罪人たちの季節

<七>

 乱太郎はその奇妙にいちいち衝撃を受けた。
 自分ときり丸は、もう、一緒じゃない。
 いつも、いつも、ずっと一緒だったのに。忍術学園に入学してから、ずっと。
 廊下をひとりでどうやって歩くのか。授業をひとりでどうやって受けるのか。ごはん
をひとりでどうやって食べるのか。
 庄左ヱ門がいてくれた。
 でも。
 それは、きり丸の不在をさらに強調するばかりで。
 こんなふうに別々になってしまうことを、なぜ、自分は言い出したのか。
 そして、きり丸は、それをなぜ、ああもあっさり受け入れたのか。
「もう、付き合えない」
「上等」
 そんな言葉だけで、それだけで、なぜきり丸がいなくなってしまうのか、乱太郎には
不思議だった。そんな言葉をやりとりしただけで、なぜ、きり丸がそんなに遠くになっ
てしまうのか。
 ―――遠い。遠い。同じ教室で授業を受け、同じ食堂で食べていても。
 きり丸は、もう、自分に声をかけない。近寄っても来ない。視界にいれてもくれない。
 付き合えない。
 それは、こういうこと。
 ひとつひとつに乱太郎は慣れなければならなかった。
 きり丸と口をきかない。
 きり丸と行動をともにしない。
 きり丸と‥‥なにも分かち合わない。
 ―――‥‥ねえ、きりちゃんは平気? わたしはねぇ‥‥
 大変なことは、今まではいつもきり丸と分かち合ってきたのに、こんな大きな、こん
なにひとりで抱えているのがしんどいことを、きり丸と分かち合えない。
 ―――ねえ、きりちゃんは平気?
 そう尋ねて、
 ―――んー、おれもけっこう、きついわ
 そう答えてもらって、
 ―――だよねー
 そう言えれば。
 そしたら、このつらさ寂しさも、少しはしのぎやすくなるように思うのに。
 きり丸‥‥。
 乱太郎は声もなく表情も変えず、涙だけ流す術を覚えた。


 そして‥‥。
 ほどもなく。
 乱太郎が友と恋と、同時に失った意味を、噛み締めるより早く。
 乱太郎は初めての飢餓を覚えた。
 それは‥‥去った友を惜しむ気持ちも、失った恋を嘆く気持ちも‥‥すべてを呑み込
んで膨れ上がり、そして、すべてを、押し流した‥‥。


「‥‥あ‥‥」
 まさかの思いに我が身を抱く。
 今、きり丸の指が肌を滑って行った。今、きり丸の唇が窪みをつまんでいった‥‥。
 ありえないこと。ありえない幻想。
 しかし、肌は訴える。
 ほら、いま、いま、いま‥‥。


 熱い‥‥からだが、火照って。
 ‥‥疼く‥‥そこが、熱を持って。
 切なさが、身を内から焼いていく‥‥。


 恋しかった。きり丸の肌が。
 欲しかった。きり丸の重みが。
 ‥‥焦がれた。貫かれる密度に。


「‥‥いやだ‥‥やだ」
 乱太郎は歯を食いしばる。
 “そんなこと”に捕らわれていたくはない。
 でも、“そんなこと”はあまりに深く身内に巣くっていて。奥深くから、身を焼いて
きて。
 逃れるように駆け込んだ山中で、乱太郎は、袴の中に焦る手を伸ばした。
 重くしこるそこを、夢中でしごいた。
 吐き出したかった。たまったそれで、頭が変になりそうだった。
 あっさりと。
 それはやって来た。
 まるで、厠での排泄行為のように。
「‥‥う、ん‥‥」
 かすかな、声とも言えぬ声とともに、手の中にビュルッとほとばしるものがあった。
 ―――これだけ?
 荒い息もつかせてくれない、全身から吹き出す汗もない‥‥身をよじる快感も、ない。
 ―――これだけ?
 あまりのあっけなさに、乱太郎は手をぬぐうことも忘れていた。
 こんな、こんな‥‥。
 手を濡らしたそれは、すうっと冷えて、嫌な粘りになった。
 なんとも言えない味気無さと、嫌悪に似たものが、ひたひたと乱太郎を満たしだす。
 いままで。
 きり丸とともに過ごした時間のなかで、ついぞ感じたことのない味気無さと厭悪感。
 いままで。
 きり丸とともに味わったそれが‥‥きり丸の手で、唇で、舌で、導かれたそれが、大
空自在に飛ぶほどの快感だったとすれば、今、己が手で導いたそれは、階段をほんの数
段、飛んだほどのものでしかなく。
 肌のざわめきは、その吐精で一応は静まったけれど、それは満たされてのものではな
くて、一時の、そう、ほんの一時の慰めを得ただけで。
「‥‥きり丸‥‥」
 乱太郎は、初めてきり丸を恨んだ。


