落ちこぼれの集団と、有り難くないレッテルを貼られたクラスだったが、一人のこぼれもなく、11人揃って二年へと進級を果たせた、春。
「……ちと、困ったな」
山田伝蔵が眉を曇らせる。
「どうしました?」
土井が声を掛けると、伝蔵は筆を手に顔を上げた。
「いえね、全学年通しての実技授業の計画を立てとるんですが……高学年に手厚い授業をと思うと、やはりどうも、手が足りない」
「教科の担当を入れてもだめですか? わたしでよければ喜んで手伝いますが」
「もう組み込ませてもらっとりますよ。……一人か二人でいいんだが、臨時で手伝ってくれる人が欲しいところですなあ」
固定で一人雇い入れるとなると、学園長が否と言うでしょうねえと、職員室で二人して首をひねった。
近ごろ頻繁になった文を開きながら、土井は思う。
例えば彼の仕事の予定がもっともっと早くに知らせてもらえれば……実技授業の計画も立てやすくなるのではないかと。
文は案の定、伝蔵の息子利吉からのもの。その内容もまたいつもと同じで、町にある土井の家に立ち寄るので、在宅していてほしいというものだ。
深手を負った利吉を土井が家で看護していたのは真冬のことだが、その後、折に触れ、馴染みになったとでもいうのか、利吉は土井の家へとやって来る。
だが、フリーの忍びである利吉は、親兄弟にも忍び仕事の大事は教えられぬと、土井にも自分の仕事の予定については教えてくれない。
……いや。全く、絶対、なにがなんでも、教えないとは、言っていない。
『あなたがわたしのものになってくれるなら』
と、彼は言った。
『あなたがわたしに抱かれてくれるなら』
と。
そうしたら、仕事の予定を教えてくれると。
ありていに言ってしまえば、土井は利吉に口説かれ求愛されているのだった。
夕飯の食堂で土井はきり丸につかまった。
「先生、今日は夕飯ここ?」
おかしなことを聞くと、土井は笑ってみせる。
「わたしが今、なにをしているように見える」
手にした盆をかかげてみせた。
きり丸は笑わない。
「じゃあ先生、今日は家には帰らないね?」
深手を負った利吉を家で看病して以来、きり丸は土井が家に帰るのをやたらと気にするようになった。
勘がいいのか、観察眼が鋭いのか、予定も漏らさぬし、それらしい素振りも見せぬのに、学園の門を出たところで、やはり私服に着替えたきり丸に捕まることがよくあった。
土井はにこりと笑ってみせる。
「帰らないよ。新学期が始まったんだ、いろいろ忙しいだろう? おまえもだぞ。新学期早々、宿題を忘れただの忘れ物をしましただのはなしだぞ」
きり丸は、やぶへびだったかと首をすくめることもしない。
「帰る時はちゃんと声をかけてね」
どちらが子供かわからないような口調で釘を刺してくる。
なにを心配しているのだか。
苦笑にまぎらわせてしまいたいのに、土井にはそのきり丸の心配を笑い飛ばすことができない。
『先生、スキだらけ。あぶなっかしいったら』
『あんまりスキを見せちゃ、だめなんだよ』
家に客として利吉を迎え入れ、茶や食事などでもてなした後、いかにも心配げにきり丸はそう言う。
利吉が土井に躯の関係を望んだなどと、土井はもちろんきり丸に教えたことはない。
利吉だってきり丸のいる前で、堂々と土井を口説いたりしない。
だが、見た目通りの11歳ではないきり丸は……利吉の望みも、その利吉の望みをしっかり拒絶できない土井の気持ちの揺らめきにも、気づいているようだった。
土井の家に厄介になることになった最初の夜、土井の『親切』に『夜鷹のまねごと』で応じようとしたきり丸は……もしかしたら誰よりもよく、利吉の欲望にも土井のためらいにも、気づいているのかもしれなかった。
消灯時間まで待って、土井は学園から家へと戻った。
『客人』のほうが一足早く到着したらしく、鎧戸から明かりが漏れている。
「やあ、遅くなってすまなかったね」
声を掛けながら土井は土間へと入る。
弾かれたように部屋の中から利吉が飛び出して来た。
「すいません、上がらせてもらっていました」
詫びも早々に利吉は土井の背後を気にする。
察して土井は苦笑する。
「今日はわたし一人だよ。きり丸も消灯後までねばってはいないさ」
「……それは」
とたん、利吉の眼差しに火がともる。
「あなたが、わたしと二人きりで会えるように……はかってくださったからだと思っていいんでしょうか」
