縁側で、仕事後の一服。
「いやあ、仕事の後のお茶はおいしいですねえ」
にこにこと同僚が言うのに、
「そうですなあ」
と伝蔵は相槌を打つ。
「あ。これは塩瀬の羊羹じゃありませんか」
「学園長には内緒ですぞ」
「御馳走になります」
嬉しそうに遠来の菓子をほお張る同僚を伝蔵は見る。
―――なんの不思議もない光景。これは彼と自分の日常だ。
なんの不思議もないけれど、不思議も感じないところに奇妙がひそんでいるのかもしれない‥‥。年の差、経験の差を越えて、共に過ごす時間の和やかさ、共鳴しているかのように相通じている互いの思考や行動、その違和感も感じないところに奇妙がある、と伝蔵は思う。‥‥いつの間に、自分たちはこんな、同じ気分を共有しながら、それを不思議とも思わぬ近しさに慣れてしまったのか。
―――それは‥‥この土井半助という男が少し変わっているせいなのではないだろうか、と伝蔵は考えてみる。
縁側で煎茶をすすり、甘味に舌鼓を打つ彼はまだ25。この隠居じみた昼下がりの憩いが馴染む年齢には、ちと早かろうに、その様子はくつろいで楽しげで、年上の同僚に付き合って無理をしている、とも見えぬ。
そして、担任の一年は組の生徒達と遊ぶ半助は、これまた芯から嬉しそうに児戯に興じており、「土井先生はよろしいですなあ、遊んでいて給料がもらえるのですから」と安藤の痛烈な厭味を伝蔵が聞かされるほどなのだ。―――勿論、それに対しては「落ちこぼれというのは優等生の倍の手がかかりますからなあ。労なくして実の得られるクラスがうらやましい限りです」とこれまた厭味で返しておいたが。
そしてまた。らっきょの小瓶を手土産に朝帰りを繰り返す、彼の別の顔。杭瀬村から朝になって帰って来た時の土井は、柔らかにしとった雰囲気を身にまとっていて、これがこの若者本来の色気なのかとこちらをどきりとさせもする。
―――年寄りむさく縁側で茶を楽しむ彼、子供たちと遊び戯れる彼、そしておそらくは年相応に色恋を遊んでいるだろう彼。
どの彼も自然体に楽しんでいるように見え‥‥伝蔵はこの若者の底の知れなさを思う。
「土井先生はいつも楽しそうですなあ」
ふとそんな台詞を振ってみた。
童顔のなかの大きな目を、さらにちょっと見開くのへ、
「年寄りの相手をしている時も、子供たちと遊んでやってる時も、楽しそうです」
と言い添えた。
土井は目元をなごませるように、笑みに似た表情を一瞬、作った。その瞳の奥によぎるものを見まいとして、伝蔵は何気なしに顔を伏せる。
底の知れぬは自分も同じかもしれない。なにを見まいとして自分は目を逸らすのか。
なにがそこにあると、自分は知っているというのか。自分たちの近しさの理由(わけ)を土井の性格にかこつけようとしながら、自分は自分にすら、なにを隠そうとしているのか。
「‥‥好きだからでしょう」
さりげなく言われた。
「ほお?」
さりげなく返した。
「好きだから、楽しそうになるんだと思いますよ」
羊羹が? 子供たちが? それとも?
