不埒―ふらち―

 

 中洲に打ち上げられていた利吉を発見したのは、六年生だった。


 意識が戻らない。
 全身に散る矢傷や刀傷、肩と背中に残る大きな打撲傷。どれも致命傷になるほど深くはないのに。利吉の意識は戻らない。
 ――追われたか
 枕辺に座り、半助は青白い利吉の顔を見つめる。
 村雨城で二カ月に及ぶ潜入工作の仕事だとは、恋人の口から聞かされていた。利吉が流されて来た川の上流にあるのは、まさにその村雨城。
 ――利吉……
 もう誰も君を追ってはいないよ? ここは君の父上と、……わたしが勤める忍術学園だよ? 君は逃げ切ったんだ。もう誰も君を傷つけない。目を……覚ましてごらん……
 半助の、余人をはばかりながらも熱心なささやきにも、利吉の意識は戻らない。


 だが――
 意識が戻らぬ間の憂いなど、実際、利吉が目覚めた後の痛みに比べれば、まだしも、であったか。
 保健室の隅に寝かされて三日目。不意にぱちりと目を見開いた利吉は、のぞきこむ半助と目が合うが早いか、もがくように布団からまろびでると、部屋の隅に四肢を縮めてうずくまった。
 せいせいと、早い息に肩が上下している。
「利吉、くん……?」
 わけのわからぬ半助が名を呼び近寄ろうとすれば、びくりと躯を強ばらせながらも威嚇するようにこちらを睨みつけてくる。
「利吉……?」
 半助に対してだけではない、利吉は飛んで来た山田に対しても同様に、恐怖に顔を引きつらせながら、飛びかかろうとするように身構えた。
 その利吉の不思議な反応を、新野は『記憶喪失』と診断した。
「己が何者であるのか、周りの人間が誰であるのか、記憶がなくなってわからなくなっているのですよ」
 新野の説明に、山田も半助も声がない。
「言葉は多少は覚えているようですが、どうですか、三、四歳児並みの理解力といったところでしょうか」
 そして、痛ましげに新野は付け加えた。
「忍びとしての心構えは染み付いているのでしょうねえ……物音や見慣れぬものに対してひどく敏感だし、歩く時にも無意識に足音を殺していますよ」
 記憶はないのに、神経のとがらせ方だけは忘れぬのか。半助は痛みをこらえて眉を寄せた。


 記憶のない利吉はひどく用心深かった。
 それが忍びとしての習い性と思えば納得は出来るものの、本来、利吉がもっとも安らげる場であり、相手であるはずの山田や土井のいる学園の中で、精一杯に気を張っている利吉を見るのは、正直、つらかった。
 驚かさぬよう、怯えさせぬよう、皆が心を砕いた。
 そんなある日のこと――
 不穏な影を捉らえたのは、やはり六年生だった。
「学園に不審者が侵入しております」
 どうやらそれも複数らしいとの知らせに、教師陣は一様に気を引き締めた。
 その、学園上げての警戒の中で、襲われたのは保健室だった。
 頭の中身はもちろん、怪我も治り切らぬ利吉が養生する部屋に、賊は殺到した。
 警戒心だけは人一倍ながら、身体が覚えている以上の複雑な動きはできない利吉である。小刀を構える姿はさすがに様になっているものの、では、相手に突きかかるのか、それとも逃げるまでの時間稼ぎにそれを使うのか、判断のつけようもない利吉は、ただ小刀を握り締め、侵入者に対峙した。新野は襲撃者に誰何の声を上げながら、手を広げてそんな利吉を庇った。
 山田と土井が保健室に飛び込んだのは、そのさなか。
 的確に狙いをつける山田の手裏剣と土井の刀さばきに、襲撃者の黒い姿は次々と窓から外へと飛び出す。追って、山田が走り、土井が跳ぶ。しかし、身の軽い襲撃者たちは追い詰められる前に、学園の塀を越えて逃れて行く。
 次々と塀を越える黒い影。だが、最後の一人はそれに続こうとはせず、追う山田と土井を振り返って立ち止まった。
「……山田伝蔵殿とお見受けする」
 忍び頭巾を被り、顔半分を隠した男が、低い声を発した。
「いかにも。わしが山田だが、」
 スキは作らぬよう身構えながら、山田が応じる。「わしに用があって、このような無体を働かれたか」
 男はゆっくり首を横に振る。
「忍術学園に無体な侵入を試みた無礼はお許し願いたい。故あって身分素性は明かされぬが、決して学園に対して害意を持つものではない」
「では、何用あって?」
 男の目が細くなる。
「山田利吉殿は、貴殿のご子息であられるな?」
 伝蔵がうなずくのを待って男は続ける。
「我らは今より二カ月前、とある仕事をご子息に依頼した城の者。つまびらかには申せぬが、依頼の内容が他に漏れても困るほどの重大事をご子息に託したものと思われよ。さほどの重大事であれば、ご子息からの首尾の連絡を主従ともども一日千秋の思いで待ちおりしが、幾日待てど、ご子息からはなんの便りもいただけぬまま」
 ひとつ大きく、伝蔵は深呼吸する。
「――つまり、利吉に裏切りの恐れあり、と?」
「そう解釈するが忍びの常と存ずる」
 伝蔵は深く険しい縦じわを、眉間に刻む。
「事情をうかがえば、お疑いはごもっとも。しかし、利吉は今、物忘れの病にかかっております。仕事の首尾はおろか、この父の顔すら見忘れる有り様」
 つまらぬ言い逃れに聞こえることと思いますが、と付け加えた伝蔵に、男の目にはっきりと同情の色が浮かんだ。
「……先程の利吉殿のご様子。尋常な様とは思われませなんだ」
 男はつぶやき、しかし、と続けた。
「どのような事情であろうと、我が城の命運がかかる大事。忘れたと言われて捨ておけるものではない。利吉殿が裏切られておらぬと言う確かな証しは、こちらが依頼したものを頂戴できて初めて成る。それがかなわぬならば……」
「……事情を知る者は生かしておけぬ、と」
 伝蔵の言葉に黒装束の男はうっそりとうなづく。
 常は平静な伝蔵の顔に、焦りが浮かび、額に油汗が浮いた。
「……利吉が……もしも本当に貴殿らを裏切っているのなら、討たれるのも仕方ない。だが、真偽も確かめられぬ今の状態で殺されるは、父としてあまりに不憫。……せめて、今しばらくの猶予をいただけまいか」
「猶予とは……いかほど?」
 痛みをこらえるように、じっと眼を閉じた伝蔵が、ゆっくりと顔を上げる。
「……一カ月。もしも、この間に利吉の誠が証されぬ時は……わしが、この手で」
 父の痛みが通じたか。男は深くうなずいた。
「では、一カ月」
 黒い一陣のつむじ風のように男が去った後も、山田と土井はそこに立ち尽くしていた。
 ――もしも、一カ月たって利吉の記憶が戻らなければ……?
 同じ恐怖に胸を焼かれながら。

