バケツを持って廊下で立たせて

 

 もう間もなくご飯が炊き上がる。
 予定より増えた夕餉の人数に、半助は献立を立て直す。
 ‥‥魚の干物は二匹しかないが‥‥かわりにかぼちゃの煮付けでも作り足そうか。
 ‥‥でも、仕事帰りで空腹だろうから‥‥やはりひとっ走り行って魚を買い足したほうがいいだろうか。
 その腹具合を心配されている本人は上がり框に腰掛けて、カマドの前で夕餉の支度に忙しい半助をにこにこと眺めている。
 にこにこ‥‥と形容してやるのは半助の思いやりだ。にやけて、だらりと締まりのない顔で、なんだか妙に嬉しそうに笑っている、と表現するのが正しい。それでも、その緊張感のかけらもない様子が、なにやら可愛らしく微笑ましくすら思える自分に、半助は『ほだされてるよなあ』と思うのだ。
 心身ともにきつい忍び仕事の疲れや澱(おり)を、こうして彼が自分のもとで癒せるならば、それでいい、と半助は思う。
 ‥‥こうして彼がくつろいでいられるのも、ほんの一時‥‥。
 いや、もちろん、彼の仕事のことでもあるのだが。‥‥より間近に迫った「危機」を半助は憂う。もう間もなく、半助の大事な教え子が、バイトから戻るだろう‥‥。
 いつもの「戦い」がまた繰り返されるのか、と半助はそっとため息をついた。


「たっだいまあ!」
 早朝から続いたバイトの連鎖に疲れもないのか、きり丸が大声あげて帰って来た。
「おかえり」
 にこやかに迎える半助に、「先生、今日ね‥‥」と話しかけたきり丸が、奥に目を向けると、途端に不機嫌そうになった。
「‥‥なんだ、利吉さん、また来たの」
「またで悪かったな、またで」
「たまにはちゃんと親に顔見せたげれば。そんな顔でも」
「‥‥学園に寄ってちゃんと父上には挨拶をすませてある」
「へえ。利吉さんって片親だったんだ」
 痛烈な嫌みを返して、きり丸は中庭に汗を流しに行く。
 ‥‥利吉が半助と深い仲になり、ことあるごとに半助のもとへ通って来るようになって一年と少し‥‥休暇ごとに半助の家に厄介になっているきり丸が、利吉と鉢合わせる機会は多い。きり丸の利吉への物言いは日増しにきつくなり、利吉も『大人の余裕』を気取る余裕がないらしく、かなり真剣にいがみ合う。
 三年生になって一段と背が伸び口調も大人びたきり丸に、利吉のほうが押され気味に見えることすらある。
「同じステージにたっちゃ駄目だよ」
 と半助は言うのだが。
「‥‥手伝います。茶碗でも運びましょう」
 気を取り直して利吉が腰を上げた。
「ああ、頼むよ」
 魚の焼け具合を見る半助の背後で、利吉が盆に茶碗や箸を用意する音が響く。
 が、間もなく。
「‥‥あれ?」
 棚を見ていた利吉が不審そうな声をあげ、それからがちゃがちゃと洗い桶に伏せてある器をあらためる気配がする。
「どうしたの」
「‥‥え‥‥いえ、茶碗や湯飲みが‥‥」
「足りないの?」
 半助も利吉と一緒になって棚をのぞく。半助ときり丸の茶碗や湯飲みはあるのだが、もともと多くない食器の数がさらに少なくなっている。
「売ったんだよ」
 顔を見合わせた二人の背後からきり丸の声がした。
「来るかどうかもわからない客用なんて場所ふさぎなだけじゃん。だから売った」
 やられた、と半助は額を押さえる。ここまでするか、おまえは。
「‥‥来るかどうかわからない客用‥‥?」
 利吉の声がはっきり低くなっている。
「それはわたしの分のことかな、きり丸君?」
「利吉さんの分なんて最初からありませんよ、利吉さん」
「‥‥ほう‥‥じゃあ不意の客にはどうするつもりだったのかな、きり丸君は。自分の茶碗を使わせてあげるのかい?」
「まさかあ。予告もなしにいきなり食事前に来る失礼な奴に、なんで自分の茶碗を使わせなきゃなんないんですか。隣のポチの皿でも借りて来ますよ」
「‥‥ポチってのは犬かい‥‥?」
「ええ。野良犬上がりのばっちい犬です」
 ぴし。
 利吉の額にさっきから立っていた青筋が音立ててはねた。
 言葉だけは「です・ます」調に整えながらも、さっきから、陰では右手の中指が一本立っていたきり丸もすでに臨戦態勢である。
「やめなさいぃっ!」
 半助の絶叫をよそに、拳の交差する二人であった‥‥。