土井はたまらず吹き出す。
「だって君だろう? 今日は余計なお荷物は持たずに帰宅してほしいと手紙に書いて来たのは?」
「ですから」
利吉が急き込む。
「そのわたしの希望を聞き入れて、あなたもわたしと二人で会ってもいいと思ってくださった、そうわたしは思っていいんですよね? 少しはあなたにも、わたしを受け入れてくださるお気持ちがあるからだと……!」
土井は驚いた。
いきなり利吉に抱きつかれたのだ。
「……わたしは……わたしはもう、気が狂いそうです……! あなたに、もう何度も何度も好きだと告げた……! お願いです、土井先生! もう……もう、わたしは……!」
ちょっと待ってまだわたしは草鞋も脱いでないんだよ……そう言おうとした土井の唇は利吉のそれにおおわれるやいなや、激しく吸い上げられていた。
『だから先生はスキだらけだって言うんだよ!』
怒ったきり丸の声がする。
――そう怒るな、きり丸。わたしは無力な町娘じゃない。スキを突かれてこんなことになっているんじゃないんだ。
閉じた土井の唇をもどかしげに舐め突つき、入れてくれと懇願するようだった利吉の舌が、ついに、半ば強引に、土井の唇を割って口中に侵入してきた。
舌は土井の舌を舐め、歯列をなぞり、土井の口を味わい尽くそうとするかのように蠢きまわる。
『じゃあなんだよ。先生、こいつのことが好きなの』
――好き……なんだろうか。まさか。彼はまだ19になったばかりだ。ようやく子どもの域を抜け出たばかりの、彼の恋心を真に受けて……ほだされる? 馬鹿な。ただ……ただ、ちょっと……彼の想いは……無下に拒否するには熱すぎて……懸命すぎて……。
だが、気がつけば、土井の舌は利吉のそれに応えて、あやしくうねりだしているのだ。
――ああ、この子の唇は……。
戦場を抜けた興奮の中で口を合わせた時に感じたのだ。
利吉の唇と舌の気持ち良さ、馴染みのよさ。
――なぜ、これほどしっとりと心地いいのか……。
口を吸い合い、舌で互いの唾液まで舐め合って……このままでは土間に押し倒されてしまいそうだった。
土井は軽く利吉の胸を押しやる。
「……ちょっと待った……せめて上にあがってお茶の一杯も飲まないか? 君だって仕事帰りだろう?」
思い詰めた眼で、利吉は首を横に振る。
「……今日は……もう、ごまかされない。答えてください、先生」
緊張のあまりにだろう、冷たくなった手で、利吉は土井の手を握り締める。
「今夜、わたしのものになってくださるのか。それとも……だめなのか。どうぞ、はっきりおっしゃってください。……もう、もう、耐えられないんです、待てないんです、わたしには」
うつむく利吉の眉間には、苦渋に深いしわがある。
「……どうぞ……どうか……だめなら、今すぐここから出て行って、もう二度と会いません」
受け入れるのか、別れか。
こうして極端な選択を迫るのが、君の若さなんだ。
……その若さを……若さと知りながら……受け入れるのは、わたしの狡さかもしれないのに。
「……君に……二度と会えないのは……寂しすぎるな」
うつむいて土井は笑みをこぼす。
「もう逃げないから……せめて上にあがるまで……草鞋を脱ぐ間だけ、待ってくれ」
本当に草鞋を脱ぎ、框に足をかける間だけだった。利吉が待っていたのは。
部屋に入ったところですぐに、土井は利吉に後ろから抱きつかれた。
「……先生……先生、先生……っ」
利吉の手は性急に土井の躯をまさぐる。
その唇は土井の首筋に押し付けられ、狂おしげに這い回る。
背後からの熱と勢いに押されて、たまらず土井は膝をつく。
身を折る土井の動きにもひるむことなく、利吉の手は襟を割り、袴の中へと忍ぶ。
「ちょ、ちょっと、り、利吉くん……!」
「もう、待てないって言いました!」
利吉の左手は手の平で土井の乳嘴を潰し、右手は下帯の中に包まれたものを握る。
「こうして……こうしてあなたに触りたくて……触りたくて……気が狂いそうだったんだ……!」
「りきっ……!」
利吉の手に、まだ眠ったままのものを揉み込まれて土井は声を飲む。
――これほどの熱さと性急さで、人を求めたこともなければ、求められたこともなかった……。
土井は利吉の勢いを受け入れる。
押し倒されるままに、床に身を伸べた。
邪魔だ邪魔だとでも言うように……利吉の手は性急に土井の衣を剥いでゆく。