   *   *   *   *   *

「入りなさい」
 うながされて、ようやく利吉は恐る恐るといったふうに入り口から中をのぞき込む。
「大丈夫だよ?」
 半助はにっこりとほほえみかける。
「君はここで……わたしと暮らしていたんだ。もっとも君は仕事で飛び回っていたし、わたしも学園で寝泊まりすることが多かったから、それほど毎日一緒に寝起きできていたわけではないけれどね」
 利吉が不審そうに眉を寄せる。……記憶を無くしてからこちら、人や状況を説明するたび、利吉は同じ表情を浮かべる。唯一、ああそうなのかとでも言いたげな安堵にも似た表情を浮かべたのは、伝蔵を「父上だよ」と説明した時で、記憶の底に残るなにかがあったのか、「父上……父上……」噛み締めるように伝蔵の顔を見つめて繰り返した。
 新野の言うとおり、幼子の時の記憶はぼんやりとだがあるらしい。
 新野にも半助にも警戒が先に立つような利吉だったが、伝蔵にだけは「父上、父上」と無邪気になついている。そうやってなつかれている伝蔵が……しかし、己の手元に置くより、半助の家での暮らしのほうが利吉の記憶を取り戻させるには有効かもしれないと、苦しい決断を下した胸の内を、半助は思う。
「本当に子どものままならばともかく……今の、というか、記憶をなくす前の利吉にとって、わしの存在がどれほどのものであったか……ヤツが大事に思うもののそばにあったほうが、記憶は戻りやすいのではないかと思います」
 黙認の形であった自分と利吉の仲について、山田が語るのは初めてで。そんなふうに思われていましたかと、半助は赤面しながら、じっとりと汗をかいた。
「思い出させてやって下さい。頼みます」
 一カ月という限られた時間に、己に託されたものの重さ。
 その重さごと、半助は記憶のない利吉を伴い、家へと帰って来たのだった。


 利吉はどこか落ち着かない。
 時折、物問いたげにチラリチラリと半助を見る。
「どうしたの?」
 竈に火を起こし、夕餉の支度に取り掛かりながら、半助は尋ねる。
「…………父上は……?」
 声の質は記憶をなくす前と変わらない。少し甘い、響きのよい、若い男の声。だが、話し方ひとつで同じ声でもこれほど印象が変わるものか。たどたどしい口調に、半助は幼子に対するような笑みを誘われた。
「父上はいないよ。ここはわたしの家だから」
 利吉が困ったようにうつむく。
「……母上が、来る?」
「母上も、来ない。ここで君は、わたしと二人で暮らしていたんだ」
 利吉はますます困ったように首をひねる。かすかに眉をひそめたその横顔の秀麗さは以前とまったく変わらない。だが、落ち着かなげな目線と態度は、やはり年端もいかぬ子どものもの。
 ようやく何か思いついたのか、利吉が少し顔を輝かせる。
「土井先生……兄上」
 優しく半助は首を横に振る。
「わたしは君のお兄さんじゃない」
 とたんに利吉の顔は暗く沈み、混乱を浮かべる。
 『土井先生の元でゆっくり忘れていたことを思い出しなさい』と伝蔵に言い含められてやって来た利吉だったが、なぜ土井の家なのか、なぜ土井と二人なのか、疑問が渦を巻いているらしいのがその表情からうかがえる。
「後でゆっくり話そうね」
 とは言いながら。いたいけな子どもの世界に生きているらしい利吉に、どうやって「大人の付き合い」だった自分たちのことを説明すればいいのか。
(もしかして、これはけっこうな難題なんじゃ……)
 気がついても遅い。
 このままずっとご飯が炊き上がらなければいいのに。半助は思った。


 もとから行儀のよい子だとは知っていたが。
 向かい合った膳で、利吉は指先をぴんと伸ばして両手を合わせ、「いただきます」律義に小さく頭を下げてから左手でつまんだ箸を、右手に持ち替えた。食器の音もほとんど立てぬ。
 さて……
 この行儀のよい子どもになにをどう説明すればいいのか……
 ぐずぐずと長引かせた食事の片付けも終わり、きちんと膝を揃えて待つ利吉の前に、半助はため息をつきながらあぐらをかいた。
 せかすようなことは言わない利吉だが、その目は納得のいく説明を待ってじっと半助を見つめている。
「……その……なぜ君が、ここでわたしと暮らしているかという説明だが……」
 それは――君がしつこくわたしに付きまとい、好きだ好きだと繰り返した揚げ句に、ついに躯を重ねる間柄にまでなったせいじゃないか。一時の気の迷いだろうといなす自分に、君が「わたしの気持ちは未来永劫変わりません」噴飯ものの誓いを立てて見せ、同居にまで粘り込んだせいじゃないか。
 それなのに、君はいけしゃあしゃあと、記憶をなくしました、あなたは一体誰ですかとわたしの前に現れて、家族でもない自分たちがどうして同居しているのか、納得のいく説明をしてみせろと言うわけか。
 いいかげんにしろ。
 ……そう、言い捨ててやれればどんなにすっとするだろう。
「土井先生……」
 記憶はなくとも気配には敏い利吉が、半助のこわばってしまったらしい表情に怯えた色を見せる。
「あ、ああ。……悪かったね」
 慌てて笑顔を向けてやりながら、半助はふっと胸を過ぎた寂しさに、それを口にした。
「半助」
 えっと驚いたように利吉が目を見開く。
「君はわたしをそう呼んでいたんだ。……土井先生、じゃなくて」
「…………」
 わからないと利吉の目が言う。
「君は、わたしのことを、半助と呼んでいた」
 自分たちは対等なのだと主張するように。自分たちはそれほどに近しい仲なのだと主張するように。……あなたはわたしのものなのだと主張するように。
 ズクリ……ここしばらく忘れていた疼きが、背を走った。
 振り払って半助は笑顔を作る。
「呼んでごらん。馴染みのある音じゃないかい?」


