酒を言い訳にしての、仲だった。
共に教鞭を取っていた頃は、さほどの親交はなかった。親しむほどに長い時間ではなかったせいもある。土井が教師として忍術学園に戻って間もなく、大木雅之助は忍術学園を去ってしまったからだ。
落ち着いて酒を酌み交わす機会が増えたのは、だから、大木が杭瀬村に居を移してからのことだ。不精髭の似合う野太い印象の大木は、酒の飲み方も人との付き合いもさばさばと後を引かぬ気持ちのよさで、穏やかな人好きのする第一印象とはちがって、実は人との間に一線をひいて淡泊にしか付き合わぬ土井には、程良い距離で付き合える、よい呑み仲間となった。
当直もたまった仕事もない、ふと無聊を感じる夜などに、だから土井はたびたび大木を訪ねた。話が弾めば笑い合い、話が途切れれば寡黙に杯を口に運ぶ。うまい酒だった。
そうして共に酒を愉しむ仲となってほどない頃だったと思う。
いつ、と明確に思い出そうとしても土井にはわからない。大木にしてもそうだろう。
土井の杯に大木が徳利を傾ける回数が、いつもより多い気がした。
「おまえさん、目がとろとろだぞ」
「あー、少し呑み過ぎましたかね‥‥学園に戻るのは朝にしますか‥‥」
ふう、と長い息をついて壁に背もたれた土井の傍らに、いつの間にか大木がいた。
「‥‥泊まってくか」
呑みが過ぎて学園に戻るのが朝になるのは、なにも初めてではない。大木のもとに泊めてもらうのも初めてではないのに、そうやって改めて確かめる大木の口調が、いつもとちがう、なにか粘いものをひそめている。
「うーん、どうしようかな‥‥泊まってくと、まずいですか?」
「わしはかまわんぞ」
「わたしもどちらでもかまいませんよ。帰れと言われるなら、まだ歩けます」
その会話の、常にない駆け引きめいた雰囲気が、酔った頭にはひどく面白くて土井はくつくつと笑い出した。
「おまえさん、笑い上戸か」
「えー、べつに‥‥」
言いかけた口が、大木の唇でふさがれ、ふさがれた唇は、すぐに大木の舌に割られた。
大木の厚い唇は乾いてかさついているのに、同じように肉厚な舌はたらりと唾液で濡れてぬめっている‥‥。その舌に、知らず土井は舌を絡め返し、唇を吸い返していた。
そのまま土井を押し倒し、その袴に手をかけながら、
「おまえ、操立てしなきゃならない相手がいるか」
大木が尋ねて来たのが、土井の記憶に有る限りは唯一の、大木が土井と肉体関係を持つについて土井の意向を確認する言葉であった。
「いませんよ、そんな相手」
「ふん。もったいない話だな」
まるで残り物のまんじゅうについて言うような口調で大木は言い、残った皿に手を出す気安さで土井の素肌に触れて来た。
しかしそうして、ただ淡々と体だけを求められるのも土井にはひどく気楽な感じで、自ら腰を浮かせて袴を取り去る手にまかせた。
抱き合うふたりの間から、酒の濃い匂いが立ちのぼった。
酒を呑んでは体を重ねた。
いつも。酒の勢いに乗じて。いつも。酒に呑まれたふりをして。
大木が自分に酒をすすめるのは、酒を言い訳にできるように酔わせるためなのだと、土井は思っていた。
‥‥が、ほどもなく。土井は、酒を必要としているのは大木自身なのだと気づいた。
酒で紛らせてしまいたい面差しが、大木にはあるのだと。
浮かぶ顔がある。野村雄三。
大木が学園を去った理由の大部分が、野村との軋轢に関係しているとは、聞いている。
が、気づいたからと言って、それを問いただすほどに土井は若くも直情でもなかった。
ただ、何度目かに互いの鍛えた体をさらしあった時に、土井は聞いただけだ。
「大木先生には、操立てしなきゃならない相手はいないんですか」
「おらん」