襟をかき広げ、帯を引っ張り抜き、袴を押し下げてゆく。
そうする間にも、利吉は土井の喉元と言わず胸と言わず、露わになった肌に顔を擦り寄せ、唇を舌を、這わせる。
「好きです……好きです……土井先生……」
うわごとのように繰り返し、繰り返し、乱れてはねる吐息とともに、利吉は熱いささやきを土井に吹きかける。
その利吉の肩越しに燃えている燭台に、土井は手を伸ばす。
「……明かりを……」
「……いやです……あなたを、見ていたい……」
土井は苦笑を漏らす。
「……わたしにも、羞恥心というものがあるんだよ……頼む、明かりを、消してくれ」
諦めたように利吉は身を起こした。
灯心をつまむために手を伸ばしながら、利吉は土井を振り返る。
利吉に着ているものを半ば以上脱がされて、素肌も露わな土井を。
「……本当に……わたしに抱かれて下さるんですよね……あなたを、今からわたしのものにして……いいんですよね」
土井は乱れた衣を引き寄せることもなく、ただ目を閉じる。
「……もう、待たせないと言ったろう?」
抱いてもいいのだと、はっきり言ってほしかっただろうか。
いっそ、君のものになりたいのだ、とまで、言ってほしかっただろうか。
――でも、わたしは、そこまでは踏み切れない。
甘い睦言を君と交わし、恋に溺れるふりをしてあげることも、出来なくはないけれど。まだ若い君、まだ自分の感情に流されることしか知らない君、その君を、これ以上の深みと誤解に引きずりこむようなマネは……年上の分別だね、せずにおくよ。
明かりを消した利吉が素早く着物を脱ぎ捨てるのが、鎧戸からのほのかな月明かりに浮かんで見えた。
……引き締まった肩から腕の線が、青白い月の光を撥ねる。
逆光にも、端正に整った容貌と、均整のとれた身体つきが際立っているのは、見てとれる。
――きれいな子だ……。
土井は思う。
これほど綺麗で、力強さも備えた子が……必死にすがって来るのだ、あなたが好きです好きですと。
本当なら……わたしはこうして君の要求を聞き入れてもいけないだろうと思う。
年上の分別を言うのなら、わたしは、間違った衝動に溺れている君を毅然と拒否してあげなければいけないのだと思う。
しかしそうして……溺れない、溺れさせないと言い訳しながら……わたしはこうして君を受け入れようとしている。
それはわたしの狡さと弱さだと……。
土井の思考は、おおいかぶさってきた利吉の影に飲まれる。
「先生……愛しています」
裸の、胸を合わせて、利吉の重みを受け止める。
それは……すべてをわきまえたつもりの土井をたじろがせるほどに……心地よい重さと熱さだった。
利吉の「愛撫」は愛撫と呼ぶには性急で、「抱擁」は抱擁と呼ぶにはきつかった。
「……これが……先生の……肌……これが……先生の……」
狂おしく呟きながら、利吉は唇と手で、土井の全身をさぐる。
腕を、足を、きつくきつく土井に絡め、まるでふたつの躯の間に空気さえ存在するのが許せぬと言うように……肌を土井に擦り付けた。
「りき……利吉、くん……」
時に土井は声を上げる。
制止を求めて、解放を求めて。
「先生、好きです、好きです……半助!」
土井の声は聞き入れられることなく、さらなる愛撫と抱擁とささやきに、すべては飲まれる。
「……半助……!」
泣きそうな声だった。
土井の中に、己を深く深く埋め込んで、利吉は細く高く……まるでうがたれているのが利吉のほうであるように……震える声で、土井を呼んだ。
「半助、好きです……」
己を貫く肉棒の堅さと高ぶりとともに……土井はその声を受け止めた。
寝着をまとうさえ利吉はいやがったが、一組だけ敷いた布団で朝まで共寝するのを土井が承知すると、嬉しそうに腕を回して来た。
土井の髪に鼻を埋め、満足気な吐息を漏らすまでは土井も許したが、土井を抱えた腕が、衣の上からある意志をもって土井の躯の線をなぞりだしたのには、悲鳴まじりにストップをかけた。
「だめ……! だめだよ! もう!」
土井は利吉の腕を外させる。
一度許したものに、もったいをつけるわけではなかったが、あまり使い慣れてはいないそこを利吉に明け渡したツケが出ていた。
「……まだ、君が中にいるみたいなんだ……」
雨戸を立てた暗がりの中でもなければ言えそうもないことだった。
「ズキズキする……今日はもう、勘弁してくれ……」
闇を通して、利吉の笑いの気配が伝わって来た。