 半助、半助とつぶやきを繰り返す利吉に、半助は悟られぬようにため息をつく。
 名前ひとつで、これだ。
 どうやって二人が恋仲だったとわからせればいいのか。
 ――君はわたしのことが好きだったんだよ
 この美貌の若者に七つも年上の男がそう告げる、そのあつかましさに顔から火が出そうだ。
 ――君はわたしのことを愛していると言ってね、一緒に暮らそうと……
 己の口で言えと言うのか。いったいどんな顔をすればそんな恥ずかしい台詞が口にできるのだろう。
 もういっそ。このままでいいじゃないかという気すら起きてくる。
 父を覚えていたようには、自分のことを覚えていなかった利吉。それならそれでよいではないか。無理に男同士の不自然な恋のことなど思い出させずとも。このままでいれば、利吉は今度は可愛らしい娘を生涯の伴侶に選ぶかもしれないのだ。
 道を誤っていた利吉が正道に立ち戻れる、これは得難い機会だ。
 それは確かに一理ある。
 自分などに血迷っていた前途ある若者が、記憶をなくし、あるべき姿に立ち返る。
 それでいいじゃないか。
 ……だが。
 許された時間は、一カ月。
 その一カ月の間に利吉自身が己の潔白を証明できねば、利吉の命はない。正道だなんだの……『君は勘違いしているだけだよ』……利吉の気持ちからも自分の気持ちからも、逃げている時間は、ない。
 半助は心を決める。
「……わたしたちはね」
 静かに切り出す。
「恋仲だったんだよ。……わかるかな? わたしたちは、普通の夫婦のように、ここで暮らしていたんだ」
 意味のわからない言葉を聞いたように、目瞬きを繰り返す利吉。
 鳶色の瞳が不思議そうに自分を見つめ、空を見つめ、そのたび、絹糸のようになめらかな髪が、光を弾く。
 ――この、前途有為な若者を、こんな理由で死なせるわけには、いかない……
 怯えさせぬよう、そろりと手を伸ばして半助は利吉の手を握る。
「……おいで。教えてあげよう、わたしたちのことを」


 芯を短くした灯りを部屋の隅に、ひとつ、置いた。
 仄暗さの中、半助は着ているものを一枚ずつ、脱ぐ。
 利吉は一組しか敷かれていない布団を不審そうに眺め、半助のことは寝巻にでも着替えるのかとでも思っていたらしいが、半助が下帯まで取ったところで、戸惑ったように横を向いた。
「……君も、脱いで」
 半助が低い声で促すと、顔を真っ赤にして振り向いた。
「ヘン……ヘンッ!」
「……変じゃないよ」
 歩み寄って、半助は利吉の頬にそっと手を当てる。至近距離で、動揺を映しているその瞳をのぞき込む。
「利吉くん……人を好きになるって、どういうことか、わかる?」
 コクコクと、利吉は慌ててうなずく。
「好き……父上も、母上も」
「……そうだね、それも『好き』だよね」
 でもね、と半助は続ける。
「もっと別の『好き』があるんだよ……恋をして、ひとつになりたいって思う……そういう『好き』があるんだ。好きな人の裸を見たり、触ったりしたいって思う、そういう『好き』が」
 だらりと身体の横に垂れたままの利吉の手をつかんだ。持ち上げて、己のうなじから肩、そして胸へと滑らせる。利吉は半助が動かす手の動きを驚いた目で追うばかり、嫌がりもしないが、その長く形のよい指が意志を持って半助の肌を撫でることもない。
 懐かしい暖かさの、けれど、よそよそしいその指に、半助は萎えそうになる気持ちを奮い立たせる。
「……君は……こんなふうに、わたしに触るのが、好きだった」
 胸から腹、下腹をかすめて、太股へ……半助は利吉の手を滑らせた。
「……思い出さない? わたしの肌を……覚えていない?」
 尋ねながら、声が震えてしまうのを半助は止められなかった。
 ――本当に、君は忘れてしまったのか。忘れられるのか。あれほど……あれほどむさぼった、わたしの肌を? あれほど……熱く抱いた、わたしの躯を……?
 半助の声の調子に、なにを聞き取ったのだろう……利吉は今度は自分で両手を持ち上げると半助の肩を撫でた。腕を撫で下ろし、胸板をさすった。
 しかし、その手には愛撫の熱心さはなく。なにか馴れぬものの感触を確かめるような、こわごわした様子が強い。
 ひどく女々しいことをしているような虚しさが、半助の胸を満たす。
 ――これは、本当に、利吉の記憶を取り戻すのに必要な手順なんだろうか。自分は……ただ、利吉の手に焦がれて……快感を得たくて……こんなマネをしているんじゃないのか……
 それを否定できるほど、己の躯が枯れてはいないことを半助は知っている。ついさっきもだ、記憶をなくした利吉と向かい合いながら、躯の奥がずくりと疼いた……
 そんな半助の胸の内を利吉は知らぬまま……
「……うん」
 生真面目な様子でうなずいた。
「気持ちいい。……土井先生……半助、さらさら」
 肌の滑らかさをそんなふうに表現する利吉に、思わず笑みが漏れた。
「うん。君の肌も、さらさらなんだよ?」