伝蔵は問い詰めてはいけないところと知っている。
「そうですなあ、好きだというのが、やはり一番ですなあ」
「‥‥好きこそものの上手なれ、なんて言いますしね」
伝蔵はわざとずらして石を置き、透けて見えるはずの模様を隠し、土井はずらされた石の上に石を積み、模様があったことも知らぬふりをした‥‥。してくれた、と言うべきか、と伝蔵は思う。
息子によって届けられる妻からの「愛」は仕分けるだけでも大変な、大きな風呂敷包みの形をしている。
「ああ、これはおまえが持って行け。ああ、これも、これも」
少し早い冬支度の荷にある厚手の下着や足袋を、伝蔵は息子に振り分ける。
「これは父上の物です」
真面目に言う息子に、伝蔵は眉をしかめてみせる。
「わしは足りとる」
「母上が父上に使っていただこうと、わざわざに用意なさったものを、わたしが使えるわけないじゃないですか」
「‥‥融通のきかん‥‥おまえのそういうところは、それ、かあさん似だな」
「母上には頑固なのは父上似だと言われますよ」
「あはは」
軽やかな笑い声が、父子の会話に自然に入って来た。土井がつけていた帳面から顔をあげる。
「失礼。利吉くんも必要なものなら遠慮せずにもらえばいいじゃないか。親子なんだからお母さんだって喜ぶよ」
土井の台詞に利吉が小さく唇をとがらせた。
「土井先生は女心がわかってらっしゃらないんですよ。一度父上の物をわたしが着ていたら‥‥」
「なら仕方ないですね、山田先生。わたしの行李がひとつ空いてますから、どうぞ使ってください」
「‥‥はあ、まあ、どうも‥‥」
始末に困るほどの「愛」を送り付けられた無様を、年若い同僚の前にさらせたことに伝蔵はどこかほっとする。
「母上がそろそろ父上の顔を忘れそうだと言ってみえますよ」
「あー、わかったわかった」
「ちゃんと家にも帰ってくださいよ。わたしがせっつかれるんです」
「わかったわかった」
妻の存在とその夫への思いを、息子が強調していくのを伝蔵は止めない。
なにを強調したくて、なんのために明らかにしておきたいのか、さて‥‥。
利吉が帰って行ったあと、土井がぽつりと言う。
「‥‥似てませんね」
「は?」
「利吉くん。山田先生に似てませんね」
そうだろうか、と伝蔵は思う。利吉のすっきりとした顔の輪郭は母親譲りだと思うが、目鼻立ちや顔の造作は自分の血を引いていると思う。
人の顔立ちを覚えたり変装を見破るのも忍びの技のひとつだから、土井の目が確かなら、その見解はおかしいと思うのだが。
「似てませんよ、全然」
土井はもう一度繰り返した。‥‥自分に言い聞かせているようにも聞こえる。
「‥‥そうですなぁ」
伝蔵は静かに相槌を打った。
学園長の迷惑な思いつきの校外実習の後、その打ち上げと称して教職員の宴会が開かれた。なんだかんだと非難されている学園長の思いつきだが、たまにこんな余禄がつくのが、教員たちの救いでもあり、学園長の采配のうまさかもしれなかった。
酒につまみに、座もなごんでにぎやかに、酒量も上がる。
「土井先生、酔っとりますな」
苦々しさを含んだ声に、伝蔵はそちらを見た。
眉に縦じわを刻んだ野村に、膝を崩した土井がなにか言っている。
またか、と伝蔵はため息をつく。
常日頃、年に似合わぬ分別と人付き合いのうまさを崩さぬ土井は、酒が入ると乱れる。
泣かれたこともあれば、馬鹿騒ぎに頭を痛めたこともあるが、今回は絡み酒だったらしい。名刀談義に花を咲かせていた戸部に中座を詫び、伝蔵は土井の傍らに席を移した。
「それはあんたに関係ないことだと言っとるでしょう」
野村がきつく言っているところだった。
「ああん?」
あごをあげて聞き返す土井の眼は、赤く潤んで酔いのまわりを示している。
「なーにも難しいことを聞いてませんよ、わたしは。らっきょと納豆に、それほどこだわるほどの違いがあるのかって、ね、ほら、全然、むずかしくないでしょ」
土井の言葉に伝蔵は野村の不機嫌を理解する。
―――大木と野村のライバル関係が、こじれた恋愛感情のもつれをひそめていっそう厄介なものになっている、とは学園に古くからいる教師なら知っている事実だ。‥‥土井はつまり、それほど突っ張り合わずとも素直になればいいじゃないかと言っているわけで、それだけでも「人の恋路に口を出すな」と切って捨てたいところだろうに、言っているのが、たびたびに杭瀬村で夜を過ごしてくる男となれば、野村にすれば二重にも三重にも複雑でもあれば面白くもない口出しだったろう。
「なーにを、そう、つっぱらかることがあんですか。え? らっきょでしょ、納豆でしょ、似てるじゃないですか。魚と大根ほどのちがいがありますか、でしょ?」
「土井先生、ずいぶん呑んどりますなぁ」
伝蔵は穏やかに声をかけた。酔っ払いは無用に刺激しないに限る。
「あ。山田先生、ちょっと、ほら、先生も聞いてくださいよ」
「はいはいはい」
