夏草燃えて

 

 

 

 もったいない、と誰にも言われた。
 体力もまだまだ盛り、技を生かしきる経験も積まれてき、忍びとしてさらなる熟達を目指せる、油の乗り切った今この時期に、もったいない、と。
 そう皆に言われても、野村雄三の決心は揺るがなかった。
 現場を去り、後進の育成に尽力したい、と。


 群雄割拠の戦乱の世。
 昨日の城主が今日には首を落とされ、姻戚関係にあるはずの国々が互いの国を攻め落とそうと戦をする。
 そんな時勢が、数多の忍びを輩出させた。
 伊賀の里、甲賀の里は言うに及ばず、山間にあり、他の産業に恵まれぬ寒村から多くの忍びの流派が生まれ、戦の世に活躍した。
 多くの忍びが多くの国に必要とされた。そんな中、野村のように、生まれ落ちたときから忍びとして育てられ、技と知識を仕込まれた者ばかりではなく、人より多少身の軽いのを見込まれて、忍びとしての仕事を任される者も多くあった。その多くは……体系的な忍びの技を学ぶ機会もないままに、便利な使い捨ての駒として、戦の中に散っていった。
 野村がある合戦のさなかに知り合った少年も……そうした忍びとは呼べぬ忍びの一人だった。


 名は、なんと言ったか。
 戦の中で手柄を立て、猫の額ほどの田畑を耕す父母へ褒賞の金を持って帰る夢を語る、その瞳の明るさだけが、いつまでも野村の記憶にはある。
 その少年は、おまえは身が軽い、大事な密書を届けてほしい、これは戦の趨勢を決する大事な仕事だと、蛍火の術の名も知らぬままに敵城へ使いに出されたのだ。
 野村の姿を見かけては人懐こく寄って来る少年の姿がないことに野村が気づいたのは、数日たってからだった。
 内通を装った偽の密書を持ち、わざと敵に捕まり、その懐にある密書によって、敵方に内輪もめを起こさせる蛍火の術。戦のさなかに、敵陣に疑心暗鬼による不協和音を生じさせ、有力な武将の力を殺ぐこともできるその蛍火の術は、しかし、その効果の大きさに比例して、忍びには酷な術だった。捕まったその忍びを待つのは苛酷な拷問だ。なんの目的で忍んできたと拷問され、さらに、その身に帯びたその密書が罠ではないのかと拷問される。そのまま殺されることすら覚悟せねばならない。
 その危険な仕事に、貴重な忍びを使うのはもったいない、上が考えそうなことだった。
最初から潜入がうまく行くはずのない未熟な忍びを使い、術のことは知らせずにおく。捕まって拷問されようと殺されようと、密書によって敵方を掻き乱すことができれば、上はいいのだ。
 技に長けた忍びであれば。敵方に十分不審を抱かせるまでは拷問に耐え、その後、命を落とす前に逃げ出して来ることも可能だが。
 あの少年にそれは望めぬ。使い捨てにされたのだ、と野村は唇を噛んだ。が、それも戦のならい、いちいち義憤を感じるようなことではないと、忍びとして鍛え上げられてきた野村の頭脳は断を下す。それでも野村は、狙い通りの敵の混乱に付け込んだ総攻撃の折りに、自軍の優勢を確認してからとは言いながら、用もない敵城の内部深くに潜入せずにはいられなかった。
 少年は、地下牢に打ち捨てられていた。
 欠けた指、残った指にも爪はなく、あらぬ方向に曲がった手足が、拷問の凄まじさを物語る。
 それでも少年は生きていた。
 虫の息ながら。
 野村の顔を認めて、血のこびりついた唇が、歪んだ。
 笑おうとしたのだ。
「……た、すけ……」
 助けに来てくれたんだ、と歯のない口が、声とも言えぬ声を上げようと動いた。
 少年の傍らの土が、その身から流れ出た血で変色している。
 野村が差し付けてやった竹筒の水を飲み下す力もない。
 それでも、まだ助かると思うのか……
 すでに死相の浮かんだ少年に、野村は囁きかけた。
「……楽にしてやるぞ」
 刃が地に突き通るまで、少年の胸を刺した。