「じゃあ、今日でなければいいですか?」
「あのね……」
「うれしい、うれしいんです、半助。わたしは確かにあなたの中にいた。それをあなたが、あなたの躯が、今も感じてくれていると思うと……」
利吉は再び、土井に腕を回してくる。
「じゃあ、良い子にしてますから……朝まで……どうか、このままで……」
土井は返事のかわりに小さくため息をつき、利吉の腕の中で躯の力を抜く。
「……半助……」
利吉は噛み締めるように呼ぶ。
はんすけ、と。
雨戸の透き間からのかすかな光りにさえ目覚めたのは、やはり男二人密着した姿勢が、深い眠りを妨げていたせいかもしれない。
利吉の吐息を頬に感じながら、土井はもの思う。
――きり丸には気取られぬようにしなければ、と。
まず頭に浮かんだのはきり丸の顔だった。
まだ、丸い頬に幼さの残るきり丸……だが、いくら隠そうと、あの勘のよさでは見抜かれるのは時間の問題だろう。
それに、山田先生だ……。
いったい、どんな顔をすればいいのだか……。
吐く息が、気持ちに引きずられて、ほんの少し重くなった。
ため息に近いその吐息に、利吉が薄く目を開いた。
「……どう、しました……?」
利吉の指が土井の頬をなぞった。
「もっと……幸せそうな顔をしてくださっていると……わたしもうれしいのですが」
土井だったら赤面せずには言えないような台詞を、臆面もなく口にする利吉に、土井は苦笑する。周囲を思わずにはいられない土井に比べて、利吉はなんとあっけらかんとしていることかと。笑みに、苦いものが少し多く混ざった。
「……ほんとに、どうかしましたか?」
重ねて問うてくる利吉に、土井は答える。
「……いや、ちょっと授業の計画で困っていてね……」
「授業、ですか」
利吉の声にかすかに不機嫌がまざったような気がしたが、土井は頓着しなかった。
ほかの何より無難な話題に思えたせいもあったが。
「利吉くん、むこう三カ月の仕事の予定はどうなっている?」
「……こんな時に、仕事のことをお聞きになるんですか」
「え」
土井は意外に思って声をあげる。
「いや、山田先生が実技の授業計画で困っていらっしゃったから……」
「父がなんだと言うんです!」
もう明らかに不機嫌になった利吉に、土井はそれは約束がちがう、と思う。
そして土井は、ふたりが一線を越えたその意味を、すべて否定するような一言を口にする。
「だって……寝たら仕事の予定を教えてくれる、そう言ったのは君だろう?」
利吉は息すら止めたように見えた。
「……利吉くん?」
おそるおそる掛けた土井の声にも、反応はない。
「利吉くん、どうしたの。いや、差し障りがあるなら、無理には予定を話してくれとは言わないから……」
「……予定……」
ようやく出た利吉の声は震えている。
「あなたには……それしかないんですか……」
土井は答えに窮する。
それしかないもなにも……ただ、自分は、深い仲になったら仕事の予定を教えてくれるという利吉の言葉を信じ、それを口にしただけなのだ。
「利吉くん……」
突然。
利吉は荒々しく土井を突き放すようにして、起き上がり、布団から出て行った。
「もういい……! もういいです……!」
「利吉くん!?」
「あなたが……あなたが、ほんの少しでも、もしかしたらわたしのことをと……そう思って……幸せだったのに……!」
「利吉くん!」
青ざめこわばった利吉の顔に、土井は自分がなにか決定的な過ちをしたらしいことだけを悟る。……だが、いったい、なにを……?
利吉は手早く着替えを済ませると、まっすぐ部屋を出て行こうとする。
「利吉くん!」
呼び止める土井の声にようやく利吉は振り返る。
「その……」
呼び止めたものの、いったい何を言えばいいのか。
だから土井は、今までの付き合いの中でなら、出立間際の利吉に掛けてもおかしくない台詞を選ぶ。
「その……山田先生には会っていかないのかい?」
怒気に利吉の眉がはねた。
「会いません!!」
叩きつけるような一声を残し……利吉は出て行ったのだった。
落ちこぼれ一年は組が、二年に進級したばかりの春。
熱く熱く、ただ一途な青年と、彼の愛情も自分の気持ちもはぐらかす、睦言の苦手な男の恋は……その初夜の朝から、前途多難を予想させて、始まった――
了
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