「どういうことですか。教えてください、父上」
膝を進める利吉に、伝蔵はゆっくりと腕を組む。
「おまえは半助が、ここの教職に就く前になにをしていたか、いや、なぜ教師をしてい
るか、聞いたことがあるか」
思わぬ問いに、利吉は戸惑う。
「え、いえ、ありません。‥‥でも、半助、いえ、土井先生は子供好きで世話好きですから、向いた仕事と‥‥」
「それは学園長が半助を学園に連れて来たわけではあるが、半助自身の答えではないな」
「‥‥どういう‥‥」
伝蔵は小さく息をつく。
「これをわたしの口からおまえに伝えていいものかどうか、わたしは知らん。だが、半助のこの十年を知る者として、このままおまえの無理を通させるわけにもいかん。まず、利吉」
正面から父は息子に厳しい目線を注いだ。
「おまえはこの同居で半助がなにを失うか、わかっているか」
「‥‥世間一般に認められる幸せ、ですか」
たじろぎながらも、利吉は父の視線を受け止め、答えを返す。
「ふむ。多少は常識も働くか。では、利吉。おまえも言う、世間一般に認められぬことをする者が、人を導き教える職に就いたままで通ると思うか」
「‥‥それは‥‥」
「おまえとの同居で、半助は教師を辞めねばならんだろう」
「職を失う、とおっしゃるのですか。でも、彼なら十分に忍びとして‥‥」
「職を失うだけではない。半助は生きる道を二度も見失うことになる」
きっと利吉は父を見上げた。
「父上。父上はさっきもそうおっしゃった。いったい、どういうことですか。なんなんですか」
伝蔵の眉間に深い皺ができた。腕組みのまま、伝蔵はもう一度深く息を吐き出した。
「‥‥半助はここの卒業生だ。それは知っているか」
「それは‥‥聞いたことがあります。卒業したあと、しばらく現場を体験した、と」
「では、半助がおまえと同じように‥‥いや、おまえ以上に成績優秀で将来を嘱望された生徒だったのは知っているか」
初耳だった。利吉は首を横に振る。
「‥‥半助は優秀な生徒だった。学科の成績はもちろん、実技の成績もな。学園始まって以来の天才だと噂されておった。もちろん、就職は引く手あまた‥‥その中で学園長の肝入りもあって、ある大名の城に仕えることになった。そこの頭領は学園長の古くからの知り合いでな、半助を一人前に育てようと、学園長に約束までしてくれた。前途洋々と思われておったよ、半助の未来はな。その頭領のもとで鍛えられ、経験を積んで行き、やがては一党を率いる忍頭にも、頭領にもなれる器の男と、皆が思っていたのだ。
半助もよく皆の期待に応えてなあ‥‥順調だったのだ、三年目までは」
伝蔵は当時を思い出すかのように、じっと床の一点をみつめる。
利吉は息をつめて次の言葉を待つ。
「忍びの一年目や二年目など、いくら忍術学園で学んだと言っても基礎ができているだけの話、そう華々しい活躍の場など与えてはもらえん。つまらん使い走りだの、仕掛けの準備だの‥‥そう言ったことをこなしながら、現場の空気や実際の技だのを覚えていく。半助はそういう小さい仕事もおろそかにせず、細かい仕事から全体の動きを見通せる男でな、上の覚えもめでたく、とんとん拍子に進んで、三年目に入ってすぐ、大抜擢されたのだ、敵の城に侵入して戦の後方を撹乱させる作戦にな。‥‥その作戦だ。
半助の‥‥そうだな、欠点、いや、弱点が‥‥出たのは」
「欠点?」
「半助はな」
そして、伝蔵はゆっくりと利吉に告げた。
「人を殺せぬのだ」
殺せぬ。その言葉の意味を、利吉は噛み締める。人を殺せぬ忍び、敵を、消せぬ忍び。
「誰しも‥‥初めて敵に刃を向ける時には怖じ気をふるう。その作戦のさなかに、半助が敵を屠らねばならぬ場面があったと聞く。半助には出来ぬことであったが、所詮は新人忍者の初戦(はついくさ)‥‥先達が急場を助けてその場は過ぎ、それが大きな障害になるとは誰も思わなんだ。しかし、大きな城に勤める、将来を期待された忍びであれば、人の生死のかかる大仕事の機会は多い。
