色移り

 

 

 

 やあこんにちは今日は暑いですね。
 そんな軽い日常の挨拶とともに、魔界之はふらりと土井の部屋に現れる。

 


「こんにちは。今日はなんの御用です?」
 こちらもにこやかに挨拶は返しながら、しかし土井は警戒を持って尋ねる。すると、
「今日は敵情視察に来たんですよ」
 魔界之はあっさり物騒な言葉を口にする。
「敵情視察、ですか」
「ええ」
 身構えた土井を笑うように、魔界之は答える。
「筆算の掛け算割り算は、もう終わりましたか?」

 



 土井は魔界之が苦手だった。
 今年設立されたばかりの「ドクタマ忍術教室」で、魔界之は四人の生徒に忍術を教えている。
 木野小次郎竹高を城主にいただくドクタケ城は忍術学園と敵対関係にあるが、教育途中の子供は別扱いという暗黙の了解から、そのドクタマ一年生と忍術学園一年生は時折、互いの学び舎を訪い合うなどの交流がある。
 そういった交流の機会に顔を合わせれば、同じ職を持つ者同士、会話に苦労するわけではないが、しかしどうにも、土井は魔界之が苦手だった。

 


「筆算、ですか。理屈はすぐにわかってくれたようなんですが、実際にケタ数の多い計算に入ると……ぼろぼろですよ。きちんと理屈も計算もこなせるのはまだ二、三人と言ったところでしょうか」
 土井がそう答えると、魔界之はぽん、と手を打つ。
「そうですか、やはりそうですか! うちの生徒も筆算にする必要のないケタ数だと筆算でもうまく計算ができるんですがねえ……」
 そう言って、難しげに眉を寄せ首をひねる魔界之の様子は、純粋に指導法に悩む教師の顔に見える。そこで、
「土井先生はどのような段階を踏んで教えてみえますか。ちょっと拝見できるとうれしいのですが」
 などと言われては、
「参考になりますかねえ……まあ、どうぞ、今お茶でもいれましょう」
 と、苦手意識はともかくも、土井は魔界之と向き合う羽目になるのだった。

 



「はあ、なるほど……そうか、あえて十掛けを筆算でさせてみるのも、手ではありますね」
 土井の差し出した教材を眺めて、魔界之はあごに手をかけ、小さくうなずく。
 首の後ろでゆるく束ねられただけの髪が、その動きに揺れる。
 ――この男は。忍び頭巾を被らない。上着こそドクタケ忍者隊支給の制服をまとっているが、袴は仕立て屋の間違いだと言い張りながら、派手な紋様入り。……どこか、破天荒、どこか、傾(かぶ)いている。
 だからか。と、土井は思う。
 あからさまに悪事を働くドクタケ忍者隊の隊員達は、それでも皆、ドクタケ城に忠誠を誓い、その証のように、きちんと制服を着用している。悪は悪なりに、それでも彼らはある意味、単純でわかりよいのだ。
 が。
 忍びでありながら、忍び頭巾を嫌い、ドクタケでありながら、その制服を崩してしか着ようとしない魔界之は……底が知れぬ。

 


