愛しているよ、の言葉にかえて

 

 

 

    躯をひらこう。
    おまえが望むなら。
    脚を折り、腰を浮かそう。
  おまえが望むなら。

  綺麗で我が儘なおまえが。
  しなやかで甘えん坊なおまえが。
  おまえが望むなら‥‥。


雨音が聞こえる。かすかな。
それでも傘がなければ濡れるだろう。
半助は、もう何度目か、土間に下りて戸口から外をうかがう。
飛び出して行った年下の情人が、帰ってはこぬか、と。
傘も持たずに飛び出して行った。
‥‥なにが気に障ったのか。
行為の後、躯を重ねたまま、利吉が言った。
「このまま‥‥ずっとこうしていたい‥‥」
それは半助に体重を預けたその態勢を言ったのか、あるいは、そうしてたびたび躯を重ねる今の二人の関係を言ったのか。
どちらにしろ、曇り空が重く、常より薄暗いとは言いながら、昼のさなかからそうして情を交わしたことが気恥ずかしく、また、誰がいつ訪ねて来ないとも限らぬ心配もはたらいて、半助はその利吉の言葉に、
「それはいいから」
と、答えたのだ。
「それはいいから、どいてくれないか」
と。
瞬間に利吉が見せた傷ついた表情に、しまった、と思いはしても、望むままに躯を与え、その精を体の奥に受け止めたばかりの半助である、いまさら、厭うているなどと思われるとも思えぬほどに、半助としては利吉を全身全霊で受け止めているつもりなのだ。
ふい、と横を向きざま、ようやくのこと、半助の上から身を起こした利吉に、だから、半助はことさら言葉をかける必要を認めなかった。
身繕いの素早さは、仕事柄である。見ればまだ半裸の利吉に、半助はありあう着物を肩かけてやりながら、
「利吉くんは明日から仕事なの」
尋ねてみた。行為前の会話を、とりあえずつなげただけだったのだが。
‥‥思えばその一言が決定的にまずかったのだろう。
半助の掛けてやった着物に袖も通すか通さぬうちに、利吉は無言で飛び出してしまった。
どうしろと言うのか。
半助は重くため息をついた。


利吉の若さがくせものなのだ、とはわかっている。
そして後は、自分の年相応の分別が、問題なのだ、とも。
しかし、仕方ないだろう。半助は思う。
自分はもう二十も半ば。四捨五入すれば三十になるのだ。
日の高いうちから睦言など、考えただけで恥ずかしい。それでも応じているのだ。
行為後の甘い会話まで付き合えと言われても、限界がある。
熱に浮かされ、感覚に翻弄されているうちはまだいいが、高ぶりが一度去れば、肌の汗さえ気恥ずかしい。余韻に酔っていられる若さは、自分にはもうない。
そこに齟齬が生じる。
この前も‥‥そうだ。
いつまでも裸で躯を寄せ合っていたい利吉の気持ちもわかるが、半助としては情交は情交として、事後は速やかに日常に戻りたい。恋人として利吉と頬を寄せ合う時間より、同じ忍びの先輩後輩として、あるいは父親の同僚とその息子として対している時間のほうが、半助としては気楽だし、慣れてもいる。
一度二度、肉体の関係を持っただけで、恋情に溺れられる利吉を驚きの目で見ていた半助である。行為後はさっさと身繕いを済ませたい。
それが気に入らぬらしい利吉に、
「もう少し、ゆっくりしませんか」
声を掛けられた。
「いや‥‥裸というのはどうも落ち着かなくて」
半助としては、それ以上もそれ以下も理由はない。そして、それが特に相手の気に障る答えだとも思わない。
が、利吉の顔にじわりと不機嫌がにじんだのを見て、半助もこれはまずいか、と思ったのだ。考えてみれば、深い仲になってから、利吉は言葉を尽くして半助をほめてくれるが、半助が利吉をほめたことはないような気がする。
ちょっと機嫌をとるようなつもりで、
「利吉くんは綺麗だなあ」
言ってみた。反応はあまりない。
「肌もきれいだし」
ほめたのだ。怒られる理由はないと思うのに、なぜか利吉は不機嫌で。
「受け入れることを拒む肌だと言われたことがあります」
瞬間に、それが過去の情交をほのめかしている、とは半助にもわかったが、この年になってしまえば、人に過去がある、などと言うのは当たり前すぎる。
自分自身、触れられたくない傷も抱えている。
だから、
「そうだ。水浴びしていても利吉くんの肌は水を弾いてしまうものなあ」
無難に逃げを打ったつもりだったが。
食いつかれそうな、不機嫌を絵にしたような顔でにらみつけられて、まずかった、と悟る瞬間の苦さ。それが、ついこの間のことだ。
半助はため息をつく。
なぜ、わかってもらえないのだろう。
「‥‥それでも、わたしは君のことが好きなんだよ」
伝えたい言葉はあっても、それを面と向かっては口に出来ぬ自分にも、やはり非はあるのだろう。
雨音が続いている。


濡れているのではないか、金も持たずに飛び出して腹をすかせているのでは、と気をもみながら、小さな物音ひとつにも帰って来たのかと表をうかがう数刻が過ぎる。
利吉が帰って来たのは、霧雨だった雨が本降りとなり、もう亥の刻(午後9時頃)も過ぎようという頃。
冷えきった夕飯を前にため息をついていた半助は、表から人が入ってくる気配に素足で土間に飛び降りた。