それから一年二年のうちに、誰もが疑問を持ち、誰もが不安を抱くようになった。
その頃だ。半助と組んで双忍の仕事についた男が死に、半助一人が生きて帰ったことがあった。敵の武将に寝返りの確約を促す密書の使い、と聞いたが。返書を持って帰るのがその仕事のまず第一の目的だ。その為には味方が死のうと半助は生きて帰るのが何より肝要‥‥誰もそれで半助を責めはせん。敵城に潜ませてある間者の報告でも、半助に非があるとは、認められず‥‥ばかりか、その男を討った敵の兵を半助が倒した、とまで言う。なにも‥‥なにも問題はないように見えたのだ、ただ半助の胸のうち、ひとつを残してな」
利吉は思い出す。
戦場で倒れた友‥‥。その友の死を嘆く自分を見る半助のあの瞳。あれは‥‥同じ痛みを知る者の‥‥。
「半助が敵を殺した‥‥それは事実だった。が、あとほんのわずか、その半助の反撃が早ければ味方の男は死なずにすんだかもしれん。いや、どうしようもないことであったとしても、半助自身はそうやって自分を責めずにはおれなんだのだろう。その上に、実際に人を屠った‥‥その痛みも、半助には耐え難かったのかもしれん。‥‥半助は使えなくなってしまったのだ、その敵を倒した武器を‥‥」
は、と利吉は思い当たる。
「もしかしたら‥‥棒手裏剣‥‥?」
伝蔵はうなずく。
「しばらくは手裏剣すべてが手にも取れなんだと聞く。人を殺せぬ、手裏剣を手にすることもできぬ忍びが忍びとして生きていけると思うか。‥‥いや、そのような忍びもいることはいる。しかし、一度は優秀な忍びの一人と将来を期待された男が‥‥田を耕しながら、敵地の様子を探るだけの忍びに落ちるわけにもいかなんだろう‥‥。
半助はおのれからその城を去った。かと言って忍者をやめる決心もつかん。そんな半助を学園長が見かねてな‥‥忍術学園の教職を勧めたのだ。
おまえの言うとおり、半助は心根の優しい、世話好きな男だ。教師に適性がある、と学園長が踏んだのは、間違いではなかった。が、半助の胸のうちはそれほど割り切れるものでもなかったろう。一度は‥‥一度は戦場を駆け、その技で戦の趨勢を左右するような策もこなし‥‥忍びの醍醐味とも言うべきものを知り、人を殺せぬ、その一点をのぞいては、忍者として一流の仕事をこなす技量もあり‥‥半助自身に自負もあれば希望もあったろう。そのすべてを‥‥はたちそこそこの若さで断念せねばならなかった‥‥その思いは‥‥」
伝蔵は言葉を詰まらせる。
利吉もまた、声もない。
半助が、半助が。自分と同じように周囲に期待されてこの学園を飛び立った、いわば忍びのエリートだった‥‥それが。利吉は思い出す。半助はよく言いはしなかったか。まっすぐに、明るい瞳を自分に向けて。「利吉くんはえらいなあ。フリーの売れっ子忍者だもんなあ」無邪気なほど、明るく‥‥。「無理はするなよ。身体が資本だぞ」とも。いったい‥‥いったい、どんな思いで、半助はその言葉を。忍びのエリートと期待されながら、その道を断念せねばならなかった半助が。いったい、どんな思いで‥‥。
「確かに忍術学園に集う先生方は、皆、一騎当千の実力者ばかり。その意味では半助がこの職場を厭う理由はない。しかし‥‥わたしもそうだが、先生方の多くは一線で長く活躍し、いわば第二の活躍の場としてこの学園に来ている」
そうだ。利吉も前から気づいていたことだ。半助とほかの先生方との年齢差。学園の中で半助の若さは目立つ。
「‥‥いくら、適性があるのどうのと言われても、半助にしてみれば、この学園に勤めるということは、引退勧告と同じに思えたのだろうなあ。おまえが六年生の時に、それまでの非常勤という形ではなく、常勤の補助教員として学園に勤めることを承諾したが、暗い顔でな‥‥まるで別人だったよ」
思わず利吉は声を上げそうになる。
