青葉さやけく

 

 

利吉は苛ついていた。
 樹間からのぞく空が青く澄みわたっているのにも、今日も暑くなるじゃないかと腹立
たしくなり、梢を渡る風が葉末を揺らすのにも、敵が潜む影がつかみにくくなるじゃな
いかと毒づきたくなった。
 利吉は苛ついていた。


「利吉、おなかがすいた」
「利吉、暑い」
「利吉、足が痛い」
「利吉、疲れた。もう歩けない」
 ほとんど二歩おきに、新しい不具合と不満を利吉にぶつけてくる子供を、利吉は振り
返る。歩きだして、まだ一刻もたたないというのに。
 ―――あの落ちこぼれ集団の一年は組でも、もう少し根性を見せるだろう。
 こんななだらかな山道の、どこが不満だ! 夜は柔らかな布団でぐっすり眠り、朝は
腹一杯、白い飯を食べて出てきているだろう! 山ひとつくらい文句言わずに越えてみ
ろ!!
 怒鳴りつけたいのを利吉はこらえる。
 これだからおぼっちゃま育ちは、と口の中でつぶやくにとどめて、正真正銘のおぼっ
ちゃまに笑顔を作ってかがみこんだ。
「若君。この山を越えれば国境(くにざかい)です。どうぞそこまではご辛抱下さいま
せ。追っ手のかかる心配が少なくなりましたら、休ませて差し上げますから」
「そんなことを言って、どこまで歩かせる気だ。もう足が痛いんだってば」
 口だけはあの小生意気なきり丸並みに達者だが、根性のなさはしんべヱ以下の若君は
口をとがらせる。
「利吉。おんぶ」
「‥‥またですか?」
「だって足が痛いんだから仕方ないだろう」
 利吉は黙って膝をつき、背を若君へと向ける。
 よいしょ、と背負い上げながら、いずれは一国の主となる身だろうに、これほどの大
事がわからぬのかと、利吉は苦々しい思いを飲み込んだ。


 利吉が預かるは、野心的な南隣の国から攻められ、国境からの砦をひとつまたひとつと
陥とされたこの国の、国主の一粒種。普通、こういう小国同士の争いであっても、ひと
つの大きな勢力の台頭につながる攻略は、周囲の国々の警戒を買い、またその国が陥と
されることで新たな危機に直面することになる隣国も黙ってはおらず、援軍が差し向け
られたりするのだが‥‥なにしろ侵攻が早かった。戦況は、友好関係にある周囲の国々
からの援軍が早いか本城が落とされるのが早いか、危ないところまで来ている。
 そんな中で、利吉の役目は大事な跡継ぎを守り縁戚関係のある北方の国へ、無事若君
を送り届けること。
 家を継ぐ大事な若君を、まだ若く実績も誇れるほどにはないフリーの忍び一人に、託
さねばならぬところに、この国の余裕のなさと追い詰められた窮状がある。
 もし、このままこの国が陥とされるようなら。利吉が守るこの若君は、お家再興の切
り札とも家臣たちの希望の星ともなるべき存在となる。
 ―――利吉は自分に預けられた荷の重さを思う。
 その責務の重さの自覚が、そのまま我がまま言い放題の若君への苛立ちになっていた。


 ごね続ける若君を、なだめすかしながら山道を行くうちに、谷川のせせらぎの音が聞
こえて来た。谷だ。
 対岸へは吊り橋がかかっており、その吊り橋の下を、ごろごろしている大岩を縫って
渓流が走っている。
 どうしたものか、利吉は思案した。
 橋を渡れば、早い。しかし、もし伏兵がいたら。狭い橋の上で挟み撃ちにされたら。
 利吉はあたりを見回した。
 時間と距離を稼いでおくのが得策か、万が一の危険に備えるが得策か。
 利吉は思案し、よし、と腹を決めると、若君の手を引きゆらゆら揺れる吊り橋に足を
踏み出した。
 橋のちょうど半ばまで来たときだ。
 利吉は対岸に人影が走るのを見た。振り返らずとも、背後にも殺気を含んだ気配が迫
るのがわかる。
 やはり伏兵がいたか、と利吉は己の判断の甘さに歯噛みする。
 あれだけ迅速に兵を進めて来た敵方が、城内に間者を放っていないはずがなく、戦の
周到さを見ても退路に兵を伏せておくぐらいの技は見せるだろう、と考えるのが正しかっ
たのだ。
 前方から二人、後方からも二人‥‥それぞれに矢をつがえて狙いをこちらに定めてい
るのを利吉は見取る。挟み撃ち。足場の悪い橋の真ん中にいる利吉たちを両側から射か
けて仕留めるつもりなのだ。
 ひゅう。
 風切り音を立てて矢が飛んで来た。若君を体の前に庇い込みながら利吉は手にした苦
無で矢を弾いた。
 それが合図だった。
 両側から集中攻撃が始まる‥‥。