 忍びの術のからくりも知らず。
 己の身を守る術(すべ)もなく。
 死期すら悟れず。
 少年の血を刀から拭い去りながら、野村は自分の胸が大きく喘ぐのを押さえ切れなかった。
 こんな、こんな惨めな死があってはならない。
 野村の、忍びとしての大成を捨て、後進の指導に回る決意はその時に生まれ、以後、揺らぐことはなかった。



 もったいない。
 忍術学園に就職を決めた時に、周囲が漏らしたつぶやきの意味は、野村にもわからぬではなかった。どころか、野村に一年遅れて、忍術学園に新しく採用されたいと一人の男が学園の門を叩いて来た時に、それは野村自身の口から漏れた言葉でもあったのだ。
「もったいなかろう」
 学園長大川渦正は、一年前、野村に向かった時と全く同じ口調同じ言葉で、新しい教師志望の男に向かって言った。
 学園長の庵に、頭の白鉢巻きがトレードマークらしいその男を案内して来て、そのまま部屋の隅に控えていた野村は、学園長のその言葉に男がなんと答えるか、興味深く、待った。
 男は答えた。
「ガキどもを一人前の忍びに叩き上げる。男子一生の仕事として不足はない」
 言葉尻はちがえど。
 それは一年前、野村が学園長に答えた言葉と同じだった。
 それに答えた学園長の、人をくったような口調での返答も、一年前と同じ。
「それはそれは……しかしの、それほどにやりがいのある仕事かどうか、保証はせんぞ」と。
 男は笑った。
「やりがいがあるように仕事をすればいいだけだろう」
 野村はその男に好感を持った。
 だから、廊下を今度は職員室へと案内しながら、野村にしては珍しく、踏み込んだ問を男に投げかけた。
「それでも、もったいないとは思わんか」
 じっと野村を見返してきた男の目は静かだった。
「ここの仕事はそれほどにやりがいがないか」
 野村は首を横に振った。
「ならばいいだろう」
 そしてフイと横を向いた男の様子には、痛みをこらえようとする人間の素振りがあった。
「……自分のケツもふけんようなヒヨコが、多すぎる」
 ああ、この男は自分と同じ痛みを知っている、野村の直観だった。


 その男、大木雅之助と野村雄三は、経歴や教師志望の動機、年齢が似通っているせいもあってか、すぐに互いに気を許すようになった。ただ、気を許し、信頼を置ける相手と双方思っているにも関わらず、彼らは表面的には大層、仲が悪かった。
 大木が互いの出身地を持ち出しては、なにかと野村に張り合おうとするせいだった。
「子どもっぽいマネをするな!」
 と野村が叫んでみても、甲賀出身の大木は、伊賀出身の野村と事あるごとに張り合い、つまらぬイタズラを野村に仕掛けては喜んだ。
 対する野村も、こいつはガキなのだと打ち捨てておこうと思うのだが、たとえばうどん一杯食べるのにも、相手が目前で、自分が二振りでおいた一味唐辛子を手に取ってこれみよがしに三振りすれば、なにくそとまた二振りしたくなる。ガッとうどんをかき込む相手を見れば、負けてなるかとうどんを束ですすりこみたくなる。
 またこの大木が子どもっぽいあおりが上手で、ちょっと自分が優位に立てば、
「ほれみろ。しょせん伊賀は甲賀の敵ではないのよ」
 と呵々大笑いして見せるので、つい野村も熱くなる。
「なにを言うか! 人の不意を打っておいて卑怯だぞ!」
 と叫んで返せば大木の思う壷。手裏剣が一枚二枚飛んで来るのへ、つい苦無を出して応じれば、さらに大木は喜ぶだけだ。
 そんなふうに……事あるごとに角突き合わせ、派手な立ち回りも演じながら。それでも、二人は友人なのだった。
 互いに人に優れた忍びの技がありながら、無知の中で死んで行く忍びとも呼べぬ忍びの存在に胸痛めて、第一線を退き、その技を伝授する側にまわり、さらにそれを、男子一生の仕事と誇れる、その似通った生き様が、二人を無二の親友にさせていた。
 二人は互いの選択を理解でき、また、互いの男としての姿勢にも、共感する部分が多かったのだ。