つい昨夜のことだ。言ったのは自分だ。その頃の半助をあまり覚えていない、と。答えて半助は言ったのだ。無理もない、と。重ねて自分は聞いた。自分のことを覚えているか、と。「実技教科ともに学年一の実力者」でありながら、挫折したその人に。同様に優秀な成績を修め、卒業後はフリーの忍びとして活躍している自分が、聞いたのだ。その頃の印象は、と。‥‥答えなかった半助。
いったい、自分はなにを聞いたのか。今までなにをして来たのか。
半助に、もうやっていられない、と仕事を愚痴ったことはなかったか。仕事の困難を語り、おのれの技を誇ったことはなかったか。半助はいつも笑って聞いていてくれたから‥‥思いもしなかった。半助の胸のうちなど。
西日に、突き立てた刀の刃が光る。‥‥今、これを握り締めれば、この胸苦しさ、いてもたってもおられぬような、この自責の念から、逃れられるだろうか‥‥利吉は思う。
「‥‥なぜ‥‥」
自分の声がしわがれて、押し潰された苦汁に満ちているのがわかる。
「なぜ、父上‥‥その話をもっと早くに‥‥」
父を責めるつもりはなかった。が、噛み締めた奥歯がぎり、と鳴る。
伝蔵はじっと息子を見つめる。その瞳にも、やはり揺らぐ苦しみの色がある。
「‥‥伝えるならば、それは半助の決めること、そう思っていた、と言うのはやはり、汚い言い訳か‥‥。わたしはな、半助に甘えておったのだよ。おまえが半助に近づき、惹かれていくのを知りながら、おまえを止めることができなんだ。忍びの仕事に専心しているおまえが出会うであろう困難、乗り越えねばならん壁、それがわたしにも見えた。しかし、向こうっ気が強く、独立心旺盛なおまえは先輩や父であるわたしに頼るのを嫌っておった。かと言って血なまぐさいことが苦手なおまえの母に、おまえが甘えられるはずがないことも、わかっておった。
わたしはな。‥‥おまえがかわいかった。支えを得て、おまえが忍びとして大成してくれることを願っておった‥‥。
おまえが半助に近づいた時に、止めるべきだったのだとは思う。‥‥しかし‥‥半助ならば‥‥あの男は懐が深い。忍びとしての素質も一流だ。挫折を知り、人としての強さもある。半助ならば‥‥おまえが忍びとして人として成長するのに必ず、力になってくれる、と‥‥」
利吉は自分の手が震え出すのを感じた。
怒り?後悔?わからなかった。ただ利吉は声まで震えださずにいてくれ、と願うばかりで。
「‥‥ち、父上‥‥では、そ、それでは‥‥わ、わたしたちは、親子二人で‥‥半助に‥‥半助の傷を‥‥」
伝蔵が深くうつむいた。
「‥‥すまぬことをした、と思っている‥‥」
「父上!」
「‥‥しかし」
ぐっと顔を上げた父の眼が光る。
「おまえならわかるだろう。半助の度量の広さ、人としてのあたたかさ。あれは、そんな、おのれの過去の傷に囚われて終わるだけの人間ではない。‥‥が‥‥」
伝蔵は言い淀み、首を振った。
「その半助が手を焼くほど、おまえが困った我が壗者だとも思わなんだ」
その一言で、利吉も現在の時間の流れに立ち戻る。
「父上‥‥」
「利吉。せめてあと三年は待て。半助がやっと見つけた人生の道を、まずまっとうさせてやれ」
「‥‥三年でなにが変わると‥‥」
は、と利吉は心付く。
「きり丸。きり丸の卒業ですか。いったい‥‥」
残照の中にそろそろと闇が忍ぶ。ほの暗くなった室内で、親子二人は向かい合う‥‥。
「半助はな、根がまじめな男だ。意に染まぬ仕事であったろうが、先生の役をただただ黙々とこなしておったよ。覇気と言うものもなく、生徒の信望を得るでもなく、ただ教師として日を送っておった。
しかしな、わざわざに、学園から離れた町中に家を借り、相当に荒れてもおったようだ。このままではこの男は駄目になる。学園長もわたしも気にはなったが、人の生きがいなどと言うものは、結局は本人が見つけるしかないものだ」
