杭瀬村の朝

 

 

 

 期待もせず、されもせず、ただ躯を重ねていたあの頃が‥‥懐かしい。

 


 「呑んでくか」
 「いいえ」と答えてから、まだ一度も大木を訪ねてはいない。
 土井は「入り浸っている」年若い情人が、器用に忍び道具の手入れをこなしていくのをぼんやりと見つめる。
 別に‥‥酒を楽しむだけだ、どうということもない。訪ねたければいつでも来い、と大木も言っていた。‥‥なのに、どうしてだろう、なぜ、自分はためらうのか。
 自分は。操立てしたいのかな、この子に、と土井は思う。小さく笑いが漏れた。
 利吉が振り返る。
「どうしました?」
「‥‥いや」
 笑いを収めきれずに土井は答える。
「ちょっと思い出し笑いだよ。今日の授業でね‥‥」
 笑った本当の理由など言えるわけがない。小さな誤魔化しに気づかぬ利吉に、土井は今日の騒動を語って聞かせる。
 ‥‥一緒に声たてて笑える相手がいるのはうれしい。
 でも、と土井は思ってしまう。大木なら誤魔化されてはくれなかったろう、と。
『そんなことで笑ったのか』と問い詰めて来たかもしれない。『本当のことを言うてみろ』と、腕を押さえのしかかってさえ、来たかもしれない。
 ‥‥いや。自分の想像を土井は打ち消す。大木はそこまで自分に興味を持ってはいない。土井が自嘲に笑い声を立てようと、土井の心中になど、大して興味はないのだ。あの男は。
「‥‥先生」
 笑い止んだ利吉が熱い目でこちらを見ている。
「今日はもう休みますか」
「‥‥うん、そうだね‥‥」
 床を延べる。
 そして、土井は今夜もそこで利吉に抱かれるために、立ち上がる‥‥。

 



「‥‥声を、出して‥‥こらえないで」
 利吉は、土井が自らの口を封じようとしていた手を取る。
「噛まないで‥‥傷になる」
 利吉の腕が絡んでくる。背中で激しく腰を使われ、土井は切れ切れの喘ぎを漏らした。
 利吉の動きが激しくなる。
「聞かせて‥‥聞かせて、先生の声」
 そうして‥‥よがりに上がる声を望まれて、穿たれるのも悪くはないけれど。
 『でかい声を出すな』口をおおった肉厚な手を、土井は思い出す。
 泣いても、やめてくれずに。
 上がる声さえ、こらえさせて。
 自分の体を使って、十分に快を愉しんでいった男を土井は思い出す。
 愛しもせず、かわいがりもせず、ただ、自分の体から、快を汲み取っていった男のことを土井は思い出す。
 愛しもせず、かわいがりもせず‥‥ただ、圧倒的な力で、自分を組み敷いた男のことを、‥‥土井は思い出す。
 ぶるり、震えが来た。
 利吉の手の中に、土井はしたたかに精を放った。

 


 それほど勘の鈍い相手ではないのは、承知していた。
 だから、
「大木先生と‥‥いまでも会ってますか」
 利吉に聞かれた時、土井はその見当違いを笑う気にはなれなかった。
 黙って見つめ返した土井に、利吉は暗い顔をそむけて答えた。
「‥‥知ってました。大木先生と、土井先生のことは‥‥」
「‥‥そう。知ってたの」
 暗い表情のまま、利吉は震える吐息をつく。
「‥‥知ってましたけど‥‥それでも、よかったんです。わたしが、先生のことを好きなんだから‥‥先生が、誰と付き合ったことがあっても‥‥今、先生がわたしを受け入れてくれるなら‥‥。でも」
 上げた利吉の瞳は苦渋に満ちている。
「‥‥答えて、ください、半助。‥‥今でも、大木先生と‥‥」
 会ってはいない。
 そう事実通りを答えてやれば、眼前のこの青年はどれほどよろこぶだろう。
 が、土井は指を二本立てて、利吉の前に突き出した。
「選べるよ、君には。‥‥今すぐ、荷物をまとめて、ここから出て、二度と来ないか。
それとも‥‥なにも気にせず、ここにいるか」
 許すか許さないか、二者択一を迫りながら、土井にはわかっている。この青年は「今」自分を捨てることなどできはしない、と。
 大木との関係が続いているとにおわせた土井の言葉に、利吉は青ざめる。
 そのこぶしが震えた。
「‥‥出て行けと‥‥もし、言われても‥‥行きません‥‥」
 声まで震えている。
「行きません。わたしは‥‥わたしは‥‥先生が好きです‥‥!」
 絞り出すような声に、土井は口元が緩むのを押さえられない。
 予想通りの反応を返して来るかわいらしさ。
「わたしも、君が好きだよ」
 抱き締められて、抱き返した。

 


 それから幾日もたってはいなかった。
 学園に大木が現れた。

 