「わしゃあ、おまえに惚れとるかもしれん」
 大木がそんなことを言い出したのは、共に学園で教鞭を執るようになってから一年も過ぎていたころか。
 野村は眉をしかめて大木を見返した。
「よせ。気持ちの悪い」
 大木も唇をへの字に曲げた。
「うむ……気持ち悪いか」
「悪い」
 野村は即答した。
「おれは衆道は好かん」
「……そうか……好かんか……」
 大木はうなずき、しかし、と顔を上げた。
「そのツラでは言い寄られたことも多かろう」
 野村はじろりと大木を見返した。おのれの白い肌、女とみまごうばかりの細面で整った面差しは、野村にとって疎ましいばかりのものでしかない。
 大木の見るからに男らしい面構え、がっしりとした体格をうらやむつもりはなかったが、そうであれば避けられたトラブルも多かったろうにとも思ってしまう野村だった。
「ほうっておけ。ともかく、おれは衆道は好かん」
 大木はすねた子どものようにうつむいた。
「しかしわしはおまえに惚れたような気がする」
「気がするだけだろう。色街へ行って遊んで来い。忘れるわ」
 そしてさっさと大木に背を向けた野村だった。
 その時の会話はそれきりで、その後、大木が妙な色目を使ってくることもなかったので、野村はあれはやはり大木の一時の気の迷いだったのだと片付けた。
 それが一時の気の迷いなどではなく、大木があからさまな秋波を送って来なかったのは、彼なりの友への礼儀だったのだと野村が知ったのは、それからまたさらに半年後。
 いつものように校庭狭しと繰り広げた「腕だめし」の後、大木が地面をならしながら、言ったのだ。
「気のせいかとも思ってみたが、やっぱり本気のようじゃ」
「なんの話だ」
 大木はむっとした顔をして不思議顔の野村を見返してきた。
「わしがおまえに惚れとる話じゃ」
「おお。そう言えばそんな話があったか」
「野村!」
「なんだ」
 野村は大木の顔を見た。思わずため息をつきたくなったのは、その目が真剣味というやつをたたえていたからだ。
「わしと、いい仲にならんか」
 その目の色と同じ、真剣味あふれる声を、しかし野村は一言で返した。
「断る」
 大木はその答えを予期していたらしい。
「衆道が嫌いだからか」
「そうだ」
「惚れたおなごがおるわけでもないのにか」
「そうだ」
 取り付く島もない野村の返答に、大木は太くその息を吐き出した。
 野村の衆道嫌いは、野村の自我に関わる問題だった。今の秀麗な面差しが語るように、十代の昔、野村は紅顔の美少年だった。多くの男に言い寄られ、念者を持つ身となったが、その時の屈辱感は今も忘れ難い。自分は男なのだ、男として生まれ、育ったのだ。なにを女の身代わりにされねばならぬと、野村は唇を噛んで過ごしたのだ。もう二度と、こんな惨めな思いはしたくないと、ひたすらに力を求めた。
 成人して以後、だから野村は男としての自負を自分で守り抜いてきたのだ。
「男同士の同衾が、許せんからか」
 大木の重ねての問いに、野村はうなずいて返した。
「そうだ」
「……しかしな」
 大木は食い下がって来た。
「わしはおまえに惚れとる。男が男に惚れる、それもおまえは許せんのか」
 野村は自分の前に長く伸びる影を見つめた。……影ですら。大木のそれは大きく重く感じられ、自分のそれは細く頼りない。
「……ただ惚れると言うなら……惚れておればいいさ」
 苦く影を見つめながら野村は答えた。
「惚れておればいい。おれも、おまえを憎く思ってはおらん。しかし……わざわざにおれにそれを告げるというのは……おまえはそれだけで善しとはできんのだろう」
 大木の影が身じろぎした。
「単刀直入に聞く」
 野村は正面から大木を見据えた。
「おまえはおれといい仲になりたいと言った。それはおれを抱きたいということだろう。ちがうか」
 瞬間たじろいだ大木だったが、すぐに正面から野村に視線が当てられた。
「……そうだ。わしはおまえを抱きたいと思っとる」
「大木。おれにはそれは聞けん」
 二人はしばし、不倶戴天の敵のように睨み合った。
 相手を視線の鋭さで押し切ろうとするかのような、睨み合いだった。
「……雄三」
 酒を飲んでいるときと同じに、大木はその名で野村を呼んだ。
「わしはなにもおまえのその顔に惚れて、こんなことを言い出しているのではないぞ。おまえの男気というか生きざまというか……そういう、おまえ自身のものに惚れたからこそ、わしはおまえを好きだと言えるのよ」
 野村はうなずく。それはそうなのだろうと思う。大木はなにも、自分の女々しい外見にスケベ心を起こしてこんなことを言い出したわけではないだろう。それはわかる。わかるのだが。
「ならば、雅之助、おれに抱かれるか? かわいがってやるぞとおれが言い、おまえはそれでうれしいか」
 野村を見つめる大木の顔に、ゆっくりと笑みが広がった。
「それは、聞けんな」
 野村も大木に笑い返す。
「聞けんだろう」
「ああ。聞けん」
「そういうことだ」
「そういうことか」
 言葉はそれだけだった。
 しかし野村は、大木が自分と同じことを理解したのを感じ取った。
 西日に向かって思い切り眉をしかめ、目をすがめながら、大木はつぶやいた。
「……相手がおまえではな……きけん」
 そうだ、それが自分たちだ。
 相手を一人の男として認め、その相手に負けたくないと思う。友人であると同時に、ふたりは好敵手でもあるのだ。この相手にだけは負けたくない。その緊張とせめぎ合いが心地よいものだからこそ、相手を認める。だからこそ、負けたくない。
 たとえば、圧倒的な力の差やあるいは年齢の差、またそれが立場の差であっても、ふたりの間にどちらもが認める大きな違いがあれば。
 その時には、自分も大木の前に膝を折ることができるかもしれない。大木に征服されるのを諦めとある種の喜びをもって受容できるかもしれない。
 しかし実際には、彼我の間にさほどの差はなく、野村も大木もこの相手に押しひしがれるのはまっぴらなのだった。その上に。野村には男としての強い自恃があった。
 大木にも、それは伝わったのだと野村は思った。
 そして、互いが互いに、男としての自尊心をかけて負けられぬ相手だと、認めあうことができた……その時、野村はそう思っていた……


