涙と鮮血

 

 

 

桜の盛りには、まだ早い‥‥‥‥
木蓮が咲きこぼれる季節のこと──
満月の晩だった。


その日、十数日ぶりに半助の元へ帰って来た利吉は、どこかおかしかった。
二人でかこむ夕食の膳に箸も進まず、交わす言葉もぎこちない。
仕事で重責を抱えているのか、それとも‥‥。
正面から半助の視線を受け止めようとしない利吉に、半助は頬を歪める。
──女でもできたか。
仕方ない、と思う。
まだ若い利吉が滅法に半助を我が物にしたような無茶は、半助にははたらけない。
彼が人生を添わせて来るなら、もはや拒まぬ。しかし、彼との道を強引に縒り合わせ、引っ張るつもりは半助にはないのだ。
半助は静かに椀を重ね、膳を引いた。


木蓮が、ひときわ香る。
風向きだろうか、今夜は木蓮の香りで家の中が満たされている。
あまく、濃密で、格高い、木蓮の花の香。
どこまでもまとわりつき、鼻腔をくすぐる、甘い匂い。空気を換えようと裏の雨戸を開けてみたが、さらに濃い香りが 春のあたたかい夜気とともに渦巻いて流れ込んできただけだった。
月が明るい。
戸を押さえていた手で半助は肩口を押さえた。ようやく跡が消えかけた傷がそこにある。噛み傷。歯型が残るほどに、 きつく歯を立てるようになった利吉‥‥。手首を押さえる手に不必要な力をこめたり、不自然な無理な体位で、 半助が苦しがるのもかまわず情を遂げていくようになった利吉‥‥。そして今夜、自分と目を合わせようとしなかっ た利吉を、半助は思う。
なにかの苛立ちからか、それとも‥‥やはり心変わりか。
静かに半助は奥の部屋へと戻る。
利吉は窓にもたれて格子の間から月を見上げている。
木蓮の花の香りと部屋に流れ込む蒼い月の光と‥‥押し黙る利吉の暗い瞳。
‥‥なにかが崩れる‥‥けぶるなにかに搦め捕られ、足元をすくわれていく感覚に、半助は強く目を瞑った。


利吉の声がした。半助はゆっくりと目を開く。
「‥‥裏切り者を、割り出さねばなりませんでした」
水底から響くような、音の不安定さと妙なくぐもりが、その声にはあった。
「奇襲をかけるその前に‥‥誰が裏切っているのか‥‥首尾よく、連絡を受けた敵の忍びを捕らえることができたので‥‥彼の口を割らせれば、と‥‥」
一本一本の指の動きを確かめるように、利吉は手を開いた。器用そうな、長い指を見つめる彼の、瞳は昏い。
「‥‥責めたんです。‥‥拷問に、かけたんです」
半助には、わからぬ世界ではない。欲しい情報がある、それを知る敵の間者がいる、責めて吐かせるのは当然だ。 酸鼻の図が描き出されようと‥‥責めるも忍びの道、秘密を守るも忍びの道‥‥。
「仕込んであった毒は、すぐに取り上げました‥‥舌を噛み切ろうとしたので、前歯を叩き折りました‥‥」
蒼い影をつくる月光に、整った横顔を照らさせて語る利吉を、半助は見つめる。立ち込める馥郁たる花の香りとしっとりと 肌に優しい春の夜気の中に、利吉の声が揺らめき流れ、半助は目眩をこらえて利吉を見つめる。
利吉は、じっと自分の手を見つめている。
「‥‥強情な奴でした‥‥むごい手を‥‥使わねばなりませんでした‥‥」
割れ竹に座らせ、石を抱かせ、爪と肉の間に刃物をこじ入れ‥‥肌が裂けて血が噴いても鞭打ち‥‥。
揺らめいていた利吉の声が、途切れた。
開かれていた、その凄惨な責めを行い、血に濡れていただろう手を、利吉はぎゅっと握り締めて顔を上げた。
その日、初めて、利吉は半助を見つめた。


「‥‥いやだったんです」
「うん」
「そんなこと、したくなかった‥‥」
「うん」
「‥‥血が、血が飛び散って‥‥彼は、大声で、叫んでました‥‥身を、よじって‥‥」
「うん」
「いやだった、いやだったんです、なのに‥‥!」


半助は思う。だれか、この強すぎる花の香りを止めてくれ。だれか、この濡れたような月の光を止めてくれ。 だれか‥‥だれか、この、利吉の言葉を‥‥。
半助の願いは空しい。
だれも、なにも、止めてはくれない。


「なのに‥‥楽しんでました‥‥」
利吉の言葉に、半助は天を仰いで目をかたく閉じる。‥‥そういう、ことか、と。
その誤謬に、陥ってしまった者をほかにも見てきた。
忍びの仕事の中で‥‥血と叫びと‥‥屠りに、悦びを感じるようになった‥‥脱してしまった者たち。
「利吉‥‥」
「半助‥‥ここに、来て‥‥」
窓辺から、利吉が手を伸ばす。
背を向けろという内なる声を聞きながら、半助の足は前へと進む。自分には、できない。添うてくる、利吉を振り切ることはできない‥‥。
半助の両手を握り締め、利吉は前に立つ半助を見上げた。
「わたしは‥‥わたしは、帰って来るべきじゃなかった‥‥」
「‥‥君が帰って来なかったら‥‥わたしは悲しいよ」
半助は、今まで利吉にはなかった闇が、瞳の底に宿っているのを見つめて応える。
「‥‥でも‥‥!」
闇を棲まわせた瞳に涙があふれた。
「わたしがなにを考えていたか、わかりますか。奴を鞭打ち、責めながら‥‥なにを考えていたか‥‥! これが‥‥これが‥‥あなたなら、と‥‥!」
堪えかねた嗚咽をもらし、利吉は握った半助の手に顔を伏せる。
くぐもった、声が聞こえた。