 恥ずかしがって嫌がる利吉を脱がせ、裸にした。
「おふろ……?」
「風呂ならさっき、湯屋に行ったろう? お風呂に入るんじゃないよ」
「……新野先生も、裸、見る」
「そうだね。でもこれは治療や診察でもない」
「…………」
 困惑して利吉は半助を見つめる。
「……好き、のこと?」
「そうだよ」
「好きは、ヘン」
 断言する利吉に苦笑が漏れる。
「……そうだね、変だね」
 考えてみえば確かにそうだ。大の大人が、子どもがじゃれるように真っ裸になってくんずほぐれつアンアンハアハア、確かに変だ。
 ……変だけれど。
 とても大事で、気持ちのよいこと。
 半助は利吉の背に腕を回すと、ぴたりと胸と胸を合わせるように抱き締めた。
「ど、土井先生……っ!」
「半助。半助だよ、わたしは」
「はんっ、」
 慌てた利吉は半助を引きはがそうと腕を突っ張る。
「いいから!」
 少しきつい声で叱った。「じっとしなさい。痛いことも怖いこともしないから」
「…………」
 ようやく利吉はおとなしくなったものの、その躯は緊張して堅い。
 なだめるように、その広い背中を撫でた。……懐かしい、肩の張り、背中の線……
 躯は、変わらないのに。懐かしい体温も変わらない、肌の湿り、匂い、手触り……なにも、なにも変わらないのに。その腕が半助の背に回り、抱き返してくることはない。
 言いようのない寂しさが身の内を染めて行く。――利吉の記憶が戻るまで……癒されることはないだろう寂しさ。
(わたしはこんなにも、君に依存していたのか……)
 思い知らされる。
 だけど。
 寂しさにうずくまっているわけにはいかない。空しさに立ち止まっているわけにはいかない。
「……あったかくて、気持ちいいね……」
 利吉の耳に囁きかける。なまぬるい吐息が耳をくすぐるのがいやだったか、利吉がぎゅっと肩をすくめた。
 ――なにも覚えていない君
 愛欲に溺れた記憶を持って、疼く躯を持って、純真無垢な君に『思い出せ』と迫る……わたしはなんてあさましいのだろうね……
 半助は利吉の肩口に顔を埋めた。そこは……変わらず、あたたかく、たくましく……半助が涙を押し止どめるのを支えてくれた。


 その晩はそれが限界だろうと思われた。
 半助は寝間着を着たがる利吉を「今夜だけだから」となだめて、素裸のまま、狭い布団に二人で入った。
 腕や足を絡めるようにすると、利吉は窮屈を感じるのか、しばらくもぞもぞと落ち着かなげだったが、やがて、規則正しい寝息を立て出した。
 半助は、その無心な寝顔に置いていかれるような寂しさを感じるしかない。……学園では利吉は保健室で寝起きしていた。その前は仕事で二カ月の不在。長い孤閨の後にようやく、待ち望んだ恋人その人と、ひとつ布団に休んでいる。
 勝手に躯が火照るのはどうしようもない。
 いっそのこと、背中に利吉の体温を感じながら一人で溜まったものをしごき出そうかとも思ったが、感覚の鋭さだけは変わらない利吉の眠りを破りそうで怖かった。一人、厠で抜くことも考えたが、中庭までのこのこ出て行く間抜けさを思うと情けなさが先に立つ。
 もうこれは悟りを開くしかないと、差し込む細い月の光にぼんやり浮かぶ利吉の整った顔を見つめる。
 ――生きていて、よかった……
 記憶などなくとも。自分のことを忘れていても。こうして、生きて、傍らにいてくれる……もうそれだけでいい。
 半ばは自分に言い聞かせながら、半助は眠れぬ眠りを、無理に己に強いた。


 夜の間ずっと起きていたような気がするのだが、朝方、深い眠りにつかまったらしい。
 目覚めると、まじまじと自分を見つめる利吉の瞳が間近にあった。
「あ……おはよう……」
 目をこすると、利吉がかすかに口元をゆるめた。
「……半助……」
 確かめるように、呼ぶ。
「うん?」
 優しく返事をすると、口元の笑みが顔全体に柔らかく広がった。
「……気持ち、いい」
「……え」
 嬉しそうな笑みを浮かべたまま、利吉はもぞりと動いて半助の胸元に擦り寄って来た。
 なめらかな絹糸のような髪が、半助のあごの下をくすぐる。
 ――そうか。人肌のあたたかさか……
 一晩、添い寝した、その暖かさを利吉は喜んでいるのだと半助は思い当たる。
 利吉が胸元から、いたずらっぽく目を輝かせて見上げてくる。
「……半助、父上?」
「ちがうよ?」
「半助、母上?」
「ちがうよ?」
「半助、恋仲?」
 ついに半助は吹き出した。
「それもちがう。恋仲は間違いないけれどね、恋人というんだよ?」
「恋人」
 噛み締めるように呟いた利吉が、にこりと笑った。
「恋人、好き」
「わたしも、君が……」
 好きだよ、の声が嗚咽に飲まれて声にならなかった。片手で目をおおい、唇を噛み締めて泣く半助を、利吉が不思議そうに見つめていた。


