罪人たちの季節
<三>
思えば‥‥あの日から自分たちは‥‥すれ違いだしていたのだ。 いや‥‥ちがう。きり丸は思う。 その前からだ。もっと前から、自分たちの間には苛立ちと暗い感情があった。 ‥‥芽はあったんだ、前から。 おまえが。 きり丸は乱太郎が投げかけていった上着の透き間から、走り去る乱太郎の背をにらむ。 おまえが、わかろうとしないからだ。 わかるはずなのに。そうして土井の背を目で追う自分に嫉妬と疑いのまじったイヤな 目を向けてくるおまえになら、わかるはずなのに。 人を嫉妬することも、疑うことも、自分ではしているくせに。 なぜ、わかろうとしない。 なぜ。 きり丸はやり切れない思いで、上着をはたき落とす。 ―――きり丸はまだ若い。その彼の若さは、彼の将来に関わる大事な話を彼がまだ乱
太郎に打ち明けていない事実に、彼自身が後ろめたさを感じて乱太郎に向けての苛立ち を増幅させていることに、気づかせてはいなかった。
井戸端で冷たい水を何度も顔にかけた。 乱太郎と躯を重ねた後に、甘やかな陶酔を冷ますために浴びていた水。今ではそれは かすかなほろ苦さをも流す役目をしている。 流したはずのほろ苦さは、しかし、すぐに甦る。 教室に向かえば、庄左ヱ門と乱太郎が頭を寄せ合って、開いた帳面をのぞき込んでい る。 乱太郎の手元を庄左ヱ門がのぞきこむ。顔を上げてなにか言う。乱太郎が笑う。 ‥‥あの野郎。 きり丸は瞬間にきつい光を放った眼を、無理に伏せる。 ただ、胸の中で呪いの言葉を吐き散らす。 いつも、いつもいつも。 乱太郎にまとわりついてくる庄左ヱ門。 大嫌いだ、おまえなんか。 まじめなだけが取り柄の委員長、引っ込んでろ。 何かと言えば割り込むようなマネをする庄左ヱ門に、きり丸の苛立ちは頂点に近い。 ‥‥前はちっとはマシだったが。 まだふたりが一線を越えたばかりの頃は。 ふたりがその関係に慣れていないのと同様に、まわりも庄左ヱ門も気恥ずかしさなし にふたりを直視できないようなところがあったから。 きり丸はほんのちょっと乱太郎の肩に手を置いて馴れ馴れしくしてみせるだけで、庄 左ヱ門の視線を払いのけることができたし、「乱太郎」と呼び寄せるだけで庄左ヱ門を 追い払うことができた。 が、五年も半ばを過ぎたころから、庄左ヱ門はだんだんと強気なところを見せるよう になってきた。‥‥それは‥‥もしかしたら、きり丸と深い仲が続くうちに乱太郎が醸 し出すようになった色香と無縁のことではなかったかもしれない。 六年になって部屋替えがあったことが、庄左ヱ門の強気に拍車をかけたときり丸は見 る。学園がふたりの仲を好ましいものと思っていないと、その部屋替えは告げていたか ら。 もうきり丸が庄左ヱ門を振り払おうと、これみよがしに乱太郎にじゃれかかろうが、 こいつはおれのものだと主張するために乱太郎に身を寄せていこうが。庄左ヱ門は引こ うとしない。あからさまに挑戦的な視線をきり丸に向けてきさえする。 ‥‥おれから乱太郎を取ろうってか。 きり丸は苛立つ。 そして、その苛立ちには、奥深い怒りがからむ。 おれから、乱太郎を取ろうとするのか、おまえは。 家族があり、家があり、継げる家業があり、勤勉と引き換えではあるにせよトップを 走れる頭脳があり、どこかで無理をしているにせよ人望もある、おまえが。 なんでも持ってるおまえが。―――優しく気遣ってくれるじいちゃんがあり、しっか りと構えていてくれるとうちゃんがあり、その暖かさを思うだけでやすらげるかあちゃ んがあり‥‥「にいちゃん」慕って伸ばされてくる小さな手があり‥‥。「にいちゃん」 そう自分を呼ぶ小さな同胞(はらから)‥‥きり丸はいつもそこでかぶる記憶を振り払う。 ―――きり丸の記憶の中、それ以上成長することはない、小さな手。 ‥‥そんなにも、おまえは持っているのに。 なんでおれから、乱太郎まで取ろうとする。 欲張るな! 委員長! 心のうちだけでそう叩きつけて、きり丸は自分の席に腰を下ろす。 同時に漏れかけた深いため息を、押し殺す。 庄左ヱ門が乱太郎に馴れ馴れしくしているというだけでいらつく自分を、さらしたく はない。 前の席に座る虎若が、 「なあ、宿題、やってきた?」 と聞いてきたところを見ると、自分はわりと平静な顔を装えているのだろう。 内心は、これほどにどろどろしていても。
