狭間の祈り

 

 

 

 パン!
 高い音を立て、割れた湯飲み。
 それは、先刻からの胸のざわめきが気のせいなどではないと、半助に告げ知らせてくるようだ。
『不吉な……』
 割れた湯飲みを片付ける半助の瞳は、暗く沈む。



 虫の知らせなどと言う。
 だが、これほどざわめき、これほど不安で不穏で、これほどなにやら恐ろしい……これほどの胸のざわめきは初めてだった。
 ……利吉の身になにか。
 半助はもう暗くなった屋外をのぞいては、ため息とともに室内に戻るを繰り返す。
 利吉の身になにか。それとも……きり丸の身に……?
 また板戸を開けて外をのぞきながら、半助は星のまたたき出した空に、大切な二人の安否を思う。
 一生を共にと思い定めた、愛しい人の身になにか? それとも、大事な教え子であり、すでに家族でもある彼の身になにか?
 半助は黒く広がる不安の重さに奥歯を噛み締める。



 夜半。
 不安は突然、現実の形をとって半助を襲った。


 血まみれのきり丸が走り込んで来たのだ。
 肩で息をする彼の、目は血走り、蒼白に血の気のない顔は引きつり、彼の直面している危機の大きさを物語る。
「……ごめん、先生」
 どこが斬られているのか、どの傷口からの出血がひどいのか、急いで探る半助に向かい、きり丸はそれでも、なんとか笑おうとしたようだ。
「時間が、ないんだ……追われてる」
 そういう彼の、背中がざっくりと裂けているのを、半助は息を飲んで見つめる。
 これ以上走ったら、血が流れ過ぎる。
「止血だけでも……!」
 さらしを取り出す半助に、きり丸は懐剣でおのれの髪を一房切って差し出した。
「……これを、乱太郎に」
 おのれの黒髪を握って差し出すきり丸の、手甲は血をしとどに吸って赤黒い。
「……確かに」
 受け取りながら、半助は自分の声が奇妙に圧しつぶれているのを腹立たしく思う。
 きり丸が学園を卒業し香月城に仕官して三年になる。上司の覚えもめでたいらしく、往年の落ちこぼれぶりはどこへやら、きり丸は立派に城勤めをこなしていた。……そうであれば。こうして命の危険にさらされるようなことも……起こって当然と、受け止めてやれないでどうする、と半助は思う。
「だが、預かるだけだぞ。これはおまえが乱太郎に渡せ。追っ手は何人だ、どこまで来ている」
「追っ手は一人だけど……」
 きり丸が苦笑をにじませた。
「先生には、相手は無理だ」
 なぜだ、これでもわたしも現役の忍びだぞ、と半助は返そうとして。
 言葉を飲んだ。
 きり丸の瞳に浮かぶ、冴えた理解とあたたかな同情の色に。
 半助は息詰まるようにすべてを悟る。



「頭(かしら)が綾雲への工作に、フリーの忍びを雇ったんだ。ところがその忍びが、実は日吉に先に雇われててさ……おれ、その証拠をつかんだんだ」
 口早なきり丸の説明は、半助の悟ったそれが事実だと裏付ける。
「おれは、それを殿に報告しなくちゃならない」
 きり丸は真っ黒な瞳を揺るぎなく半助に向け、静かに、当たり前を語る。
 香月城に雇われたフリーの忍びが、実は日吉城からの間者であったと、その証拠を殿に報告する、と。
 そうだ……それが香月城に勤め、香月城城主を主と仰ぐ、きり丸の務めだ。
 半助は痛みをこらえてうなずく。
「……ごめんね、先生」
 きり丸はもう一度、謝罪の言葉を口にする。
 ――その謝罪は……夜半、騒がしたことではなく、面倒をかけることでもなく……。半助は正しくきり丸の謝罪を受け取り、うなずく。
「いい……いいんだ、きり丸」
「……そいつは……おれがここに立ち寄るって知ってる。……でも、おれ、どうしても、
乱太郎には先生の手から渡してほしくて」
 そして、きり丸はつぶやく。
「もう一度、あいつに会いたかった」
 会えばいいだろう、その言葉は重く、半助の喉元にわだかまる。
 もう一度、会え。なにがなんでも逃げ延びろ。
 そんな……追っ手に追われる可愛い教え子に……励ましとともに、かけてやるべき言葉すら……今の半助の喉元には、重く固まるのだ。
 命永らえれば、きり丸は迷わず香月城へ真実を告げに走るだろう。香月城の忍びとして、裏切り者を糾弾するだろう……。
 死ぬな。
 ただ胸の中で、思い切りに、半助はその言葉を叫ぶ。