 どういう理解なのかは恐ろしくて問い正せないが、利吉は半助と自分が同居していた事実と、今また一緒に暮らす必要を納得したようだった。
 男同士の恋愛をどう思うのか。
 今の利吉の頭の中で、普通の夫婦がどんな形で理解されているのか、恋愛の意味が果たして理解できているのか。問い詰めればややこしいことになるのは間違いなさそうで、半助は利吉が納得したという事実だけを有り難く頂戴して、細かいところは触れないことにした。
「好き、する」
 これもまた、いったいどういう理解なのか。
 利吉は半助とのスキンシップ全般を「好き」で括ってしまった。
 調理の途中の半助に、背中から抱き着いてくる。
「好き、する」
「今はご飯の支度の最中だから、ちょっと待ってね」
 苦笑いでいなせば、ふと半助の手元をのぞきこみ、芋でも転がっていれば、
「好き」
 笑顔で指さす。
「そうだね、お芋、好物だったね」
 芋と同じ括りなのかと思うと全身から力が抜けるような気がしたが、ゼイタクは言うまいと思う半助である。
「好き……する」
 利吉は本を読む半助の髪をいじる。
「ごわごわ」
 癖のある半助の髪に容赦ない形容をくれながら、利吉は半助の髪に指を埋め、その筋の通った高い鼻梁を、半助の横顔にこすりつけてくる。
「好き」
 うれしそうに笑いながら。その瞳は明るく邪気なく輝いて、半助を見つめる。
「…………」
 もうなにを言えばいいのかわからない思いで、半助はその利吉の手を取る。
 一本一本、指先に小さく口づける。
 おもしろがった利吉が、もう片方の手を差し出してくる、それへも、手の甲と手の平に唇を落とす。
「ひゃ!」
 手の平へのキスがくすぐったかったと見えて、利吉は高い声を放った。かまわず、二度三度と口づけを落とせば、無邪気な笑い声が立った。
「半助も!」
 仕返しのつもりなのか、利吉は半助の手を取り、ちゅ、ちゅっ、ちゅっ! 唇を押し当てる。
「くすぐったいよ、利吉」
 笑って抗議すれば利吉は大喜びで、半助の首にかじりついて来た。
 ちゅ、ちゅ、ちゅっ……ところかまわずキスの雨を降らせる利吉に、半助は「降参、降参!」大声を上げた。
「だいしょうりっ!」
 どこで覚えたのか、そんな台詞とともにこぶしを振り上げる利吉に、瞬間、目を奪われ、半助は重心を崩した。
「あ、わっ!」
 利吉を抱えるように仰向けに倒れれば、目を丸くした利吉が胸の上にいる。
 ――あまりに、見慣れた角度の……あまりに、見慣れた顔……
 だが……
 誘うように目を閉じても、唇にはなんの訪いもない。かわりに、
「半助、痛い?」
 優しく案じる声が届いて、半助の胸は詰まった。


 そんなふうに、暮らしに馴染み、半助に懐いても、記憶は戻らない。なんとかしなければ……
 それは大義名分だったのか。
 それとも、己の卑しい欲望のせいだったのか。
 半助にはどちらとも断じがたい。
 最初の夜にすっかり人肌の心地よさに味をしめてしまったらしい利吉は、次の夜から、自分からさっさと裸になると半助にも布団に早く入れと催促するようになった。その夜も、利吉はいつものように真っ裸になって、やはり裸の半助の腕を引いた。
「好き、する」
 明るく輝く、子どもの瞳。どこかおぼつかない舌足らずな喋り方。
 なのに、その躯は伸びやかに成長した、美しい青年のもの。
 ――記憶を取り戻さねばという義務感か。それとも……満たされぬ躯が欲したか。
「……今日は、もっと、好きをしようか」
 気がつけば、淫猥な響きで半助は利吉にささやきかけていた。
「もっと……好き?」
「そう、もっと……」
 さらになにか尋ねようと開きかけた唇を、半助は唇で覆った。
 なにも覚えていない素裸の利吉の上に押しかかり、その唇を吸い上げる。
「は、んっ……!」
 驚く利吉に、低く命じる。
「舌を出して」
「半助……」
「舌を出して」
 こわごわ、赤い舌が唇の間からのぞく。
 唇で挟めば、それだけでその柔らかい肉塊は驚いたように引っ込んでしまう。
「だめだ。ちゃんと出して」
 不安に満ちた目が半助を見上げる。きつい目線で促せば、おずおずと舌が差し出されて来た。
「引っ込めちゃ、だめだよ?」
 釘を刺して、半助は己の舌をぞろりと利吉のそれに絡み合わせた。利吉は言われたとおり、必死に舌を差し出し続けている。
 ――なんだかんだ言いながら……記憶をなくす前の利吉もそうだった。半助の言い付けは守ろうとする素直さ。半助が怒れば、飼い主の不興を買った犬のように小さくなってしまう従順さ。そして……あなたが好きですと言い続ける、一途さ。
 今また、半助に押しかかられて舌を差し出す利吉は、記憶はないままに、半助の胸を苦しくする。その変わらない素直さで。
 なにかがあふれそうに胸が苦しくて、半助は利吉の舌を口中に吸い込みながら、乱暴に唇を擦り合わせた。利吉の口腔を舐めまわし、唇を、舌を、甘噛みした。
「ん、んんっ……は、ぁふっ……!」
 苦しげに利吉が息をつくのにも煽られて、二カ月としばらくぶりに味わう利吉の唇に半助は夢中になった。
 そして……ふと気がつけば。
 半助の行為に怯え緊張していたばかりの利吉が、いつの間にか、その腕を半助の首に回し、しがみつくようにしながら、しかし、しっかりと半助を自分のほうへと引き寄せていた。怯えていたはずの舌が、今は自分から半助の口腔へ躍り込み、熱心に、歯列と言わず頬の内側と言わずねぶりまわって。
 思わぬ激しい口づけになっていた。
 ぴちゃ、じゅ……っ、濡れた音が絶え間なく漏れる。
「…………」
 互いの唾液で濡れ濡れと光る唇の間から、乱れた息をつきながら……至近距離で見つめ合った。利吉の鳶色の瞳はもう潤んでいる。
「……半助、好き……!」
 乏しい語彙の中からの、精一杯の言葉。
「……わたしも、好きだよ」
 同じ言葉を返せば、うれしそうにほほ笑む。
 その股間が。
 先程から常にない熱をはらんで堅く大きくなっているのを感じ取って、半助はそろりとそちらへ手を伸ばした。
「半助……?」
「いいから……気持ちよくするだけだから……」
 そこを包むように手にすると、ビクリと大きく利吉の身がはねた。
「半助! お、おちんちんっ! ダメッ!」
「ダメじゃないよ」
 耳元でなだめるようにささやく。
「気持ちよくするだけ……大丈夫。……まかせて」
 敏感過ぎる先端は避けて、優しく握り込む。まだるっこしいほどゆっくりと、その手を上下させた。
「うあっ? アアッ、ふ、うぅ……っ! あ、んっ……! ふぅっ、う、んっ!」
 利吉の口から、乱れた息とともに切なげな声が立て続けに漏れた。
「……やッ! は、半助っ! へ、へんっ!」
 叫んで、そこを握る半助の手をはがそうとする利吉。
 半助の胸のうちに、そんな利吉への哀れさとともに怒りにも似たものが湧いた。――こうまでしても、思い出せない? それほどきれいに忘れてしまえるものなのか?
「……覚えていない? 君とわたしは、ずっとこういうことをしていたんだよ? こんなふうに……いやらしいところを弄りあって……」
「半助……!」
「ほら、」
 あれほど熱く睦み合ったのに。君はなにも覚えていないと? ――怒りなのか欲望なのか、嘆きなのか……わからないままに半助は躯をずらすと掛け布団をはぐった。
「見てごらん。君の……おちんちん」
 ソコは……半助の手に擦られて、天どころか、利吉の顔のほうに先端を向けてそそり立っている。半助がツボを心得た動きで二、三度、手を上下させると、開いたカサがヒクリと震え、鈴口からトロリと滴がこぼれた。
「アッ、アッ!」
 焦った声を漏らした利吉の腰が、逃げようとするように蠢いた。
「お、おっきぃ……へん、へんっ!」
「変じゃない」
 勃起して大きさを変えた己の性器から、そしておそらくは、そこを中心にして焼け付くような熱さと疼きで湧く快感から、逃げようとする利吉を、半助は押さえ付けた。
「おっきくなるのも、ジンジンして痛いみたいなのも、全然、変じゃないんだ。利吉……本当にイヤならもうやめるよ? やめてもいいの?」
 涙のたまった眼で利吉は半助を見つめる。
「……じゃあ、やめようか」
 手を離すと、いやいやをするように首を横に振った。
 ――君が忘れてしまったのは……わたしのことだけじゃないんだよね……
 今度ははっきりと哀れさが半助の胸を浸した。
 どんなふうに気持ちよくなれるのか……どうしたら愛し合えるのか。
 利吉はそれすらも忘れてしまっている。
 ――忘れられたわたしが哀れなのか……忘れてしまった君が哀れなのか……利吉、君はどう思う?
 胸の中で、記憶をなくす前の利吉に語りかける。
『あなたのことを忘れてしまうなんてありえません』
 でも現に、君はなにも覚えていないよ?
『じゃあ、思い出させて?』
 笑いを含んだ淫靡なささやきが聞こえた。
 促された気がして、半助は懐かしいその利吉自身を、大きく開いた口の中に、咥えた。