「野村先生なら裏々山で実習中ですよ」
 職員室に現れた大木に、土井は告げた。
「ふむ‥‥」
 ぼりぼりと頭をかいて大木は言った。「土井。少し庭でもぶらつかんか」
「お供しましょう」
 中庭の池のほとりまで来て、唐突に大木は振り返った。
「利吉が来たぞ」
「‥‥そうですか」
「なんじゃ、おまえ、」
 胡乱そうな目で、大木は土井を見やる。「ずいぶん、いじめとるみたいじゃないか」
「人聞きの悪い」
「おまえとわしの間に、なにもなかったとは言わんが、人をダシに使うな」
「大木先生なら、さぞかし濃いダシが出るでしょうね」
 大木の言葉に土井は、しらっと答えた。
 それが揶揄なのか、それとも深い意味があるのか、と大木は眉をしかめて土井を見る。
「わしはこういう会話は好かん。おまえだって利吉に言い寄られて悪い気はせなんだんだろうが。それをいまさらな‥‥」
「いまさらですか」
「来たければいつでも来いと言ったはずだ。それでもおまえさんが来んかったのは、利吉のことがあったせいだろうが。ああ、ちがうちがう、そんなことを責めはせん。わしが言いたいのはな‥‥おまえさんは充分に利吉に応えとるんだから、なにもそうじゃないふりをすることはないだろうってことだ」
「‥‥あなたがそれを言いますか」
 顔を上げた土井の目が、光った。

 


「あなたは自分をダシにするな、とおっしゃった。じゃあ、大木先生ご自身はどうなんですか。‥‥わたしのことを当てつけに利用していなかったと、言い切れますか」
 土井の舌鋒に、大木は鼻白んだ表情で言葉を返さない。
 土井が詰め寄る。
「好きなら、そうじゃないふりをすることはない、そうおっしゃる大木先生はご自分に素直だとでも言うんですか。好きな相手なら勝負を挑むよりほかに、することがあるんじゃないですか」
 土井が語尾も鋭く叩きつけるように言葉を切ると、大木は呻いて天を仰いだ。
「‥‥なーにをいらついとるんじゃ、土井。‥‥確かにな、利用したと言うなら、わしはおまえさんの体を利用して楽しんだわ。それが今んなって許せんか」
「それを責めてはいませんし、お互い様だと思ってますよ。論点をすり替えないでくれませんか。わたしが言いたいのは‥‥」
「わしに惚れたか」
 ふたりはしばし、真顔で見つめ合った。先に視線をそらし、軽く肩をすくめたのは土井のほうだった。
「‥‥さあ、どうでしょう。野村先生のことが気にかかるのは事実ですし、あなたがたを見ていて面白くもないですが‥‥どうしてこの人達は素直になれないんだろうと思ってしまうせいなのか、多少はあなたに恋心があるせいなのか、自分でもよくわかりませんね」
「素直なあ‥‥」
 ぼりぼりと顎の下を掻きながら大木は嘆息した。
「まあ、おまえさんにそうやって責められるのも仕方ないわなあ。けどなあ、土井、利吉のように純粋に一途にはなかなかなれんぞ。‥‥それまでの経緯(いきさつ)もあればつまらんプライドもある、身動きがとれんようにもなっちまうのよ」
「わかりますよ」
 土井は苛ついた表情で同意を示す。
「私だってこどもじゃない。大木先生と野村先生のことはそれなりに理解してますよ」
「だからなにを苛ついとるんだと、さっきから聞いとろうが」
 土井は爪を噛みながら横を向いた。

 


「‥‥遊びたかったんですよ、本当は」
 口を切った土井の声は低い。
「あなたとバカスカ酒を呑んで、裸になって埒を明けて、遊びたかったんです。何度も遊びに行こうとして‥‥そのたび、あの子の顔がちらつく。あなたが言うように、純粋で一途ですよ、彼は。でもそんなの、若気の至りと同じもので‥‥何度も抱かせてやって好きにさせれば、すぐに飽きていってしまうんでしょうよ。‥‥そう思っていながら、あの子の顔が浮かぶと遊びに行くこともできない。かと言って、あの子と抱き合って永遠の愛を誓い合うような真似も、できないんだ、わたしには。‥‥そのくせ、その遊び相手には長年想った本命の相手がいて、遊び相手とは後腐れなく縁が切れればそれでいいのか、お世辞に口説きにも来てくれない。
 苛つかずにすみますか、これが」
「‥‥いや‥‥まあ、その‥‥」
 もごもごと大木が不明瞭な相槌を打つが、流れ出した土井の本音は止まらなかった。
「ようやく来たと思えば、年下の恋人の扱いが悪いと説教だ。どうすればいいんですか。利吉君はまだ18なんですよ、おまけに山田先生の一人息子だ。好きだ、好きだと言い合って、お互いを縛る誓いでも立てて証し立てに刀傷のひとつも交わしあえばいいんですか。いいですよ、あの子の言うことを真に受けて、幸せに酔ったとしましょうよ、あの子が可愛い嫁さんを連れて来た時にはわたしは白髪乱して泣きわめいてあげますよ」
「それほどの年の差はないだろうが、おまえさんたち」
 ついつまらぬ突っ込みを入れながら、大木は頭を抱えて座り込んだ。
 深い深いため息がその口から漏れた。
「‥‥つまりは‥‥おまえさんも目一杯、本気なわけだ」