 が――
 それから、さらに数カ月が過ぎたある日――
 野村は大木に暴力で奪われた。


 その日、二人は学園にほど近い山中で、次の日に催される予定の試験に備えて、いくつかの罠を仕掛けて回っていた。
 忍びは風を読み、天を読む。間もなく雨が来ることはわかっていたから、二人は作業を急いでいた。が、読みよりも雲の流れがいくぶん早かった。山を下る前に、生い茂る木々の葉を縫って雨粒が落ち出し、見る間に空は暗くなり、木の下にいても大粒の雨が当たるようになった。
「ひどい降りだな」
「雨宿りするか。すぐ止むだろう」
 ふたりは手近にあった山小屋に駆け戻った。
「蓑を持って出るべきだったな。濡れたぞ」
「なに、すぐ乾くさ」
 言いながら、野村が忍び頭巾を取り上着を脱いだのは、濡れた衣で体温を奪われるのを嫌ったためだった。同じように頭巾を取り、忍び装束の上を脱いだ大木が、急に顔をそむけたのには、気づかない。
 粗末な板葺きの床ながら中央に囲炉裏が切ってあり、土間には薪も積んであったから、まずは火でも起こそうと野村は囲炉裏にかがみこむ。
 その時だった。
「…………!」
 野村は後ろから大木に抱きすくめられていた。