 先端の小さな割れ目を舌でくじり、竿の部分をねっとりと舐め上げた。
 その間も、間断なく手での愛撫も続けていたら、すぐさま、口の中に青臭いえぐみがこぼれ出して来た。
「も、だめっ! だめっ!」
 必死に逃げようとする利吉に見せつけたい気持ちもあって、寸前で半助は口を放した。
「うぅっ!」
 内股を引きつらせ、胴震いしながら……利吉は白濁を撒き散らす。茂みを汚し、腹の上にまで、その粘りのある白濁は飛び散った。
 呆然とそれを見つめる利吉の目が、見る間に潤んだ。
「……きたない……」
 もうほとんど泣き声で放たれた利吉の言葉が、半助の胸を刺した。
 ――汚いって言うの?
 当然と言えば当然の言葉だったかもしれない。愛し合うことを忘れた利吉が吐き出した精を汚いと言ってしまうのは。
 だけど……
「……汚く……ないよ……」
 懐紙で腹の上に散ったそれを拭き取ってやりながら、半助は言った。声が震えてしまうのが、自分でも情けない。
「汚くなんか……ないよ。……わたし…わたしたちは……汚くなんか、なかったよ……」
 こんな、こんなふうに……性愛のマネ事をしても、利吉の記憶は戻らない。こんなふうに……愛し合ったその行為の断片をマネても、寂しさは埋まらない。
 寂しさ、虚しさが涙になってポタポタとこぼれ落ちた。
「……わたしたちは……汚く、なんか……」
 なかった、と続けた言葉が泣き声になって高く裏返った。
 利吉が意識を取り戻してから今日まで。声を上げて泣いたことはなかった。涙がこぼれても、唇は噛み締めていた。だが、今はもう……こらえるだけの力がない。
 声を上げて、半助は泣いた。
 拳で膝を打って、泣いた。
 泣いても泣いても、『泣かないで下さい』優しく抱き寄せてくれる腕がないのが悲しくて、泣いた。
 泣いて……泣いて……
 ふと、耳元で誰かが一生懸命、なにか言っているのに、気が付いた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 目を上げれば、潤んで歪んだ視界の中で、利吉がやっぱり涙をぽろぽろこぼしている。
「ごめんなさい。……恋人、きたなくない。……半助、好き。……ごめんなさい……」
 つたない言葉で。利吉は懸命に半助に伝えようとしていた。ごめんなさい、汚くなんか、ないです、泣かないで……
 記憶はないくせに。その一途さだけは変わらなくて。
「利吉……」
 呼びかければおずおずと、その腕が半助に回されて来た。
 確信に満ちた力強さはなくても。あたたかな抱擁。
「半助、好き」
 うん。その言葉を噛み締める。
「……わたしも……君が、大好きだよ……」


 落ち着けば、大の大人が真っ裸で抱き合って泣いている、その状況がおかしくて。
 涙で頬を濡らしたまま、半助は思わず吹き出した。
 つられて、利吉も笑い出す。
 こつん。額をぶつければ、こつん、笑ってぶつけ返してくる。
 ――記憶が、あるとか、ないとか。こだわっていた自分が、少しバカらしく思えた。
 記憶があろうと、なかろうと。
 わたしたちは、一緒に泣ける、笑える。……それで、いい。

