罪人たちの季節
<五>
「‥‥いるよ。ぼくはここにいるよ」
堂々と胸張ろうと努めながら、庄左ヱ門はきり丸に答える。 「ぼくには‥‥逃げ出す理由なんかない。なにも恥ずかしいことはしていないんだ。逃 げ出すべきなのは、おまえだ、きり丸」 「はん」
突き付けられた白刃を、指先で弾くように、きり丸は答える。 「おれはいつも乱太郎としてることを、いつもと同じようにしてただけだ。おれがなに を恥ずかしがらなきゃいけないんだ。恥ずかしいのは、覗き見してたおまえのほうじゃ ないか」
カッと庄左ヱ門は、頭に血が上るのを覚えた。とっさに大声で怒鳴り返したくなるの を震える深呼吸でこらえる。‥‥先に我を忘れたほうが負けなのだ。 「‥‥品性下劣って言葉があるけど」
無理に押さえた怒りで声は震えたが、なんとか庄左ヱ門は静かに切り返した。 「品性下劣って言葉があるけど、まさにおまえのことだよな。‥‥おまえは知ってたん だ、最初から、ぼくがあそこにいること。知っててわざと、ぼくに見せつけるためにわ ざと‥‥あんなマネを‥‥」 「やめてよ!」
庄左ヱ門の糾弾は、悲鳴の高さの乱太郎の叫びにさえぎられた。 「やめてよ、きり丸も庄左ヱ門も‥‥!」
そして乱太郎はきり丸を押し止どめようとしながら、庄左ヱ門を振り返り見て、言っ たのだ。 「庄ちゃん、お願いだからもう行って。‥‥後から、後から行くから‥‥お願いだから もう‥‥先に行ってよ‥‥」
それは‥‥たった今、きり丸との情交を見られた乱太郎の羞恥が言わせた言葉だった かもしれないが、庄左ヱ門にはそうは思えなかった。 きり丸を取って、自分を切ろうとしている‥‥そうとしか見えなかったのだ。
たった今、きり丸がなにをしたかを知っていて。その犠牲になって、あんな恥ずかし いところを級友の前にさらさせられて。それなのに、まだ、そいつの側がいいのか。そ んな、そんなにも品性下劣で卑怯で、自分勝手な‥‥。
いろんな感情や言葉が渦巻き、庄左ヱ門は唇を噛み締めた。
だから、どの感情がそれを言わせたのか、庄左ヱ門は後になって考えてみてもわから ないのだ。
「‥‥そうやって、そうやっていたって‥‥卒業したらバラバラじゃないか。きり丸は 利吉さんとこで働くんだろ」
「‥‥え」
一声短くもらして、慌ただしく庄左ヱ門の顔ときり丸の顔を見比べる乱太郎。
きり丸はいまいましげにつぶやく。 「なんで、おまえが」
急所をとらえた確信に、庄左ヱ門は追撃の手を振り上げる。 「見たんだ。土井先生の机の上に広げてあった書類。きり丸、就職先の第一候補欄に利 吉さんの名前があった。乱太郎は未定のままだ。そうだろう?」 「あちらこちらで出歯亀(でばがめ)か。いい根性だな、委員長」
きり丸の反撃は、失速して力ない。 「‥‥どういう‥‥こと。きり丸‥‥」
乱太郎はこぼれ落ちそうに目を見開いてきり丸に詰め寄る。 「‥‥‥‥」
きり丸は‥‥その乱太郎の視線を避けるように顔をこわばらせて横を向いた。そうし て横をむきざま、小さくした舌打ちの音が乱太郎の耳まで届いた。 「ねえ、きり丸! どういうことだよ、利吉さんところで働くって‥‥なんの話!」
襟元をつかんで揺さぶる乱太郎から、頑なに顔を背けてきり丸はぼそりと答える。 「‥‥まだ、決めてねえよ」 「‥‥決めてないって‥‥じゃあ、話はあったんだ! そうでしょう! どうしてなに も言ってくれないで‥‥」 「決めてないって言ってるだろ!」 「じゃあなに! 決めてから、全部すんでから、おれはこう決めたからなって‥‥!」
不意に乱太郎は言葉を飲み、慌てて庄左ヱ門を振り返った。‥‥ふと忘れていた『他 人』をはばかるその素振りに、庄左ヱ門の胸はまたちりちりと焼ける。 「‥‥ごめん、庄左ヱ門。‥‥ちゃんと、ちゃんと後ですぐ行くから‥‥先に、行って てくれない」
乱太郎の言葉に、首を横に振ったのは庄左ヱ門のきり丸への意地だった。 「‥‥行くなら、乱太郎も一緒だ。こんな‥‥こんな‥‥平気で乱太郎を傷つけるよう な奴と‥‥置いていけない」
