの資質と能力をほかに取られるのが惜しいからだ。‥‥きり
丸。この話はおまえにとっても悪い話じゃないぞ」
「‥‥なに言ってんだよ。社長一人社員二人の零細企業 のくせに」
いつもの勢いと語調の強さはなかったが、それでもようやく憎まれ口を叩いたきり丸
に、利吉は落ち着いた口調で、
「鉢屋と不破がどれだけ稼いでるか、 教えてやろうか。おまえの働き次第ではあるが、
城勤めの忍びの初任給の倍は出してやれる」
と応じた。
「なあ、きり丸。おまえ、どんな忍びになりたい。城勤めで 手堅く稼げる代わりに、コ
マのひとつとして使われ、技量の上達や経験を積んで行くことより、組織の中での気遣
いに疲れなきゃならない、そんな忍びになりたいか、 それとも‥‥俺や鉢屋たちのよう
になりたいか。俺はおまえを見ていて‥‥おまえには結構きつい上昇志向があるように
思えて仕方ないんだがな」
きり丸は俯いた。
上昇志向‥‥というのかどうかは知らない。が、自分の中にどうしようもなく、飢え
た部分があるのは、わかっていた。ただ食べて行くだけなら、自分には商才がある。 た
だ生きていくなら、忍びにこだわる必要はない。‥‥いくら儲けても儲けても、安心で
きなかったこどもの頃のように‥‥今も自分はどこかで足掻き続けている‥‥。 そのお
かげで、実技と実習では今ではクラスの誰にも負けない評価を得ているが‥‥それでも
なお、もっともっとと、落ち着かないなにかがある‥‥。
「仲良く乱太郎と おててつないで城勤めするか?きり丸」
明らかにからかいを含んだ今度の利吉の台詞に、きり丸は、きっと眼を吊り上げた。
利吉はすぐに真顔に戻った。
「前にも 言ったがな。城勤めしたら、乱太郎は格好の餌食になる。今のままならな。お
まえには守りきれん」
わかっている、ときり丸は思う。乱太郎を抱えて、おれが走れるわけは ない。
強くなりたい、と思う。強く‥‥。利吉や土井のように、それぞれの道を行きながら、
なお寄り添えるほどに強く。でも、それには‥‥。
「返事は急がない」
利吉が言った。
「一年かけて考えろ。おまえを欲しがるところは他にもあるだろう。どこが自分に一番
なのか、考えろ」
自分を生かして使ってくれるところ、 自分の技量を高めてくれるところ、名声と富が
得られるところ‥‥『どこが自分に一番か』考えろ、と言える利吉の自信のほどをきり
丸は思う。それは利吉自身が築き上げた 実績が言わせるのだ。
羨ましくないわけじゃない。自分に差し出された手の意味がわからないわけじゃない。
「学園には、申し入れをしておく。よく、考えてみてくれ」
言うだけ言ってくるりと背を向けるのは利吉の常だが。
去り掛けたその背に、きり丸は思わず声を上げていた。
「先生!先生はこのこと‥‥」
利吉が振り返った。
「知ってるよ」
「‥‥先生は‥‥土井先生は、なんて‥‥」
今の自分はさぞかし不安気な顔をしているのだろう、きり丸は思う。それでも、聞か
ずにはいられ なかった。
「先生は‥‥なんて‥‥」
「おまえが決めることだと」
「‥‥おれが」
「そうだ」
おれが、自分で決める‥‥おれの将来。そして‥‥乱太郎とのこと ‥‥。
立ち尽くすきり丸に、春の風が優しく吹いた。