昔を思う目で、伝蔵は語る。
「そして、あれは‥‥三年前の、ちょうど今くらいの季節か‥‥。半助が困り顔で、汚い子供を連れて来た‥‥」
『塀を乗り越えて入ってきちゃったんですよ』
『しょうがないじゃないか!!門の前で叫んでも誰も出てこねえんだから!』
半助に襟首をつかまれたこどもが暴れながら叫んでいた。着物はボロ同然、垢のこびりついた顔‥‥近寄るとたまらぬ異臭がするのは、もう何カ月も満足に体を洗っていないせいか。その汚さと同時に目を引いたのは、その子が後生大事に抱えている、大きなズダ袋。その袋もその子の着物と同様にボロであった。
その子は山田の顔を見ると、目を輝かせた。
『あんた、あんたか。この学校で一番、偉いの!』
『いや、わたしではない。一番偉いのは学園長だな』
『会わせてくれ!会わせてくれよ、その学園で一番偉い人に!』
その時、騒ぎを聞き付けたのだろう、当の学園長がやってきた。
『どうした。なんの騒ぎじゃ』
その子は瞳を輝かせた。
『あんたが一番、偉い人か?』
そして、その子は大事に両手で抱えていた袋を学園長の足元にどさりと置いた。中から小銭がざらざらと音を立ててこぼれ出した。
山田と土井が共に息を飲んだのは、その小銭が‥‥あまりに汚れていたからだ。泥のこびりついたもの、なにやらわからぬ汚れのついたもの、そして‥‥血のこびりついたもの‥‥。山田と土井は改めてこどもの風体を見た。
継ぎさえ当たっていない、かぎざぎだらけの、ボロ同然の着物。木綿の一重ではまだこの季節には寒かろう。足には足袋どころか草鞋(わらじ)さえはいていない。痩せてガリガリのからだ、肌にうっすらと垢がこびりついているのは、一見したとおり。ところどころ、擦り傷や切り傷があるのは、この年代の子供なら当然なのかもしれないが、腕や胸に残っているのは‥‥鞭打たれた跡ではないか‥‥よく見ればぼさぼさの髪からのぞくおでこの一部がやけに大きく見えるのは‥‥殴られたあとのタンコブか。
顔にまで数条の跡が残るのは‥‥。
それほど汚れみすぼらしい格好でありながら、その子の瞳は怯じることもなく、まっすぐ学園長の短躯に向けられ、強く光ってさえいる。
『お願いします!』
やおら、その子は地べたにはいつくばった。土下座、らしい。
『この金で、おれを忍者にしてください!』
がばり、と頭を地面に伏せる。土井は身動きもせず、そのこどもを見つめていた。
『‥‥ほう』
学園長が落ち着いて応じる。
『おまえは忍者になりたいのか』
『はい!お願いします!』
『理由は』
『忍者、忍者になれば、一生食うのに困らないと聞きました。お願いです、おれを忍者にして下さい!』
『‥‥ふむ。忍びの道は別名盗みの道じゃ。盗っ人が食うに困らぬは当然じゃな』
その学園長の言葉に、こどもは憤然と顔を上げた。
『おれは盗っ人になりに来たんじゃない!忍者になれば、ちゃんと技も使えて、高いお金で雇ってもらえる、だからだ!人の物を盗むためじゃない!』
学園長、大川渦正はそれを聞くとふぉふぉっと声上げて笑った。
『よい、こども。忍びと盗人を分けるは、その心の持ちようじゃ。よろしい、学園に入園を許可する。春からおまえは一年生じゃ』
こどもの、薄汚く黒ずんだ顔が、ぱっと輝く。
『あ、ありがとうございます!』
こどもはもう一度深く頭を下げた。その前に大川は膝をついた。手で袋の小銭を探っている。
『こども。名は何と言う』
『きり丸。摂津のきり丸』
『親は』
『戦で焼け死んだ』
『そうか。ではな、きり丸。この金で入学金は十分じゃ。しかし、この忍術学園で学ぶには、一年毎に授業料を収めねばならん。月々の雑費も必要じゃ。おまえにそれが払えるか』
『おれ、おれ、ちゃんと稼げる。それくらい』
きり丸はあばらの浮いているのだろう胸を張った。
『よろしい。では如月の一日に、ここに来るがよい』
『はい!』