 ここでおめおめやられては、わざわざに忍びに望みを託した城主とその奥方はどうな
る。利吉はきっと前をにらむ。
 忍びの優れたるはさまざまな薬を用いるだけにはあらず、多種多様な武器を自在に操
るだけにはあらず、人心を解し自在に操る技に長けたるだけにあらず。忍びの侍と異な
るは‥‥その体術において優れたること。その体、風に舞う葉のごとくに軽く、その
足、韋駄天のごとくに地を駆ける。
「若君、しっかりつかまって」
 左腕で若君の体をしっかりと抱えると、利吉は橋から身を踊らせた。


 飛んだ瞬間に、なにか焼け付く熱さが肩先をかすめて行った。
 頓着していられる場合ではない。利吉は橋げたに食い込ませた鉤縄をしっかりと右手
に握り締め、左腕には若君を抱え、千尋の谷、とまではいかないが、それでもはるか眼
下に見えていた岩打つ渓流がぐんぐんと目前に迫ってくるのを見ながら、着地点を測る。
 縄から手を離すタイミング、体を振る角度と強さ、どれを間違えても若君もろとも岩
に叩きつけられてお陀仏だ。ほんの数瞬に向け、利吉の神経は張り詰める。
 その勘は天性のもの、思い通りに反応してくれる体のキレは訓練のもの。
 ざん!
 体の両脇に白く水飛沫がたつのを見て、利吉はことの成功を知る。
 若君の体を己の体の上に受け止める、その衝撃などいかほどのことか。
 流されながら浅瀬をたぐり、利吉は岸に着くや走り出した。悔し紛れに放たれた矢が
一本二本と利吉をかすめた。