というのが、大木の答えだった。
「そんな面倒くさいものは」
おまえも含めて、と言外にあった。
大丈夫、そんな面倒くさい存在にはなりません、言葉にする代わりに、土井は太い大木のものを深く口中に含みこんでみせた。
遠慮も、妙な手順もない。申し訳にすぼんだ菊座を指で揉んで、後はただ、大木はそこに自身を押し付けてくる。ぴりぴりと裂け拡がる痛みを、土井はこらえ、じりじりと押し入られる熱さを、しのぐ。
「おまえさんのここは、熱くて具合がいいな」
根元まで埋めて大木はうそぶく。
ぐい、と上体を引き起こされて土井は、ひっと息をのむ。
穿たれる。
大木の熱い肉棒で。
揺すられる。
大木を咥え込んだ腰をつかまれて。
「あ、あああっ!うあ、あっ、あっ!!」
突かれ、突かれて内臓が口から飛び出そうな感覚は、無体に拡げられ擦られ続けている局所の痛覚と圧迫感とともに、ある種、快感だ。土井はたまらず、声を上げた。
その口を大木の厚く大きな手がおおう。
「でかい声を出すな。こらえろ」
言いながら、土井を責めるその腰の動きは激しくなるばかりで、ゆるまない。
土井の目尻に涙が光った。
遠慮も、妙な手順もなく、それは始まり、終わった後も、体はあっさりと離れる。
体をつなぐのは、愛の確認や思いの発露などではなく、ただ、快を愉しみ、精を放つ手段として、だ。互いに、縛らない、縛られない、無言の前提のもと、体を重ねてまぐわいを愉しむ。重くもならず湿りもしない肉体関係。
気安く、楽しい。
その気安さと放逸を、土井は十分に評価し楽しんだ。
‥‥それでも。行為の後に、自分ではなく、窓の外の月に目をやっている大木の横顔に、ふと心に影を感じることはあった。
大木は。時々、学園を訪ねてくる。予告もなしに、ふらりと。来れば一番に。
「勝負だ!野村!!」
学園中に響きわたるような大声で。
嬉しそうですね。土井は言ってやりたくなる。野村と対する大木に向かい。
嬉しそうですね、わたしと寝ている時よりも、と。
それを心の隙、と呼んでもいいだろう。それはあくまで「スキ」であり、寂しさに身のやつれる空洞でもなければ、嫉妬に焼かれる乱れでもなかった。
ほんの小さな、心の隙き間。
その隙き間にすっと入り込んで来た若者がいた。
山田利吉。
ついこの間まで子供こどもしていた彼は、いつの間にか土井と肩を並べて地を駆け、背なを預けあって刀を振るうほどの力をつけ、そして、大人の男の目をして、土井を見つめるようになっていた。
それでも、その若さと未熟さは本物で、土井がほほ笑んでやれば有頂天になり、はぐらかせばムキになり、邪険にすれば慌てて顔色をうかがいに来た。土井にはおもしろかった。‥‥かわいかった。
別に本気ではないから、どうとでも身をかわせる、そう思いながら、相手をしている時間が増えていた。そして、いつしか杭瀬村を訪ねるのが間遠になった。
本気ではないから。七つも年下の若者、どうとでもかわせるから。
そう思っていたのが、甘かったのか。いや、どこかでそうして追い詰められるのを望んでもいたのだろうか。
「土井先生が、好きです」
「わたしも君が好きだよ」
「じゃあ」
気がつけば、恐ろしいほど間近に、怖いぐらい真剣な目をした利吉がいた。
「抱かせてください。わたしの好きはそういう意味です」
告げる利吉の言葉は強いが、その指先は白くこわばり、小さく震えてすらいる。
‥‥それほどに思い詰めていながら、酒の力を借りようともせず、ばか正直に自分を訪ねてきたのか‥‥土井はこらえきれずに小さく笑いをもらした。
その笑いを、利吉は茶化しととったのだろう。
「わたしは本気です!!」
叫ぶなり、両の腕で土井を抱き締め、しゃにむに土井の唇を奪いに来た。