そしてきり丸は立ち上がると、そのまま、去って行こうとした。
汚いズダ袋と、おそらくは全財産の小銭を学園に収めて。
『ちょ、ちょっと待て』
土井が声を上げたのに、山田も学園長も驚いた。
『おまえ、きり丸、今はどこに住んでるんだ』
『‥‥この学園から西に下った町の、東側に流れてる川の‥‥橋の下』
『学園長!』
土井が真剣な面持ちで学園長に向かった。
『この子をわたしの家に置いてはいけませんか。わたしにこの子の面倒を見させて下さい』
「そしてな、きり丸は半助の家で、今も休みを過ごしているわけだが‥‥」
伝蔵の言葉が続く。
「わたしも学園長も驚いたのだ。それまでの半助は学園のことに自ら関わろうとは決してせなんだからな。わたしも驚き‥‥しかし、これがなにかいい兆候では、と思わずにいられなかった。だからな、訪ねたのだ、春休みの終わりの日、入園式の前の日に」
土井はうららかな日差しの下で、床几を持ちだし、散髪をしていたらしい。
きり丸が、見違えるほどこざっぱりとし、一カ月足らずで頬もずいぶん、こどもらしくふっくらしたのを山田は見た。そして。これは何年ぶりなのだろう。土井が笑っていた。なんの屈託もなく。
『あ、山田先生!どうですか、なかなかかっこいいでしょう』
土井は笑ってきり丸を前に押し出す。そういう土井自身の髪は自分で鏡を見ながら無理に切ったのだろうか、常以上に毛先がバラバラでまとまっていない。
『いや、きり丸はいいが、土井先生、あんたの髪はどうしたんです』
『頭巾をかぶっちゃえばわからんでしょう』
そして土井は小声で付け足した。
『きり丸が切ってくれたんです。あいつ、床屋のバイトは無理ですね』
半助の明るい顔。‥‥かつて、忍術学園を卒業していった時の、希望とやる気に満ちた、人好きのする、半助の顔がそこにはあった。
『半助、いい顔ができるようになったなあ』
思わずもらした山田に、一人で散髪の後片付けに飛び回るきり丸を見ながら、土井は答えた。
『‥‥わたしには、もう何もできないと、思っていました。ただ、同情だけで学園に厄介になっているお荷物だと。‥‥でも、ちがいますよね。わたしには、あの子が、きり丸が、一人前の忍者になる、その手助けができる。あの子が二度と飢えないように‥‥忍びの技を身につける、それを見守って、助けてやることが‥‥。わたしにはそれだけの知識と技術がある』
土井は顔を上げて山田を見た。その瞳が輝いている。
『一生懸命、つとめます。教師として。出来る限りのことを』
利吉には、初めての話だった。
きり丸と半助の関係が、常のほかの生徒とのものより濃いのは知っていたが。
伝蔵はそれらの話の衝撃を受け止めかねている息子の顔をじっとみつめていたが、おもむろに口を開いた。
「待ってやれ。利吉。あと三年。まっとうしたい半助の気持ちをくんでやれ」
「‥‥父上‥‥」
その時。
「いや、それは困るぞ」
縁側の障子に、もうかすかな日の名残を浴びて人影ができている。その人影、その声。
「学園長」
さらりと障子が開き、常と変わらぬ学園長が部屋の外に立っていた。
学園長の姿には驚きはしたものの、慌てることのない利吉だったが、学園長の斜め後ろに膝をついて控える忍び姿に、ぎくり、ときた。半助。
ちら、と目を上げた土井が、父と自分の間に突き立つ忍び刀をしっかり認めたのを、利吉は見た。慌てて刀を引き抜き背後に隠したが、遅すぎたには違いない。
同じようにその所作を見ていた学園長は、しかし、学内で刀が振り回された事実にはあえて何も言わず、伝蔵に目を向けた。
「山田先生。それは困りますな」
「は、と言われますと」
「いやいや、実は土井先生が学園を辞めさせてほしいなどと言い出して、今、ようやく思い止どまってもらったところじゃ。それを、山田先生、三年後には辞めてもいいようなことを言われては、困りますな」
「‥‥はあ。しかし、学園長‥‥」