 忘れていようと思うのに。
 教室で声を聞けば、ズキンと甘い何かが身内を駆けて、ふとした彼の動きにからだの
中の記憶が跳ねた。食堂でものを食べているさまなど目にすればもう駄目で、全身の肌
がざわめき立って、いてもたってもいられなかった。
 乱太郎が初めて知った「飢え」は、強烈に乱太郎をさいなみ続けた。


 さらさらして、柔らかな手触りのそこを、握りこむ。
 ゆっくりと上下に擦って、快を呼ぶ。
 あやふやで弱い波を、かつて与えられていた強烈な快感と愛撫の記憶を甦らせて、大
きくする。
 ‥‥それでは到底足りぬと、すぐ知った。
 欲しい欲しいとひくつくのは、別の場所。疼き続けるのは、別の場所。
 同室の金吾は、今日は女との逢い引きだとかで、どうせ帰って来るのは消灯間際。
 乱太郎は、前をいじるのとは別の手を、そろりと脇から滑り込ませる。
 ‥‥いやだけど。
 自分がしようとしていることに、乱太郎は怯じる。
 だけど。
 そうでもしなければ収まり切らぬと、手淫で精を吐き出すだけでは到底飽き足らぬと、
そこが熱をもって疼くのだから‥‥。
 双丘の狭間に、指を落としていく。
 つぼんだ入り口を探る。
 く、と指の先を押し入れる。
 あっさりと自分の指を飲み込んだそこに、さらに深く、指を沈めた。


 ‥‥こんなじゃない。


 涙さえにじむような情けなさのなかで、乱太郎は悟る。


 抉られる快感、むさぼられるエクスタシー、それは、こんなちゃちなものじゃない。
「上等」
 あっさり別れを承諾したきり丸は‥‥笑っていた。
 それはきっと、これを知っていたからだ。
 自涜(じとく)の味気無さを、空しさを。
 別れ際のきり丸の笑みが、嘲笑の色を帯びて甦る。
 ―――知ってたんだ。
 わたしがこんなふうにみじめになること。こんなふうに、じれること。
 知ってて、笑った。


 腕を体に回して、ぎゅっと自分を抱き締める。
 だれか、誰か、誰か。
 この肌を、思い切り裂いてはくれまいか。血肉をすすってはくれまいか。
 もう‥‥。


 その時だ。
 戸をたたく音がした。
「‥‥乱太郎?」
 庄左ヱ門の声。
 はっとして乱太郎は戸を振り返る。
 戸の向こうに、庄左ヱ門がいる。
 ―――庄左ヱ門。
 きり丸は、なんと言っていた?
『あいつはおまえをそういう眼で見て』『いっつも頭ん中でおまえを剥いて』『頭ん中
で犯して』
 ‥‥本当だろうか。
「乱太郎? いるんだろ?」
 ‥‥もし、もし、それが本当なら。
 それなら。
「‥‥いるよ。庄左ヱ門」
 乱太郎は答えた。
「いいよ。はいってきて」
 ‥‥もし、それが、本当なら。この、身を灼く飢えも癒される‥‥。
 戸が開く。
 庄左ヱ門が入って来る。
「どうしたの。明かりもつけないで」
「‥‥うん、すこしね、すこし、考え事」
 床に膝ついたまま、乱太郎は庄左ヱ門を見上げる。
「‥‥乱太郎?」
 暗がりの中に、庄左ヱ門の戸惑ったような顔がある。
「‥‥考え事、してたんだ‥‥。庄ちゃんは、どうしてわたしに優しくしてくれるのか
なあって」
「そんなの‥‥」
 つ、と乱太郎はうつむいた。
「ねえ」
「なに」
 つられたように庄左ヱ門が答えて、そばに寄って来る。
 ―――もう少しだ、もう少し‥‥。
「‥‥ねえ‥‥庄ちゃんは、わたしのこと、どう思ってるの‥‥」
「‥‥乱太郎‥‥」
 庄左ヱ門の声に、かすかに震えがはいる。
「あんなとこ見たんだ。‥‥軽蔑、してるよね」
 ひゅっと息を吸い込む音がして、乱太郎は庄左ヱ門に、抱きすくめられていた。


「軽蔑なんて、してない! してないよ!」
 ああ。乱太郎は思う。こうやって誰かの胸に抱かれるのは、なんと心地よい‥‥。
「ぼくは‥‥ぼくは‥‥乱太郎が好きだ!」
「庄ちゃん‥‥」
 わたしも、と言ってしまいたかったが、なにかが乱太郎を引き留めた。
 わたしが、好きなのは‥‥。
 しかし、もう乱太郎がなにを言う必要もなかった。
 乱太郎は顔を横にそむけさえしなければよかったのだ。
 庄左ヱ門の唇が、乱太郎のそれに荒々しく重ねられていた。

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