「はいは一回でいいんですよ」
「はいはい」
「だから一回でいいんですってば」
苦笑を、伝蔵は野村と見交わした。
結局こうなる。
伝蔵は酔い潰れた土井を肩に支えて部屋に戻る。
宴会場を出て廊下を行っている時だった、手伝いについて来てくれた野村が言った。
「‥‥これほど手放しで甘えられては、情がわくでしょう」
「‥‥はあ?」
大の男をずるずると引きずる自分に、いったい野村がなにを言い出したのか、と伝蔵は振り返った。
「土井先生ですよ。山田先生はご存じないですか。土井先生が酔い潰れるのは山田先生と一緒の時だけですよ」
口ひげの下の形良い唇が皮肉な笑みにゆがんでいるのを、伝蔵はしばし見つめた。
「‥‥はあ、まあ初耳ですな。しかし、狙って迷惑を掛けられていると思うのはあまり愉快なものではありませんぞ」
そう言って、よいしょと重い荷物となった同僚を肩にかつぎなおして、この話はこれで終わりのつもりで背を向けた伝蔵に、しかし野村はさらに追い打ちをかけてくる。
「本当のところは、だれに向かって言いたかったのでしょうな」
「‥‥‥‥」
「つっぱらかるな、とだれに言いたかったのか。だれが魚と大根ほどにも差があると言いたいのか。らっきょと納豆には障害がないと、ずいぶんうらやましげに聞こえましたが」
「‥‥野村先生も、酔っとられますか」
「‥‥なるほど。私にまで酔っ払いのたわごとと予防線を張られますか。やけ酒を呑みたくなるわけですな。土井先生も気の毒に」
さすがに足を止めて伝蔵は振り返った。野村の眼が言葉よりもきつい刺を含んで剣呑に光っている。
伝蔵はその視線を受け止めた。
―――なにを言えるというのか。
まだ青い輩の好いた惚れたの騒ぎに巻き込んでくれるな、と本音の一端ではある。土井が大木と寝ているのは間違いないだろうし、それを知っているだろう野村が自分に土井を受け止めろとそそのかしたい立場にいるというのも、事実の一端だろう。
しかし。
それらはほんのうわつらの事実や気持ちに過ぎない。表層の言葉を返して、無意味な会話を続けるつもりは伝蔵にはなかった。だからと言って伝蔵は、縁側でくつろぐ一時にまつわる奇妙を、野村に対して認める気もなかった。‥‥傍らに互いがあることの、重さとあたたかさ、それだけで十分だ。その底に流れているものに名をつけ、さらに抱き合うことでその目に見えぬものを確認したいとは、伝蔵は思わない。
野村の眼が光っている。
伝蔵は黙って見返す。
小さく吐息をついて眼を逸らしたのは野村のほうだった。
「‥‥確かに‥‥少々酔っておったようです‥‥失礼した」
軽く頭を下げると、野村はくるりと踵を返した。
土井を床の上にごろりと転がしておいて、手早くふたつの床を延べる。
「‥‥ほんとに、まったく、こんなになるまで呑むか」
ぶつくさと口の中で文句を言いながら、伝蔵は再び土井を引きずり、床へと移す。
脱力した腕が、布団の上へと転がされた拍子に、伝蔵の顔の脇を滑り顎をなぞって下へと落ちた。
その手を、伝蔵は見つめる。‥‥その手を取って握ってやりたい、それを衝動と呼べるなら、その衝動をこらえるのは、自分にはたやすい‥‥。
―――逃げ腰だと、非難したい野村には、その非難を受ける覚えはない、と切って返せる。‥‥が。
「う、うーん‥‥」
土井が呻いて眉を寄せた。
伝蔵はその顔をのぞきこんだ。
「‥‥半助」
呼びかける。
「半助。‥‥苦しいか?」
問いかける。
薄く、土井の眼が開いた。
笑みが、浮かぶ。伝蔵が、よく見慣れた、笑み。
「‥‥いえ‥‥平気です‥‥」
そうか、と伝蔵はうなづく。そうか、と。
それがいつの間に、やはり「日常」になっていたのか。
「土井先生、土井先生」
呼びかける利吉の声。
「やあ、利吉くん」
応える土井の明るい声。
大木の元から持って帰って来た、艶めいた雰囲気を漂わせて。
「お茶でも飲んでく?」
実習の下見を理由に、伝蔵は部屋を出る。‥‥息子の熱っぽい視線というのは、どうもハタで見ていて居心地悪いものがある。居心地悪いのは、それが父親というものだからで、その対象が自分の同僚となれば尚更で‥‥。そこまで思って、やはり自分にもいまだに言い訳せねばならないなにかから、また伝蔵は目をそらす‥‥。
「あー、山田先生」
校庭に出る前に事務員の小松田秀作に声をかけられた。
「利吉さん、どこですか? まだ入門表にサインもらってないんですけど」
「ああ、わしの部屋におるよ」
「じゃあ行ってみます」
行きかけた小松田の足がふと止まった。
「あー、山田先生と利吉さんってやっぱり似てますねー。親子ですねー」
ああ、と伝蔵は思う。ああ‥‥。
「‥‥似とらんよ」
「え?」
「わしと利吉は‥‥似とらんよ‥‥」
伝蔵が見上げる先に、雲が流れて行った。
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