いったい、どちらにより腹を立てているのか、きり丸はわからない。
庄左ヱ門に感じる腹立ちと、乱太郎に感じる苛立ちと‥‥。 何度も言ったのだ。 「あいつはおまえに気がある」と。 そのたび、乱太郎は「えー」と曖昧に笑う。 「あいつ、おまえの横の席とるために必死だったぞ」 と言おうと。 「あいつ、おまえを手伝うために自分のはほってたんだぞ」 と言おうと。 乱太郎は曖昧に笑う。 「友達だからでしょ」と。 友達ってなんだよ、ときり丸は言い返す。 「おれとおまえだって、もとを正せば友達だろうが。それとこれとは別なんだよ」 だって、と乱太郎は言う。 「みんながみんな、そういうふうになるわけないじゃない。友達なのに」 「‥‥だから! おれとおまえだってこんなふうになるなんて、思ったか? 最初はみ んなおトモダチなんだよ!」 乱太郎は少し困ったふうに首をかしげる。 「うん‥‥なんかそんなふうに言うの、庄ちゃんに悪いよ‥‥友達なのに‥‥」 なにが悪いんだ、ときり丸が叫んで終わるのが、常。 それでも、事態の深刻さをきり丸は何度も乱太郎に突き付けようとした。 「あいつ、いつもおれと湯が一緒になるんだ」 そうもきり丸は言ってみた。 きり丸は乱太郎を特別に意識しだした頃から、入浴のタイミングをずらすようにして いる。実際に肉体の交わりを持つようになってからは、それははっきり「マズイから」 と乱太郎にも言いおいてあることだ。 湯殿で乱太郎と一緒になるのを避けるのは、自分が乱太郎の裸体に簡単に欲情してし まうからだ。その自分といつも入浴が一緒になる庄左ヱ門は同じく乱太郎を避けている と思える。そして、その理由も、きり丸には自分と同じにちがいない、と思えるのだ。 が、乱太郎はそれにも、曖昧に笑う。 「へえ‥‥偶然なんだねえ」 こいつ、わざとか? ときり丸は思うようになった。 乱太郎の、見えてるに違いない庄左ヱ門の恋心を認めない態度は、はっきりそれを認 めて対処するのを嫌がっている、とも見える。 友達だから、とアイマイにことを片付けようとする彼は、とどめを刺すのを避けて、 庄左ヱ門の気持ちを引き続けようとしている、とすら、言えるのだ。 誰しも自分に好意を寄せられるのは嬉しいものだが。 が。庄左ヱ門と自分たちの距離を考えれば、乱太郎は自分の態度を明確に示すべきだ ときり丸は思う。‥‥乱太郎が乱太郎の言うように、自分を好きなら。その自分のため にも乱太郎は庄左ヱ門を切るべきだ、ときり丸は思う。 腹が立っている、と告げてあるのだから。 おまえはあいつが好きなのか、とも問い詰めたことがあるのだから。 そうではないと言うのなら、乱太郎はきり丸の気持ちを大事にして、庄左ヱ門を切る べきなのだ。 もし。 乱太郎が嫉妬の気持ちがわからない、それほどに純真無垢な人間なのだと言うのなら。 それならいい。 しかし、乱太郎が土井の名を口にする時。その瞳の奥によぎるのはまぎれもない嫉妬 の炎(ほむら)。ならば。わかるだろう、嫉妬の苦しさ重さ辛さ。 切れよ、庄左ヱ門を。 きり丸は苛立つ。 そのきり丸の乱太郎に対する苛立ちもまた‥‥頂点に近かった。
* * * * *
夜の逢瀬に、特別な確認はない。 月を背に落ち合えば、特別な言葉はない。 手を伸ばして抱き合い、唇を重ね合うのに、特別な手順は必要ない‥‥。 「好きだ」とも告げず。 「好き?」とも確かめず。 ただ、相手の肌を求めて狂おしさを装う。 好きだと告げることのできない苛立ちに、きり丸は流されながら。 好意を確かめることのできない不安に、乱太郎はおののきながら。 ただ、互いの肌を求め合う。 もし、ここで、肌をまさぐる手を止めてしまえば。 もし、ここで、愛撫より言葉を求めてしまえば。 なにかが取り返しもつかず、壊れて行くような気がする‥‥。
互いの胸に暗く淀むものをかかえながら、今夜もふたりは睦み合う‥‥。
つづきへ
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