瞬間に、きり丸の視線が庄左ヱ門を射抜くかと思われるほどの強さで放たれた。 「もう‥‥もういいから!」 泣き声のように乱太郎が叫ぶ。 「やめてってば、もう‥‥二人とも‥‥。お願いだから、庄ちゃん‥‥先に行っててよ。 ちゃんと‥‥ちゃんとすぐ行くから‥‥」
庄左ヱ門はまた、血の出るほどに唇を噛む。 ―――悔しい。
ふたりの世界におまえは邪魔者だと言われているようだ‥‥。いや、実際にそう、な のだ。 「‥‥‥‥」
最後に投げ付けてやりたかった言葉を無理に飲んで、庄左ヱ門は林の中に向かって駆 け出した。
きり丸は小屋の壁に背もたれたまま、乱太郎は駆け去る庄左ヱ門を見送るように林を 見つめたまま、ふたりになって、重い沈黙が降りた。
破ったのは、乱太郎のかすれるような声だった。 「‥‥そんな大事な話なら‥‥教えてくれると思ってた‥‥」
両膝に手をつき‥‥上体を支えようとしてか、あるいは膝が力無くして崩れるのを防 ごうとしてか‥‥うつむいたきり丸が、低く答える。 「‥‥悪かった。‥‥悪かったよ。すぐに、話そうと思ってた‥‥」
乱太郎がゆっくりときり丸を振り返る。 「‥‥決めてから‥‥話してくれるつもりだった」 「‥‥‥‥」 「決めてから‥‥? ねえ、きり丸、決めてから?」 「‥‥‥‥」 「決めてから‥‥なんてわたしに言うつもりだったの、きり丸」 「‥‥‥‥」 「答えてよ! きり丸! さよならって言うつもりだった、おれは利吉さんとこで働く、 おまえとはさよならだって‥‥そう言うつもりだった!」 「‥‥ちがう‥‥」
だんだんに高く悲痛な響きを帯び出す乱太郎の声に、きり丸はようやく一言、返す。 「ちがう‥‥」
乱太郎は一呼吸置いて、問い直す。 「‥‥話せなかったのは‥‥仕事先が利吉さんの所だったから?」
その声の中の、強ばった響きに、きり丸は顔を上げる。 「利吉さんの所だったから、話せなかったの?」 「‥‥おれにとっても、むずかしい話だったからだ。だから、まだ‥‥」 「決めてないの。本当は、すぐに決めたかったんじゃないの。それとも、わたしに知ら れるのが、まずかったの。利吉さんの所で働けば、一生土井先生とも一緒にいられるじゃ ない」
ぎ、ときり丸の眼が吊り上がるようだった。 「なんでここに半助が出てくんだよ!」
きり丸の突然の大声にも、乱太郎は一歩も引かなかった。 「半助? わたしは土井先生の話をしてるんだ。きり丸のなかでは時々、先生は教師じゃ なくなる。それがだいちっから、おかしいじゃないか」 「‥‥土井先生は‥‥関係ないだろ! 今の話に!」 「関係ないとは思えない」 「‥‥‥‥」
押し黙って、きり丸は乱太郎をにらみ上げる。 乱太郎も、ぐっときり丸をにらみ返す。 頭(こうべ)を垂れさせるほどに重い密度の沈黙が、二人を包んだ。
「‥‥先生は、関係ない」 一音一音に力をこめて、きり丸は言った。
が、その意味は乱太郎には届ききらないのか。 「でも、受けるんでしょ、その話」 「‥‥言ったろ、おれにとってもむずかしい話だって。決められねえよ、まだ」 「受けたらいいじゃない。そしたら、ずっと土井先生といられるんだよ、うれしいでしょ う、きり丸、よかったじゃない、ずっと土井先生と一緒で‥‥」 「先生、先生、先生、いいかげんにしろよ」
きり丸が唸りににも似た低い声で噛み付く。 そして、きり丸は乱太郎に、叩きつけた。 「しょうがないだろ! おれが今度はおまえのためだって、身体売って見せれば満足か よ!」と。
一瞬、鼻白んだように、乱太郎は足を後ろに滑らせた。 「‥‥おまえのためだって‥‥おまえのせいだって‥‥おれが‥‥先生にしたように、 そうしたら、おまえは納得すんのかよ‥‥」
吹き返す、過去の黒い想いに耐えようと、きり丸はこぶしを握り締めてうつむく。
乱太郎は、力弱く、しかし、首を横に振る。 「‥‥ちがうよ‥‥だ、誰も、誰も、そんなこと、言ってない‥‥」 「‥‥言ってんだよ、おまえは。‥‥いつも、いつもいつも、先生持ち出すたんびに」 「言ってない!」 「言ってんだよ!」
叫び合い、そして、ふたりはまた言葉を失い、沈黙がその場を支配する。
「‥‥そんな、ふうに‥‥そんな‥‥」
乱太郎は眼鏡を押し上げ、ぐっと瞳からこぼれそうになった滴をぬぐう。 「思ってないよ。思ったこともないよ。ほんとだよ」