「なぜに、優秀な学園の財産とも言うべき土井先生が辞めねばならんのかな」
「はあ。まあ土井先生が優秀な人材だと言うのは認めますが、やはり、まずいでしょう。利吉が一緒に暮らすなどと言うのは」
「それがそれほど問題ですかな」
「問題でしょう。風紀が乱れます」
「‥‥ほお。山田先生は合理主義がお嫌いか」
そして学園長は利吉を見た。
「利吉くんはフリーで活躍中と聞くが、決まった任地はお持ちかな」
「‥‥いえ。契約次第でどの地へも参ります」
「ほお。とすると例えば決めた宿などへ泊まるのは月にどれほどかな」
「‥‥一月二月と仕事が長引けば、宿へも帰れません。‥‥月の半分も定宿にはいないでしょう」
「なるほどなるほど。で、土井先生、もう一度うかがうが、当直、夜間の訓練をのぞいて家に帰るのは週にどれほど」
「‥‥はい。週に二日は学園に寝泊まりしています」
「もったいない話じゃ、のう、山田先生。きり丸ではないが、無人の宿に家賃を払うもばからしい。かと言って長期の休みのたびに家を借り直しているのも不便じゃな。‥‥のう、山田先生、こういう状況の二人が折半して家賃を払い、共同で家を使うが、それほど問題かの」
「‥‥学園長‥‥」
「学園としては、利吉君と土井先生が共同で家を使うということになんの異議もない。
もちろん、二人には近所に迷惑や面倒をかけぬ分別や常識はあろうからの」
学園長は土井を振り返った。
「と、いうことで、土井先生。これからも学園に勤めていただけますな」
「‥‥は」
膝をついた姿勢のまま、土井が低く応える。
「山田先生も、決まった宿を持ちたいというぐらいのわがままは、息子さんに許してやんなさい。その年ではなかなかに、実家にもそうは迷惑をかけたくないものじゃで」
「‥‥はい」
伝蔵もまた、深く頭を垂れて応える。
そして学園長は利吉に対する。
「利吉君はよい先輩と父上に恵まれておるの。精進なされよ」
「‥‥は」
利吉もまた、深く、頭を垂れて応えた。
そして‥‥。
お互いに‥‥言いたいことを山のように胸のうちに抱えながら、無言で帰途についた二人であったが。
一歩、家に入ったとたんに、口火を切ったのは半助が先だった。
「なんなんだ、あれは。あの刀は!」
が、利吉にも言いたいことがある。
「なんなんですか!いきなり学園を辞めるだなんて‥‥聞いてませんよ!」
「ちゃんと短慮は起こすな、と言ったろ。なのに、父上に向かって刀を抜くなんて‥‥」
「父に話を通すのが一番のはずでしょう!なんでいきなり、学園長に辞表を出しに行くんですか!」
ふと、半助が黙り込んだ。
「‥‥なぜなんですか」
利吉の視線を避けるように、半助は横を向いた。
「‥‥けじめだよ。‥‥君と同居すると言うなら‥‥教師のけじめとして‥‥いや」
半助は首を振った。
「‥‥君を口実にするのはよくないかもしれない‥‥。わたしには、教師の資格がない、そう思った。だから、辞表を‥‥」
利吉には聞き捨てならぬ言葉である。
「な、どうして、なんで、あなたに教師の資格がないんですか」
「‥‥きり丸のことだ」
ぎくり、とした利吉は、しかし、懸命に表情を整える。
「‥‥あの子が、わたしに、特別の感情を‥‥でも、それは、わたしのせいだ。わたしにとっても、あの子は‥‥正直に言おう、あの子は特別だ。ほかの生徒とはちがう。かわいいんだ。‥‥こんな‥‥教師にあるまじき‥‥生徒を差別するような‥‥。こんなわたしに、教師の資格は‥‥ない‥‥」
利吉もまた、半助から目をそらした。
「‥‥あの子が、きり丸が‥‥あなたを慕っているのは、事実です」
そう。それは事実だ。利吉は自分にも言い聞かせる。それは事実だ。
「でも、それはあなたのせいじゃないし、あなたに教師の資格がないわけじゃない!あなたほど真剣に生徒を思い、生徒達に慕われている先生はいないのに‥‥!」
小さく半助はうなずいた。