 思えば、いつも「一言多い」とこぶしをもらうきり丸は、それはそれなりに、怒る相手への譲歩だったり、殴られることで謝罪をしている意味もあったのだろうか。
 山田や自分が振り上げたこぶしを、きり丸が避けるのを見た覚えはない。
 が、今。
 利吉が振り下ろすこぶしをひょい、とよけ、軽いフットワークで利吉の勢いの反対側へ回り込むきり丸を見ていると、どうもいつもおとなしく殴られるのは彼なりの謝罪でもあったように思われる。‥‥言い換えれば、きり丸は利吉に謝るつもりは全然ないということだ‥‥。
「‥‥この野郎!」
 よけられたことで、余計に腹を立てたらしい利吉に殺気に似たものすら走るのを見て半助は慌てる。
「落ち着いて! 利吉くん!」
 しかし、半助の制止が聞こえている様子はない。
「へ! 殴れるもんなら殴ってみやがれ!」
 不思議にきり丸の声は聞こえるらしく、「なにっ!」と利吉はすぐさま反応する。
 ‥‥すでに自力で稼いでいる一人前の忍者が、修行中の忍たま相手に本気を出すわけがない、そう思う、いや思いたい半助の前で、利吉はきり丸にタックルをかます。
「わ!」
 まだ体重の軽いきり丸は簡単に吹っ飛ばされて框に置いてあった、炊き立てのご飯を移したばかりの櫃にぶつかる。櫃が倒れる。白いご飯が土間に広がる。
「‥‥あああ‥‥ごはんが‥‥」
 嘆く半助の横で、きり丸と利吉の取っ組み合いは続く。焼いた魚を乗せた皿が飛び、みそ汁の鍋が櫃同様に中身をぶちまけて転がった。
 ぴし。今度青筋を立てたのは半助だった。
 取っ組み合う二人は気づいていない‥‥。
「‥‥利吉君」
 低く静かに呼びながら、半助は利吉の両肩を押さえた。
 が、上体を押さえられた利吉は膝を上げたかと思うときり丸目がけて蹴りを放った。
 すんでにその蹴りをよけたきり丸の足が、踏み石に引っ掛かり‥‥転びかけたきり丸の手が、数少なくなった茶碗と湯飲みを乗せた盆に当たり‥‥盆が飛んだ。
 飛んだものは落ちる。
 落ちた焼き物は割れる。
 半助の家の焼き物は全滅した‥‥。

 

 陶器群の割れる高い音に、利吉ときり丸がさすがに動きを止めた。
 気が付けば‥‥今日の夕飯はすべてに土がつき、食器は全部、土に帰る用意ができている。
 しん、と静まり返った土間に、静かに半助の声が響いた。
「‥‥出て行け‥‥」
 はい、と返事の代わりに、
「せん‥‥」
「はん‥‥」
 短い音が響いたが、半助は怒声でその声を断ち切った。
「出て行け!! 二人ともだ!!」

 

 半助に文字通りたたき出された利吉ときり丸はとぼとぼと道を歩いていた。
「おまえが茶碗を売るから‥‥」
「利吉さんがムキになるから‥‥」
 なじりあう声も元気がない。
 半助を怒らせた‥‥大事な人に追い出された‥‥二人はともに寄る辺ない寂しい気持ちと後悔を胸に道を行く。
「‥‥どうしよう‥‥」
 さすがに長い夏の日も、そろそろ暮れようかという頃‥‥空には夕焼けの残照が薄紅色に残っている。別に心細さを感じるような年でもタチでもない二人だったが、柄にもなく日の名残にため息が出たりもする。
 同時にほうっと息をはき、顔を見合わせればやはり憎たらしさに変わりなく、ぷい、と横を向いてみたりもするが、このままとぼとぼと歩いていても仕方ないのも事実だ。
「‥‥やっぱりさ‥‥新しい茶碗を買って帰るのが一番じゃないかなあ‥‥」
「‥‥そうだな‥‥」
 利吉はうなづき、懐を探る。
「‥‥きり丸、おまえいくら持ってる」
「‥‥持ってないよ」
「ちゃんと返すんだから正直に言え。今日のバイト代くらい持ってるだろうが」
 きり丸の顔がむっとする。
「ウソなんかついてねえよ。汗流す前に、縁の下の壷に入れたんだ。‥‥利吉さんはいくら持ってるの」
「‥‥持ってない」
「‥‥うそ‥‥」
「旅装を解いた後だったから‥‥」
「‥‥じゃ、オレたち‥‥」
 無一文‥‥その言葉が寒々と二人の間を通っていき、さらに意気消沈させようとばかりに、空いた腹の虫がくうっと鳴った。


