胸をえぐられたか、と思った。
偶然見てしまった、その光景。
うっとりと目を閉じて、薄く開いた唇も無防備に、少し仰向いた半助と‥‥じっと、
いとおしげに目を細めて、その半助を見つめる父、伝蔵‥‥。
利吉は見てしまったのだ。
問い詰められた半助は。
「なにを言ってるんだ!」
利吉には白々しいとしか思えぬ大声を上げ、
「仕方ないだろう!」
利吉には開き直りとしか思えぬ台詞を吐いた。
ここまで聞けば、もう利吉には十分だ。その後の、
「変装の手伝いをしてもらってただけじゃないか!!」
という言葉は利吉にとっては、単なる『言い訳』になるのであった。
常の、忍び装束か町人の普段着をまとった半助ならば。
利吉にもまだ半助の言い分を聞く多少の余裕もあったかもしれない。
が。
目前の。
染めも鮮やかな小袖に、頭をおおう手ぬぐいも目に白い。艶やかに豊かに波打つ黒髪、きれいに弧を描く眉山、白粉に映える口紅の朱。かわいいとも言いたい、きれいとも言いたい、野性味も魅力的な町の女には。あまりにも凌辱の風景が似合う。
父伝蔵が同僚である半助に迫る図、というのは想像しにくい利吉も、この眼前の美女には父も相好を崩し言い寄ったのでは、と思えてしまうのだ。
「あのね‥‥」
半助はため息をつく。
「君の目に、今わたしがどう見えているかはよくわかったけれど‥‥厭味だよ、それは。君やきり丸の女装を見ているわたしが、君にこの格好を褒められて喜べるわけがないだろう。‥‥まったく。町一番の美女も真っ青になって裸足で逃げ出すような美人に化けられるのは君のほうだろうが。ほら」
そう言って半助は、利吉に向かって首筋をそらす。
「どれほど隠そうとしてもこの喉仏はゴツイだろう?いくら着物の下にさらしを巻いてもこの肩と背中のごつさはごまかせないし、気をつけててもいつの間にか外股になるんだよ、わたしは。君のように女になりきってシナを作るのも苦手だし、線がだいたい、もう太すぎるんだよ」
半助の長広舌を、しかし、利吉は聞いていたのか、いないのか。
「あなたは、いつも」
出てきた台詞は‥‥。
「そうやってうなじをさらして、男を誘うんですか」
「‥‥はい?」
「はい、なんですか、そうなんですね!」
「‥‥あの、頼むから利吉くん‥‥」
「もういいです!!」
「いや‥‥よくないだろう、全然‥‥」
言いかける半助の言葉など、まるで無視してフイと横を向いてしまう利吉である。
半助はため息をつく。
‥‥今日は山田と共に、戦支度を進めているという城の情報を集めに行っていたのだ。なにもわざわざ女装で行かずとも、と思うのだが、それは山田の趣味を通り越した主義になっているのだから、それこそ仕方ない。気の張る潜入仕事を終えて帰ったが早いか利吉に訳のわからぬ怒りをぶつけられている半助である。
その口から、またも大きなため息がもれた。
それを合図のように、きっと利吉が半助を振り返った。
「‥‥あなたはいつもあんな顔をするんですか」
同じ問をまたも持ち出す。
「‥‥だから、だからね、利吉くん‥‥あれは化粧をしてもらってただけなんだよ」
「‥‥あんなにうっとりと、信じ切った顔を、あなたは誰にでもするんですか」
と責められても半助にはわからない。だいたい、自分は白粉と口紅を山田の手で施してもらっていただけで、その時の顔が『うっとりと、信じ切った』表情だ、と言われても『はあ、そうですか』と言うしかないのだ。
「‥‥まいったなあ、もう」
「正直に答えて下さい!」
ずい、と利吉は半助に詰め寄る。
「父と、父とあなたは‥‥」
「何もない、何もないよ!」
悲鳴のような声で半助が答えるのは、単にそれが事実だからで、頭からそれを信じようとしない利吉を相手につい大声になってしまうだけなのだが、利吉にはまた、白々しい嘘、としか聞こえない。
「仕事をしていても、あなたがたは息がぴったり合っている!それを、それをどう説明するんですか!」
「いや、それは‥‥」
それは、どちらも忍びとして一流の技量を備えている者同士が、同じ目的に添って、同じ状況に立ち会い、ことを遂行しようとすれば、判断や手段が同じになるのは不思議ない。そう言おうとして、しかし、半助は、