「‥‥うん。学園長にも同じことを言われたよ。やめちゃいけない、とね。もっとも、学園長には君との同居を理由にするしかなかったけれど」
「半助‥‥」
ふう、と半助はため息をついた。
「‥‥お茶でも飲まないか。‥‥今日は疲れただろう」
利吉には、まだ山のように言いたいこと、聞きたいことがある。
「半助」
炭櫃越しに半助に向かう。
「‥‥父に‥‥聞きました」
うん?と半助が目を上げる。
「‥‥あなたが‥‥どうして忍術学園に勤めるようになったのか‥‥それから、きり丸のこと‥‥」
「‥‥そうか」
半助は手の中の湯飲みに視線を落とす。
「‥‥悪かったね。人の口から聞かせてしまって。いつかは話したいとも、思っていたけれど」
「いえ‥‥そんな‥‥謝らないで下さい。謝らないで‥‥わたしこそ‥‥あなたに‥‥あなたに、謝らなければ‥‥なにも、なにも知らないで‥‥つらい思いをさせたんじゃありませんか。いやな、思いをさせていたんでしょう?‥‥半助。なにも、何も‥‥知らないで‥‥」
半助は少し不思議そうな顔で利吉を見る。
「つらい?いやな?‥‥なぜ?」
そして、涙さえ浮かびそうな利吉の顔に、半助はふと笑う。
「なにをばかなことを。なつかれて困る野良猫なら、最初から追い払っている。そうだろう」
「だけど」
利吉は言葉を返す。
「あなたは優しいから、寄って来たら追い払えない」
「そうでもないよ。‥‥その気にならなければ、優しい言葉のひとつも出て来ない、そういう男だ」
そして半助は首をひねった。
「‥‥どうしよう。これを君に言おうかどうか‥‥」
そんなふうに言われれば、聞きたくなるのが人の常だ。聞かせてくれ、とせがむ利吉に半助が問い返す。
「きり丸のおかげで、わたしが教師としての道を進むことができた、それは父上から、聞いたんだね?じゃあ、その前に、やっぱり教師は無理だ、やめよう、そう思っていたわたしが、なんとか教師を続けていられたのはなぜか、聞いている?聞いてないだろ、これは君の父上も知らないはずだから」
利吉はおとなしく半助の次の言葉を待つ。半助は、口辺に柔らかな微笑を浮かべながら、語る。
「城勤めを辞めてから‥‥しばらくは非常勤という形で忍術学園に勤めた。その後、常任の形に変わってね。やっぱり、生徒に接する時間も仕事の量もちがう。仕事が忙しくなるのは構わないけれど、生徒達に接するのが、苦痛でね‥‥。なにも知らず、なにも傷を負わず‥‥もちろん、彼らなりに傷ついて経験を積んでいるのはわかるんだけど、その時にはわたしはわたしの経験がとても大きく見えていてね、生徒達が世間知らずのあまちゃんに見えて仕方なかった。低学年や中学年はまだいい。六年生が卒業を控えて未来に希望を持って日々を励むのが、わたしにはたまらなかった。なにも知らないヒヨッコが、力もない翼を広げて一人前に空を飛べるつもりか。‥‥そんな気持ちだった‥‥。
だから、言ったろ、わたしは優しくもなんともないって。
その六年生の中にね‥‥親は忍術学園のベテラン教師、本人も実技も教科も楽々こなす優等生がいてね。鼻持ちならないやなやつだと思ったんだ。いつかの自分のように、自分に自信があって、いつかの自分のように、自分の未来には明るいことしかない、それが当然、そんな顔をした生徒だった。まるでかつての自分の若さ、浅はかさを突き付けられているようで、たまらなかった。その生徒を見ているのが。
その子がね。卒業式の答辞を読むことになったんだよ。自分に決まるのが当然、という顔をしていた」
半助の目がいたずらっぽく光って利吉をのぞき込んだ。
「その子がね。卒業式の直前、どこにいたと思う?」
記憶を探るまでもなく。利吉は覚えている。用具室の饐えた匂い。
「小声でね。何度も何度も復唱してるんだ。答辞をね。‥‥わたしは戸の透き間から、それを見てた。‥‥ほんとうはね」