 


 座り込んだ大木をしばらく見下ろしていた土井は、やがてくるりと踵を返した。
「部屋に戻ります。野村先生に来るように伝えておきますよ、後はお好きに。あまり校庭を荒らさないでくださいね」
 がしっとその手首を大木がつかんだ。
 振り返ればにやりと笑った大木がいる。
「待てや、土井。それだけ『誘ってくれなきゃイヤン』なことを言って人を煽っておいて知らんぷりはないだろうが」
「‥‥誰がそんな‥‥」
「利吉とのことはどうにもできんが、こっちならいくらでも応えてやれるぞ」
 立ちあがった大木はいつもの傍若無人振りを取り戻した横柄さで土井に命じた。
「早退届を出して来い。一緒に来い」
「なにを言って‥‥」
 抗議を上げる土井を、大木は人の悪い笑みで見返した。
「今日はハナからおまえに会いにきたんだ。野村は関係ない。どうだ、うれしかろ?」
「‥‥嬉しいですよ、頭が痛くなるほどね」
 大袈裟なため息をついてみせた土井である。

 



 酒を、呑んだ。
 したたかに酔い、笑い、求め合って裸になった。
 大木の厚く、張った胸板に圧しひさがれて、土井は苦しい。
 両の腕をひとつに束ねられて抵抗もできぬまま、好きに体を嬲られて、土井は苦しい。
 圧倒的な力と強引さ。
 その力と強さは、土井自身の苦しさや痛みをおきざりにさせて、土井を煽り連れ去ろうとする。
「板の間は痛いですよ」
「耐えろ」
「もっと優しく‥‥」
「うるさい」
「‥‥かげん、して‥‥」
「文句が多くなったなあ、おまえ」
 メリ、と土井の部分が裂けた。
「あああっ!!」
 土井を刺しながら、大木が背後で笑った。
「でかい声は相変わらずか」
 今日はごつい手が口をおおいに来ることはなかった。
「いいだけ啼いてみろ。‥‥ほれ」
 深く浅く中を穿たれ突かれ、土井は思う様、声を上げ、身をよじった。

 



 双方自堕落に放った残滓をあちらこちらにこびりつかせて。
 放恣な姿態で眠りをむさぼっていた土井は、夜明けの冷気に肌を震わせて目覚めた。
 窓の格子の隙間から、青紫に薄明るくなってきた空が見える。もう間もなく日の出だろう。
 起き上がろうとしたところを、後ろからまつわりついた腕に引き倒された。
「‥‥寝てろ」
 大木のくぐもった声が背後から聞こえた。後ろからすっぽりと抱きかかえられた格好の土井は、背中に大木の体温を感じながら目を閉じる。
「‥‥学園に戻らないと」
「走ればいいさ」
「‥‥どの口でそういうことが言えるんですか」
 後ろを向いて殴ってやろうかと土井は思う。腰のだるさはかなりなもので、身体を起こそうとしただけで身内に満ちた億劫さに今日一日が思いやられるというのに、その状態を作った張本人は素知らぬ振りなのだ。
 でも、そういうところが大木らしい。
 土井は肩に回った大木の手に手を重ねる。
「あのな‥‥」
 大木らしからぬ静かな響きの声がした。とても真面目で‥‥心の底に沈んで行く声。
 その声が語る。
「わしだとて、最初からあやつがこれほどの意味を持つ存在になるとは思っとらなんだ。気の合う友人だと最初は思い‥‥それが恋だと気づいた時にも、いつかは冷めてただの友人に戻って行くのだと思っとった。‥‥それがな‥‥気がつけばもう自分でも断ち切れぬほどの執着じゃ。熱くもない、急く気もない、でもな、大事な奴になっとった。
 人とのことは、草木と同じよ。育つにも枯れるにも時があり、時がかかる。野村とのことは知らぬ間にわしの中で木になっとった。それは時がたたねばわからぬことよ。
 土井‥‥決めつけるな。利吉もいずれは木に育つかもしれんぞ」
 少しだけ、信じてみろ、と大木は言う。
 朝の光に、大木の静かな声。似合わぬ組み合わせ、と思いながら土井は小さくうなずいていた。

 


「また呑みに来い」
 いつも変わらぬそのセリフに、土井は振り向いた。
「いいんですか、育つ木を踏み付けて」
「ふん」と大木は横を向く。
「家の中で大樹が育つか。嵐に吹かれ、人に踏まれて木は育つのよ」
 大木らしい勝手な言い分に思わず土井は笑い声を上げる。
「じゃあ、ダシにされても構わぬわけですか」
「やってもおらんことで焼き餅やかれるのはまっぴらじゃが、やることさえやらせてもらえれば、わしは不服は言わんぞ」
 覚えておきます、と手を振って、土井は外へと歩み出した。
 朝日の似合う青年の面影が浮かび、ちくりと土井の胸を刺した。

 

 

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