罪人たちの季節

<六>

 兵太夫は、あれ? と思った。
 そして、あれ? と思ったのは、兵太夫一人ではなかった。
 は組のみんなは、まじめでしっかり者で通っている委員長が、集合場所である校庭に
刻限を過ぎても戻って来ず、ようやくふらりと姿を現したかと思えば、刻限を過ぎたこ
ともそもそも野外実習中であったことすらも忘れているふうなのに、顔を見合わせた。
「乱太郎ときり丸も帰っとらんな。庄左ヱ門、知っとるか」
 山田先生の問いに、
「知りません!」
 切り口上で返したのも、常の庄左ヱ門らしからぬ。
 なにかあったの、と尋ねる機会をうかがうともなくうかがっていた兵太夫は、しかし
ついにその言葉を口にすることはなかった。
 夕飯前になってようやく帰ってきた乱太郎の、泣き腫らした目とヒビのはいった眼鏡、
赤く手形のついている頬と、その乱太郎に心配気に寄り添う庄左ヱ門、そして夜になっ
ても姿を見せないきり丸が、なにかあったには違いないと教えてくれたからだ。
 次の朝、悄然と肩を落とした乱太郎は痛々しく、かばうような庄左ヱ門はかいがいし
く、見ていた兵太夫はひとりイラつくものを覚えた。
 その苛立ちは、いつもと変わらぬ態(てい)で朝の食堂に現れて平然と一人前の朝ご
はんを平らげたきり丸のさまに頂点に達した。


 みんなが見ているのだ。
 なにかあったのは、みんな、わかっているのだ。
 少しはしおらしくへこたれた顔をしてみせろ、と兵太夫は思う。
 おまえはいつもそんなふうだから。だから、みんなは気づかない。
 おまえの痛みに気づかない。「小銭小銭」と騒ぐおまえに呆れていたように。
 おまえの痛みがわからないから‥‥だから‥‥。


 だん!
 こぶしを机に落として兵太夫はきり丸に向かう。
「だからおまえが悪者になるんだ!」
 茶をめし茶碗に注いで、最後の一粒まできれいにしながら、これも最後に残ったタク
アンを今まさに口にしようとしていたきり丸は、箸を止めて顔を上げた。
 はあ? といいたげなその顔を、兵太夫はしっかとにらみつける。
 ふう、と小さくきり丸がため息をついた。
「別におれはかまわねえけど? 悪者で」
「かまえよ!」
「‥‥なんで?」
 ぽい、と口に沢庵をほうり込みながらきり丸は聞き返してくる。
「な、なんでって‥‥だって、おかしいだろ! な、なにがあったかは知らないけど、
このままじゃ、だって、悪いのはおまえ一人みたいで‥‥」
「おれはかまわねえよって。可哀想な乱太郎、優しい庄左ヱ門、それでけっこうじゃね
え?」
 ぽりぽりと噛んでいた漬物を茶で流し込むと、きり丸はすっと兵太夫に顔を寄せた。
 切れ上がった瞳が間近‥‥。
 形よい唇が静かに動いた。
「おまえがおもしろくねえのはわかるけどさ。てめえのことはてめえでなんとかしろ」
 一瞬だけ間近にあった顔が、またすっと離れて行き、きれいに立ち上がったきり丸が
背を見せて遠ざかって行くのを見ながら‥‥兵太夫は悟っていた。
 ‥‥ああ、ぼくは‥‥きり丸が好きだ‥‥。


 ずっと、自分は庄左ヱ門が好きなのだと思っていた。
 今でもやっぱり庄左ヱ門が好きだと思う。
 きり丸と乱太郎、どうやら派手にケンカしたらしい二人の仲をこれ幸いと、乱太郎に
近づいて行く庄左ヱ門を見て苛立つのは、多分に嫉妬の感情だと、これは自覚している。
 でも。きり丸を見ていてとても複雑に胸揺れるものがあるのは‥‥。
 庄左ヱ門になにかと言うとたてつく存在に、気が引かれるばかりではないらしい。
 今の、あの一瞬。
 きり丸が顔を寄せて来た、あの時。
 胸が速くなった。
 すぐに離れて行った時。
 なんだかがっかりした。
 きり丸の黒髪が背で揺れている。
 ‥‥そうか‥‥こいつのことも、好きなんだ‥‥。


 兵太夫にとっては最悪のタイミングでの、恋の自覚だった。
 なにが最悪と言って、それまでは乱太郎との逢瀬のために、ほとんど毎夜のように部
屋を出て行っていたきり丸が、その日を境に床を並べて眠るようになったのだ。
 なんだろうか、それはやはり対象のちがいだろうか。庄左ヱ門を好ましいと思い、近
しくありたいと思いながら兵太夫は、あまり彼の性的な面を想像したことはなかった。
たとえば庄左ヱ門が肩にもたれかかってきながら大笑いをしている時でも、平気で一緒
になって笑い声を合わせてやることができたのだ。
 しかし‥‥夜の静けさの中で、隣から聞こえる規則正しい寝息の音にさえ‥‥彼は乱
太郎を胸に抱いて眠る時も同じ寝息を立てているのだろうかと思い、思ったが最後、ど
んどんと想像は膨らんで行く一方で、では彼はどんなふうに乱太郎をと思い、思えば食
堂で間近にあった彼の睫毛の反りさえ浮かんで来て、あれより近くに顔を寄せたなら、
その息はやはり頬にかかるだろうか熱いだろうかその息は、と思い‥‥。
 兵太夫は寝付けない。
 転々と寝返りを打ち、ひそやかにひそやかにため息をつく。
 ‥‥きり丸の、寝息が聞こえる‥‥。