     ***  **    *       *            *



 やはり一陣の生臭い風とともに、だった。
 駆け込んできた利吉の顔は、つい先刻のきり丸と同様に、恐ろしいほどに強ばりひきつっていた……。



 さっと走らせた目で、土間に落ちた血が乾いていないのを確かめると、利吉は無言で部屋の戸を引き開けた。
 その、自在鍵の下がる部屋にだれもいないのを一瞬で確かめると、利吉はやはり無言のまま、その部屋を突っ切ろうと駆け出した。
「利吉!!」
 利吉の手が、奥の部屋の戸にかかったところだった。
 鋭く、打ち付けるような半助の叫びに、利吉の全身がびくりとはねた。
「……利吉」
 土間から半助は、今度はそっと声をかける。
「草鞋くらい、脱いだらどうだ? 部屋の中が泥だらけだ……」
「…………」
 振り返る利吉の目が、厳しく半助を射貫く。
 あいつは、とも聞かない。かくまうつもりか、と責めもしない。
 ……三人ともが、知っている。
 奥の部屋から、外へと逃れる穴がある。
「…………」
 利吉はついに無言のまま、再び土間へ降りると、半助の前を通り過ぎようとする。
「……利吉!」
 半助はその、ほこりと返り血にまみれた忍び衣の襟を、つかんだ。


 見逃してやってくれ、とどちらへも言いたかった。
 見逃してやってくれ。
 それは。
 どちらへとっても。
 忍びをやめろと言うと同じこと。
 ……忍びの技を教えるとともに、生徒には忍びとしての生きざま、忍びとして生きて行く気概を、教えて来た。
 忍びは、忍びであることと生きることが同じなのだ。だからこそ、忍びとしての任務の中で死ぬことができる。自分は、生徒達がそうあれるように、教えて来た、育てて来た。
 その生徒に、言えるか?
 忍びであることをやめろと。
 同じように。
 愛する相手に。
 ……その、人柄の中に、人間性の中に、忍びとしての矜持を抜き難く持っている、愛する相手に。
 その矜持を曲げてくれ、と?
 ――言えるはずがなかった。
 半助もまた、忍びであり……彼もまた、忍びとしての矜持の中で、生きていた。



 半助の手は震えながら、しかし、しっかりと利吉の襟をつかんで離さない。
「…………」
 利吉の指が、その半助の手にかかる。
 一本、また一本と、利吉の手が、優しく、けれど確固とした強さで、半助の指をひきはがそうと動く。
「……利吉……」
 半助は呻くように利吉の名を呼ぶ。
 哀願するように、叱るように、すがるように、いさめるように。
 すべての響きがその声にある。
「……利吉……」
 半助は見る。
 半助の指を、一本、一本とはがしてゆきながら。
 利吉の頬が涙で濡れているのを。
 あとからあとから。
 その、今は伏せられている瞳から、あとからあとから、涙がこぼれ落ちるのを。
「利吉……利吉……」
 呼びながら、半助は気づく。
 こんなにも近くにありながら、利吉の顔がぼやけて見えるのに。
 ……己を引き止める指をひきはがす利吉も、行くなと制止もできず、行かないでくれと頼むこともできず、ただ利吉の襟をつかむだけの半助も、共に……涙をこぼした。止めるなと言えぬ利吉も、頼むからと言えぬ半助も、泣くだけはできるのだと、これだけは自由な涙が、次から次へと、頬を濡らして。
「……利吉……」
 ――最後の指がはずされるのが、涙にくもる視界の中に、見えた。


「…………わたしにも」
 もう、半ば。
 外へと踏み出しながら、どうしても進めぬとばかりに足を止めた利吉が、その夜、初めて声を出した。
 低い、その声は、苦渋に満ちている。
「わたしにも……部下がいます」
 半助はうつむきながら、ぎゅっと目を閉じる。
 ……聞いている。今度の仕事は単独で受けたのではなかったはずだ……
「……彼らの、命が……」
 かかっているのだ。
 正体がばれた忍びがどんな扱いを受けるものか、半助とてよく知っている。
 利吉はしっかりと半助を振り返った。
「すみません」
 一言。
 きり丸と同じように、謝罪の言葉を口にして。
 利吉は闇へと消えた。





「……利吉……利吉……」
「……きり丸……きり丸……」
 土間の土に爪を食い込ませ、半助は呻く。
 ――彼らの懐には、それぞれ、半助が手づからこしらえた、丸い火薬玉が入っているはずだ。それぞれの無事を祈り、それぞれが命永らえて、無事に戻ってくることを祈って、半助がこしらえた、火薬玉。
 今、それは。
 半助の、それぞれが大切な存在である、それぞれに向けて……放たれているのかもしれなかった……


 ……利吉……きり丸……
 なにに、なにを祈ればよいのか。
 いっそ、この身が裂けてくれれば、この苦しみが消えるのかと。


 半助の夜は、果てしもなく、長かった。


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