「うらやましいですね、土井先生」
 ふと言われた。
「え」
 と土井は顔を上げる。
「そうでしょう?」
 色のついた眼鏡の奥の目が意味ありげに光ってみえて、土井は心臓が小さく跳ねるのを覚える。
 ――だからだ。これもだ。時々、魔界之はこういう意味ありげな瞳を見せる。だからどう、と言うこともないのに、何故だか、その瞳に土井はどきりと来たりするのだ。苦手意識はこのせいも大きいかと土井は思う。
「ドクタマ忍術教室の常任教師はわたし一人ですからね。その点、忍術学園は同僚の人数も多いし、システムも整っている。……一クラス二担任制というのもね、実にうらやましい」
「あ、ああ、そうですね、」
 土井は深く考える間もなく答える。
「特に山田先生は経験豊富な方ですから。わたしなどはつい頼ってしまいます」
「頼る?」
 何げなく発した一言を、改めて問い返されて、土井は詰まる。
 そんな土井を軽く上目使いに見つめて魔界之は重ねる。
「受け止めてくれますか、山田先生は? 自分を頼ってくる、あなたを?」
 つい、いましがたまで。
 話していたのは筆算の指導法であったはずなのに。
 指導態勢のちがいについてであったはずなのに。
 魔界之のたった一言の切り返しから。
 土井と山田の関係の深さに話の焦点が移っている。……それも、なにやら妖しげな色合いを帯びて。
 土井は魔界之に、自分の深部を覗き込まれているように感じる。山田に対して抱く、人には言えぬ感情を、魔界之に気づかれてでもいるような。
 ――これだ。この……人の内を見透かすような……この眼差しが、苦手なのだ。
 心の内を見透かしているような瞳を人に向けながら、口元に、見ようによって皮肉っぽいともとれる笑みを浮かべて悠然としている魔界之を……苦手だと、土井は改めて思う。
「……え、ええ。……山田先生は……ベテランですから……」
 もごもごと口の中で答える土井に、魔界之は、
「それはますます、うらやましい」
 笑みを深くする。
「ええ……指導方針がぶつかることもありますが……やはり相談など気軽にできますから……」
 なんとか話題を浅いところに引き戻そうとする土井の応えは、しかし、あっさりと打ち破られる。
「いえいえ。わたしがうらやましいと言うのは山田先生のことですよ」
 魔界之の色眼鏡が、きらりと光を反射する。
「後進に尊敬されて頼られる。道を一筋に歩いて来た男にとってそれは最高の勲章だ。しかも頼ってくれるのが、あなたのようにかわいい人ならなおのこと」
「変な言い方はやめてください」
 土井はさすがに眉をひそめて魔界之にクギを刺す。
「……魔界之先生は、時々、悪ふざけが過ぎます。……口はばったいことを申し上げるつもりはありませんが、教職を生業(なりわい)になさるなら、過ぎた冗談は慎まれたほうがよいですよ」
 おお、と魔界之は感じ入ってみせる。……こういう……少し芝居がかった言動が平気でとれるところも、土井が苦手を感じるところのひとつ。
「これはこれは。土井先生のおっしゃる通りです。やはり弱小の新設校の一人教師というのはいけませんね。つい、教師の常識を忘れそうになる」
 そして、すいませんでした、と素直に頭を下げながら、いやそんな頭を下げられては困りますという土井の言葉を待って顔を上げる魔界之の表情に、しかし、また、なにやら思惑ありげな笑みがある。
「……半助」
 ギクリと来る土井である。ふだん、名字に先生の呼称をつけて呼び合う相手に、いきなり名前を呼び捨てにされると、失礼を怒る気持ちの前にドキリと来るものがある。
「失礼。時々、山田先生がそう呼んでおられるでしょう」
「それは、昔……!」
 ついムキになった大声を、土井は恥じる。
「……昔、教え子だったからですよ。わたしもここの卒業生ですから」
「ああ、そうだったんですか。……それにしても、それもわたしにとってはうらやましいことですよ。なんと言っても、わたしは一人ですから。親しくなろうにも喧嘩をしようにも、相手がいない」
 なんと答えればいいのか。土井はまたも返す言葉に詰まる。
 親しくなろうにも、喧嘩をしようにも……相手がいない。その魔界之の言葉は教師仲間が身近にいない嘆きを装いながら……別の含みをもって土井に投げかけられたようにも思えるのだ。
 『あなたと親しくなりたい』面と向かってそう告げられれば、すぐにはねつけることもできるが……魔界之は己の退路を己で断つような物言いはせぬ。
 土井が答えに窮するうち。
 ほんの少し、魔界之が土井へと顔を寄せた。
 ほんの少し、膝をにじらせ。
 ほんの少しのことなのに、土井にはそれは魔界之にぐっと距離を縮められたような、間合いに飛び込まれたような……切迫感があった。
「……小路と、言うのですよ、わたしは」
 距離を縮め、まるで、大事な秘密を告げるように魔界之はささやく。
「小路と、言うんです」
「…………」
 そうですかとあっさり返せ、と土井の頭は命じるのに。
 土井は声が出せなかった。
 間合いの内から、魔界之の視線が土井へと鋭く放たれている。
 整った口元には、いつもと同じ、飄々とした笑みの残滓が残っているが。
 瞳が。
 土井へと食い入るように。
 底の見えぬ瞳が。重さと熱さのある光を放って、土井を見つめている。
「小路」
 低く繰り返された名は、命令に似ていた。
「……こうじ……」
 土井は魔界之の双眸から、目をそらすことが出来ぬまま、『命令』に従う。
 もう一度。
 それは実際に聞こえた声だったのだろうか。
 低く、人を従わせる力を持ったその声は、確かに魔界之の声でありながら、魔界之のふだんの声とはあまりに異質ななにかを持っている。
 実際に聞こえた声だとは思えなかったが。
「……小路」
 自分を見つめる瞳に向かって、土井はもう一度、その名を繰り返した。

 


 とたん。
 魔界之のまとう空気が軽くなった。
「そうですよ、覚えておいてくださいね、わたしの名前」
 念を押す魔界之の声は、先の声とは似ても似つかぬ軽さと明るさ。
 ――それでは、あれは空耳か。
「さて!」
 身軽く立ち上がった魔界之の瞳にも、先ほどの、土井を捉えて離さなかった狂おしい光はない。
 ――それでは、あれも……見間違い?
「帰ったら、筆算の特訓です」
 その一言で、意味ありげな会話の数々をあっさり切り捨て、魔界之は帰りかける。
「そうだ、土井先生」
 戸口で振り返り、魔界之はにっこり笑った。
「お茶をどうも、ごちそうさまでした」

 



 魔界之が閉めて行った障子戸を見つめ、土井は長々とため息をついて机にもたれた。
「……やっぱり、苦手だ」
 土井は小さく呟いた。

 

 了

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