「何をする、離せ!」と言ったか。
「やめろ!」と叫んだか。
 咄嗟に出た制止の言葉を覚えていないのは、まさかの大木の行動に、動転させられたせいだろう。
 野村は大木をふりほどこうと身をよじった。が、後ろからの不意打ちという優位を、大木が無駄にするはずがない。野村は後ろからのしかかられた態勢で、両腕を抱き込まれ、肩をよじることしかできなかった。
「離せ! 離せ、雅之助!」
「いやじゃ、いやじゃ!」
「なにがいやだ! 馬鹿野郎! 離せっ」
 離すどころか。大木は片手ではしっかりと野村を抱き込み、もう片方の手では野村の股間をまさぐりだしている。
「やめんか……っ!」
 急所をいきなり握り込まれて、野村はぐっと身を折った。その野村の首筋に、大木が荒々しく唇をすりつけてくる。
「雄三……! 雄三! 頼む、頼む! おまえをくれ、くれ!」
「この……痴れ者がっ!」
 びっ! 音も高く、野村の袴が脇から裂けた。大木の手はさらに下帯へとかかる。
 野村は押さえ付けられた態勢のまま、思い切り首を曲げると、自分の腕を抱え込んでいる大木の腕に容赦なく噛み付いた。
「うお!」
 流石に力がゆるんだ隙に、腕を振りほどき、そのままの勢いで肘で大木の顔面を狙う。
 が。
 次の瞬間には、大木の手に首をつかまれ、野村は床に押し倒されていた。
 野村の歯に破れた大木の腕から、血が野村の顔に滴った。



    男たちは野獣に戻る。
    喉笛を破り、肉を喰らおうと。
    脚を折り、ひれ伏させようと。
    殴り、蹴上げ、噛んだ。
    優勢を得た牡は、猛る勢いで、獲物の腹を開く。
    劣勢に回った牡は、渾身の力で、牙を逃れようと吠える。
    ふたりは争う二頭の野獣となって、つかみ合い、かみ合い、殴り合った。



 後頭部を押さえられて、野村は板の間に這わされた。
 背にひねり上げられた右腕は、肩から抜けそうなほどに痛む。
 それでも頭を跳ね上げようとした野村は、思い切り顔面を堅い床板にぶつけられた。
 呻いた。
 大木の息が背中に荒くあたる。
 折り曲げられた形の両足の間に、大木の膝が割って入っている。
 両足の間隔が、その膝でさらに大きく広げさせられた。
「やめろっ……やめろっ雅之助っ!」
 ざらつく床板に向かって野村は叫んだ。大木が、堅く堅くその欲望と渇望にしこった肉棒を、しゃにむに野村の臀部の狭間に押し付け、割り入ろうとしてくる……
「するなあああああっ!」
 メリッ……
 野村の絶叫が消えぬうち……大木はついに、その男根で野村の体内に押し入っていた。
「っぐぅ……!!」
 固く歯を食いしばり、悲鳴を飲んだ野村を、大木がますます深くに身を進めながら後ろから抱き込んだ。
「雄三、雄三……!」
 大木の、今にも泣き声に変わりそうな、震えた必死の声が、耳元で野村を呼んだ。
「わしゃあおまえにほれとる……!」
 泣き声とも、悲鳴とも……その告白は身を裂かれる痛みとともに、野村の中に沁みこまされた。
「わしゃあ、おまえに、惚れとるんじゃああっ」
 大木の腕が、さらにきつく、野村を抱き締めた。


      *      *      *      *      *      *   



 無言で苦無を突き付けた野村に、大木もまた、無言で小屋を去って行った。


 体の傷は忍び装束の下に隠れるが、頬が腫れ、大きくすり傷のついた顔は隠しようがない。
「また派手にやりましたな」
 野村は朝の打ち合わせの職員室で、そんなふうに同僚の教師に声をかけられた。
 特に言葉を返しもしなかった野村だったが、次の言葉には目を見張った。
「大木先生にも困ったものですな。今日も行事が詰まっているというのに、いきなり辞職願いを出したそうですよ。いやまあほんとに、勝手というか子供だというか……」
 最後まで聞いてはいなかった。
 野村は職員室を飛び出していた。