   *   *   *   *   *

 月が変わった。
 期限まで、もう幾日もない。
 利吉の記憶は、戻らない。


 明日、伝蔵が来ると言う。


 夕餉はキノコの炊き込みだよと告げたら、利吉はうれしそうに笑った。
「ほかに、なにを作ろう? なにがいい? 君の好物を作るよ?」
 尋ねれば、利吉は半助の顔を指さした。
「ん?」
「好物、半助」
 ああもう、ほんとにこんなところは変わらない……
「じゃあ、わたしを食べちゃう?」
 からかえば、利吉は困った顔になる。
「食べたら……半助、死んじゃう?」
「……君に食べられて死ぬんなら、本望だよ」
「死ぬ、だめ」
「……そうだね、だめだね」
 でもね……利吉、君がいない世界に生きていても、仕方ないんだ。一人、この世に残っても、もうわたしには意味がない……
 半助の物思いは袖を引く利吉に破られた。
「半助、好物は?」
 その瞳に浮かぶ熱心な光に、半助は利吉が待っている答えを口にしてやる。
「わたしは利吉くんが好きだよ?」
 いつもならここで破顔する利吉が、しかし、笑わなかった。しごく真面目な顔で問を重ねてくる。
「おれ、好き?」
「好きだよ」
「……おれ、今と、前と、どっち?」
「え?」
 かすかにじれた色が浮かんだ。
「今と、前と、ちがう。半助、どっち好き?」
 記憶をなくす前の自分と、記憶のない今の自分。どちらが好きかと利吉は半助に迫っているのだった。
「……どっちも好きだよ? だって、どっちも利吉くんじゃないか」
 だが、利吉はくっと眉を寄せて半助をにらむようにする。
「どっちも、ない。一番、いっこ」
『どっちも好きだなんて、そんなのは詭弁です。いいですか、半助。一番というのは、ひとつしかないから一番なんですよ』
『気に入りませんね。それがたとえ、記憶がないわたしであっても、わたしの意識ではない意識で動かされているわたしを、あなたがやっぱり好きになるなんて』
「半助」
 答えを迫る利吉の瞳の真摯さは、記憶があろうとなかろうと、利吉自身のもの。変わらない。
「……わたしにとって、君の記憶があるとかないとか……そんなことはもう、意味がないんだ。わたしにとって、君は君だよ? 世界でたった一人の……大切な人だ」
「……一人?」
「うん」
 ようやく表情をゆるめた利吉に、半助は語りかける。
 ――君だけ、君だけだよ……


 父である伝蔵にそれをさせるにはしのびないとは、きれいごとだった。
 伝蔵がいたら止められてしまうというのも、きれいごとな気がした。
 半助は胸の奥深く潜む、ひどくエゴイスティックな部分に気づいている。
 ……邪魔されたくない。
 利吉と二人の、時間を、空間を、想いを。
 利吉の父親である伝蔵にも。
 利吉の最期の時。
 傍らにいるのは、自分でなければならない。
 自分の最期の時。
 いてほしいのは、利吉だけ。


 今日はこれを着て寝るんだよと、まっさらの白い夜着を差し出したら、利吉は最初、不思議そうな顔をしたが、それでも素直に袖を通し、いつもと同じように、半助の胸元で丸まるようにして寝入った。
 夜半。
 半助は布団の下に隠しておいた小柄を取り出した。
 苦しませぬよう、一息にと思う。
 だが、狙いをつけて小柄を構えると、一気に命を断つのが薄情なことのように思われてくる。長く苦しませたくはない。だが……この世に別れを告げる暇もなく、命を奪われるのが果たして本当に幸せか?
 ――君の、最後の息まで、ちゃんとわたしが見届ける。だから、君も……この世にお別れを言う時間が欲しいよね……
 小柄を置き、半助は利吉ににじり寄った。
 安らかな寝顔。
 利吉は寝顔まで綺麗だ。
 ――わたしも、すぐ逝く
 白いうなじに両手をかけた。
 喉仏を挟むようにしながら、ぐっと首を締め上げる。
「……っ!」
 カッと利吉が目を見開く。見る間に、その顔が異常な赤さに染まって行く……
「……ぐ、ぅ……」
 声にならない低い獣じみた唸りが利吉の喉の奥から絞り出されてくる。
 なにが言いたいのかと、思ってしまったその瞬間を狙ったように、利吉の膝が半助の腹部にめりこんだ。
「あッ!」
 不意を突かれて思わずのけぞると、素早く利吉は布団から這い出てしまう。
 げほっ、げほっ、ごほっ!
 喉元を押さえて苦しげに息をつく背中に、仕損じた、の思いが湧く。
 置いてあった小柄を手にする。今度こそ、苦しませない。利吉の背中を狙って体重をかけた。
 だが。
 ガツッ! 振り向きざまの利吉の肘に、小柄ごと、半助は跳ね飛ばされていた。
 え……
「どの城の手の者だっ!」
 不審はすぐさま、確信に変わる。
「言えっ! なぜ俺を狙う!」
 胸倉をつかまれながら、半助は喜びのあまりに、きつく、きつく、目を閉じた。


 夢なら、二度と醒めなくていい……


   *   *   *   *   *

 聞けば……利吉は村雨城ゆかりの……そこは守秘義務で、どのような縁かは明かさなかったが、なんにしろ浅からぬゆかりを持つ城から、仕事を依頼されたのだそうだ。
「どうしても、あることの証拠がほしいと言われまして」
 それを盗みに村雨城に潜入し、首尾よく目当てのものは手中にできたが、脱出の途中、城の者に追われる羽目になったのだと利吉は語った。
「ちゃんと追われる途中にモノは隠したのですが、それを伝える間もなく、追い詰められてしまいました。……そうですね……わたしに仕事を依頼した側からすれば、こんなものを欲しがったとバレた時点で命運は尽きますからね……その証拠が手に入らないなら、わたしごと消してしまいたかったことでしょう」
 いっそさばさばした口調で、自分が命を狙われた経緯を説き明かした。
「ご迷惑を、お掛けいたしました」
 伝蔵、新野、半助の前できちんと膝を揃えて、自分の不始末を詫びた利吉であった。
 ……が。
 改めて、半助と己の住まいである家に戻って来た利吉は、仏頂面を隠そうともせず、家のあちらこちらをのぞき込んだ。
「……どうしたの?」
 尋ねれば、ちらりとこちらを見るものの、またすぐ、すねたように視線を横に投げてしまう。
「わたしはなにか、君の気にさわることをしたのかな」
 やんわりと追求すれば、しぶしぶと言った感じに口を開いた。
「……一カ月」
「え?」
「一カ月、記憶のないわたしがここであなたと暮らしていたと、父上が言っていました」
「ああ、そのほうが早く記憶が戻るんじゃないかと考えて……」
「わたしのためですか」
 ぴしりと言う利吉の瞳に険のある光が宿っている。
「わたしのためだとしても、不愉快です」