すぐに話すつもりだった。
こういう話があったんだ、と。
一番仲の良い友達で‥‥一番大事な、 恋人に。
食堂で顔を合わせた乱太郎に、だからきり丸は言ったのだ。
「後で話がある」と。
が、出向いた金吾と乱太郎の部屋には誰もいなかった。
代わりに隣の 部屋から大きな笑い声が響き、きり丸はその中に乱太郎の声を聞き取っ
た。‥‥隣の‥‥庄左ヱ門と虎若の部屋から響く笑い声の中に。
その部屋の前に立ち、少し迷ったが、 結局きり丸は軽く戸を叩いてから板戸を開けた。
「あ、きり丸!」
車座の中から乱太郎がすぐに飛び出して来た。
「ごめん、今行くよ」
「なんで。まだ話の途中だよ」
そう言って、すぐに乱太郎を追うように床の円陣の中から立ち上がって来たのは、庄
左ヱ門だった。庄左ヱ門は入り口に立ったままのきり丸をまっすぐに見る。
「今、 みんなで『百笑い物語り』ってやってたんだ。きり丸も入ったら?」
「‥‥いや、おれはいい」
床に座っているみんなが、笑い止んで戸口の三人を見ている。‥‥兵太夫、 団蔵と
自分を除いたは組が全員揃っているのを、きり丸は一瞥で見てとった。
庄左ヱ門がかばうように乱太郎の肩に手を置いた。
「悪かったね。乱太郎は、きり丸が 話があるっていやがったんだけど、僕が無理に誘っ
たんだ」
きり丸は舌打ちしたくなるのをなんとかこらえた。
ここで舌打ちをかませば、自分は完全に悪者である。 庄左ヱ門の今の一言に言って返
したいことは山とあった。なんでおまえが乱太郎をおれからかばうようなマネすんだよ、
とも、知っててわざと嫌がらせしたろう、とも 言ってやりたかった。
なにより、乱太郎をなじる気もないのに、みんなの前で発せられた今の一言で、自分
はみんなの団欒を壊しに来た邪魔者になる。
「‥‥狡猾だな、 委員長」
中に聞こえないようにきり丸は低く言った。
「なんのことかな。最近、きり丸、よくわからないことを言うね」
‥‥なにもかもわかっているだろ。きり丸は口 に出さずに言い返す。さっさとその手
をどけろ。‥‥乱太郎も、いつまでも触らせてんじゃねえよ。
「‥‥邪魔して悪かったな。続けてくれ」
口に出してはそう言って、 きり丸はその場を後にした。背後ですぐに、戸が閉まる音
を聞きながら。


「きりちゃん、話ってなに?」
深更、あずまやにやって来た乱太郎を、きり丸は問い 詰めずにはいられなかった。
「おまえ、庄左ヱ門におれが話があるって言ったのか」
「え‥‥言ってないよ‥‥」
「じゃあ、なんで庄左ヱ門が知ってたんだよ」
「‥‥え‥‥だって‥‥わたし、ほんとに言ってないよ! 誘われて、でもきり丸が来
るかもしれないからって‥‥そしたら、隣の部屋だしみんなも来るから、きり丸もすぐ
わかるよって言われて‥‥」
うろたえ懸命に話す乱太郎に、きり丸は乱太郎が嘘をついていないのを知る。
‥‥が。 庄左ヱ門が知っていたのも本当なのだ。
ささいな、こんな些細なことが、流せずにきり丸の喉元を刺す。
「きり丸‥‥」
乱太郎の手が腕にかかる。
「‥‥大事な 話じゃ ないの? なにか、あった?」
衝動をこらえきれず、きり丸はその手を振り払った。瞬間の乱太郎の表情に、やりす
ぎたのを知る。
「‥‥悪い。‥‥たいした話じゃな かった んだ。‥‥部屋も替わったし‥‥なんか、こ
こで会うだけじゃつまらなかったから‥‥」
嘘をつく気はなかった。ただ、どうしても話せなかったのだ。‥‥庄左ヱ門の顔 がち
らつく‥‥。
「‥‥きり丸‥‥」
柔らかく胸の中になだれこんでくる乱太郎をきり丸は抱き締める。
上向かせた顔に唇を落とせば‥‥いつもの高ぶりと熱さと、 溶ける ような甘さが得ら
れるだろう‥‥。
今はその抱き合う熱の中に逃げたい思いで‥‥きり丸は乱太郎の唇を奪っていた。

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