熱い手

 

「失礼します」



 昼下がりの職員室、少し淀んだ空気を気持ち良く破る、張りのよい彼の人の声。



「やあ、利吉くん」



 どきんと大きく脈打った心臓から、常より高い温度の血が全身に巡っていくのを感じながら、土井は明るい平静を装う。
「山田先生なら、授業中だよ」



「この時間、なら、正規の授業時間ですね。補習じゃないなら、父上の機嫌は大丈夫ですね?」



 身内並みには組の実情に詳しい彼は、そんな冗談口とともに、父親の様子を尋ねて来る。



「さあ? わからないよ?」
 土井も笑顔で応じる。……平静に、平静に。
 間違っても、顔など赤くせぬように。
 間違っても、合わせた視線を慌ててそらしたりせぬように。
「補習決定に、ツノを生やして帰ってみえるかもしれない」



「うーん」
 利吉は涼やかに整った顔をしかめて見せる。
「それはまいりましたね、ちょっとこみいった話をしなければならないのに」
 ……眉を寄せ、困った表情を作る彼。
 忍びの天才だと、齢18にしてすでに一流だと、彼を評する声はいつも高い。
 加えて、恵まれた容姿を持つ彼は、近寄りがたいほどの孤高を矜持としていても、おかしくないのに。
 実際は。その表情は土井が受け持つ十の子どもと変わらぬほどに豊かで、感情の表出はいつも自然で、取り澄ましたところがない。
 土井は思うことがある。
 彼が無表情のままでいても、人は……自分は、その造形の見事さに目を奪われ続けるだろう。
 その上に……明るく前向きな精神活動の結果として、豊かな感情がさまざまにその表情を変えさせるのを目の当たりにしてしまったら……どうやって視線を外せばいいのだろうか、と。



「……なら……」
 合わせた視線を慌ててそらすのも避けたいが、あまりうっとりと見つめ続けているようなのも、変かと思う。
 いや、それより。
 久しぶりに会う彼に、そろそろほんとに……平静を装うのが苦しいほどに、胸が鳴り出している。
 土井は手もとの書類を見るふりで、視線をそらす。
「実習の手伝いなんてどうかな? 山田先生は喜ばれると思うよ?」
「ああ! それはいい案ですね!」
 ぽんと手を打つ彼に、土井はすうっと身体の一部が冷えて行くように思う。
 ……ああ、また、これだ。
 自分から言い出しておきながら。
 彼がその、しゃんと張った背中を自分に向けるたび。
 言い様もない寂しさとも、冷たさとも言えるものが、身をよぎる。



 まったく。なにを。
 土井は自分を叱る。
 七つも年下。同僚の息子。
 その背中を向けられて、なにが寂しい、なにが不満だ。
 どうなれば自分はうれしいと言う?
 彼が背中を向けるどころか……その両手を広げて自分に向かって来てほしいなどと?
 馬鹿を。
 馬鹿を考えるんじゃない。
 夢想するにも、おごりが過ぎる。
 わたしは彼より七つも年上。父親の同僚。
 触って柔らかな頬も。透ける白い肌も。……初々しい所作も。
 なくして久しい、と土井は思う。
 彼なら。彼より若く美しく、彼よりはるかに華奢で、まだ何にも染まっていない……そんな恋人を傍らにすることができるだろう。
 見目麗しいだけではない、技に優れているだけではない。高い志と、あたたかくきめこまかな情緒を合わせ持つ彼なら。
 望めば。どれほどでも可愛い恋人を……。



 己を戒めるように。
 土井は、決して太くもなければ無骨でもない、繊細に優しく動く己の指を、手の中にぎゅっと握りこむ。



「……でも、やめておこうかな」
 不意に、すぐ傍らから声がした。
 土井ははっと顔を上げ、自分の手元を覗きこむ、利吉の顔がすぐ近くにあるのに、うろたえる。
「やっぱりやめておきます。ここで待っていても、父上はすぐに戻って来るでしょう?」
「あ、ああ」
 平静に、平静に。
 己に言い聞かせる土井自身を裏切って、震える息が声をにじませる。
「そ、そうだね。もう間もなく授業も終わるし……あ、そうだ! お茶をいれよう!」



 そう言って立ち上がりかけた土井は、次の瞬間にどきりと全身を強張らせる。



「待って!」
 利吉が土井の手を握っていた。



「お茶なんか、いいですよ、先生」



 利吉の手、利吉の体温。



 土井がやましさを覚えるのはこんなとき。
 ……すいません、山田先生……
 ……わたしは、あなたの息子さんの肌に……こんなにもときめいてしまう。
 ごめんなさい、ごめんなさい、山田先生……



「……近頃のは組は、どうですか? お仕事の邪魔でなければ……すこし」



 おしゃべりしませんか?



 利吉の言葉に陶然となる、自分を土井は叱るのだ。



 やめろやめろ、やめろ。
 七つも年下。同僚の息子。



 しかし土井の心臓は。
 跳ねるように鼓動を刻み出す。


 
 利吉くん、利吉くん、利吉くん………



 夢は見ないよ。分不相応は望まない。
 ただ、この一時(いっとき)。
 利吉……君の手が、熱い………。

 

 


<オマケ>


心なしか、目がうるんでいるのは、利吉。
「ああ……幸せってこういう気持ちを言うんでしょうか……」
土井は読んでいる本から顔を上げぬまま。
「ふうん……どうだろうねえ……?」
「……もう、今なら、わたしは死んでもいい……」と、利吉。
土井、変わらず本に目を落としたまま。
「……それは、困るな」
「え?」
「君に死なれたら、困る」
「……えっと、それは……?」
「だから」
言いながら、土井の手は頁を繰る。
「君が死んだら、わたしも生きてはいられない。だから君が死んだら困ると言った」

「……………」
「……………」

「……やっぱり、わたしは死んでもいいです!」
土井は大きく溜息をついた。

 

 

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