半助は言葉を切る。少し冷えた湯飲みの縁を小さくはじき。
「声を掛けてやりたかったんだ。落ち着いてやれば大丈夫だよ。君なら大丈夫だよって。‥‥でも、できなかった。その時のわたしには。その一声をかけてやることが」
利吉は半助を見つめる。
「卒業式が始まった。その子は緊張からだろう、何度も袴の紐を引っ張っていた。それでも、堂々と、声も震わせず‥‥どれほど練習したのか、どれほど緊張したのか、そんなことは感じさせたくもない、そんな顔で、上を向いて、朗々と‥‥。
その、姿を、見た時に‥‥」
再び半助は言葉を切る。そして、利吉の目を正面から見た。
「わたしは祈ることができたんだ。この少年の未来に幸多かれ、と。心の底から。
祈ることができた。力強く羽ばたいて行け、と。
‥‥そう、祈ることができた自分に、正直、驚いた。その時にも、学園長に提出しようと辞表を持っていた。‥‥破り捨てたんだ、式の後。その少年は、わたしに教師を続ける希望を、自分自身の中に見つけさせてくれた‥‥。だから」
半助が湯飲みを置く。その手が利吉の手に重ねられた。
「その少年が、長じて、矢傷を負って‥‥そして心にも傷を負って、わたしを訪ねて来てくれた時、わたしがどんなに嬉しかったか、わかるか?その子が‥‥飛び続けるために、走り続けるために、わたしを必要としてくれた、それがどれほどうれしかったか、わかるか?その子がわたしを頼ってくれたのが、嬉しくて誇らしくて‥‥こんなわたしにできることなら、そう、思った。‥‥今でも、思ってるよ」
「‥‥はん‥‥」
利吉はたまらず、自分の手を包む半助の手に顔を伏せた。
「‥‥半助‥‥半助‥‥」
ぽんぽん、と半助が利吉の頭をたたいた。
「‥‥泣き虫だな、君は。あいかわらず」
一夜が明けて。
仕事に発つ利吉はいい。
が。
伝蔵ときり丸、この二人と顔を合わせねばならない土井は、下腹に力を入れて、学園の門をくぐった。
「山田先生。おはようございます」
「や。土井先生。おはようございます」
振り返った山田の目の下に、うっすらと隈が浮いている。
眠れなかったな、土井は思う。
「‥‥きのうは、どうも」
「いやいや、土井先生こそ」
ふと二人して黙り込む。
「‥‥学園長がさばけた方でよかった。あのまま、利吉のわがままが通って土井先生が学園を辞めることになっていたら、わたしは土井先生に向ける顔がない」
「そんな、わたしのほうこそ‥‥」
「いや、しかし‥‥こんなことを言うのは‥‥いわば、同居が決まった寿印のお二人に言うべきことではないが‥‥」
「なんでしょうか」
「‥‥夢というほどのものでもないんですが‥‥定年を迎えて、引退したら‥‥孫の相手をしながら、縁側で、と思ったりもしましてなあ‥‥いやあ、わたしも年ですか」
土井は山田の顔を見る。厳しくいかめしくすらある顔。その顔に、かすかに、老いの忍び寄る兆しがある。
山田の言うことも、わかる。利吉はいわば、山田家の跡取り息子だ。
「山田先生‥‥」
が、言いかけた土井を山田が制した。
「土井先生。愚息をよろしくお願い申し上げます。あれは‥‥なかなかに手のかかる奴だとは思いますが」
土井は無言で頭を深く下げた。
お引き受けします、とも言えない、ただ、力を尽くすことだけを胸に誓いながら。
教室に向かえば、きり丸がいる。
土井が入って行くと、乱太郎たちとふざける姿があった。
「こらこら。席に着きなさい」
大声を振り上げながら、土井は思う。
教師を辞めずにすんで、よかったのかもしれない、と。
きり丸。おまえのことは、これからも見ていける。
利吉とのことを知ったおまえが、どうでようと。受け止めよう。
「ほら。テキストを開いて!」
出会いの行く手に思いが育つ。
思いの交わりに、人生が、織り上がる‥‥。
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