 半助としては目を丸くするしかない。
「不愉快って、なにが?」
 利吉がむっとしたように唇をとがらせた。
「わからないんですか?」
「わかるわけないじゃないか」
「あなたは、わたし以外の男と一カ月も暮らしたんですよ!」
 はあ? なにを言ってるんだ君は。口ではそう意外そうに返しながらも、やっぱりそれか、と半助はため息を隠す。
「君以外の男と暮らしたりするわけないじゃないか。記憶をなくしていても、君は君だろう?」
「記憶がない時と、ある時では、別ものです」
 憮然として利吉は言い切り、ずいっと半助に迫って来た。
「どちらですか」
「なにが?」
「記憶のあるわたしと、ない時のわたしと、どちらがあなたは好きなんですか」
『今と、前と、ちがう。半助、どっち好き?』
 たどたどしい口調でそう尋ねた、利吉。
 理路整然と厳しく問い詰めてくる、利吉。
 口調はこれほどちがっても。詰め寄る、その瞳の色は変わらない――
「……君は、いつでも、どんな姿でも……記憶があっても、なくても……わたしには、世界でただ一人の……大切な存在だよ」
 半助が一語一語、それが真実だと確信しながら語りかければ、利吉の瞳に、喜びとともに、切ないような光が浮かんだ。
「……どうしよう……あなたからそんな言葉を聞いたら、」
 ささやきながら、利吉は半助の手を握る。
「今すぐ、あなたを抱きたくなる」
「…………」
 半助は苦笑でその手を外した。
「夜まで待ちなさい。子どもじゃないんだから」


 本当は……まだ日が高いのも、学園から戻ったまま足をすすいでいないのも気にならないほど、利吉に焦がれていた。
 強い、自信に満ちた瞳、しっかりと落ち着いた口調、確信に満ちて触れてくる力強い手。すべてが、焦がれてやまなかった、『利吉』のもの。欲しいものをすべてくれるだろう、『利吉』。だからこそ。流されてはいけないと思った。きっと自分はいやらしくあさましく、ソレを欲しがるだろう。もうさっきから、腰全体が、ぼってりと血を集めて疼いている……
 自制を込めて、利吉に背を向けた半助だったが。
 上がり框に足をかけたところで、後ろから利吉に抱き着かれた。
「りっ……!」
「わかってませんね、半助」
 わざと耳朶に唇を触れさせて利吉は激しくささやく。
 唇の震えと熱い吐息に、ぞくん! 半助の背を痺れが走る。
「……子どもじゃないからこそ、我慢できないんですよ」
 語尾に笑いの気配。
 自信に満ちて……欲情に濡れて……己の欲望を受け止めてくれと、ねだる男の声。
「……ふ……」
 まだどこを触れられているわけでもないのに。
 後ろから抱き着かれ熱くささやかれただけで。喘ぎに似た声が漏れて半助は慌てた。
 利吉はそれを聞き逃さない。了解の合図はもらったとばかりに、襟を割り、袴の脇に忍んだ手が、半助の素肌を這った。


「ああっ……んんっ……!」
 性急な愛撫に立て続けに声が上がってしまう。
 その声さえ吸い取ろうとするように、寄せられる唇と舐め回していく舌に、また息が乱れる。
「ね……」
 膝から内股をさすり上げ、脚の付け根のくぼみをなぞり、でも、肝心なところは外して指を遊ばせながら、利吉がどこかうれしそうに尋ねて来た。
「もしかしたら、わたしはあなたを愛する方法まで忘れてしまっていたんですか? なんだか、ひどく……あなたが欲しがっているように見える」
 そう言いながら、袋の周囲をくるんと指でなぞられて。
「はう、んっ……んーっ!」
 じれたもどかしさに、喘ぎに懇願の色が交ざる。
 ――そうだよ、君の言うとおり……君はその方法を忘れてた。わたしを愛してくれる、その気持ちは変わらなくても、君は……記憶をなくしていた時の君は……
「ずいぶんと、もったいないマネをしちゃってたんだな……」
 利吉は独り言のようにつぶやくと、
「じゃあ、お互い、ツケはきっちり払い合いましょうか」
 やけに淫らがましく、そう言った。


 触れる、導くばかりだった。それでも、心は潤いを得たけれど。
 容赦なく追い詰める手、快感を咥え出し、ひきずり回す口、逃げを許さず悶える躯を抱き留める腕。どこまでも追い詰められ、追い上げられ、むさぼられる、そのたとえようもない快感に、半助は啼いた。
 もっと、と啼いた。
 意地の悪い冷静さで、愛情深い根気強さで、利吉はそんな半助をどこまでも追い、のたうたせた。
 もうもたない、と泣き出すまで。
 クチュ……
 そんな利吉が満足そうに口元を緩めたのは。
 半助の後ろの口に指を埋めた時だった。
「……ものすごく……キツイ」
 もしかしたら、と尋ねる声が笑っている。
「わたしはこんな大事なことも忘れていました?」
 なら君も、と言い返したいのに、もう口からは喘ぎしか出なかった。なら君も、なにも知らないいたいけな子どもに、こんなところにこんなものを挿れるんだよと教えてみろ、できるものなら、やってみろ、と。言ってやりたいのに、もう口からは喘ぎしか出ない。……もっと太く……もっと深く……えぐってほしい……
 誘うように腰が振れてしまうのが、押さえられない。
 激しく口を吸いに来た利吉が、熟れきった瞳を向けてきた。
「……もう少し、慣らしたほうがいいと思うのですが……すいません、わたしももう、限界です……」
 いいよ、と半助は応える。
 いいよ、引き裂いてくれ……
 熱く猛々しいそれが、ぐっと狭く引き締まったそこに押し付けられて来た。
 メリッ……長く、いじられることもなくほうっておかれたそこは、久しぶりの侵入を悲鳴を上げながらも喜んで迎え入れる。
 ――これでまた……君と、ひとつに……
「半助……半助……」
 利吉が呼ぶ。
「半助……愛してる……」
 わたしもだよ……
 熱い肉塊を突き込み、受け入れながら……溶け合いたいと唇を重ねた。
 ――愛して、いるよ……君だけを
 

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