奪うにまかせながら‥‥土井は目を閉じた。
酒の匂いのない口づけ‥‥それが悲しいほどに清新で。
土井は利吉を抱き返す手に、力がこもっていくのを感じていた。
酒臭い息を吐き合い、ひたすら互いの性感を高め合い、気をやればさっさと離れて身繕う。大木とのそういうセックスに慣れた土井には、利吉が求めてくるものすべてが新鮮だった。
緊張を軽くほぐすために酒を小道具に使うことすら、まだ知らず、これが許された至福なのだと言わんばかりに土井の素肌を丹念にすみずみまでなぞり、味わい、土井の中に熱く白濁した液を注ぎきった後にも、名残惜しげにいつまでもまわした腕を解こうとしない、若い利吉‥‥。
君はわたしと寝れれば満足なのだろう、もしも自分がそう言ったなら、この若者がどれほどに傷つき怒り嘆くか、土井にも容易に想像がつく。
利吉を受け止める胸が、あたたかい。
「好きです」
まっすぐに自分をみつめてくる瞳を、見返す。
「わたしもだよ」
単なる閨の戯れ言葉を返しながら、そこに真実が混ざっているのに、土井は気づくようになっていた。
なんだかんだとトラブルを引き起こす生徒達に振り回されて、杭瀬村まで出張る羽目になった。古巣の生徒達をいまだにかわいがっている大木は、いやな顔ひとつせず、現職の教師同様に力を尽くしてくれる、生徒達もそれがわかっているのだろう、担任に頼る気安さで大木を頼る。
「ご迷惑をおかけしました」
礼儀として頭を下げる土井に大木は軽く手を振り、
「しかし大変な連中じゃな。迷惑にもずいぶん、慣れたが」
口とは裏腹な穏やかに細めた目で、夕日の下、山田に引率されて帰って行く生徒達を見送る。そして。
「おまえさんはどうする」
振り返って土井を見た。
「呑んでくか」
「‥‥いえ」
一瞬ためらったが、土井は答えた。
「今日はこのまま学園に戻ります」
「そうか」
さして残念そうな素振りも見せず大木は土井に背を向けたが、ふと思い出したように振り向いた。
「伝さんとこの息子がおまえさんとこに入り浸ってるそうだな」
「‥‥入り浸ってるというほどじゃあ、ありませんが」
「ふん。まあわしには関係ないわ」
そう言ってあっさり家の中にひっこもうとする大木に、土井は声をかけた。
「このまま!このまま学園に戻りますが‥‥野村先生にご伝言でもありませんか」
土井が野村の名を口にしたのは初めてだったが、大木はじろりと横目で土井を見た。
「‥‥なんでわしが雄三に伝言なんかせにゃならんのだ」
「‥‥そうですね‥‥」
大木が大きく息をついた。
「仮に。仮にだな、わしがなにか野村に伝えるとして、だ。‥‥わしは、おまえには、頼まん。‥‥おまえにはな」
大木は土井を見ている。土井も大木を見ている。ふたりの視線が絡んだ、数瞬。
もしかしたら、なにかが生まれたかもしれない、なにかが変わったかもしれない、その時間を、大木は肩をすくめて視線をそらすことで、断ち切った。
「おまえが人の心配するなど十年早いわ。帰ってケツの青いヒヨコのお守りでもしていろ」
「‥‥はい、そうします」
じゃあな、と大木に手を振られて‥‥それでは、と土井も背を向けて‥‥しかし、土井は足を踏み出せなかった。
「あの」
もう一度、土井は大木の背中に声をかけた。
「‥‥また、呑みに来てはいけませんか」
「いかんわけはないわ」
怒ったように大木は答えたが、振り向いた顔は笑っていた。
「‥‥いつでも来い。うまい酒を呑ませてやる」
「‥‥はい」
答えて、土井もまた、笑みを返した。
了
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