 しばらく無言の二人だったが。
「‥‥手っ取り早く、稼ぐしかないな」
 利吉が言った。
「稼ぐって‥‥今から土方の真似や飛脚の真似なんかできねーよ」
 育ち盛りに食事抜きはつらいのだろう、きり丸が少々弱音を吐く。
 思案顔で首をひねっていた利吉がきり丸を振り返った。
「きり丸。おまえ、変わり衣はなんの柄だ」
「え‥‥女物の小袖だけど?」
 売る物によっては少女姿のほうがよく売れると、女装に抵抗のないきり丸らしい答えに利吉はよし、とうなずいた。
「手っ取り早く稼ぐぞ。きり丸、女装しろ」
 なにやら嫌な予感がするらしく、きり丸の腰が引ける。
「‥‥女装してどうすんの」
「悪いことはしない。いいから女装してみろ」
 じとん、と疑わしそうな目で利吉を見ていたきり丸だったが、仕方ないかと木の陰で手早く衣の表裏を変え、首に巻いた大判の手巾で頭をくるんだ。脱いだ袴は丸めておく。
「できたよ」
 声をかけたきり丸のあごに、くいっと手をかけて上向かせると、利吉は検分するようにその顔を眺めた。
「‥‥ふん‥‥悪くない。女装のほうがおまえ、年が上に見えるな、ちょうどいい」
「‥‥ちょうどいいって、なにが」
 不安なきり丸に、利吉はきっぱりと答えた。
「美人局(つつもたせ)だ。阿呆な男を引っかける」
「げえっ。利吉さん、本気!?」
「本気だ」
「‥‥そんな、いたいけな青少年になにをさせる気なんですか」
「こういうときだけ子供ぶるな。‥‥心配するな、危ないこともないし、変な真似もさせない」
「‥‥美人局って言えば、女が男に連れ込まれたり、突っ込まれかけたりした時に、相棒の男が出てきて、こら、てめえ、俺の女房になにしやがるって因縁ふっかけて金を巻き上げる、あれでしょ? よく知らないけど」
「‥‥よく知ってるじゃないか」
「やだよ、オレ。男ひっかけて暗がりに行ったあげくに利吉さんが出て来なかったら、オレ、どうなんだよ」
「ちゃんと出る。信用しろ」
「‥‥信用しろって誰を?」
「俺をだ」
 利吉は胸を張る。
「無理だよ。できない」
 きり丸も負けじときっぱりと答える。
「‥‥いいか、きり丸。日頃の恨みつらみと苛立ちと腹立ちはこの際、お互い置いておいてだな、今は土井先生の機嫌を直してもらって家に入れてもらうのが大事だ。いいか」
「‥‥うん‥‥」
「最悪、半助が怒ったままでも、金があれば宿もとれるし食事もできる。協力しよう」
 利吉の説得にきり丸はしぶしぶうなずいた。


 飲み屋や少々いかがわしい宿が軒を連ねる一角のはずれである。
 不安げに佇む少女姿のきり丸を物陰から見ながら、利吉はほう、と目を見張る。
 道端で立っているだけ、別にシナを作って見せたり、通行人に笑みを振り撒くわけでもないのに。飲み屋に向かう男たちが気を引かれたようにいちいち振り返って見て行く。
 確かにこんな時間に、まだ子供と言えるような年の少女が立っていれば気になるだろうが、男たちの目の中にはあからさまに性的な興味が見える。
 うつむき加減に立っている、その立ち姿にいいようのない色気があるのを利吉は不思議な思いで見る。
 ‥‥綺麗な顔立ちだとは思うが‥‥まだまだ色気とは無縁のこうるさいガキのはずだが、と。
 利吉が見る中で、何人かの男がきり丸に声を掛けて行く。肩に手を掛ける奴までいる。それをなんと言いくるめるのか、きり丸は何人かやり過ごした。そして何人目かに、少々太りぎみでよい着物を着ている、いかにも金のありそうな男が馴れ馴れしく声を掛けて来た時‥‥ちらりときり丸がこちらを見た。見えてはいないはずだが、利吉はうなづく。手筈通り‥‥きり丸とその男は、道から少し外れた木立の中に姿を消した。