「いつも一緒にいるんだから当然だろう」
と要点だけを、しかも噛み砕いた表現で言ってしまった。そういう男なのだ、肝心なところで言葉が足りない。
ぎり、と利吉の眦が切れ上がった。
そうか、と思ってしまう部分も確かにあるのが、たちが悪い。
利吉に、伝蔵を信頼しているだろう、と問われれば、答えは諾。
心を許しているだろう、と問われても、答えは諾。
それが表情に出ていた、と決めつけられれば、そんなこともあるか、と半助も思ってしまう。
「‥‥もしかしたら‥‥本当に父と関係があったんじゃないですか」
一言で答えられる質問に、半助は少しほっとする。
「ない」
「本当に?わたしと付き合う前も?」
「ないよ、本当だ」
「ほんっとうに、ほんとう?」
「くどいよ、君も」
「一度も?絶対に?」
「‥‥ないよ」
「あ!今、一瞬、言い淀んだでしょう!」
「‥‥それは‥‥あんまり君が念を押すから‥‥」
「押すからなんなんですか!」
「いや‥‥なにもない、なにもないが、ほら、男なら酒を飲んで記憶のない晩が一度か二度はあるだろう」
「ありませんよ、わたしには」
「‥‥わたしはあるよ」
「‥‥じゃあ、じゃあ、その晩、あなたは‥‥」
「いや、大丈夫だ!確か、その晩は、そう、大木先生も一緒だったから」
奇妙な沈黙がおりた。嫌な光り方をする利吉の目に、半助は背筋が凍るのを覚える。
「‥‥大木先生と、父上と‥‥」
沈黙を破る、利吉の低く重い呟きに、半助は背筋どころか、全身が凍った。
「‥‥ふたり、に‥‥?」
「だああああ!!!なにを考えてるんだあああ!!!」
半助の喉から絶叫がもれた。
何を言っても聞いてもらえない空しさを、半助がしみじみ味わった後だった。
「じゃあ」
目を据えて、利吉が間合いを詰めてくる。
「なにもなかった、と言い張るんですね」
「実際、ないんだから、もう‥‥」
はあ、とため息をつき、小さく首を振るその仕草が、化粧し、髪形を変え、女物の着物をまとっているだけで、常以上に利吉を刺激する、などと思いもしない半助に、利吉がじりじりとにじり寄る。半助はじりじりと後ずさる。
「‥‥じゃあ」
半助を壁際に追い込んで利吉が言う。
「からだで証明してください」
「‥‥って?」
「抱かせて下さい。その格好のままのあなたを」
「そ、それはちょっと、悪趣味だろう、利吉くん‥‥」
「ここで言うことをきいてくれなければ、あなたは父に操立てしているんだと思いますよ?」
「いや、し、しかし‥‥」
利吉と深い関係になってすでに数年が経過している。いまさら、一回二回、余分に抱かれようとどうということもない半助だが、この女装のまま抱かれろと言うのは、少々抵抗がある。
「だ、だいたいおかしいだろう、わたしはずっとこうして君と一緒に暮らしてて、なんでいきなり山田先生に操立てする必要があるんだ」
「ないなら、素直に抱かれて下さい」
言下に。
利吉は素早く半助の着物の裾をめくりあげる。それを半助が押さえようとするより早く。利吉の頭が半助の裾の中に潜り込んでいた。
「り、利吉くん‥‥!」
袴や軽衫(かるさん)の男姿では、その脇から手を差し入れられることはあっても、上着は乱れぬ着衣のまま、股間に人の頭が来る、などということはない。
半助はあわてた。
「ちょ、ちょっと利吉‥‥!」
が、もぐりこんだ利吉の両手は内側から半助の太ももを押し広げ、その口は下帯に押し当てられて、暖かい息を布越しに半助自身に浴びせかける。
「‥‥あ‥‥」
布を通して、じわっと暖かく湿った息が半助を包む。利吉の肩を押し返そうとしていた半助の手から、力が抜けた。
利吉はそうして、生ぬるい息をはきかけながら、下帯のすき間から差し入れた指で、さわさわと半助の草むらを嬲る。
その、いつにない、遠回しの愛撫が。
目にはいる、自分が着ている女物の装束とあいまって、まるで自分が『女』にされているような、倒錯的な感覚をもたらす‥‥。
「やめて」
と思わず、口走りそうになって半助は慌てる。下手に抵抗しようとすると、なんだか自分まで女めいて来てしまうようで、こわい。
半助は目を閉じた。
そう、これはいつものこと。自分に言い聞かせる。