「‥‥あなたの‥‥血が‥‥みたい‥‥」


鋭く犬歯を立てられた痛みに、半助は唇を噛み、顔を歪めた。
利吉の歯が、手に食い込んでいる。
「‥‥うぅ」
押さえ切れなかった苦痛の声が漏れ、手から滴った血が、床板にまるく落ちた。
「わたしは‥‥帰ってくるべきじゃ‥‥なかった‥‥」
抱きすくめられ、格子の影が十字を作る床の上に押し倒されながら、半助は利吉が呟くのを聞いた‥‥。


月の光に、刃がきらめく。
花の香りに、血の匂いが交ざる。


恍惚と悲哀が交互に利吉の面貌(おもて)に浮かび立つ。
半助の面貌を、苦痛と快感が交互に支配するように。
「‥‥わたしは‥‥わたしは‥‥あなたが好きなだけなのに‥‥あなただけが‥‥大切なのに‥‥」
愛する者が‥‥傷つき苦しむを嘆きながら、その手の小刀はひらりと舞っては半助の肌を薄く裂いていく。
呻き、唇を噛み締める半助に、利吉の表情が変わる。愉悦。
涙を、半助の胸の上に落としながら、その顔に浮かぶのは歓びと満足だ。
愛しい加虐者を見上げながら、半助もまた、痛みと快に声を放つ。
蒼い月の光を浴びながら、半助の腕を押さえ付け刃をふるう利吉は、凄惨に美しい。
ああ‥‥やっぱり、綺麗な子だ‥‥。
半助は胸の内につぶやく。
傷口に指が這う。
「うああ‥‥!」
拡がる傷、滴る血。もれる苦鳴。
上から、半助を押さえ付ける利吉に隙はなく、半助は動けない。
動けぬまま、次々ともたらされる痛み‥‥その逃げ場のなさに、半助は陶然とする。
利吉のむごさに、半助は酔う。
‥‥やめてくれ‥‥思いながら。
血を流す半助を抱き締める利吉の腕は常よりきつく、寄せ合う頬は燃え、半助の中を抉る彼のものは常より大きく高く 猛っている。その目は狂おしいほどの熱をはらんで半助を見つめる。
血の滴る太ももで、半助は利吉の腰を挟みつけ、乳首を噛まれてのけぞった。
だれか‥‥止めてくれ‥‥願いながら。この花の香りと月の光は、人の心をおかしくする‥‥。

* * * * * *

傷が見えぬよう‥‥襟元を締め、長目の手甲に、袖口をひっぱる。
訪ねて来た元教え子を、外に連れ出す‥‥。
「いや、ちょうど買い物に出るところだったんだ」
言い訳にきり丸は、茶の一杯も出してもらえぬことに不満を言うでもなく、歩きだす。
「いいよ、俺もちょっと先生の顔見に寄っただけだから」
この‥‥観察力のある元教え子を、夜な夜な狂気の支配する家に上げるのはためらわれる‥‥。
「‥‥あのさ‥‥」
きり丸が足元の石を蹴って顔を上げた。
「利吉さん‥‥元気?っていうか、変わりない?」
内心の怯みを押し殺して半助は笑う。
「なんだ、わたしの顔を見に来て利吉くんの話か?わたしより、よく会っているんだろうに」
利吉は仕事の手伝いに、昨春、学園を卒業したきり丸を重宝がっている。
「‥‥うん‥‥」
また一度、足元の石を蹴ってからきり丸は言った。
「ちょっとさ、気になることがあって」
表面を装って「どうした」と半助は水を向ける。
「‥‥この前、仕事の時‥‥敵と斬り合いになってさ‥‥こっちが優勢だったんだけど、利吉さんがさ‥‥最後の一人に‥‥」
二太刀浴びせたのだ、ときり丸は言った。
「あれなら一太刀でいけると思ったんだよ。そりゃ手元が狂うこともあるから、その、だから変ってことは言えないけど」
告げられた事実の重さに、半助はしばし声を失う。
人の命を奪う時、なるべく苦しみ少なく、なるべく素早く、は最低の礼儀だ。その礼儀を守らぬ者は、いくら剣の腕が立とうとも 「鬼畜」と仲間に忌み嫌われる。が、顰蹙を買おうとも、少しでも断末魔を長引かせようとあえて致命傷を与えず、死のダンスを 踊らせる者たちがいる。血と屠りに‥‥悦びを感じるようになった者たちが。
「利吉さん‥‥具合でも悪いかと思って」
「‥‥いや‥‥」
この元教え子の前で、妙な素振りは見せられない。
「手でも滑ったんだろう。大丈夫、元気だよ」
きり丸はにこりと笑った。
「先生がそう言うなら、大丈夫だね」
去って行くその背を見送って、半助は手首を押さえる。縄目の消えぬ、その手首。
利吉をのぞけば‥‥誰よりも近しい彼にすら事実を隠して‥‥。
利吉‥‥どこへ行く?いや、どこへ行こう?


降りしきる桜の花びらの下に、半助は立ち尽くす。

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