傘のしずくを切る利吉の姿に。
どこで傘を、とは当然の疑問。
「‥‥お、おかえり。‥‥晩御飯は?」
尋ねる半助の顔を見もせず、
「すませました」
利吉は素っ気なく答える。
どこで食事を、とはこれも当然の疑問。
‥‥が。
なんとか言葉を探して場を取り繕おうとする半助の、前を過ぎる利吉から漂う残り香‥‥半助は瞬間に言葉を失う。


「な‥‥に‥‥」
「‥‥‥‥」
無言で振り向く利吉の目の冷たさ。が、それすら気にならぬほどの、それは衝撃。
「なに、なんなんだ、これは‥‥」
「‥‥なにがですか」
利吉の体から立ちのぼる‥‥雨の湿った匂い、酒の饐えた匂い、そして‥‥甘ったるい白粉の匂い‥‥。
「‥‥わからないと思うのか‥‥?なにを‥‥なにを、して来た‥‥」
利吉の冷たい瞳。そして、冷たい声で利吉は答える。
「女を抱いて来ました。単なる情欲処理です。なにか問題がありますか」
その言葉を聞いた瞬間。半助はふわりと自分のからだが持ち上がるのを感じた。
それは怒りの最初の波動。
次には全身を、なにか凶暴なものが駆け抜けていった。


利吉の襟をつかみ上げていた。
「‥‥問題‥‥?女を抱いて、言う台詞がそれか‥‥?」
利吉は変わらぬ冷たい眼で己の襟首をつかむ半助を見返す。
「なにか?あなたのほうがよかった、と言わないとまずいんですか」
「‥‥貴様!!」
く、と利吉が小さく呻きにもならないほどの呻きをもらしたのは、半助の両手が襟を締め上げるように力を込めたからだ。
「なんなんだ、え。おまえが言う契りとはなんなんだ。契りを結ぶとはこういうことなのか‥‥?気が向けば女を抱く、誰とでも枕を交わす、それがおまえの契りか!」
そのままなら、おそらく、その言葉が終わると同時に、半助は利吉を力の限り、突き飛ばしていたろう。それほどに半助のからだを満たす怒りのエネルギーは大きかった。が、半助が利吉を突き飛ばすより早く、利吉の腕がおのれの襟をつかむ半助の腕を、下から跳ね上げていた。
腕と腕が、筋肉と筋肉が、ぶつかって。
「じゃあ、じゃあ!」
利吉の声が上ずる。
「あなたの契りはなんなんですか!わたしが望むからと抱かれるだけのあなたに、契りがどうの、言えるんですか!あなたは‥‥あなたこそ‥‥!」
利吉の瞳にうっすらと浮かぶは、なみだか。
「想いもなく、抱かれるだけのあなたに、どうしてそんなことを言われなきゃならない! わたしはあなたが好きなんだ!あなただけが!なのに‥‥」
「‥‥いい加減にしろ!」
半助は自身の大声に驚いた。
もう夜中と言っていい刻限だ。いくら雨音が消してくれるとは言っても、こんな大声では隣近所にまで響いてしまう。
頭の片隅が冷静にそう言ったが、止まらない。
ぱん!
乾いた音が響いた。半助の容赦のない平手打ちを食らって利吉の足が、つ、と泳ぐ。
「‥‥いいかげんにしろよ。貴様。‥‥俺が、俺が‥‥誰彼かまわず、せまられれば足を開く男だと思うのか‥‥誰にでも抱かれる、そう思ってるのか‥‥」
「‥‥‥‥」
利吉が肩で息をしている。自分もまた、大きく胸をあえがせているのに、半助は初めて気づいた。
「‥‥俺は‥‥わたしは‥‥おまえが、おまえだから‥‥」
大きな固まりに喉をふさがれて、半助は言葉を切る。
おまえだから。
千の言葉がいるか、万の言葉がほしいか。
なにも、なにもいらない。
おまえだから。
その一言がすべてなのに。


涙を流す利吉は、年より幼く見える。
この少年の初々しさを、首のかすかな線に、頬のわずかな曲線に、瞳にすっと走る光りに、甘えた口調の端に‥‥残しながら。半助を組み敷く腕は、肩から一連の鍛えられた筋肉に力強く動き、のしかかる胸は厚くたくましく、膝を割り半助の脚に絡んで自由を奪い、そこを大きく広げさせる脚は百里の道さえ苦にせぬ、しなやかで強靭な筋肉におおわれている。
それだけで、十分に、抗いがたい魅力なのに。
半助は利吉の頭を引き寄せる。
さらさらと、絹糸のような髪が指に心地いい。
鼻筋の通った、きれいな顔。目尻の切れ上がった瞳は、時としてきつい印象を残すけれど、それでも人を引き付ける‥‥。
「半助‥‥半助‥‥」
呼ばれるたび、
「うん。うん」
半助は答える。
「‥‥わたしのことが、好きですか?」
おずおずと、そう、人の上にのしかかっておきながら、はにかみさえ見せて、利吉が問う。思わず口辺にのぼる笑みを、半助は殺せない。
「好きだよ」
「‥‥どういうところが」
笑いに半助の胸が揺らぐ。
「こうやって裸で人の上に乗りながら、そういう質問をするところが」
小さく利吉の唇がとがる。
「からかってますか」
ついに半助は笑い声を立てた。
「そうやってすぐにすねるところが」
「‥‥もう」
怒ったように半助の胸に顔を伏せる利吉の頭を半助は抱き締めた。
「‥‥好きだよ。‥‥君が。君だけが」


   頼むから信じてほしい。
   君が望むから、からだを開く。
   君が望むから、脚を上げる。
   いとしい、おまえの‥‥受け入れるから、信じてほしい。
   ‥‥君が、好きだよ。

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