いつものように。利吉くんと肌を合わせて、まぐわうだけのこと。利吉の好きにさせておけばいいのだ。自分の格好は関係ない。‥‥したいようにさせれば、利吉も落ち着くだろう、そうしたら、抱き締めて言えばいい。「わたしが好きなのは君だけだよ」と。そうすればつまらぬ、見当違いの焼き餅も落ち着いて‥‥。
そう思おうとして、しかし、いつもと違う感覚が妙に新鮮で。
そう言えば、遊里では身分ある豪族や大家の商人などが、わざわざに振り袖など女物をまとって遊ぶと言うがなるほど、こういう感覚を楽しんでいるのか、とひとつ勉強になったような気がする。
利吉に下帯も取り去られ熱い口腔に含まれて、思わず呻きももれるけれど、その喘ぎすらいつもより媚びが濃いようで、気恥ずかしさがまた自身を高める刺激になる。
「‥‥半助‥‥本当に‥‥本当に父とは‥‥」
「なにも‥‥なにも、ないよ‥‥」
嫉妬絡みの言葉責めすら、こういう状況では刺激になるな、かすみだした頭でぼんやり半助は思う。いったい、自分は女物の小袖を乱れさせて、いまどんな痴態をさらしているのかと思うと、また、身のうちを熱いものが駆けていく‥‥。
「でも‥‥」
利吉の声にも、興奮の色がある。
ふたり共に酔っている、そうとわかって半助の酔いも一層高まった‥‥のが、まずかったのだろう。
「最初は‥‥生徒と先生、でしょう‥‥?本当に、なにも‥‥?なんの手ほどきも‥‥」
その利吉の言葉に。
夢うつつ、酔いも昂ぶり‥‥むやみと正直になった半助は答えていた。
「うん‥‥山田先生じゃなかった‥‥」
「‥‥え?」
瞬間に素面に戻った声で利吉に問い返されて、半助もはっと気づいた。
「‥‥半助。今。なんて」
「‥‥え?」
「今!言ったでしょう!手ほどき、受けたんですか!教師に!?誰ですか、誰!?」
「え、あ、いや‥‥」
「いや、じゃない!誰ですか!!」
「‥‥いや、だから、その‥‥ほら、もう十年以上も前だよ、時効、時効だよ、ね」
「‥‥許せません」
「だああ、もう‥‥!」
かくして、話は振り出しに戻る。
次の日も、前日と同じ城下町に潜入しての情報収集がある。
今日もまた、昨日と同じ女物の小袖に袖を通す半助の顔に、しかし、疲労の色が濃い。げっそりとやつれている、それがまた、常にない色気をまとっているのを、しかし、半助は自覚していない。
のろのろと重い手を白粉に延ばす。が、その白粉はさっと横から取られてしまった。
「今日はわたしがお手伝いしましょう」
紅筆と白粉を手にした利吉が立っている。
「だから、父に見せたのと同じ顔をわたしにも見せて下さい」
もう、なにをどう言い訳する気力も体力もない半助は、黙って利吉に顔を向ける。
「はい。お願いします」
が。
「‥‥ちがうでしょう、半助。そんなつまらなさそうな顔じゃなかった」
と、駄目が入る。では、と目をつぶり直せば、
「そんな緊張した様子じゃなかった」
と、駄目が入る。じゃあ、と肩の力を抜けば、
「そんな投げやりな雰囲気じゃなかったでしょう!」
と突っ込まれ、半助は、
「どうしろと言うんだぁ‥‥」
昨夜から何度目かの泣き声を上げた。
それでもなんとか化粧を施してもらい、山田と待ち合わせた町外れの一本杉へと向かう。すでに半助を待っていた伝子姿の山田は、半助の姿を見ると、じろりと鋭い視線をその顔に向けた。
「今日はまた、一段とお美しいですなあ、土井先生」
その口調の底にあるものに、ふだんの半助なら気づけたろうが、今日は一晩中、利吉に付き合わされた後の半助である。ぼおっとしたまま、半助は答えていた。
「そうですかあ。今日は利吉くんが化粧してくれたんですよ」
「ほお」
山田の目がきら、と光った。
「土井先生はわたしの化粧がお気に召さなかったようですなあ。いやいや」
「‥‥え」
しまった、と思ったがもう遅い。
「残念ですなあ、そうですかあ、わたしの化粧がだめとはねえ‥‥」
厭味たっぷりな山田の物言いに、半助は涙をこらえた。
「もういやだ。この親子‥‥」
半助の呟きが風にさらわれて飛んで行った。
了
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