 酔った時、一度だけ、大木が一言もらしたことがある。
「わしの生徒には、あんな惨めな死に様はさらさせん」
 と。
 その言葉を聞くまでもなく。生徒に忍びの技を教える大木はいつも真剣だった。己の技のすべてを、知識のすべてを、生徒に教え込もうとする大木は……いつも真剣だった。
 子ども好きなのだろう、担任ではない生徒達の面倒見もよくて……
 「男子一生の仕事」と言っていたのではなかったか。
 「生涯かけられる仕事」と言っていたのではなかったか。
 大木は学園長の庵の前に、小さな荷物を手に、町人のなりをして立っていた。
 もうすでに、忍び装束を脱いでいる……野村は走って来た足をゆるめて、静かに大木に歩み寄った。
 大木も静かに野村に向き直る。
「……たいがい、ひどい顔だな、お互い」
 口づけの代償に、唇に大きく裂傷のできた、青アザの残る顔で、大木は笑った。
「……学園を辞めるのか」
「うむ。教師を辞める」
 もう二度と教鞭は執らぬ、と。
 野村は大木をにらみつけた。
「一生の仕事ではなかったのか」
 答える大木は、その男には珍しい、静かなほほ笑みというのを浮かべた。
「……だから、だ。野村。詫びだ。受け取ってくれ」
 そして、大木はぐ、と頭を下げた。
「…………」
 野村は大きく肩で息をせねばならなかった。――この男は……自分がなにをしたか知っていて。男の尊厳を、力ずくで奪いねじ伏せた、その意味を知っていて。野村の怒りの大きさ、裏切られた思いの悔しさを知っていて。
 知っていて……だから、許せと。今までのすべてを捨てても打ち込みたいと選んだ道を、代償に、許せ、と。
 許せるはずがない。大木は裏切ったのだ。親友としての信頼も、その関係それ自体も、すべて裏切って、欲望のままに、野村をねじ伏せた。野村の男としてのプライドを打ちくだいた。許せるはずが……
 野村は奥歯を噛み締めた。
 忍びとして第一線を退く意味、後進の指導に回る意味、その重さを野村は知っている。忍術学園での教職が、なにを犠牲にして選び取った末のものか、よくわかっている。その、すべてを、いままた……たかが一夜の代償に……差し出すというのか。
「……おまえは、馬鹿だ!」
 野村は吐き捨てた。
「おまえは、大馬鹿野郎だ!」
 大木は笑った。
「おお。わしは馬鹿だ」
 大木は笑い……わしは馬鹿だと繰り返した。
「だから、また遊びに来るぞ。いいか」
 野村はひとつ大きく深呼吸し、くるりと大木に背を向けた。
「馬鹿の面倒は見切れん!」
 そして、付けた。
「……好きにするがいい」


 大木は忍術学園を去り……杭瀬村に居を構えた。
 彼が鍬(くわ)の 扱いにも慣れた頃……野村の唇の上には髭があった。
 その、男性性を誇示する髭が、野村の口唇を縁取るのを見た時……大木は一瞬、痛そうに眉をひそめ……いつもの軽口をたたくことはなかったという。

 



 大木、野村、ともに二十代終わりの頃の話――

                                    了

 

ずーっと書きたかった大木と野村です。
 なぜ大木は学園を辞めたのか、なぜ野村は髭をはやしているのか。
勝手に考えて妄想を繰り広げて、わたしの中では、
これが彼らのバックグラウンドになってました。……ほんとに勝手ですけど。
土井とイイコトやってる大木も、小松田くんにあったかくなってる野村も、
こんな過去や付き合いがあった二人なんですよー、わたしの中ではって、
ずーっと言いたかったんです。
もちろん、どの話でも、「わたしの中ではこんなん」って言いたくて書いてるわけ
ですけども、今回の大木と野村の話は、特に、いつか書きたい書きたいと
思ってた話でした。……あーすっとした……
お読みいただいてありがとうございました。

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