 追っ手が迫らぬことを確かめてとりあえず安堵したのが先だったか、小わきに抱えた
荷物の声に気づいたのが先だったか。
「痛い! 痛いってば! 痛いよ!」
 子供のかん高いわめき声に、利吉は足を止め、子供を降ろした。
「若君! どこかおケガを‥‥!」
 急場を抜けるに必死で、流れ矢が大事な若君に当たっていたのに気づかなかったかと、
利吉は青くなる。その利吉に、子供は指を突き付けてきた。
「お前が変な抱え方をするから、腕がおなかに来て痛かったじゃないか! なんであん
なに走るんだ!」
「‥‥なんでって‥‥お命を狙われていたんですよ! 逃げなければどうなっていたか、
おわかりにならないんですか!」
 脱力しそうになるのを利吉はこらえた。―――なにはともかく、この若君を隣国へ送
り届けねば‥‥。
 気を取り直し若君の手をひき、再び歩きだした利吉の左肩がズキンズキンと疼いた。
矢傷だった。たいしたことはないと言いたいが、触れた指先にべとりと血がつくところ
を見ると浅くもなさそうだ。ほかにも矢が掠めたか飛び降りた時にできたものか、あち
らこちらに血の滲む傷がある。いや、それでも若君の無事がなにより‥‥。
 そう自分に言い聞かせている利吉に‥‥。
「もう歩けないよ。着物がくっついて気持ち悪い。利吉、着替え」
 横柄な声。
 我がままもたいがいにしとけよ、と利吉は振り向く。
「‥‥お召し替えのお着物は用意してございませんよ、若君」
「なんでだよ! だいたいお前が悪いんじゃないか! 気持ち悪いんだってば! 足が
痛いんだってば! 利吉!」
 年端も行かぬ子供の駄々である。十になる子供と知っているから腹が立つのだ、こい
つはまだみっつよっつの子供並みなのだ、怒っても仕方ない、利吉は懸命に自分に言う。
 その利吉の自制を揺さぶるかのように、十の子供は足を投げ出して座り込んだ。
「もおだめだ。歩けない。足が痛い」
 見下ろす利吉の左肩がずきんと痛んだ。布を当てただけで手当らしい手当もせぬ傷が
またたらりと血を流した気がした。
 座り込んだその子供を蹴り飛ばしたい衝動を利吉は必死でこらえる。
 ―――こんなとき、こんな時、父上ならどうするだろう。
 肩で息をしながら顔を子供から背けて利吉は、自分の中の父親にすがる。
 ―――父上なら。
 は組の子供たちが、疲れて駄々を言い、もう歩けないと座り込んだら‥‥父は怒鳴る
だろう。「なにをしとるか!」と。かつて忍びになるための鍛練に弱音を吐いた自分に
怒鳴ったように‥‥「しゃきっとせんか! 馬鹿者!」と。
 まさに雷のような大声で、びりりと背筋を震わせる迫力で。
 その怒鳴り声には、体の中に一本の筋を通すほどの力がある。怒鳴られた者は、慌て
ふためきながらも、もうだめだと思った自分の体がまだ動くことに気づく。そして、そ
の怒鳴り声には‥‥。
 利吉は思い出す。
 あの怒声には、限りない愛情と厳しさがあって。怒られながらも、この人が見ていて
くれるのだ、ついていてくれるのだ、と腹の底がすとんと落ち着くなにかがあって。
 もし、今。自分が伝蔵の真似をしてこの若君を怒鳴りつけてみても‥‥この若君は泣
きだすだけだろう‥‥利吉は苦く思う。
 自分がこの子に対して「この大事になにもわかっていない」と思い苛立つと同様に、
この子もまた、「この大事にこいつは大丈夫なのか」と不安がり、その不安をぶつけて
きているのかもしれないと利吉は思いいたった。
 自分が見るからに頼れる偉丈夫なら、若君ももっと落ち着いてくれたかもしれない。
たった一人で国落ちしていく護衛としては、今朝、顔を合わせたばかりの青二才は心細
い相手でしかないだろう。
 ―――わたしが、もっと‥‥。
 父上のようなら。
 痛く心の中に響く声に、かぶさる声があった。
『大丈夫だよ』と。
 あたたかい声と優しい笑顔の。
『大丈夫だよ、利吉くんなら』忍術学園の教師陣の中では一番年の近い、父の同僚。
 利吉が一番弱みを見せたくない相手であり、それなのに何故か一番弱音を吐ける相手
でもある‥‥土井半助。
 彼なら、どうするだろう? 生徒が疲れて座り込んだら‥‥。
『どうした? 大丈夫か?』
 たとえ自分が矢傷を負っていても、笑って膝をつき、生徒の顔をのぞきこむだろう。
『足が痛むのか、見せてみろ』と。
 たとえ自分が血を流していても、生徒にはきちんと手当をしてやり‥‥。
 あの人なら。
 利吉はぶうたれて座り込んでいる子供の前に膝をついた。
 笑顔を作り、目を合わせる。
「どうしました、若君? 大丈夫ですか?」
 父の真似は、まだできない。でも。あの人の真似なら。
「足が痛みますか? 見せて下さい」
 たとえ、形だけでも、あの人の真似なら。
「ああ、マメができていますね。よく頑張ってここまで歩きましたね」
 驚いたように利吉を見ていた若君が、その一言に、こくんとうなづいた。
「足が冷える薬草を貼って差し上げますから、もう少し、頑張れますか? 御祖父様の
国まではもうしばらくです」
「‥‥おじいさまは‥‥」
 横柄でも声高でもない、初めて聞く素直な声だった。
「おじいさまは褒めて下さる‥‥?」
 利吉は笑みをたたえたまま、大きくうなずいて見せた。
「ええ、もちろん」
 くしゃっと若君の顔がゆがんだ。
「‥‥母上は‥‥? 母上も褒めて下さる? 母上もおじいさまの所にいらっしゃる?」
 胸をつかれた思いで利吉は眼前の子供を見つめる。‥‥まだ十歳。親元を離れるのは
どれほど不安だったのか。
「‥‥天に祈りましょう。またお父上、お母上と暮らせるように‥‥」
 うん、とうなずいた子供の頭を利吉は胸に抱き締めた。
 ―――土井先生、少しはあなたに近づけましたか‥‥?
 幼き者を支える強さに‥‥。


 それでもやはり、足が痛いの、歩けないのと文句を言う若君に。
 それでもやはり、少しは意地悪な気持ちも働いて。
「ではおぶって差し上げましょう。さあ、どうぞ」
 と、利吉は血に染まっているだろう肩口をそびやかして、若君に背を向けた。
「ああ、お召し物が汚れてしまうかもしれませんが、お許し下さい」
 重ねての嫌みに、若君が、
「もういい。歩く」
 本当に足が痛むのだろう、片足を引きずり引きずり歩きだす。
 見かねて今度は本心から、
「少しの間だけでも抱っこにしましょうか?」
 利吉が尋ねれば、ちらりとこちらを見上げた若君が、フンと鼻を鳴らした。
「慣れぬ無理はするな、利吉。後で疲れるぞ」
「‥‥‥‥」
 結局、子供の小面憎さに、さまで変わりはないのだった。


 ああ、父上、土井先生‥‥。
 偉大なる先人たちを利吉は思う。
 いつになったらあなたがたに追いつけるのか。
 肩が痛む。山道は険しく、遠い。
 懐かしく‥‥あたたかなあなたがたに、また会える時まで。
 きちんと顔を上げていなければ。
 利吉は声を励ます。
「さあ、若君。あとすこしですよ」

                      了

Next
Back
Novels Index