「あいつらは本物だよ」
 つるりと出たそんな言葉で庄左ヱ門の後ろ姿を呼び止めたのは、なにがあろうと乱太
郎ときり丸の絆は切れるものではないと信念めいたものがあったせいだった。
 あいつらは本物だよ―――乱太郎の傍らを独占できるようになって浮かれているよう
にも見える庄左ヱ門にも、きり丸を過剰に意識しだしている自分にも、兵太夫はそんな
言葉で釘を刺しておきたかったのかもしれない。
「きり丸と乱太郎は、ばらばらにはならないよ」
「それは、どういう意味?」
 振り返った庄左ヱ門ににらまれて。
「兵太夫は、あいつの肩をもつんだ」
 怒ったらしい庄左ヱ門にそう決めつけられて。
 なんだかバカなことをしている、と落ち込みも加わって、たださえ寝付きが悪いのに、
その夜は余計に眠りに落ちにくく。
「どうかしたのか」
 尋ねてくれたきり丸と話すうち。
 流れと勢いで、兵太夫は気持ちを打ち明け、唇まで重ねてしまっていた。
 思い出せば顔から火を噴かずにはいられないそれを、しかし、きり丸は今までのよう
に夜になると部屋を空けるだけでほかには態度を変えずに流してくれた。
 ‥‥もっとも。変えようにも、庄左ヱ門との「掛け持ち」での告白にどう態度の変え
ようもなかったのかもしれないが。


 それはとても些細なことだった。
 あまりに些細で、しかももう三カ月程も前のことになるのだから、忘れてしまってい
てもおかしくないことだった。
 でも。
 兵太夫には忘れられなかったし、事態がこう‥‥乱太郎ときり丸は目も合わさねば口
もきかず、対して庄左ヱ門と乱太郎はベタベタとは言わぬまでも明らかに親密度を増し
ていて‥‥さらに、自分は勢いとは言いながらきり丸に告白めいたことをして、口づけ
すらかわして‥‥いや、あれは口づけとは呼べぬまでも、だ、ともかくも事態がこうなっ
た以上、それを些細と決めつけて黙ったままでおくのは男らしくないのではないかと、
兵太夫は思ったのだ。
 だから、兵太夫は思い切ってきり丸に切り出した。


「謝らなくちゃいけないことだと思うんだ」
 そんなふうに切り出した兵太夫にきり丸は、へ? と眉を上げた。
「その‥‥覚えてるかな、きり丸、新学期始まってすぐの頃に、乱太郎に食堂で後で話
があるって言ったことあるの。その後‥‥乱太郎を呼びに行ったら、乱太郎、庄左ヱ門
たちの部屋で遊んでたろ。覚えてない?」
「‥‥ああ」
 かすかに目の色が沈んだようには見えたが、表情はさほど変えずにきり丸は軽くうな
ずいた。
「ああ。そういえば、そんなようなことがあったっけ」
「‥‥あれさ‥‥きり丸、いやな気がしたろ?」
「‥‥いや」
 すっと目を伏せてきり丸は小さく笑いさえした。
「いや、別に」
 兵太夫はひとつ、深呼吸する。
「あれさ、ごめん。僕のせいだ、たぶん」
「‥‥なんで、おまえのせ?」
 兵太夫にはきり丸の声がいつもと同じに聞こえた。
「あの日、最初は僕と団蔵とで庄左ヱ門の部屋に遊びに行ったんだ。そしたら、なんか
バカな話のしあいっこみたいになって、じゃあ皆も呼んで百物語りお笑い版ってやろう
かってことになったんだ。その時、僕が言ったんだ、乱太郎はだめだよ、きり丸が話が
あるって言ってたから、あのふたりはだめだよって。団蔵が、じゃあ別の日に皆が集ま
れる時にしようって言って‥‥でも、なんか庄左ヱ門、ちょっと意地になっちゃったみ
たいで‥‥乱太郎とほかのみんな呼んできちゃったんだ。団蔵が、よくないよおまえっ
て言って、僕も一緒にやらないよって言って、出てきちゃったんだけど‥‥」
「‥‥へえ」
 きり丸はうつむいていたが、やがてしっかりと顔を上げて兵太夫を見た。
「でも、それ、なんでおまえが謝んの。別にどってことないじゃん、そんなことさ」
 ほっとするものを覚えながら、兵太夫は聞き返した。
「ほんと? どってことない?」
 ああ、ときり丸は深くうなずいてくれた。
 どってこと、ねえよ、と。


「どうせ、だめになるもんはだめになんだから」
 兵太夫に聞こえぬように、きり丸は口の中で呟いた。

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