「いやです、離して」
「ほらほら、悪いようにはせんから‥‥」
 きり丸の作り声と、男の下心たっぷりの猫撫で声のするほうへ、利吉は足音を忍ばせ近寄る。男の持つ提灯が木の間から揺らめいている間は焦ることもないが‥‥まあ、これぐらいで十分だろう‥‥。
「おい!」
 威嚇的な声を上げる。
「俺の妹になにをする!」
「お‥‥?」
 突然の利吉の登場に、男が目を丸くする。
「妹はまだ13、子供相手に何をしようとしてたのか、言えるものなら言ってみろ」
 そう言って利吉は男の胸倉をつかみ上げた。
 いいぞ、と利吉は思う。次は、こんな真似をされて黙ってられるか、あんたの家に行って談判させてもらう。それがいやなら金を‥‥。
「金‥‥」
 相手からそう言われて、利吉がやった、と思うか思わぬうちだった。
 男の汗ばんだ手が、利吉の手をつかんでいた。
「金、払うよ。あんた、いくらだ」
「‥‥はい?」
 つい育ちのよさが顔を出し、利吉は尋ね返していた。
「金、払う払う。あんた、買った!」
「あの‥‥」
 男はいつの間にか両手で利吉の手を握り締めている。
「いくらでもいい! いやあ、こんな綺麗な若衆がいるとはねえ」
 男の手がすっと利吉の腰に伸びた。
「‥‥‥‥わ!」
 ぐしっと尻の肉をつかまれて利吉は思わず大声を上げた。
 その後は鍛えた体の条件反射。利吉は男を背負い投げで投げ飛ばすと、
「逃げるぞ!」
 きり丸とともに木立を抜けて走った。



 一町以上を駆け通し、はあ、とようやく息をつく。
「ロリのうえにホモかあ‥‥」
 感心したようにきり丸が呟く。
「なあ、金儲けるチャンスだったじゃん」
「ばかを言え」
 利吉はむっとする。
「あんな男にいいようにされてたまるか。‥‥しょうがない、河岸を変えよう‥‥」
 が。
「オレ、もうやーめた」
 きり丸の言葉に利吉は唖然とする。
「‥‥やめたって、おまえ‥‥」
「やめた。帰る」
 あっさり言うきり丸に利吉はあわてる。
「や、やめて帰るって、おまえ‥‥半助は怒ってるんだぞ‥‥そんな‥‥」
「オレさあ、考えたんだけどさあ‥‥」
 慌てる利吉に向かってきり丸は、にや、と笑って見せる。
「どんな悪いことしてもさ、『ごめんなさい、もうしません』って百回書けば、先生、許してくれるんだよね」
 今度こそ、利吉は声もない。そんな、そんなことでおまえ‥‥と心だけで叫ぶ。
「だってさ」
 きり丸の笑みが深くなった。
「オレは生徒で先生は先生じゃん。ちゃあんと謝れば許してくれちゃったりするんだよね」
 ずるい! と利吉は叫びたい‥‥。
 ふふん、ときり丸は笑う。
「じゃあ、オレ、さき帰るね。それともさあ、利吉さんもオレと一緒に書く?」
 利吉は思わず想像する。ごめんなさい、もうしません、と紙に百回書く自分‥‥。
 情けない、情けないぞ、利吉。
「‥‥いや、いい‥‥」
「そう? じゃあオレは帰ります。利吉さん、おやすみなさい」
 丁寧に、十分に嫌みったらしく頭を下げるきり丸に、利吉は最後の意地を見せた。
「ああ。気をつけて帰りなさい」


 ‥‥ああ、土井先生‥‥。
 許してもらえるなら、なんでもします。わたしがあなたの生徒なら。なんでも、なんでも。‥‥恋人としてみっともないことでも、あなたの生徒であったなら。あなたに許してもらえるのなら。わたしはなんでもするでしょう‥‥。
 ああ、土井先生‥‥バケツを持って廊下に立ちます。だから許してください‥‥。
「‥‥言えるか、ばか」
 一人自分につっこむ利吉の前に、夜道が白々と延びていた‥‥。

 

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