きり丸は無言のまま、横を向く。 「‥‥ねえ‥‥わたしたち、こんなに近くにいるのに‥‥なんで、こんな‥‥わからな かったり、わかってもらえないことばっかりなの‥‥」
すん、と乱太郎は小さく鼻をすすりあげる。 「‥‥ねえ‥‥今日のこと‥‥庄ちゃんが言うとおりなの? きり丸は知ってて‥‥わ ざと、庄左ヱ門に見せつけるために‥‥? ねえ、きり丸、答えてよ。ねえ‥‥」
それでも、頑なに横を向いたきり丸の、唇が堅く引き結ばれているのを見て、乱太郎 はわななく息をつく。
「‥‥知らなかった、知らなかったよ。だから、とっても、わたし、うれしかったんだ。 きりちゃん‥‥このところ、ずっとずっと冷たくて‥‥抱き合うのだって、義務でして るみたいに‥‥いっつも、わたしじゃない、遠くを見てて‥‥わたしを‥‥わたしを、 だ、抱こうとするのだって‥‥全然、ぜんぜん、そんな楽しそうじゃなくて‥‥そ、そ れしなきゃ、まずいから、だから、欲しがるふりしてるみたいな‥‥だけど、今日のき り丸、そうじゃなかった。‥‥なんだか、きり丸‥‥前に戻ったみたいで‥‥なんだか ほんとに‥‥わ、わたしのこと‥‥その、ほ、欲しがってくれてるみたいで‥‥わたし ‥‥う、うれしかったんだ。うれしくて‥‥なのに‥‥!」
次から次へとあふれだした涙が、乱太郎の言葉を切らせる。
きり丸は、もう横を向いてはいなかった。乱太郎を、見つめている。しかし、その瞳 には、奇妙なほど、あたたかみが欠けていた。乱太郎の涙を認めながら、それに心揺さ ぶられて同調して苦しむ色も、なかったのだ。
袖口に涙を吸わせながら、乱太郎は切れ切れに言葉をつなぐ。 「わた、わたし、バカみたいだ。ひっ、ひとりで、よ、よろこんで‥‥き、きり丸は、 庄左ヱ門に見せつける‥‥そ、そのために‥‥そのためだけに、わたしを‥‥」 「おれのせいだけかよ」
涙ながらの言葉をさえぎる冷えた口調に、乱太郎はきり丸を見つめる。 「庄左ヱ門がいっつも頭ん中で剥いてたおまえを、あいつの見てる前で剥いてやった。 庄左ヱ門が頭ん中で犯してたおまえを、あいつのやりたかったようにやって見せてやっ た。それがそんなに悪いことか? おまえだってあいつに視姦されて悪い気はしてなかっ たんだろうが。あいつにそういう眼で見られてるのがうれしかったんだろうが。おれ、 何度おまえに言った? あいつはそういう眼でおまえを見てるんだって、何度言った? きょう、あいつの前で大股広げて見せられて、おまえ、喜んでんじゃないのか」 「‥‥!」
乱太郎は鋭く一歩踏み込むと、振り上げた右手で思い切り、きり丸の頬を打った。 「きり丸、最低!」 最低。その言葉に、侮蔑がこもる。 「!」
きり丸もまた、揺らいだ上体を起こしざまに、乱太郎の頬を打ち返した。眼鏡が飛ぶ。 「最低だよ、そうだよ! おれはこういう奴だよ! 誰と付き合ってるつもりだよ! いいとこでぬくぬく育てられてひがみも拗ねも縁のない奴と、付き合ってるつもりか?! そういう奴らと‥‥庄左ヱ門とおれは、ちがうんだよ!」 「‥‥ちがわないよ‥‥」
膝をついてヒビの入った眼鏡を拾い上げて掛け直しながら、乱太郎は言う。 「ちがわない‥‥庄左ヱ門だって、ひがみも拗ねも知ってる。‥‥だけど‥‥だけど、 こんな、こんなやり方で、人を傷つける‥‥そんなことはしないだろうね」 「そこまでするほどの、ひがみも拗ねもねえだろうさ、あいつには」
ずれてしまった眼鏡を押し上げながら、乱太郎はつぶやく。 「そういう理由じゃないと思う‥‥」
そして、乱太郎は顔を上げる。涙でまだ濡れた頬が、光っている。 「でも、それを言い合っても、きっと通じ合わないね、わたしたち」 そして‥‥落ち着いた口調で、乱太郎はそれを口にした。 「もう、付き合えない」 そして‥‥きり丸は、口元をゆるめて笑みを作り、一言、応えた。 「上等」
乱太郎は静かにそこから歩み去った。 きり丸は再び膝に手をつき、動かなかった。
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